天衣のお兄ちゃんの話   作:久遠_

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・詰めろ
 一手パスすると、王手の連続で玉が詰む状況


打ち歩

 髪が濡れ、和服の肩当たりを変色させて対局室へ入った僕を見て、その場に居合わせた記者や関係者がざわついた。それでも、着席するころには彼らの声も意図的にシャットアウト出来て、自分が集中できていることを確認できた。

 

 指し直し局では千日手局の持ち時間が引き継がれる。元々4時間だった持ち時間は、両者ともに2時間強にまで消費している。プロの公式戦ではあまり見ない持ち時間だけに、時間の管理も勝負の重要なポイントになるだろう。

 

 先後が入れ替わり、篠窪棋帝の先手で対局が始まる。篠窪さんの初手は2六歩。恐らく、得意とする角換わりを目指した初手だろう。第二局で先手の角換わりを持って負けているのに、後が無いこの場面で再度採用したってことは何か秘策があるのか。

 

 いいよ。角交換、乗ってやろうじゃないか。互いに初期位置で睨み合っている角を、後手番の僕から交換する。――ただし、角換わりは角換わりでも、一手損角換わりだ。

 

 一手損角換わりは不思議な戦法だ。ただでさえ先手より一手遅い後手が、更に一手分の手損をして角換わりに持ち込む。普通ならマイナスとされる手損が、特定の局面に関しては後手の選択肢を増やす効果がある。

 

 両者とも腰掛け銀に組んで、陣形を整備する。僕は右四間飛車に構え、六筋からの集中攻撃を見せる。対して棋帝は、端から手を作っていく。

 

 先手の飛車先の歩を交換したところで、僕に手番が回ってきた。ここで小考して、この先の展開を考える。第一感は盤の中央5五のマスに銀を押し上げる手。華々しい開戦の一手だ。対して同銀、こちらも同角として銀交換をして僕の角が盤の中央に残る。さらにここで作戦の別れに分岐して、この角をどう使うかで、この先の展開が大きく変わってくる。中央に居座って四方への睨みを活かす戦い方と、敵陣に切り飛ばして激しく攻め合うという選択肢だ。直感では切る手が角銀交換の駒損ではあるものの、守備の要を剥がせて僕からは指しやすい気がする。ただ、即終盤に突入して激しい将棋になるから、持ち時間の少ない本局では、少し足を踏み外すと崖下に真っ逆さま。互いにリスクも高い展開だ。

 

 時間がたっぷりあればじっくり考えたいところだけど、ここでは終盤に時間を残しておきたいから自分の感性を信じて5五銀を着手する。同銀同角までは必然の手順。さあここからどうするかと脇息を引き寄せたところで、篠窪さんはノータイムで着手してきた。

 

 ――5六歩。僕の角取りに歩を突き出した、攻撃的な手。

 

 棋は対話なりという言葉がある。将棋において一手一手には、何かしらの意味や主張が含まれている。自分は何を目指したいという手に対して、それを拒否する、あるいは相手の主張を認める代わりに自分の主張を通す、といった具合に指し手の意味を互いに咀嚼し、その答えを盤上で返答する。それはあたかもコミュニケーションのようで、そんな様子を指した格言だ。

 

 5六歩の意味は、僕の角が中央に居座ることを拒否する手。つまり必然、僕に二つあった選択肢は一つに絞られたことになる。しかもノータイム指しだ。「棋は対話なり」にのっとってこの手を見ると、込められたメッセージは、こうだ――かかってこい。真正面から殴り合って、打ち負かしてやる。

 

 盤を覗き込んでいた顔を上げた。篠窪さんも、正面から僕を見ていた。視線がぶつかる。彼の右の口角が不敵に上がった。おいおい、玉取り違えて顔真っ赤にしてた人間はどこに行っちゃったんだよ。30分の休息で自分を取り戻したのは、僕だけではないらしい。

 

 僕はお盆に乗るペットボトルを掴み、コップにスポーツドリンクを注いで一息に呷った。そして敵陣の銀将を摘み自分の駒台に置いてから、自身の角を持ち上げ、裏返して元銀が居た地点に叩き付ける。もう後戻りできない、決戦の△7七角。

 

 ――上等だ! ぶっ潰してやる!

 

 

 

 

 

 思えばここまで、第一局、第二局と篠窪棋帝はらしさがない将棋を続けてきた。初の防衛戦で、タイトルホルダーとしての重圧もあったのだろう。カド番に追い込まれたこの将棋で、初めて篠窪大志という棋士と触れ合った気がした。僕と彼は、似たような棋風と評されていた。強気で、攻撃的で、殴り合いが大好物。三局目の指し直し局にして、ようやく互いの得意とする舞台が整った。さあ、思う存分殴り合おう。

 

 先攻したのは僕だった。歩の拠点に銀を打ち込んで右の金を引かせ、更に左の金の頭に成り込むタダ捨て。相手は10分程考えてこの銀を金で取った。これで僕は銀を一枚手放したが、敵玉のボディガードである二枚の金を玉から遠ざけることに成功した。

 

 しかし、攻守が変わって今度は僕が受けるターン。自陣に打ち込まれていた相手の銀が自玉に迫り、詰めろがかかる。篠窪さんの視線が鋭利な刃物のように僕の玉に突き刺さっている。銀の詰めろを歩で受けるが、今度は角を打ち込まれた。これも……多分詰めろだ。こちらも銀打ちで受けるも、寄るかどうか、読み切れない。歩打ち、飛車切りと詰めろの連続雨霰。完全には読み切れない中で、いつ踏み抜くかわからない地雷原を必死に駆け抜ける。頭に血が上って、顔が熱を持っているのがわかる。記録係から「残り10分です」の声がかかる。思わず心臓が跳ねたが、大丈夫、今は相手の手番。時間が10分を切ったのは、篠窪さんの方だ。

 

 右から角、左から馬。左右から挟撃された自玉。持ち駒の銀を守りに投入するも、先手の決め手が飛んできた。僕の金、銀、飛車と三枚の駒の効きに打った、焦点の歩。読んでいた手ではあるものの、実際に撃たれると眩暈がするほどの破壊力だった。どの駒で取っても、自玉は詰む。だから取れない。放置して攻めるしかない。敵玉の近くにと金を作り、手番が巡ってきた時の攻勢に備える。ただ、それもこの苦境を乗り越えられたらの話だ。

 

 僕の飛車を取った歩を、僕が玉で取り返す。しかし棋帝の応手は、更に厳しいものだった。僕の玉と作ったばかりのと金の間に打つ、取れたての飛車。棋士の感が告げる、濃密な死の気配。もしかしたら自玉が寄ってるかもしれないし、そうでなくても唯一の攻め駒であると金との間にかけられた両取り。貴重な持ち時間を投入して、対応を考える。……合駒の一手に持ち駒は飛金歩の三種。飛車を合駒して両取りを解除したいけど、飛車を切られた手がまた詰めろだ。歩は論外。金が一番踏ん張れる。

 

 相手は角と銀の交換を入れてから、飛車を引いてと金を外す順を選んだ。この手で先手の篠窪陣に僕の攻め駒が無くなり、かなり安全になった印象だ。対して後手陣は玉の居る右辺とは逆サイドに馬を作られていて、次に先手の3四馬が強烈なプレッシャーになっている。パッと見では、かなり先手優勢に見える盤面だろう。でも、この局面では僕も勝負手を用意してある!

 

 引いた相手の飛車を追撃する、6六歩! 飛車で取ると、王手飛車の角打ちがある。先手は飛車を逃げるしかない。敵玉の近くに拠点を築くことに成功する。これはデカイ!

 

 攻守が入れ替わり、待ちに待った攻撃ターンだ。敵陣に飛車を打ち下ろして、次に桂馬を取る手が玉に当たってる。さあ猛攻を仕掛けるぞ、と身も心も前のめりになる。この桂取りをどう受けるんだ? どの受け手にも料理する手があって、僕としては楽しみな局面。篠窪さんの対応次第では、寄せ切れるかもしれない。そう思っていた。

 

 ――先手の選択は、後手陣を睨む、切り札の▲3四馬。

 

「はっ」

 

 思わず声が漏れた。肉を切らせて骨を断つ。あくまでも攻め合おうという、強気な一着。僕からの攻めを凌ぎきって、逆襲して詰ませてやろうという気合の一手。なるほど確かに、僕たちは棋風が合うのかもしれない――僕でも、そうする。

 

 なら、お望み通りをくれてやると、7七飛車成を叩きこむ。先手は二枚の銀を玉の応援に投入するも、こちらも桂馬を二枚、攻めに追加する。攻めの駒、守りの駒が総交換となり、裸になった相手玉の退路を塞ぐ角を打ち込む。7二銀以下の詰めろがかかり、先手篠窪玉に受けは無い。先手が勝つには、次に銀を打たれる前に僕の玉を詰ますしかない。

 

 僕の玉は守りは薄いものの逃げ道が広い。ただ、先手の持ち駒は飛車、金、銀、桂二枚に歩が三枚で、詰みがあってもおかしくはない。先の折衝で、互いに持ち時間は使い果たして1分将棋になっている。

 

 詰むや、詰まざるや。さあ、最後の勝負だ。

 

 

 

 

 

 真っ暗闇の中、道なき道を裸足で駆ける。背後から迫る追っ手に捕まったら負け。見誤って何かに躓いても負け。ゴールの方向も、そもそもゴールが存在するかも知らないまま、息を荒げてただ走る。

 

 膨大な量の読み筋の分岐を、勘と経験を頼りに間引きして、残った枝を一心不乱に読み進める。幾重もの頓死筋を躱し必死に藻掻くも、未だ自身の死も生も見つからない。

 

 駒をはじいてしまわぬように、和服の袖をたくし上げて玉を上がる。両者に1分毎に下される判決が、いつ死刑宣告のそれに変わるか、怯えながらに指し続ける。

 

 棋士の本能が鳴らすサイレンが、ガンガンと頭を揺さぶる。どう見たって自玉に詰みがありそうなのに、その詰み筋が見つからない。いっそ詰ませてくれたほうが楽になれるのに……つと浮かぶ弱音を頭からたたき出して、また盤上へと没我する。

 

 自玉に群がる飛車角を合駒で凌ぐ。構うものかと強引に背後から迫る龍に追われ、自陣から玉が脱出する。すぐさま、押さえつけるように玉頭に歩が放たれる。取ったら11手の即詰み。左に躱すとして、再度歩を打たれて同玉だと詰み、同銀だと……読み切れない! 時間が足りない! 秒読みの59まで考えて、慌てて玉を左に避ける。背中に湿った下着が貼りついて不快感に襲われるけど、そんなこと気にしている場合じゃない。

 

 相手の応手は、死神の鎌のように、玉の斜め後ろに絡みつく4三銀。本筋とは読んでいなかった手だった。同玉は5二角成から詰み、同金も同角成で詰み、玉上がりなら……。

 

 ()()()を発見した時、閃きの光が、暗闇に慣れた目を焼き潰さんとばかりに輝いた。グッと玉が上がる5五玉を着手する。その手を見て気が付いたか、篠窪さんは脇息に肘をついたまま頭を抱えた。

 

 彼の選択した▲4三銀は、玉を詰ませるという意味で正解で、しかし将棋のルールとしては間違っていた。この銀打ちから続く筋を読み進めると……打ち歩詰め! 歩を打った手で相手玉を詰ませてはならないという、将棋の反則手! 偶然とも言える僅かの差で、先手からの猛攻を凌ぎきっていた。彼が確かに感じたであろう詰みの気配は、まるで砂漠の逃げ水のように幻と消えていく。

 

 勝った! 息も絶え絶えになりながら、遂に追う篠窪棋帝を振り切った。光に照らされたゴールラインまで、あと少し!

 

 篠窪さんは力なく項垂れながらも、出来うる限りの王手を続けた。もう自身に勝ちは無いと解っていながらも、タイトルホルダーとしての責務を果たすかのように。9手のやり取りの後、遂に先手の連続王手が途切れた。

 

 篠窪棋帝、投了。棋帝戦は3勝0敗で、挑戦者のタイトル奪取となった。

 

 

 

 

 終局と共に記者たちがおずおずと入室してくる。今日は、横から僕ら二人を撮影しようとする記者が一番多かった。写真撮影が終わると、終局後のインタビューが始まる。

 

「まずは勝利された夜叉神八段、本局の振り返りをお願いします」

 

 棋帝戦スポンサーの新聞記者が言う。緊張の糸が切れて疲労の波に揺られる脳は、その言葉を上手く認識できなかった。数秒かけて言葉を咀嚼して、今日の将棋を思い返す。千日手局が、遠い昔のようにさえ感じた。

 

「千日手局は……不甲斐ない将棋になってしまいました。休憩時間に気持ちを切り替えて、指し直し局は自分らしい将棋を指せたと思います。早い内から終盤に突入する激しい将棋になって……篠窪棋帝の、凄まじい意地を見ました」

「初のタイトル獲得となりますが、感想はいかがでしょうか」

「今はただ疲れちゃって……明日ゆっくり、喜びを噛み締めようと思います」

「ありがとうございました」

 

 続いて質問が篠窪さんに移る。眉間に皴が寄り目は充血し、疲労からか対局前より10歳くらい老けてみえた。多分、僕もそんな見た目だろう。

 

「シリーズを通してのご感想をお願いします」

「一局目と二局目は良い所無しで負けてしまって、でも今日の指し直し局でようやく自分らしい将棋を指せました。結果力負けしてしまいましたが、最後にいい勝負が出来たので悔いは無いです」

 

 その後も記者たちの質問に適当に答える。質問が終わると立会人から感想戦を促される。疲れたよーもう何も考えたくないよーと思っていると、表情に出ていたのか盤の向かいの篠窪さんが僕に向かって頷いた。僕も頷き返して合意が取れた僕らは、形ばかりの感想戦を手早く終わらせた。

 

 感想戦を終えると、篠窪さんが駒を駒袋にしまっていく。タイトルホルダーとしての、最後の仕事だ。しまい終えた駒袋を中央に乗せた将棋盤を挟んで、両対局者は礼をする。ここに棋帝戦五番勝負は幕を閉じた。




将棋用語「詰めろ」の説明をしていなかったことに今更気付きました
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