しとしとと長く雨が続く日だった。僕は喫茶店の角のテーブルに着いて、窓から薄曇りの空を眺めていた。店先の植え込みの葉を、雨粒が揺らすのを数えて、百を超えたところで面倒になってやめた。
今日は月に数回開催する、八一との研究会の日だった。研究会は、棋士同士で行う勉強会だ。本来ライバル同士である棋士が何故共同で勉強するのかと思うかもしれないが、将棋は自分だけで深く掘り進めると、考えが単調になったりするものだ。他人の考えや発想を取り入れることで、将棋に幅が出てくる。
この研究会、いつもなら雨が降ったら日にちをずらしたりするものだけど、今日はどちらからもその提案は出なかった。互い、重要な対局が近く控えているから。
八一は関東のA級棋士、山刀伐八段との対局を控えている。八一としては、三連敗中の相手だ。僕は二年前、お互いがまだB級1組に所属している時に順位戦で山刀伐さんとは対局しているから、その経験を頼みにしたいところだろう。それに僕としても、今年のA級順位戦で戦うことになる相手だ。ここで彼を研究することは、僕ににもメリットがある。
しかし、僕にとってそれは、副次的な理由でしかない。僕がこの研究会を今行っておきたい理由……それは、名人との対局が近いからだ。先日行われた棋帝戦トーナメント準決勝戦で勝利した僕は、挑戦者決定戦へと駒を進めることになった。そしてそこで待ち構えているのが、かの名人である。今年の名人戦で四連敗した相手。そして、山刀伐さんの研究パートナーでもある。棋風も近い。ここで山刀伐さんを研究することは、間接的に名人の研究にも繋がるはずだ。
待つこと数分、八一はやってきた。お待たせ、と言う八一に、今来たところだと返す。嘘だ。ただ何となく定跡通りに返してみただけだが、言ってから気持ち悪かったかなと思った。
八一が席に着いてズボンの裾を拭っている間に、僕は鞄からビニール盤とプラスチック駒を取り出して駒を並べておく。他のお客さんもいる喫茶店などでは、駒音が響く木製の盤駒は遠慮することが多い。
互いに準備を終えると、いよいよ将棋を始める。まずは10分切れ負けで一局指して頭のウォーミングアップを済ませてから、八一の提案で山刀伐八段の最近の棋譜を並べることになった。山刀伐さんは居飛車中心ながら振り飛車も指しこなし、最新の研究に明るい序盤のスペシャリストだ。序盤で抜け出して、中終盤はそのリードを保って勝つタイプ。棋界随一の研究家とも言われ、その知識量を買われ、名人主催の研究会に呼ばれることになったという。
そんな山刀伐さんの棋譜を、あーでもないこーでもないと検討する。すると唐突に、八一が妙なことを言い出した。
「山刀伐さんと対局して、変なこと言われたことない?」
変なこと? 記憶の中の山刀伐さんの言動を探る。特にこれと言って思いつくことはなかった。
「どんな?」
「ずっと君の事考えてる、とか」
「お前のこと研究してるってことじゃない? 別に変なことでもないでしょ」
「いや、そうじゃなくて」
言いずらそうに八一は眉を顰めている。そして何かを思い出したかのように身震いした。
「なんか、同性愛者……みたいな」
何を言っているんだこいつは。
「お前、先輩に向かって何言ってんだよ」
「マジなんだって! なんというか、狙われてるみたいな怖さがあるんだよ!」
「お前な、仮にそうだとして、今は性のマイノリティにも寛容になろうって時代なんだから。将棋界の顔たる竜王が、そんな同性愛への差別みたいなこと言うんじゃないよ」
もう、ただの木っ端の棋士じゃないんだ。一気に成り上がったこいつからすればまだその自覚も持ち辛いんだろうけど、そろそろ棋界最高位の棋士としての立ち振る舞いを覚えてもらわないと。
「蒼天は、山刀伐さんとの対局時に何もなかったのか?」
「ないよ。挨拶と感想戦以外、なにも喋ってないよ」
というかあの対局はA級昇級をかけた一番だったし。山刀伐さんは投了を告げた後、暫くうつむいたまま動かなかった。悔しさを押し殺していたんだろう。しかし、毅然とした表情で顔を上げてからは、そんな様子を微塵も見せずに二時間、感想戦を行った。尽きることのない変化手順を熱心に検討していた。彼の示す変化に、僕は悉くこちらが有利になる応手を示した。普通だったら、所謂『感想戦で二度負ける』と言われる状況に落ち込むところだ。しかし山刀伐さんは違った。「こんなに若くて強い子が居るなんて……しゅっごいよぉ」と、二十歳以上も若い僕の将棋から何かを吸収しようとしていた。強い人だと思った。将棋もそうだけど、何よりも心が。
「あの人の将棋に対する情熱は凄いよ。棋士として尊敬できる人だ。そんな人に対して、変な噂を流すなよ」
僕の言葉に、八一は戸惑った様子ながらも頷いた。まったく、山刀伐さんがどうしたって言うんだ。
それから数局、山刀伐さんと名人の棋譜を検討して、将棋は切り上げた。今は雑談タイムで、話題は弟子について。彼の弟子の家事スキルが高いこと。毎日の食事が楽しみなこと。それによって竜王獲得後に陥ったスランプから脱出し、今は好調だということ。将棋界では、新婚の棋士が生活の安定によって好調になることがよくあり、新婚ブーストと呼ばれている。それと似たようなものなのかな。
「将棋の才能も凄いし、本当によくできた弟子だよ。そっちはどうなんだ?」
「最近料理の練習を始めたらしい。まだ簡単な物しか作れないけど、この前初めて手料理を食べたよ」
「そんなこと聞いてないって。将棋の事だよ。将棋」
こいつ……自分はさんざん自慢話してきたくせに……。
「この前C1で研修会入りした。Dクラスくらいかなと思ってたんだけど、結構高く評価してもらったみたい」
「おお、女流入りまであと一歩じゃん。マイナビには出る?」
「本人にはまだ聞いてないけど、多分出るね」
マイナビ女子オープン。アマチュアまで広く門戸を開かれた、女流最大級の棋戦だ。アマチュア含む予備予選から始まり、予選トーナメント、本選トーナメントを経て女王のタイトルへの挑戦者を決める。天衣にとって最大の目標である女王位を巡る棋戦だ。当然出場するに決まっている。
「まあ、そうだよなぁ。女流棋士になる最短ルートだもんな」
女流棋士になる最も一般的な方法は、研修会で指定のクラスへ上がること。ただ、それを待たずにショートカットする方法もある。それが、アマチュアも参加できる女流タイトル棋戦で、本選トーナメントベスト8に残ることだ。マイナビ女子オープンは、四つあるその棋戦の一つ。
そういえば、と一つ疑問が浮かんだ。現女王のタイトルホルダーは八一の姉弟弟子の銀子ちゃんだ。もし弟子が挑戦したとしたら、どちらを応援するんだろう?
「もしお弟子ちゃんが挑戦まで漕ぎつけた場合、銀子ちゃんとどっち応援するの? やっぱ銀子ちゃん?」
「え? いやいや俺の弟子まだアマチュアだよ? あわよくばベスト8とは考えてるけど、挑戦まで行くのは流石に夢見すぎでしょ」
まあそうか、と頷く。僕は正直天衣ならもしかして……と思っていたが、身内贔屓が過ぎるのかな。自分の弟子で妹となると、どうも冷静な判断が出来ないみたいだ。
「俺たちにできることは、弟子が少しでも力を発揮できるように導いて、あとは本番で祈るだけさ」
「流石、僕よりほんの少し師匠歴が長いだけある。良いこと言うじゃないか」
生意気だったかな? と言う八一に、二人で笑い合う。ひとしきり笑い終えた後、八一は弟子が待ってるから、と席を立った。
「おう。次は弟子たちも連れてきてやろうね」
「そうだな。まあ、まずはお互い目の前の山を越えてからだな」
「健闘を祈るよ」
「互いにな」
座ったままの僕と立ち上がった八一。ごつ、と拳をぶつけ合って、彼は店を後にした。
女流棋士の昇級・昇段制度に関しては、本作では2018年に変更された新規定にのっとって物語を進行させていただきます。原作とは差異がありますが、ご了承ください。