「蒼天くん。起きて」
体を揺すられる感覚で意識が浮上する。声が聞こえた。優しくて、暖かくて、久しく聞いてなかった声。頭に何かの疑問を感じた気がするけど、睡魔という重力に抑え込まれてゆっくりとしか浮かび上がってこない僕の意識では、まだその疑問を咀嚼することが出来ないでいた。
「蒼天くん。朝よ。蒼天くん」
再度強く揺すられて、重力から解放された意識がふっと浮かび上がってくる。認識しきれなかった声が鼓膜から脳に染み込んでくる。懐かしいこの声……今はもう失われたはずのこの声が、なんで……。
「母さん?」
ハッと目を開くと目の前に、満面の笑みを浮かべた天衣の顔があった。
「へっ? 母さんは? あれ? 天衣?」
僕の反応が可笑しいのか、顔を覆って笑いだす天衣。今のは……声真似? というか、なんで天衣に起こされてるんだ?
仰向けの体制のまま、枕元にある時計を見上げる。7時半にセットしたはずの目覚まし時計の針は、今は8時を指し示していた。
「げっ、寝過ごした!?」
がばっと布団ごと蹴り上げて跳び起きる。今日は天衣の研修会試験の日だ。よりによってなんでこんな日に! 急いで朝食作らないと!
「大丈夫よお兄さま。その目覚まし止めたの、私だから」
「はぁ!?」
どういうことだ。寝起きの僕の頭がいけないのか、状況が全く飲み込めない。なんで、天衣がそんなことを。
「なんで? それに、さっきの声」
「なかなか起きないから驚かそうとしただけよ。さ、早く布団から出て。朝食出来てるから、早く食べましょう?」
天衣は研修会に備えて、昨日から福島の僕の家に泊まりに来ていた。別に神戸の屋敷からだと遠すぎるってわけではないけれど、折角会館のすぐ近くに僕の部屋があるんだから、活用しようというわけだ。ただし移動の分で浮くはずだった時間は、僕たちの朝食に化けてしまったが。
テーブルの上にはご飯とハムエッグ、サラダとみそ汁が並んでいた。これ、天衣が作ったのか?
「お前、料理なんて出来たの?」
「こんなの料理なんて上等なものじゃないわ。フライパンに卵落として、野菜ちぎっただけ。おみそ汁は戸棚にあったインスタントのものだから」
「で、なんでよりによって今日これを作ったの? 僕の目覚ましを止めてまで」
「新しく勉強した戦法があったとして、早く実践で使ってみたくなるでしょ? それと同じよ」
次から次へと湧いてくる疑問。屋敷で暮らす環境の天衣が、自分で料理をするシチュエーションなんてあるわけがないよな。となると、どうして料理なんて? 学校で調理実習でもあったのだろうか。いや、それよりも。
「緊張してないの?」
「今更じたばたしても仕方ないでしょ?」
当然のように言い放つ天衣。これには、おぉと思わず声が出た。これは素直に感心する。今日から将棋の一勝が人生を変えるかもしれない世界に飛び込むというのに、天衣のメンタルは完全にフラット。いつも通りだ。勝負師として、この心臓に毛の生えたような強靭なメンタルは、間違いなく天衣の武器になってくれる。生まれてからずっと天衣を見てきて、初めて知った一面だ。
そんな天衣への感心は、冷める前に早く食べましょう? という天衣の促しによって打ち切られた。
「じゃあ、いただきます」
まずはハムエッグから。ソースをかけて、箸で一口サイズに切り取って口へ運ぶ。ちょっと半熟目でいい感じ。
「うん、美味しいよ」
「それは卵とソースが美味しいのね。私は焼いただけ」
そんなことを言いながらも、口角がちょっと上がっている。やっぱり褒められると嬉しいんだな。
「あとあれだ、愛情は最高の調味料って言うだろ? それもあるかもね」
「そんな非科学的なことあるわけないでしょ」
「入ってないの? 愛情」
「さあ、どうでしょうね?」
微笑みながら流し目を向ける天衣。最近この子を、妙に艶っぽいと感じることがある。早熟な子だとは思ってたけど、早めの思春期だろうか。
研修会の入会試験と言っても、筆記とか、特別な試験を課されるわけじゃない。ただ将棋を3局指して、幹事を務めるプロ棋士に実力を認められれば入会となる。そこは、奨励会の試験とは異なる点だ。
奨励会の場合は対局だけでなく面接や筆記の試験もあって、僕の場合は対局よりこちらの方が緊張した。特に筆記。
当時のタイトル名とタイトルホルダーを全て書けなんて問題が出題されて、名人位に月光先生が就いていることしか知らなかった僕は、それ以外のタイトルに現名人の名前を記入。やっちゃったかーと思いながら帰って調べると、大体それで正解だった。やっぱ名人ってすげーわ。
「あなたにとって名人は倒すべき敵でしょう? その相手を持ち上げてどうするのよ」
将棋会館まで歩いて行く途中、僕の奨励会受験時の話を持ち出したら叱責をうけた。9歳の妹にプロの厳しさを諭される僕は一応A級八段である。
「昔の偉い人の言葉で、彼を知り己を知れば百戦殆うからずってものがある。相手の力、偉大さを知ることも大事なことだよ」
自分と相手の力を分析し、自分の欠点、相手の優っている点を理解することは大切なことだ。如何に相手の弱点を探し出し、自分の有利な土俵で戦うかが、研究第一の現代将棋では求められている。名人の場合、相手の土俵に飛び込んで行ってがっぷり四つの横綱相撲で勝っちゃうけど。相手の得意を避けずに勝つ。それが名人が絶対王者と言われる由縁でもある。
話しているうちに、関西将棋会館に到着する。すれ違う職員さんに会釈しながら、五階の対局室へ向かう。まずは研修会幹事の久留野先生にご挨拶しないと。
「おはようございます、久留野先生」
「おはようございます、夜叉神君。ん、その子が噂の妹さんかい?」
「はい。弟子の天衣です。天衣、ご挨拶」
「はじめまして、夜叉神天衣と申します。ご指導よろしくお願いします」
入室を促され、列を作って並んで座っている研修会員の、最後尾に座った天衣。対局室の入り口に立っている僕からだと、他の会員たちがちらちらと天衣を見ているのがよくわかった。僕の妹が研修会入りすることは公言してたし、やっぱりプロの妹ってことで気になるんだろう。
「事務所でもかなり話題になってましたよ? 天衣君のことは」
「あー、やっぱりですか?」
「しかし、本人は全く緊張した様子がありませんね? あの歳であれだけ落ち着いているというのは、大したものです」
「ええ、それは僕も驚いています」
朝からあんなドッキリを仕掛けてくるくらいだし。マジでびっくりした。
では時間なので、と僕に一礼して久留野先生は対局室へ入り、研修会生たちの前で話を始めた。
天衣、がんばれよ。心の中で念じながら、僕は階段から三回の事務室へ向かった。
「これは夜叉神先生。お疲れ様です」
「あ、男鹿さん。こんにちは。お疲れ様です」
事務室の入り口で、将棋連盟の職員である男鹿さんと出くわした。男鹿さんは元は女流棋士で、若くして引退してからは連盟に就職した。今は、将棋連盟会長付きの秘書を務めている。
「月光先生は理事室ですか?」
「はい。お弟子さんのお話でしょうか?」
「ご存じでしたか。一応報告をと思って」
月光先生は現役のトップ棋士、A級に在位しながら、将棋連盟の会長も務めている。それだけでも凄いことなのだが、月光先生は更に大きなハンデを背負っている。若いころに患った大病によって、目から光を失ったのだ。それでいながら、名人や名人と同世代の強豪棋士たちと激闘を繰り広げた。そして永世名人の称号を手に入れ、時代を代表する棋士になった。我々棋士がこの方を会長として戴いているのは、その常人離れした足跡に、皆敬服しているからに他ならない。これが僕の師匠、月光先生だ。
理事室の前に立ち、男鹿さんがドアをノックする。中から『どうぞ』と声がかかり、僕は失礼します、と声に発してから理事室に足を踏み入れた。
「夜叉神です。本日は妹の天衣が研修会の試験を受けるということで、ご報告に伺いました」
「はい、聞いていますよ。天衣さんも漸くこの世界に足を踏み入れたのですね。健闘を祈っています」
「ありがとうございます」
頭を下げる。この人は僕を弟子に取ってくれただけでなく、天衣のこともずっと気にかけてくれていた。
「私ももう孫弟子を持つ身になりますか。つい最近弟子を取ったと思っていたのですが、時間の流れは速いものですね」
僕が月光門下に入門したのが10年前。確かに一番弟子を取って10年で孫弟子が出来たら、将棋界の最短記録かもしれない。調べてないけど。
「そして蒼天君。君も、あと一勝で棋帝戦の挑決ですね。弟子の活躍を期待していますよ?」
「はは……ありがとうございます」
棋帝戦の挑決トーナメントは、僕と逆側の山の挑決進出者は決まっている。名人だ。つい先日の名人戦スイープ負けは記憶に新しい。正直、苦手意識が付いて回る相手だ。
「大丈夫ですよ。相手の事を気にせずに、自分の力を発揮するようにしてください。結果は自然と付いてきますよ」
僕の心中を読まれたのだろうか。月光先生は目が見えない分、音や気配から情報を読み取る力に長けている。僕の声から、弱気を感じ取られたか。
「相手を意識する前にまずは自分です。自分の100%を発揮すること。相手を変えることは出来ませんが、自分のことは変えられるのですから。これは、彼と最も戦った棋士である私の、最大の戦訓です」
月光聖一九段。タイトル通算27期。十七世永世名人の資格を持ち、齢50を超えてA級で活躍する生ける伝説。その月光先生ですら、名人の才能の前に自分を見失ったことがあったのか。誰もが尊敬する、この不世出の名棋士でさえ。
そしてその助言は、今朝天衣から言われたことでもあった。まあ、あの子は単に跳ねっ返りとか、自信過剰ってだけかも知れないけど。
「……頂戴いたします」
「よろしい。さあ、私は職務に戻ります。君は、天衣君を見守ってあげなさい。ご両親の代わりに」
失礼します、と頭を下げ、理事室を後にする。先ほど降りてきた階段を再び上って、対局室へ向かう。
・A級棋士
将棋界で最も伝統ある棋戦、順位戦においてA級のクラスに属する棋士。名人を除いた将棋界のトップテン棋士。順位戦にはA、B1、B2、C1、C2と順位戦に参加しないフリークラスの6つのクラスが存在し、それぞれのクラス内で一年間かけてリーグ戦を行う。成績に応じて昇給、降級が行われ、最上位クラスのA級で優勝した棋士は名人戦挑戦者となる。