天衣のお兄ちゃんの話   作:久遠_

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一話にて、研修会B2クラス昇級で女流棋士になれるとの描写がありました。これは2018年に変更された制度で、原作内では当時の規則であるC1クラスで女流3級の権利を得ると説明されています。
 私の確認不足で、女流入りの制度で原作との乖離が生じていますが、本作では現規則のB2で女流入りで進めさせていただきます。ご了承ください。


私たちの夢

 私たち兄妹の――いや、私たち家族の話をしようと思う。

 

 私が将棋を覚えたのがいつなのか、私は知らない。というのも、私が生まれた夜叉神家は将棋一家だったから。言葉よりも先に将棋を覚えて、私は育った。

 

 物心ついたころには、お兄さまは既にプロ養成機関である奨励会に入会していて、次々と最年少昇段記録を更新していた。お父さまはアマチュアながらも、アマ名人を獲得したこともある強豪だった。家では毎日、二人は将棋を指していた。私とお母さまはそれを観たり、記録を取ったり、あるいは私たちで将棋を指したりしていた。

 

 お母さまは、私が将棋を指すことを望んでいないようだった。お母さまはそこまで将棋が強くなかったし、お父さまほど将棋に熱心でもなかったから。私が可愛いお洋服を着て、お人形遊びをして、おとぎ話に夢を見て……そんなお姫様のような、可愛らしい女の子になって欲しい。そんな願いを、幼いころから私は感じ取っていた。お兄さまが男の子で、しかも将棋一筋だったから、私にかける希望も大きかったと思う。

 

 しかし、私が選んだのは……お兄さまと同じように、将棋の方だった。

 

 私が将棋に熱中することを、お父さまとお兄さまはとても喜んでくれた。そして私に将棋に関する様々なことを教えてくれた。効率の良い勉強の仕方、戦法の内容や形勢判断の考え方、そして彼らが指している将棋の解説……。このころから、二人が指している将棋が恐ろしく高度だということに気が付いた。二人の解説は、ちょっとしか解らなかった。ただ、そのほんの一部の理解が、私に再度将棋の難しさと奥深さ、そして面白さを教えてくれて、更に将棋が好きになった。お兄さまと指すことも多くなって、だいたい勝たせてもらっていた。

 

 そうやって将棋にどんどんのめり込んでいく私を、お母さまは内心どう思っていたのだろう。その頃から、私の将棋でお母さまを喜ばせたいと思うようになった。そんな時に、将棋界に女流棋士という制度があることを知った。そしてその女流タイトルの一つに目が留まった。

 

 そのタイトルの名は、女王。

 

 これだ、と思った。

 

 おとぎ話のようなお姫様とはちょっと違うけど、女王さまになれれば、お母さまもきっと喜んでくれる。タイトル戦に出られれば、綺麗な和服で身を飾れる。お母さまが私に望む、女の子らしい姿を見せてあげられる。そう思った私は、その場で宣言した。

 

「天衣は、将棋の女王さまになります!」

 

 お父さまとお兄さまは大喜びしてくれたけど、お母さまは苦笑いだった。どこまでも将棋一筋な私に、やはり思うところはあったのだろう。でも最後には私を抱きしめて、笑ってくれた。

 

 そしてこのころ、お兄さまはプロ棋士になった。13歳での四段昇段は、史上最年少の快挙だった。

 

 お兄さまが特別な人だって初めて気づいたのは、この時だった。お兄さまと私は年の離れた兄妹だったから、お兄さまは私のことをとても可愛がってくれていた。私もそんなお兄さまに甘えて、何をするにも後ろをついて回っていた。一緒に暮らして、ご飯を食べて、お風呂に入って、将棋を指して。そんな人が、実は将棋の世界に選ばれたヒーローだったんだって! 少なくとも私の眼にはそう映ったし、それは今も変わらない。

 

 私と将棋を指すときのお兄さまは、いつもの通りに優しかった。良い手を指すと褒めてくれたし、悪手を指したらそれを咎める手順を示した上で手を戻して導いてくれた。そんなお兄さまも好きだったけど、でも、いつもお父さまとの対局で見せる表情を、私に見せてくれたことは一度もなかった。

 

 盤を覗き込んで脳をフル回転させて、必死に先を読むときの表情。眉を少し寄せ、垣間見える苦悶の色。微かに上気する頬。将棋指しが……一番輝く顔。私の知るその表情はいつだって横から見るもので。私はお兄さまのことは何だって分かってるつもりだけど、その顔を正面から見られたことは、まだない。

 

 お兄さまの指導もあって、私はどんどん力をつけていった。お兄さまの将棋の、理解できる部分が増える度、私は自分の上達を実感できた。そしてスーパーヒーローの偉大な輝きに照らされて浮き彫りになる、私とお兄さまの間にあるあまりにも大きな力の差も。私はまだお兄さまの将棋の、氷山の一角しか見えていない。全容を知りたいと頑張って潜っても、全然息が続かない。成長して、前より息が持つようになって、より深く潜れるようになると、その度に底の見えない巨大さに感動する。その美しさにより惹きつけられる。

 

 以前はお兄さまとお父さまで対局することが多かったが、そこに私が加わるようになった。一人対局からあぶれることになるから、多くの場合私とお父さまで、どちらがお兄さまと指すか争っていた。駒落ちでお父さまと勝負して、勝った方がお兄さまと将棋が指せる。そんなお兄さまへの挑戦者決定戦を、お兄さまとお母さまが見守っている。これが夜叉神家の団欒だった。

 

 そんな家族の幸せは突然にして奪われた。交通事故でお父さまとお母さまが揃って旅立ってしまったから。

 

 悲しかった。悔しかった。お父さま、お母さまと二度と会えないことが。四人の時間が奪われてしまったことが。私の夢を、お母さまの願いを――女王としての姿を、見せられなかったことが。

 

 泣いてばかりの私と違って、お兄さまは泣いてばかりはいられなかった。年老いたおじいちゃまの代わりに、葬儀や役所の手続きや親戚、知り合いへの連絡をしなければいけなかったから。おじいちゃまの家に移った私たちだけど、しばらくの間、日中はお兄さまと居られなかった。その間、お兄さまも私を置いていなくなっちゃうんじゃないかと、怖かった。

 

 そんな私の涙を拭ってくれたのは、やはりお兄さまと将棋だった。ふさぎ込んでいる私を、お兄さまは無理やり将棋盤の前に引きずり出した。その日、お兄さまは一切手加減をしてくれなかった。角換わりから厚みで押し切る将棋。お父さまの将棋だった。将棋を始めてから、初めて最後まで、詰まされるまで指した。少しでも、お父さまとの将棋を続けていたかった。お父さまとお母さまからもらった私の将棋を、続けていたかった。

 

 将棋が終わると、お兄さまが言った。

 

「僕は父さんとの夢を叶えるから、天衣は母さんの願いを叶えてあげて」

――二人で、四人の夢を叶えよう。

 

 

 明日は研修会試験。女流棋士への道の入り口。私たちの夢の、スタートラインに立つ日。

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