前夜祭を終えて自室に戻り、ベランダに出て外の景色を眺めていた。棋帝戦第三局の会場であるここ、ホテルネオアワジは淡路島東端の海っぺりに建ってるから、ベランダに出ると大阪湾から紀淡海峡にかけてを一望できる。対岸の阪神工業地帯の光がチカチカと瞬いているのが見えた。黒い海が揺らめきながら光を反射してなければ、宙に浮く星のようにも見えたかもしれない。
棋帝戦の第二局は、先手の篠窪棋帝の戦型志向で角換わりの将棋だった。相腰掛け銀のじりじりとした押し合いで、終盤に相手の攻めを誘って受け潰しての勝利。
これで棋帝戦は二連勝の2勝0敗になった。明日の第三局は篠窪さんからすればカド番になる。すべてのリソースを傾注して僕の対策をしてきたはずだ。僕としては勢いそのまま、三連勝のストレートで勝負を決めに行きたいところ。
ズボンのポケットから携帯電話の振動を感じて取り出すと、八一と天衣から連絡が入っていた。今震えたのは八一からのメッセージで、明日の棋帝戦のニコ生解説を八一が務めるからよろしくという内容だった。『いっぱい褒めといてね』と返信をしておく。
天衣からのメッセージは三時間前に貰ったもので、マイナビのチャレンジマッチを全勝で抜けたという報告だ。
天衣はもう、家に帰った頃かな。マイナビの会場は東京だから、移動は新幹線を使っているはずだ。欄干に肘掛けて寄りかかりながら、天衣に電話をかける。
待つこと1コールと半分で、天衣からの応答があった。
『もしもし、お兄さま?』
「もしもしお疲れ様です蒼天ですー」
『何? そのノリ』
「社会人の電話口はみんなこんな感じなんだ」
ふーん、と興味なさげに一蹴される。
「もう家着いた?」
『ええ。ほんの10分前くらいかしら』
「早かったね。僕は今ね、ホテルのベランダに出てるんだけど、海のすぐそばに建ってるから対岸の工場の灯りが良く見えて綺麗なんだ。神戸はあっちの方かな? あとで写真送るね」
『え? あ、いえ、そうなのね。ありがとう』
何か別の言葉をかけられると思っていたのか、電話越しにも戸惑いの色が見える。口角が上がっているのをバレないように声を作りながら、僕は言葉を続ける。
「そういえば前夜祭でさ、ファンの人に言われたんだ。『第二局は普通の将棋でしたね』って。ひどいよねえ? 僕の事なんだと思ってるのさ」
『そう、ね。……雑談をするための電話だったの?』
「うん? 僕が天衣に世間話のために電話しちゃダメ?」
『そういうわけじゃ、ないんだけど……』
天衣の言葉尻が小さくなっていく。僕からのお褒めの電話を待っていたんだろう。焦らすのもここまでかな。
「冗談だよ。チャレンジマッチ突破、おめでとう。全勝だって? すごいじゃないか」
『っ! 当り前じゃない! あの程度のレベル、何回やっても負けないわ!』
随分精神年齢が高い僕の妹だけど、褒められてはしゃいじゃう所なんかは年相応に可愛らしい。いや、普段が可愛らしくないわけじゃないけど。
「そうかそうか。でも次の一斉予選はまた相手のレベルが上がるからね。油断はしないように」
『もちろんよ……だから、絶対次は見に来て』
一斉予選の応援に行く――つまり、明日の第三局に勝って棋帝戦を終わらせろということ。
プレッシャーだなあと僕が呟くと、信じてるから、と念押しがあった。妹様のためにも、明日は頑張らなきゃな。
翌日。関係者に挨拶をしながら対局室に入ると、既に篠窪さんは上座に座って瞑目していた。僕もちょっと早めに来たつもりだったのに先に入室していたってのは、もう後がない彼の気迫の現れなのだろうか。
僕も和服の裾を気にしながら下座に着席し、手持ちの信玄袋から対局用の道具を取り出す。座布団と将棋盤の間に扇子を置き、その横、駒台の手前に懐中時計を配置する。将棋盤に向かう僕の側面に置いておいて貰ったお盆には、事前に言って用意して貰っていた水とスポーツドリンク、そしてコップが並んでいる。
「ちと早いが駒、並べてしまうか」
立会人の清滝先生から声がかかった。清滝先生は、僕の師である月光先生の弟弟子で、つまり僕にとって叔父弟子に当たる人だ。プレッシャーのかかるタイトル戦で、殆ど身内と言ってもいい程近い人が立会人として見守ってくれるのは精神的に大きな助けになる気がする。
清滝先生の声に応じて、篠窪棋帝が盤の中央に置かれた駒袋へ手を伸ばし、開封する。盤上に盛られた駒の山へ篠窪さんが手を伸ばし、玉将を探しだして盤上最も自身に近い行、その中央のマスに打ちつける。ピシーンと高い音が対局室に響いた。
続いて、僕もうず高く積まれた駒の山に手を伸ばそうとしたところで、アレっと思って手が止まる。篠窪さん、玉持ってるじゃん。
一組の将棋駒の中には、通常両対局者用にすべての駒が一対ずつ入っているが、王様の役目を果たす駒だけは”王将””玉将”と、異なる名前の駒が含まれている。違うのは漢字に点が一つあるかどうかだけで、動きや役割は同じだけど、対局においては上位者が王将を持つという暗黙のルールがある。今日の場合は、タイトルホルダーに僕が挑戦するという図式だから、彼が王将を持つはずだ。
盤上に手を伸ばしかけたまま固まっている僕をみて、篠窪さんは怪訝な表情。そして盤上を見回して……数秒して、あっと声を上げた。失礼、と言いながら玉将を戻し、王将を再度盤に打ちつける。ぺしっと力ない音が鳴り、彼はうつむいて耳をかく。
やめてよ、なんか、見てるこっちまで恥ずかしくなってくるじゃん……共感性羞恥ってやつだろうか。兎も角、相手は相当緊張していることが伝わってくる。僕もタイトル戦をストレートでカド番を迎えた経験があるから気持ちはわかるけど、ここまで緊張が表に出てくると、こちらも毒気を抜かれた思いがする。
更に事件は続いた。いざ対局開始時間になっても、立会人の清滝先生が席を立ったまま帰ってこない。副立会人が呆れた顔で「彼はほっといて始めちゃっていいでしょ」と言うので対局開始の挨拶を行う。え、ほんとに始めちゃっていいの?
清滝先生は、対局開始から5分ほど経ったのちに帰ってきた。用を足していたのか、和服がはだけた状態で。この対局、ネット中継入っているけどこの絵面大丈夫なのか……。いつまでもゴソゴソとやっている清滝先生が、気になってしょうがない。助けになっているのは気のせいだった。
集中できていないのが自分でもわかった。どうでもいいことに気が散りすぎている。対局は始まってるんだぞ、タイトルがかかった一戦なんだぞ! 自分に気付けをして、盤面のみに気を向けるよう意識する。
先手を持つ僕の初手は角道を開ける7六歩で、対する後手も角道を開ける3四歩。続いて僕が飛車先の歩を突くと、後手も飛車先を突いてくる。篠窪さんが後手番で主力戦法としている、横歩取りの出だしだ。僕としても先後問わず横歩取りはどんとこいだ。その後数手進んで、横歩取りの戦型が確定した。
主導権を握ったのは後手の篠窪さんだった。居玉のまま左銀を前へと繰り出して、積極的な攻撃陣を築いていく。それに対して僕は金銀を左右にバランス良く配置し、相手の攻撃を迎え撃つ構えだ。堅固な守備とは言えないけど、広いスペースで玉が踏ん張れる、僕としては好みの陣形だ。
後手の角交換から、戦いの火蓋は切って落とされた。篠窪さんが右辺の飛車を左辺にひねって、飛銀桂香の攻撃陣を展開する。大砲である互いの飛車が真正面に睨み合って、緊張感が高まる局面。さあどう来るかと身構えたところに、指された手は5六角。もちろん、候補としては考えていた手だ。その後の進行も用意してある。
ただ念のため、枝を広く相手の応手を読んでいく。するとその中に、一つ気になる筋が見つかった。
……あれ、ここから先攻されると、思ってたより良くならないぞ?
右辺の駒を総交換して、攻め合いになる……と思っていたが、手番は向こうで、攻めが途切れそうにない。このまま進行すると、ずっと僕が攻撃を受け続けて、逃げ切れるかどうかという戦いになりそうだ。劣勢というわけではないけど、これは僕としては面白くない。攻めている側は多少ミスを犯しても今すぐ負けるということは少ないけど、受ける方は少しのミスが一瞬で命取りになる場合も多いから。攻め合う楽しみがあるならいいけど、一方的に受け続ける展開は遠慮したいところだ。
マズイ! 完全に読み抜けてた! しかも攻められて良くないんじゃ、方針自体間違ってるじゃん!
盤を覗き込んで方向転換の手を必死に考えるも、中盤の入り口をくぐった今からではもう間に合わない。
30分の持ち時間を消費して、僕の選んだ手は相手の飛車を直接狙った角打ち。角の効きから避ける為、飛車は横に逃げた。対して僕は、打ったばかりの角を動かして飛車を追撃する。すると、相手の飛車は元居たマスへと帰っていき、それを見た僕も初めに打った場所へ角を戻し、再度角の睨みが飛車を捉える。そんな、飛車と角の反復横跳びが三度続いた。
――千日手。
将棋のルールにおいて、一局で同一局面が4度出現したらその対局は無効となる。それが千日手だ。公式戦の場合、30分の休憩を挟んだのち再度初めから指し直しになる。ただし、先後を逆にして。本局では模様悪しと見た僕が千日手を打診し、先手が欲しい棋帝が同意した形になる。……僕としては有利な先手を捨てさせられ、気分的には負けに等しい。
「では、30分後に篠窪棋帝先手で指し直し局を開始します。両対局者はそれまで自室にてお休みください」
立会人の言葉をうけ、自分に宛がわれた部屋へと戻る。
自室にて、バシャバシャと冷水で顔を洗う。水が和服に飛ぶかもしれないけど、そんなこと気にしてる場合じゃない。頭の中に燃える自分への怒り、焦りを消火し、また自分の中に残る油断や集中力の欠如を洗い流すつもりで水を被り続ける。
情けない将棋だ。初めから集中力を欠いた、気の抜けた将棋。周りの事なんて気にしている場合じゃないだろ。大事な先手をフイにして、何をやってるんだ。
幸いにして、立ち直るための時間はある。心をフラットにして、普段の精神状態を一から作り直すんだ。
気持ちの切り替えのコツは、自分の感情に意識を向けずに、五感から入ってくる情報に集中し、心を空っぽにすることだ。
一々水を掬うのが面倒になって、蛇口の下に頭を突っ込む。キーンという水道管内を水が走る音が近くで聞こえる。顔を上げると水が頬を滑り落ちて行って、顎で集まったそれが水滴になって落ちて洗面台を叩いている。段々とゆっくりになっていくその音のリズムを聞いて、ゆっくりと心が平静を取り戻していくのを感じる。
大きく腹の底から息を吐き、鏡の奥からこちらを伺う自分に行こうか、と声をかける。
タオルでざっとだけ頭と和服の肩口の水気を拭って、また大きく息を吸って、吐き出す。幸いにして、まだ次のチャンスがある。あのまま気の抜けたまま指し続けてたら、間違いなく受け間違えていただろう。僕はツイてる。やり直せる。そう自分に言い聞かせて、勝利か敗北が僕らを待つ対局室へと帰る。次にここに戻る時は、そのどちらかを背負った状態で。