対局室へ戻ると、天衣は久留野先生との対局中だった。えっ、久留野先生自ら出陣ですか!? その将棋は二枚落ちでの対局だった。局面は既に終盤で、天衣の勝勢ともいえる戦況だ。それから数手、駒音高い天衣の指し手とそれに頷きながら思い出王手を続ける久留野先生の手が続き、天衣の玉が囲いから脱出し中段へ逃げたところで王手が続かなくなった。上手の玉には必至がかかっている。
「負けました」
「ありがとうございました」
背筋を伸ばし、自信満々の表情で礼を返す天衣。周囲の研修会生から、ほーとかすげーとか感嘆の声が漏れる。まあ、天衣は散々僕と駒落ちを指してきてるから、二枚落ちの指し方は慣れているから。
次局に入る前、投了後の久留野先生が水を飲んでいる間に天衣が何かを探すように眼だけで周囲を見渡していた。何だろう? と思って様子を見ていると、天衣と目が合って、そのまま僕に目配せを送ってくる。僕は苦笑しながら手を振るしかない。ごめん、最終盤しか見てなかったよ。
「では最後の対局。次の相手は——雛鶴あいくん」
はいっと元気よく手を挙げる少女。そう、呼ばれたのは天衣と同じ年ごろの女の子だった。
「夜叉神天衣さんと対局してください。手合いは振り駒で」
久留野先生は続けて言った。振り駒ということは、先生は自身の対局を通じて、天衣の実力をこの少女と同等と見たということ——本当か? 身内贔屓な見方かもしれないが、天衣に並ぶ同世代の女の子はいないだろうと思っていた。現時点でも女流棋戦に参加して十分活躍できるくらいには、僕が鍛えたつもりだったから。
「夜叉神君。流石は君の妹だね」
いつの間にか久留野先生は僕の横に立っていた。
「ありがとうございます」
「一局目の手合いを発表した時、『Fクラスが相手でいいの?』と言い放ったよ」
「そ、それは大変な失礼を……」
何てことを言っているんだ。多分悪意はないんだろうけど、天然な分余計に質が悪い。というか、その失礼さを指して流石は僕の妹って言っているわけではないよね? 僕が失礼なヤツって言われているわけじゃないよね?
「その言葉通り、その子じゃ相手にならなかったよ。多分、どこで形勢が傾いたかも理解できなかっただろう。大差が付きすぎて後半の天衣さんはほぼノータイム指しでね。実力が測れなかったものだから、私が直接相手したんだ」
そういうことか。それで幹事の先生自ら指すことになったのか。そしてその結果……あの雛鶴さんって子と天衣をぶつける判断をしたっていうのか?
「あの対局相手の子は……」
「雛鶴さんかい。彼女もすごい才能を秘めている子でね。天衣さんと同じ9歳で、まだまだ将棋は粗削りだけど、その原石の大きさなら女性の中でもトップかもしれない」
その言葉を聞いた時、僕は自分の耳を疑った。今、久留野先生は才能なら女性トップ、と言ったか? この場合、トップクラスと単にトップという評価には、隔絶した差が発生する。なぜなら、今の女性棋界には、一人の少女が絶対的な存在として君臨しているから。
――空銀子女流二冠。清滝先生の弟子で、棋士系統図上僕の従兄弟に当たる女の子。女王、女流玉座のタイトルを保持しながら、女流棋士の道を選ばずに奨励会で二段の地位にある女性。50戦近く女流棋戦で対局しながら、女性には一度も負けたことのない傑物……女王のタイトルを目指す天衣が、いつか倒さなければならない相手。
その空銀子と、あの雛鶴さんの才能が同等である。そう久留野先生は評価するのか。天衣と同い年の、雛鶴あいさんが。
「お願いします」
「よろしくお願いしますっ!」
二人の声が重なって、対局が始まる。振り駒の結果は雛鶴さんの先手。初手はスタンダードに飛車先の歩を突く2六歩に、天衣は3四歩で答えた。戦型決定の権利は与えませんよ、という手だ。その後互いに角道を開け飛車先を付き合い、先手が横歩を取った。そこで後手から角交換を仕掛け、同銀に2八歩と叩く。これは……。
「4五角戦法!?」
周囲の研修会生がどよめく。序盤から激しい将棋になりやすい横歩取りの中でも、これは最も激しい将棋の一つ。序盤から大駒を持ち合い、断崖絶壁で殴り合うような戦法。正確に指せば先手良しとされるため既にプロでは消えた戦法になってはいるが、その最善手に意外な手、奇抜な手が多く、定跡を知らなけば正しく指すことは難しいだろう。そして玉近くで戦いが起こるため、たった一手ミスをすると一転直下、敗北まで真っ逆さまにもなりうる危険な指し方だ。
後手の天衣は定跡を知っているため時間を使わず指し手を進めているが、雛鶴さんはこの戦法を知らなかったのか、一手指す毎に数分を使って考えている。持ち時間35分の研修会の将棋では、このペースだと序盤で時間を使い切ってしまうだろう。
「あっ!」
そして持ち時間を使い切って1分将棋になった雛鶴さんは、案の定ミスを犯した。中段に打った飛車が疑問手で、角と金銀の二枚替えから飛車の成り込みを許してしまう。
時間も局面も天衣の大優勢。殆ど勝負は決まったと見ていいだろう。少なくとも僕はそう思っていたし、恐らく天衣も同様だっただろう。だけど、隣に立つ久留野先生は違う感想を持っているようだった。
「雛鶴くんの将棋は、ここからなんです」
へ? と僕が間の抜けた声を発すると同時に、雛鶴さんは力強く持ち駒の銀を自陣に打ち込んだ。弾かれた龍が端の香を取りつつ逃げると、駒損はするものの先手玉は一時的に安全になる。その隙に雛鶴さんは後手陣に猛攻をしかけた。プロから見れば無理攻めではあるけど、この戦形特有の玉の薄さ、一手のミスが命取りになるのは天衣の側からも同じことだ。
後手陣で大暴れする雛鶴さんを、天衣はなんとか躱している。今度は天衣が時間を使う番だ。有利だったハズの持ち時間が減っていく。天衣の額から、汗が流れ落ちるのが見えた。
「これ、逆転してるじゃないですか!?」
「いやわからない、わからないよ!」
いつのまにか対局者二人を取り囲むように研修会生が集っていた。こら、将棋の形成判断を対局者に聞こえる声で言うんじゃない。
僕から見ても、体を揺らしながらぶつぶつと何か呟いて思考する雛鶴さんの集中力は、凄まじいものに思えた。秒読みに入ってからかえって読みが深くなってさえいるようだ。序盤からその集中力で将棋に向かえばいいのに。
天衣の玉頭めがけて、雛鶴さんが銀を打ち込んだ。逃げれば即詰み、取っても詰めろが続く勝負手だ。周囲からおお、と歓声が上がる。
「あらまあ」
「ええ」
思わず漏れた僕の言葉に久留野先生が同意する。決着の時だ。
玉で打たれた銀を取った天衣は、その銀を使って先手玉を13手の即詰みに討ち取った。雛鶴さんの玉には、天衣に斜め駒が一枚渡ると即詰みが生じる順が潜んでいたのだ。
敵玉を攻めることばかりに集中して、自玉の守りが疎かになる。将棋を指していれば、よくあることだ。ただ、自分のミスによって敗北に叩き落されることは、手も足も出ずに負けることよりも、ある意味では悔しくもある。相手の強さによってではなく、自分の弱さによってもたらされた敗北だから。
終局後も悔し涙を流し続ける雛鶴さんの姿をみて、僕は久留野先生の彼女への評価が決して過大ではないことを知った。悔しさを感じられることも、この世界では大きな才能の一つだから。そしてその対面に座る天衣を見て、僕は安堵するような心持でいた。
天衣の顔には、勝ったことへの喜びも、ギリギリの勝負を切り抜けた安心感も無かった。そこに見えるのは、優勢な将棋をあと一歩まで捲られた悔しさ。それと同時に、盤の向こうへ向けた、僅かな畏れにも似た感情。――天衣にも、同年代で競い合える相手が見つかったんだな。
今日の試験において、天衣はC1クラスでの研修会入会を認められた。あと一つ昇級することが出来れば、天衣は女流棋士の資格を得ることが出来る。