棋帝戦挑戦者決定戦トーナメントは決勝戦。勝った方が棋帝戦挑戦者に名乗りを上げる大一番だ。しかし僕にとっては、タイトル挑戦以上のものを背負って戦う、プロ棋士としての今後を占う分水嶺になる。相手が、よりにもよって名人だからだ。
この25年間、将棋界はこの人の支配下にあった。月光先生が棋界の覇権を掴みかけた瞬間、彗星のように現れたこの人がその才能の輝きで、新しい世界の秩序を作り上げてしまったんだ。
その長きに亘る絶対王政下でも、常に革命分子は蠢いていた。期待の若手と目されていた若い才能が次々と決起した。しかし彼はその全てを叩き潰し、将棋界の王座に座り続けた。名人の加齢と共に将棋界は世代交代していく。時計の針を進める者を、ずっと将棋界は探している。
そんな中、現在『棋界の次代を担うと目されている期待の若手』の椅子に座っているのが、二人の中学生棋士……僕と八一だ。早熟さこそが才能を測る最大のツールであるこの世界に、史上五人目、六人目の中学生棋士として門をくぐった僕らは、勢いそのままに幾つかの最年少記録を更新した。僕は全棋士参加の棋戦優勝と名人挑戦、八一はタイトル獲得だ。
八一はまだ名人と対局したことは無いけど、僕は名人戦で四連敗で敗れている。その時はまだ言い訳が立った。初のタイトル戦、慣れない九時間という持ち時間、相手が絶対王者であるプレッシャー。でも、ここで負けて連敗を5に伸ばしたら、流石に他の棋士からの見方も変わってくるだろう。――こいつも、かつて多くいた『元期待の若手』の域を出ないんじゃないか?
棋士として生きる上で、他の棋士からの評価や信用は非常に重要な要素だ。価値が無いと見られればVSや研究会にも呼んでもらえなくなるし、終盤が弱いと見られれば対局中の最終盤でクソ粘りされやすくもなる。「自分は自分の負けをだいたい読み切ったけど、自分より弱いこいつなら間違えるかもしれない」……ということ。
僕はありがたいことに『開闢以来の天才』なんて恐れ多い異名を頂いているけど、結果が出なくなれば手のひらなんて簡単に裏返る。ちょっと負け続ければすぐ『元天才』『墜ちた才能』だ。いや、今も名人戦の結果を指して、ネット上で僕をそう呼ぶ人たちも多少はいるらしいけど。
だからこの対局は、僕にとって文字通り試金石になる。僕は自分の価値を主張しないといけない。名人の後を襲うのは自分なんだと。師匠が奪われた棋界の冠を、自分が取り戻すんだって。
『お願いします』
『お願いします』
九頭竜八一はモニター越しに対局者の二人を見つめる。隣には彼の姉弟子である空銀子、検討用の将棋盤を挟んで向かいには玉将のタイトルを持つ生石充が座っている。場所は関西将棋会館の棋士室。東西関わらず公式戦がある日は誰かしら棋士や奨励会員が棋士室で対局中の将棋を検討しているが、女流も含めてタイトルホルダー三人が集うというのは、いつにも増して豪華な顔ぶれと言えた。
将棋は角換わりのオープニングとなった。先手夜叉神の初手2六歩に対して後手名人は8四歩と応じた。この手で戦型選択は夜叉神に委ねられる。互いに角道を開けてから、夜叉神は8八に銀を上がった。角交換に備える手。
ここで名人は数分時間を消費して考える。そして指された手が――4四歩。棋士たちは騒めいた。
「名人が、角道を閉じた!? 雁木!?」
「名人が若手の得意形を避けるなんて珍しいですね……それほど蒼天を恐れているのか、それとも雁木にとっておきの研究があるのか」
通常、名人は対局相手の得意戦法を避けることは少なかった。それは相手の最新研究を吸収するためとも、単にそれで勝てるからとも言われている。
「蒼天くんからしたら予想外?」
「多分想定してなかったんじゃないかと思います。名人戦の時は毎回蒼天の戦型志向に乗ってましたから」
銀子の問いに、八一が答える。その間もパタパタと手が進み、八一は一人で継ぎ盤を操作して盤面を再現する。
「生石さんはどう思います? 名人の角換わり拒否」
モニターをじっと睨んだままの生石に、八一が問いかける。視点を固定したまま生石は答えた。
「名人が主導権を握ったな。仕掛けの権利を握って、既に後手持ちと言っていいだろう」
「あ、いやそうじゃなくて。名人とタイトル戦を戦った生石さんなら、名人の意図もわかるかなと思ったんですけど」
「何が何でも勝つ。そう主張してるに決まってんだろ」
八一と銀子は首をかしげた。この対局、この棋戦にかかっている記録があるのだったかと記憶に検索をかけるが、ヒットする情報は何もなかった。
「それだけ、この棋帝戦に懸けてるってことですか?」
短く強く息を吐いて、生石は小さく首を振った。
「潰しに行ってるんだ、蒼天を。今のうちに叩きに叩いて苦手意識を植え付けて、若い芽を摘んでおこうってな。名人は今まで何人もの将来を嘱望された若い棋士と対戦しているが、ここまで明確に意思を見せたのは、初めてだ……むかつくぜ」
どうして、と八一は言った。複数の意味を込めた問いかけだった。何故名人が蒼天を潰そうとするのか。何故生石は怒りを抱いているのか。その怒りは何に向いているのか。しかし生石はその問いに答えなかった。やはり画面を睨んだまま、口を真一文字に閉じている。
八一もモニターに視線を移した。史上最強と呼び声高く、自身の憧れでもある棋士と、幼少期からずっと背中を追いかけてきたライバルが、盤を挟んで相対している姿が映し出されている。生石の言葉を飲み込んで……瞬間、胸に重い粘性のなにかが流れ込むような錯覚を受けた。目を逸らしちゃいけないと思った。胸を潰すような、鈍い痛みに耐えながら。
「ごじゅうびょう……いち、に、さん」
対局室に、秒読みの声が響く。僕も名人も、持ち時間は全て使い切った。互いに1分将棋となった中、僕の玉は盤の中央に円を描くように逃げ回る。荒波の海に放り出されたかのように、上も下もわからないまま空気を探して藻掻いている。
僕はめいっぱい時間を使って考えているのに対して、名人はほぼノータイムだ。僕に思考時間を与えてくれない。酸素はどこだ。藻掻く。藻掻く。苦しい。負けたくない……。自分の読みとカンだけを頼りに、祈りのような手を重ねていく。
自玉を敵陣に深くにトライしたいが、後手は上から圧し潰すように金銀で圧力をかけてきて、入玉を許してくれない。浮き上がりかけた僕の玉を、下へ下へと沈められる。始め自陣左翼にいた玉は、盤中央に放り出された後自陣右翼に着地した。入玉は出来なかったけど、まだ駒が残ってる右翼陣に居れば、まだ戦える! ここまでノータイムだった名人の指し手が止まる。ここで考えるということは、直前の局面ほど自分が優勢とは思っていないということか? その考えが、僕に粘る力をくれる。
名人が僕の銀を拾っている間に、僕が敵陣に角を打ち込む。次に相手の急所に馬を作る狙いだ。対応する名人の手は、迷ったように空中を彷徨った。着手は3三銀。手堅い受けの、激辛な手。まだそっち優勢なんだから攻めてきてくれよ!
後手の玉頭に歩を打って、何とか攻めを繋げる。敵玉を中段まで引っ張り出しはしたが、ここから手が続かない。脇息を引き寄せ、抱きしめるように体を預ける。自玉はまだ不安定だ。ここで何か、何かないのか……。
瞬間、雷に撃たれたかのような衝撃。体が跳ねる。頭が一瞬で真っ白になる。眩んだ思考が少しずつ戻るにつれ、浮かんだ順に間違いがないか確認する。手の震えをなんとか押さえつけ着手する。歩頭に桂を打つ、2五桂。同歩からの3七桂が、詰めろを掛けながら自玉の上部を守る攻防の一手! 受けられるも連続して詰めろの手が続く。これは逆転したはず!
名人は駒台に手を伸ばす。投了の合図だった。反射的に僕も頭を下げ返し、パンクした浮き輪みたいに脇息にへたりこむ。1分将棋で何手指したんだ? 勝った喜びなんて感じられないくらいの、とんでもない疲労感……。
疲労困憊の僕と違って、名人はすぐに感想戦をしたがった。この人、どんな体力してるんだよ……。ただ、二人で対局を検討している間、名人は本当に楽しそうで、将棋への深い愛が伝わってきた。この人が長年トップに君臨し続けられる理由を垣間見た気がした。将棋は愛情。
感想戦を終え、上位者の名人が駒を仕舞い、両者一礼する。未だに笑う膝を一喝してなんとか立ち上がろうとする僕に、名人が手を差し伸べてくれた。お礼を言いながらその手を取って立ち上がる。正面の名人と目が合った。ふと、あの名人と向かい合って手を握っているというシチュエーションに気が付いて妙に緊張する。
何故かドギマギしている僕に、名人の方から口を開いた。――これからも面白い将棋を見せてください。また指しましょう。
反射的にはいと答えるしかなかった僕に、名人は満足げな笑みを浮かべて手を放し、対局室から去っていった。僕が将棋会館から出たのは、その数十分後だった。溢れそうになる様々な感情が、落ち着くのを待たなければならなかったから。