帰り道、なんとなく天衣と顔を合わせるのは味が悪い気がして、福島駅で電車を降りた。高校を卒業したことや、持ち時間の長い対局の際には終電を逃すことも多いことから、先月から将棋会館の近くで1人暮らしを始めたんだ。天衣と祖父ちゃんが寂しがるから、一か月の三分の一は実家に帰ってたけど。
すっかり暗くなった帰り道。今日の対局……というよりかは、解説での出来事を振り返る。
あれから鹿路庭さんやネットのコメントに天衣の事突っ込まれまくって、結構色々喋らされたんだよね。将棋ファンの人たちって、棋士の生い立ちとかプライベートな一面が伺えるエピソードが大好きだから。幼いころの天衣が初めて「にいたま」って呼んでくれた話なんかしたら、コメントで『かわいい』の嵐。天衣、どんな顔してあれ見てたんだろう。今度晶さんに聞いてみよう。
マンションに到着して、自室の前。鍵を開けてドアノブを捻ろうとするも、ドアノブが回らない。あれ? 僕が帰る前から鍵が開いてた? 今朝の記憶を辿るも、確かに出かける時に施錠したはずだ。つまり、今鍵が開いてるってことは……行動を読まれている。先回りされている。覚悟を決めて、扉を開ける。
「ただいまー」
扉を閉めて、真っ暗な中壁伝いに手を添わせて照明のスイッチを探す。凹凸が指先に触れる。パッと照らされる玄関と廊下。そして……何故か目の前で仁王立ちしている天衣。
「ぬぅぉあ!!? え!? おまっ、な、なにしてんだよ!」
「おかえりなさいお兄さま。あら、鍵を開ける音がしたから可愛い妹がお迎えに来たのに、結構な対応ね?」
「びっくりするだろ! 電気くらい点けろよ!」
「それだと脅かしにならないじゃない」
いや、そもそも脅かすなよという言葉は、空気を震わす前に飲み込んだ。早く上がって?という天衣の言葉に、自分がまだ靴も脱いでいないことに思い当たる。というか上がってって、ここ僕の家なんだけど。
居間に入る。殺風景な部屋だ。板張りの床に、白い壁紙。ど真ん中にソファーとテーブル、ソファーと向き合う形でテレビ、それと壁際にハンガーラックがあるだけ。天衣は腰掛け銀のようにどかっとソファーのど真ん中に掛けた。僕はスーツの上着を脱いでハンガーにかけてから天衣の隣に向かう。
「で、今日は随分と他人の話題で盛り上がってたわね?」
僕が天衣の左隣に着地するなり、開口一番天衣が言った。やっぱりそのことだよね……
気位が高い天衣は他人に隙を見せたがらない。例外的に僕にだけ年相応に甘えてきてくれるけど、それだって必ず二人でいる時だけだ。兄を信頼してくれていて、なおかつその兄が矜持を傷つけるような話を言いふらすもんだから、信頼を裏切られたと感じているのかもしれない。ただ天衣よ、実家にいる時は結構晶さん始め屋敷の人たちに覗き見されてるぞ。天衣としては知らぬが仏かと思って知らせてないけど。
両手を合わせて天衣に向かって頭を下げる。悪かったってこの通りだ。許してください。だけど天衣の怒りはそんなことじゃ収まらない。
「あんな昔の事まで持ち出して、しかもネット中継で……よくも恥をさらしてくれたわね!」
「いやほんとすまんかったって! 申し訳ない!」
「しかも女流棋士にデレデレしちゃって!」
「へ!? いやデレデレはしてなかったでしょ!?」
「してたわよ! 胸だってチラチラ見てたくせに!」
「見てない! 見てないって冤罪だ! コメントでもそんなの指摘されてなかったじゃん!」
「他の誰にもわからなくても私にはわかるの!」
なんだよその無敵理論。抗議の仕様がないじゃないか。
「見ないように努力はしたから!」
「ほらやっぱり見てたんじゃない。変態」
その変態認定には断固として待ったをかけたい。仕方ないじゃん僕だって男なんだよ。吸い寄せられちゃうんだよ。
「いい? あなたは夜叉神の跡取りなの。あんまり世間に情けない姿をさらさないの」
「はい、すいません……」
あれ? 怒りの矛先はそっちなのか? 妹として女性にだらしない兄が許せなかったってことが怒りのメインソース?
言いたいことは言ったのか、まったくと呟きながら、ソファーに座る僕の足の間に背中向きで腰を下ろしてきた。僕の顎のあたりに天衣の頭頂部がくるせいで、髪の毛が首筋に当たってくすぐったい。
「私に過剰な注目が集まらないかって心配してたみたいだけど、ネット中継上で女流デビュー前の妹の話をすることは注目を集めることに繋がらないのかしら?」
「それ言い出したの僕じゃない……」
あれは鹿路庭さんから振ってきた話題だ。その後天衣の話題で盛り上がってべらべら喋ったのは他ならぬ僕だけど。
「これはもう責任取って貰って、お兄さまの籍に入れてもらうしかないわね?」
なんだその表現。将棋界においては弟子入りすることはその師匠の一門に入るってことだから、あながち間違ってもないかもだけど。師匠っていうのは将棋を教える先生っていうより、後継人とか身元保証人とかそういう意味合いが強い。有難いことに僕は師匠である月光先生に結構な頻度で将棋も教わったけどね。
「お前意味わかってそれ言ってるのか? その言い方外でするんじゃないぞ」
天衣が背中から僕の胸にもたれかかってくる。視線を下げると、体が仰向けに傾いた関係で顔が上向いた天衣と目が合った。口角と眦が上がって、挑戦的な笑みを浮かべている。
「あら、どうしようかしら。もし誰かに話しを振られたら、ポロっと喋っちゃうかもしれないわね?」
明らかに故意犯じゃねえか。誰だようちの妹に変な言葉教えた奴。
「勘弁してくれ……」
「ならもう頭金ね。私を弟子にして下さるかしら? お兄さま」
僕の失策を見逃さない、天衣の退路封鎖の巧みな寄せの前には、僕には投了以外の選択肢は残っていないのだった。
二人とも夕食をまだ摂ってなかったため、あり合わせで食事を用意することにした。作る料理は炒飯。というか、今の僕の料理レパートリーで、他人に出せる物なんて炒飯くらいだ。
居間にいる天衣からの視線を背中で感じる。瞳は心の窓と言うが、今の天衣の視線は雄弁だ。つまり、「お前にまともな料理なんて作れるのか」ということ。安心して欲しい。一応一か月ほど自炊をしているが、食べられないほど不味く失敗したことはない。我ながら料理のハードルが低すぎる。
「出来たよ。味薄かったら塩コショウなり醤油なりで調整してな」
テーブルに二つ、炒飯を盛りつけた皿を並べる。二人で揃っていただきますと唱えたが、その後も天衣は不審そうな目で皿を眺めるばかりでなかなか手を付けようとしない。どうやら僕が食べ始めるのを待っているらしい。毒なんか入ってねえよ。
僕が口をつけてから、ようやく天衣も食べ始めた。
「お兄さま、料理なんて出来たの? 家では料理しているところ、見たことなかったけど」
「こっちに来てから始めてね。料理本とか買って勉強してるんだ」
ふーん、とだけ言ってまた食事に戻る天衣。食べてくれてるってことは、飛び切り口に合わないってわけではなさそうだ。良かった。
小食で量が少ないため、早く食べ終わったのは天衣の方だった。どうだったと聞けば、思ったよりまともで驚いたとのこと。どれだけ不安に思われてたんだ。
僕が多く作りすぎた残りの炒飯に悪戦苦闘していると、天衣が僕に問いかけてきた。
「お兄さまは、お料理好きなの?」
「今のところは楽しいよ。始めたばかりだからね。そのうち慣れると面倒に感じるのかもしれないけど。何? 天衣も料理に興味あるの?」
「ええ、そうね」
そこまで言って、自分の分の食器をかたずける天衣。洗い物片づけとくわ、と言ってキッチンに向かう天衣に、よろしくーと返して、炒飯との闘いに戻る。
それから数分後。あれ、あいつ食器洗いとかやったことあるのか? という疑問が浮かぶのと、キッチンから陶器が割れる音、そして天衣の悲鳴が聞こえたのは、ほぼ同時のことだった。
・寄せ
終盤で相手の玉を捕まえるための手のこと。
・頭金
相手の玉の上に金を打つ、一番簡単な一手詰の形のこと。