棋帝戦の翌日、ホテルを出るなりその足で、キャリーバックを手に祖父さんの屋敷に向かった。神戸の一等地に佇む巨大な敷地。取り囲む塀の上部には有刺鉄線が張り巡らされている。明らかにヤの付く人々の住む土地と解る景観だ。僕はその屋敷の正門を潜り、塀の中に広がる和風な庭園を飛び石に沿って進んでいく。玄関を開けて中に入ると、僕に気が付いた
「おかえりなさいませ、若様!」
「うん、ただいま」
その呼び名にも大分慣れた。僕らが祖父さんの屋敷に引き取られてから、初め僕を「坊ちゃん」と呼ぼうとする彼らに僕は強硬に抵抗した。その結果、結局呼び名は「若様」に落ち着いた。いや、なんでだよ。今の世は21世紀だよ? その呼び方時代劇でしか聞いたことないよ。普通に名前で呼んでくれよ。
両親が事故死して祖父に引き取られて以来、この環境には大分馴染んではきた。ただ、違和感に慣れることは無いと思う。ある日突然、厳ついおっちゃんたちから頭を下げられる立場になったんだ。家族を失った悲しみも冷めやらぬ中でめちゃくちゃ混乱したし、家から出るためにボディガードが付けられた時は正気じゃないとも思った。その精神的な揺らぎは将棋にも影響して、この時期は露骨に勝率が落ち込んだ。
その点、あっという間に適応して彼らを顎で使い出した天衣は、この頃から既に鋼鉄メンタルの片鱗が見えていたのか、それとも単に幼いから順応が早かっただけか……。僕なんかはまだ庶民の感覚が抜けないけど、天衣は完全にステレオタイプな高飛車お嬢様になってしまった。いろんな意味で。祖父さん、天衣にクレジットカードなんて持たせちゃってるからね。どう考えたって教育に良くないだろ。ちなみに高慢なことを指す高飛車の由来は将棋用語である。これ豆知識ね。
「タイトル獲得、おめでとうございます!」
「おう、ありがとう!」
男の祝福に、拳を掲げてガッツポーズで答える。
「あれ、よく知ってるね。将棋好きなんだっけ?」
言ってから、その質問に意味が無いことに気が付いた。両親が亡くなって祖父さんに引き取られた時、この屋敷の家人に将棋が出来る人が居ないか聞いて回ったから。僕の問いに、彼はふんと胸を張って答えた。
「屋敷の者皆集まって中継を観戦しましたから! 駒の動きくらいは皆知ってますから、天衣お嬢様の解説もあって大変楽しめましたよ」
へえ、天衣が解説? 大盤も無い中でどうやって解説したかはわからないけど、素人を相手に面白いと思わせたのは素直に凄いことだ。女流棋士になれば聞き手解説での露出も増えるだろうし、トークで活躍出来れば仕事も増えるだろう。
「見る人を楽しませるってこともプロの役目だから、使命を果たせたってことなのかな。ところで、天衣は部屋?」
「はい。ご自室にいらっしゃいます」
ありがとうと礼を告げて、速足で廊下を進んでいく。途中すれ違う家人たちが「お疲れ様です!」と90度腰を折って並び、その一人一人にお疲れ様を返しつつ、まるで花道のようになった廊下を歩く。
普段なら未だ違和感が拭えないこの光景も、気が大きくなった今では有難くすら感じる。駆け足になりかけるのを抑えながら、天衣の部屋へと足を進めた。
「天衣、僕だけど。入っていいかい?」
天衣の部屋の戸に手をかけながら言った。一拍の間の後に中から声がかかると同時に戸を開き部屋に入る。
「おかえりなさい、お兄さま!」
今まで椅子に座って勉強机に向かっていたであろう天衣が、立ち上がってこちらに駆け寄ってくる。僕も天衣へと歩み寄る。天衣は僕の目前で足を止めて何か言葉を発しようとしていたが、僕は構わずに勢いそのままにその小さな体を抱きしめて、感情のまま勢いよく揺さぶった。
「えっなっ」
「やったぜー! やっちゃった! やってやったよ天衣! タイトルだ! 棋帝だ! 夜叉神棋帝だぜ!」
天衣の姿を目にして、今の今まで抑えつけていた喜びが決壊して凄い勢いで溢れ出してくる。胸の中で天衣が何かモゴモゴと言ってた気がしたけど、気にも留められない。
「今朝の取材でな、記者の人たちが言うんだ! 『夜叉神棋帝』って! すっげえ良い響きじゃない!? タイトル獲ったって実感がじわじわ効いてきてさ、僕たちの名字こんなにカッコよかったのかって感じたよね!」
「おにいさま、おちつ」
「なんかもう世界の見え方が変わったね! 何の変哲もないホテルの朝食まで棋帝の味がすんの! 望月の歌を詠んだ藤原道長もきっとこんな心持だったんだろうなと思ったね! そんな事考えてたら何かオムレツが月に見えてきちゃってさ、箸入れて欠けさせるのもったいないと思って近くにいた記録係の娘にあげちゃったんだけど、結局他人にあげても欠けちゃうのは変わらないじゃん! 自分で食べればよかったよ! もったいねー!」
「まって、まって」
「てか棋帝ってタイトル名がちょっとアレだなって思ってたんだけどさ、だって将”棋”の”帝”王で棋帝でしょ!? なんかダサくねって思うじゃん中二かよ!? でも僕今は棋帝が一番かっこいいと思うね! いやごめんちょっと盛ったわ流石に名人のほうがかっこよかったかも知れないけどでもどっこいどっこいかな棋帝もすげえかっこいいよね!」
「ちょっと、蒼天様何してるんですか! お嬢様が湯で蛸みたいになってます!」
「ごめん、舞い上がってた」
「見ればわかるわ。もう、あんなに揺さぶって、首でも痛めたらどうするのよ」
自分でも、喜びに我を忘れるなんてことは初めてだった。棋士にとってタイトルの重さ……今まで敢えて考えてこなかったそれを、無意識の自分に突き付けられてしまった。僕の騒ぎ声を聞いて駆け付けた晶さんが止めてくれなかったら、何時までやってたんだろう……。
「晶さんもごめんね。取り乱した」
「私が言うのは差し出がましいですが、女性の体は繊細に扱っていただくと良いかと」
「申し訳ありませんでした」
そういう言い方をされると、男としては無条件降伏するしかない。
「昨日は疲れ切ってて勝利の喜びなんて感じられなかったからさ。今遅れて感情の波が来てるんだよ」
「一局目と二局目ではくれた勝利報告も無かったものね?」
「報告も何も、中継見てくれてたでしょ? 勝敗知ってるじゃん」
そもそも対局後の報告を約束していた訳でもない。
「蒼天様、お嬢様は終局後も携帯電話を握りしめて今か今かと連絡を待っておられたのです。お嬢様のお気持ちも汲んであげて下さい」
「晶! 余計な事は言わなくていいっ!」
昨日の終局は23時頃で、その後のインタビューや感想戦が終えてネット中継が終わった頃には日付が変わっていたはずだ。そんな遅い時間まで待っててくれてたのか……それは確かに、悪いことをしちゃったかな。僕は屈んで目線を合わせながら天衣の頭に手を置いて言った。
「折角待ってくれてたのに連絡してやらなくて、ごめんな」
「……別に待ってたのは私の勝手だし。疲れているのも見ていてわかってた。ただ、早くお兄さまにおめでとうを言いたくて。三連勝なんて我儘を叶えてくれてありがとうって言いたくて。ただ、それだけ」
ついと顔を背けながら天衣は言った。その言葉と仕草に、胸が熱くなるのを感じた。彼女の頭に置いた手を背中へと滑り落とし、今度はゆっくりと抱き寄せた。
「報告が遅れたけど、タイトル、獲ったよ。約束通り三連勝だ。お兄ちゃん頑張ったから、次は天衣の番だよ。マイナビ期待してるからね」
「お兄さまがタイトルを獲ったのも、私の将棋を観に来てくれるのも、凄く嬉しい。……タイトル獲得おめでとう、お兄さま」
天衣も僕の背に手を回し……数瞬して部屋に晶さんが居ることを思い出したか抵抗を始めた。だけど天衣を偏愛する晶さんに抜け目は無く、既にスマートフォンの無音カメラアプリで幾つか写真を撮った後だった。それを消すように天衣が迫り、それに渋々従ったように見えた晶さん。しかしデータを復元したのか、バックアップを取っていたのか、後日僕の元にその時の写真データが送られてきた。いや、僕に送り付けられても要らないんだけど……。
コロナ後の忙しさと資格の勉強とで6月中は更新ペースが落ちると思います。気長にお待ちいただけると幸いです。
ところで例の高校生、とんでもない内容でタイトル戦の挑決、第一局と勝っちゃいました。
もし初タイトル戦で三冠棋士の壁を飛び越えるようだと、もう対抗できる相手が居なくなりますが、彼のライバルになれる存在は現れるのでしょうか。