■
「ネプギア、新しい女神になりなよ」
突如としてネプテューヌから放たれた言葉に、ネプギアはプリンの蓋を開ける手を止めた。
「……お姉ちゃん、何言ってるの?」
「だから、そのままの意味だよ。私はもう、女神じゃなくていい」
うつむいたままで、ネプテューヌは小さく呟いた。
どれだけ時間が経っても変わらないプラネテューヌの街並みと、それとは対照的にボロボロになっていく自らの身体。その乖離の果て、ネプテューヌは遂に限界を迎えていた。
窓の外のプラネテューヌは、いつまで経っても変わらない。自分がどれだけ廃れようと、苦しもうと、街は呆けたように平和なまま。このいつも通りの平和は、自信を嘲笑っているかのようだった。悔しさや寂しさはもう通り越した。あるのは、ただ事実だけ。
「最近さ、気づいたんだ。私って、この国にいらないんだって」
「……どうしてそう思ったの?」
「だって私がいなくても、プラネテューヌっていう国は平和だから。女神っていう存在がいなくても、この国の人々は幸せに暮らせるから。国民の皆は、私を必要としていないから」
語るネプテューヌの顔には、うっすらとした笑みが浮かんでいた。それが自嘲しているものなのか、はたまた彼女に残された最後の元気なのかは、妹であるネプギアも分からなかった。
「別に必要とされたい、ってわけじゃないよ。女神がいなくてもみんなが幸せに暮らしてくれるなら、私はそれでいいって思ってる。皮肉とかじゃなくて、これは私の本心」
「………………」
「でもさ、これから女神が必要とされる時が来るかもしれないよね? その時までに、私の体が元通りになる保証なんてどこにもない。あのね、私が怖いのは必要とされないことじゃなくて、この国の平和が守れないことなんだ。ネプギアなら、分かってくれるよね?」
「お姉ちゃん、でも……それは」
「だから、これはお姉ちゃんからのお願い」
残された左手をネプギアの頬へと添えながら、ネプテューヌが告げる。
「ネプギア、あなたがこの国の新しい女神になって」
ありもしない希望に縋り続けられるほど、ネプテューヌも愚かではなかった。それは諦めと呼べるのかもしれない。けれど意地を通し続ける覚悟なんて、今の彼女にあるはずもなかった。
もう、ネプテューヌは終わったのだ。女神として必要とされなくなった。絶望するであろうその事実を、ネプテューヌはすんなりと受け入れられた。一ヵ月のベッドの上で寝たきりのまま、変わらないプラネテューヌの風景を眺め続ければ、それは嫌でも受け入れさせられた。
「……お姉ちゃん」
やがて長い沈黙のあと、ネプギアはその手を取って。
「そんなの、絶対に嫌だよ」
「…………え?」
茫然とするネプテューヌの手を、強く振り払った。
「どう、して」
「どうして? そんなこと決まってるよ。お姉ちゃんが居る限り、この国の女神はネプテューヌで、私はその妹のネプギアだから。それ以外に理由なんて、何もいらない」
言い渡されるネプギアの言葉を、ネプテューヌはひとつも理解できなかった。自分を見降ろすネプギアの視線がひどく冷たくて、強い断絶を感じさせた。けれどやはり、その理由は分からなかった。今のネプテューヌにも、以前のネプテューヌであっても、このネプギアの抱いている感情は理解できないように思えた。
「分かんない……分かんないよ! 私だけの問題じゃないんだよ!? プラネテューヌ全体の問題のはずなのに! ネプギアは、プラネテューヌがどうなってもいいの!?」
「よくないよ。だからこそ、私はお姉ちゃんに早く治ってほしいって思ってるんだ」
「なんで!? なんでみんな、私に女神をやらせようとするの! 私はもう女神になれないんだよ! もう女神じゃないんだよ、私は! それなのに……どうして……!」
「……私の知ってるお姉ちゃんは、絶対にそんなこと言わない!」
振り絞ったネプギアの叫びに、ネプテューヌが息を呑む。どうしてか、涙が込み上げてきた。零れ落ちそうになる涙をすんでのところでこらえて、潤んだ瞳でネプギアのことを見つめる。交錯するその菖蒲色の瞳からは、大粒の涙がぽろぽろと流れ落ちていた。
「……ごめんね。怖いよね、お姉ちゃん。でも私、お姉ちゃんのこと信じてるんだ」
「信じてるって……何を?」
震えるネプテューヌの声に、ネプギアは。
「お姉ちゃんがこれからもずっと、女神でいてくれるってこと」
それだけ告げて、部屋から去っていった。
■
夜のプラネテューヌは、気味の悪いほどに静かだった。
「……っ、く…………う、ぅっ……」
暗闇に包まれた路地裏に、かつん、かつんと無機質な足音が響く。冷たい壁に体を預けながら、ネプテューヌは夜闇に包まれたプラネテューヌを、足を引き摺りながら歩いていた。
逃亡だった。後ろ指を指されることも、罵詈雑言を浴びることも覚悟していた。それくらいで許されるのなら構わない。今のネプテューヌに、再び立ち上がる意思などなかった。
ただ、ネプテューヌは一人になりたかった。自らが必要とされていないことを証明するために。それはネプギアへのささやかな反抗だったのかもしれない。けれど、この暗闇に身を投じたら、そんなことはどうでも良くなった。この孤独がどうしてか、とても心地よく感じられた。
「ふぅ……」
額から流れる汗を拭いつつ、ネプテューヌが地面へと座り込む。月明かりに照らされているプラネタワーは、もうかなり遠くに見えていた。これもリハビリの成果だと思うと、ネプテューヌは何とも言えない気持ちになった。不思議と口元には笑みが浮かんでいた。
再び壁に手をつきながら、よろよろと立ち上がる。足音代わりの金属音が響き始めた。
行く宛があるわけではなかった。ただ、一人になりたいだけ。逃げ出してしまいたいだけ。
そうして彷徨うネプテューヌの元に、白い光が照らされた。
「……コンビニかぁ」
そういえば喉が渇いた気がする。腹も夕食を拒んだので空っぽだった。
しばらくの思考の末、ネプテューヌは覚束ない足取りで、その光の元へと歩いて行った。そんな彼女の目の前を、人工の光につられてゆらゆらと跳ぶ蛾が、ゆっくりと横切った。
「いらっしゃいま……せ」
店内に入るや否や、バイトと思わしき男の店員が変な視線を送ってくる。それもそうか、こんな変な客が来れば嫌でもそんな顔になるか。なんてことを考えながら、ネプテューヌが店の奥へと歩みを進めていく。そこでいつもの缶ジュースを手に取ろうとして、手を止めた。そして少しの思考ののち、そのすぐ横にある缶へと手を伸ばす。ラベルには20歳以下の飲用を禁じる印が記されていた。けれどそんなものを無視して、ネプテューヌはレジへと向かった。
こと、と音を立てながら、カウンターへ缶ビールを立てる。
「あの……」
「……なに?」
「いえ、ええと……」
困惑している店員に苛立ちながらも、ネプテューヌがその後ろの文字盤へと目を向ける。
「……76番」
「え?」
「だから、76番。赤いの」
店員が振り返っている間に、ネプテューヌがカウンターの横からライターを取って、缶ビールの横へ置いた。そこに煙草を取った店員が確認を取ってくる。正直、吸えればなんでもいいネプテューヌは曖昧に返しながら、パーカーの中から財布を取り出した。
金は足りた。レジ袋を左腕に通しつつ、そこでふと、ネプテューヌが店員へと振り返る。
「……ねえ」
「はい」
「プラネテューヌの様子はどう?」
すると彼は、思い詰めたような表情で。
「ネプテューヌ様を見なくなってから、みんな元気がなくなったように思います」
初めて、ネプテューヌは自らの望んでいた答えを手に入れたような、気がした。
「……そっか。ありがと」
「はい」
「その……恥ずかしいけど、このこと誰にも言わないでくれる?」
「分かりました」
彼は賢かった。事情を聴いても、それは人が理解できないことなど分かり切っていた。
そこで会話は終わる。自動ドアの開く音を背後に、ネプテューヌは明かりから遠ざかる。そして続く暗闇へと一歩を踏み出すと、また白い光に釣られた蛾が、彼女の前を横切った。
■
誰もいない路地裏、室外機の隣へとネプテューヌが強く腰を下ろす。
「……どーしよっかな」
ビニール袋の中を覗きながら、ネプテューヌがそんな言葉を漏らす。心の中には迷いがあった。躊躇いかもしれない。そうした葛藤が産まれたこと自体、今の彼女にとっては奇跡のようなものだったが、ネプテューヌ自身はそれに気づけないでいた。
しばらくの沈黙。そして次に聞こえたのは、ビニール袋を漁る音。
「……ま、いっか」
どうせここまで来たのだ。なら、行くとこまで行けばいい。普段の活気が戻ってきたような気がした。けれどその方向があからさまにおかしいことに、ネプテューヌは気づけなかった。
両足で缶を挟みつつ、左手でゆっくりと栓を開ける。ぷしゅ、と弾ける音がした。
「おー……ほんとに音って鳴るんだ」
なんて適当な感想を言いつつ、ネプテューヌが銀色の缶をぐい、と煽る。
直後に感じたのは喉が焼けるような熱さと、苦み。同時に腹の底から湧き上がる吐き気。
「お……ェ、っ、げほ! うッ……! ッは、あぅ……っ!」
拙い嗚咽と荒い水音が、路地裏に響き渡る。
ネプテューヌは、吐いた。
「げッ、ほ……っ、なに……これ」
口元を袖で拭いつつ、もう一度確かめるように、缶ビールを喉の奥へ。やはり込み上げてくるのは苦しさと嘔気。痛む胸元を抑えつつ、ネプテューヌは口に湧いた液体を思いっきり吐いた。
訳が分からなかった。けれどただ一つ言えることは、酒をこの体が受け付けなかっただけ。それが今の体の不調と関係していることは、ある程度理解できた。胃の中に何も入っていないことが、不幸中の幸いだった。
「……っ、いらない! こんなの!」
ひりひりと痛む喉を震わせながら、まだ半分以上も残っている缶を壁へと叩きつける。跳ねた酒が少しだけ服に飛び散ったが、今のネプテューヌにはそれすら腹立たしく思えた。
怒りのままに壁へ手を叩きつけるが、痛みが先に来る。息を荒くしながら、ネプテューヌは再び袋の中へと手を入れて、煙草の箱を取り出した。
「なんで、っ……なんで……なんなのさ、もうっ!」
ぶつぶつと苛立ちのままに呟きながら、ライターを何度も点ける。そうして煙草に火が灯ると、白い煙が立ち始めた。それと同時に胸が焼けるような、独特の匂いが漂ってくる。それは、いくらか昂っていたネプテューヌの心を落ち着かせてくれた。
ちりちりと燃える音が、どこか安らぎを与えてくれる。暗闇の中の微かな光が、ネプテューヌの瞳の中で揺れ動いていた。その灯火をぼうっと見つめながら、彼女はぽつりと。
「……なにやってるんだろ、私」
その瞬間、眩い光がネプテューヌのことを照らす。
「……ネプテューヌ?」
果たして、明かりの主は懐中電灯を持ったブランだった。なぜこの時間に自分の国でもないプラネテューヌにいるのか、しかもどうしてこんな場所を訪れているのか。様々な疑問がわき上がり、どれから質そうかと迷う彼女より先に、ブランがネプテューヌの胸倉を掴み上げる。
「お前っ! こんなところで何してる!」
「何、って……」
口元の煙草をくい、と揺らしながら、視線は地面に転がったビールの缶へ。
それを見た瞬間、ブランはネプテューヌの咥えている煙草を素手で奪い取る。じゅう、と火が燃え尽きる音。そして開いた彼女の手には、小さな小さな火傷の痕だけが残っていた。
「……自分が何してるのか分かってんのかよ」
「さ、あ」
「さあ、だと!? じゃあお前、意味も無しにこんなことしてたのかよ!」
ネプテューヌは何も答えない。沈黙が肯定となって、ブランへ返っていった。
ただネプテューヌは、自分の体がひどく震えていること、それだけしか分からなかった。
「ごめ、ん……ね」
「謝ってどうにかなることじゃねえだろ!」
「でもさ、私さ……わかんなくて、なんも、なーんにもわかんなくて……」
ぽろぽろと言葉が零れ落ちていく。震える彼女の声を、ブランは遮ることもせず、ただ黙って聞いていた。そうでもしないと、彼女はこのまま夜風に吹かれて、消えてしまいそうだった。
「ねえ、ブラン……」
「なんだよ」
「私って結局、なんだったのかな」
見上げたネプテューヌの瞳には、曇りのない夜空が映っている。かつてこの身一つで駆けていた、プラネテューヌの空。けれど今は見上げることしかできない、もう二度と手の届かないもの。伸ばそうとした腕さえも、今はどこかへ消えて行ってしまった。
やがて長い沈黙のあとに、ブランが口を開く。
「あなたは、ネプテューヌ。それだけよ」
そんな彼女の言葉を最後に、ネプテューヌの意識は途切れた。
■
次にネプテューヌが目を醒ましたのは、ルウィーの教会だった。
「……あれ?」
窓の外に張り付く雪の結晶が、それを教えてくれた。ベッドから起き上がると、その傍にいつも使っている杖が立てかけられていることに気づく。それを手に取りながら、ネプテューヌは窓の外へと近づいて、その光景を意味もなく眺めていた。どうしてか、こうしていると心が落ち着いた。自らの来ているのがいつものパーカーではなく、緑の病衣だと気づいたのと、誰かが部屋に入ってきたのは、ほとんど同時った。
「あ、お目覚めですか?」
声の主はフィナンシェだった。赤いミニスカートのメイド服に身を包んだ、茶髪の長髪を持った少女。特に交流が深いわけでもなかったが、ルウィーを訪れた際に何度もその姿を目にしていたので、名前だけは憶えているといった具合だった。
「……お、おはよ」
「はい、おはようございます」
拍子抜けたネプテューヌの挨拶に、フィナンシェは笑顔で答えてくれた。
「朝食を運びにまいりました。片手で食べられるように、サンドイッチを」
両手に抱えたトレーをベッドの傍の机に置いて、彼女が頭を下げる。
「もうしばらくすると、ブラン様がお見えになると思いますので」
「え?」
「それでは」
ネプテューヌの疑問すら置き去りにして、フィナンシェは早々と部屋から出て行ってしまった。足音は遠ざかり、やがて何も聞こえなくなる。トレイの上に置かれた数切れのサンドイッチが、ネプテューヌのことをじっと見つめているような気がした。
「……まあ、いっか」
そのうちの一切れを手に取って、ベッドに腰を下ろしてから、ネプテューヌはサンドイッチを食み始めた。昨日の夜から何も入れていない胃には、よく染みた。五分もしないうちにそれらを食べ終えたネプテューヌは、特にすることもないので、ベッドの上に寝転んだ。
いつもならデザートにプリンを持ってきてくれるネプギアも、食べた後に寝ないでください、と口うるさくするイストワールも居ない。静寂が寂しく思えた。窓の外ではしんしんと雪が降っている。
「入るわよ」
声が聞こえてきたのは、十分ほどが経ったころ。開かれた扉の先に立っていたのは、ブランだった。それと同時に昨日の夜の出来事が、次々とネプテューヌの脳裏に蘇る。そしてこちらが質す前に、ブランは口を開いた。
「三日よ」
「……いつから?」
「あれから」
深く言葉は交わさなかったが、ネプテューヌは何となく理解していた。あの夜にあったことは忘れろと、他の誰にも口にするなというブランの強い意志も、流れる沈黙から感じ取った。
ため息と共に、ブランが続ける。
「ネプギアが連絡してくれたの。勿論、ノワールやベールにもね。それでたまたま、私が見つけただけ。良かったわね、見つけたのが私で。ネプギアに見つかってたら大変だったわよ」
「……ありがと」
「礼ならあの子に言いなさい」
けれど言葉とは裏腹に、ネプテューヌは言い表せない重苦しさを感じていた。自分にそこまでの価値はあるのだろうか。女神という責任を放棄して、酒や煙草に逃げようとした自分を、どうして救おうと思ったのだろうか。いっそのこと、そのまま見つからなければよかったとまで思う。そうすればネプテューヌの願った通り、ネプギアが新たな女神になるはずだったのに。
泥の底へと沈んでいくような思考だった。そして、ネプテューヌが吐き捨てた言葉は。
「そのまま、放ってくれればよかったのに」
ブランは、何も答えなかった。
「……みんなには?」
「ネプギアとイストワールにはもう連絡してあるから、心配しなくていいわ。あっちはあっちで上手くやってるみたいだし。まあ出来るだけ早く返せ、って言いたそうだったけど」
「返せって……どういうこと?」
「しばらくの間、あなたを
言いながら、ブランが立ち上がろうとしたネプテューヌの体を、ベッドへと押し戻す。
「元々、イストワールから個人的に頼まれていたの。もしネプテューヌの体に何かあったら、力を貸してほしいって。それにルウィーの書庫になら、今のあなたの体を治すためのヒントがあるかも、ってね。多分あの子、あなたがこうなるってこと分かってたんじゃないかしら」
「……無駄だよ、そんなことしても」
ぼそりと、吐き捨てるようにネプテューヌが漏らす。
「あれからずっと、何もなかったもん。もうダメなんだよ、私は。女神に戻ることなんてできない。ずっとこのまま、もうまともに生きることもできなくて……死んじゃうんだよ、たぶん」
「そう。なら、あなたは勝手にそう思っていればいいわ」
残されたトレーを回収しながら、ブランがそう答えた。突き放すような言い方だった。その声にネプテューヌはどこか寂しさを覚えていたが、それを口にすることなど、できなかった。
「思い直すなら、好きな時に思い直しなさい。それまで私は待ってるから」
そんな言葉を残して、ブランが部屋を去っていく。
やがて眠気の訪れを感じたネプテューヌは、ゆっくりと目を閉じた。
■
聞こえは陳腐だが、状況は入院に似たようなものだった。
ある程度まではルウィーで療養し、その間にプラネテューヌでシェアを集めて、規定量に達したらネプテューヌの体へと投与する。長い時間が要った。だがブランの協力のお陰で、今ネプテューヌの体に存在するシェアの減少量は、プラネテューヌに居た時よりも少なくなった。つまりプラネテューヌに居た時よりも、ルウィーに居る方が、ネプテューヌの体は楽になっていた。
基本的にはベッドの上での生活だった。食事は毎回フィナンシェかブランが、たまにロムとラムを連れて運んできてくれる。さすがにネプギアのように食べさせてはくれなかったが、片手でも問題なく食べられるようなものを持ってきてくれた。
歩く練習には毎回、ロムとラムが付き合ってくれた。というより、練習というのを口実に近くのゲームショップやコンビニに寄って、欲しいものをねだるようなやり方だった。病人にも容赦ないなと思ったけど、ネプテューヌはそれを口に出さなかった。彼女らの純朴な笑顔を見れば、そんなことは忘れられた。このルウィーの生活の中での、唯一の安らぎだった。
「食事、いつもの場所に置いておくわね」
また朝が来る。窓の外の雪を眺めていると、ブランがそう言いながら、トレーを運んできた。朝食はどうやらサンドイッチらしい。おそらく献立を考えるのも面倒になってきたのだろう、三日間連続で同じ内容だったが、ネプテューヌは特に気にしなかった。
「ちょうど二週間だけど」
いつもならそのまま仕事に戻るブランが、そんなことを口にした。
「どう? そろそろ戻りたくなった?」
問いかけに、ネプテューヌはすぐには答えられなかった。
曖昧だった。戻りたくないと言えば嘘になる。だが、そこで自分が求められていないのなら、戻る必要も感じられなかった。プラネテューヌが平和であれば、それでいいように思えた。
やがて。
「どうして、ブランは私に女神になってほしいの?」
ネプテューヌの問いに、ブランが返した答えはこうだった。
「あなたがネプテューヌだから。私の知る、プラネテューヌの女神だから」
その意味をネプテューヌは真に理解することができなかった。だが、彼女はそれでいいと言ってくれた。それだけでネプテューヌはどこか救われたような気がした。
「みんな同じよ。きっとあなたを待ってる。鬱陶しいくらいに元気で、調子に乗りすぎて失敗するけど、たまに格好よく思えるような、そんないつも通りのネプテューヌを」
「……ブラン、私のことそう思ってたの? ちょっと恥ずかしいんだけど……」
「そうやって言い返せるくらいなら、もう大丈夫そうね」
微かに頬を染めるネプテューヌに、ブランは微笑みながら返した。
「とにかく今は休みなさい。休む理由がまだ分からないようなら、私がこれだけ頑張ってるんだから、あなたもせめて元気になるくらいは頑張りなさい。自分のためでなくてもいいわ。あなたに元気が戻ってくれるなら、いつものネプテューヌに戻ってくれるなら、私はそれでいいから」
「ブラン……」
「それと、ロムとラムに付き合ってくれてありがとう。あの子たちも、あなたと居ると楽しいみたいよ? だから次は、私も楽しませてもらえるかしら」
そう告げてから、ブランは部屋から立ち去っていく。
「……いつも通り、かあ」
一人でそう呟きながら、ネプテューヌがサンドイッチを手に取った。
■
髪が伸びた。
「……むぅ」
背中どころか、腰に届くまで。そろそろ鬱陶しく思えてきたが、かといって髪を切る手段も、上手く似合うように整える腕もない。それに何より、今は片腕しか使えないのだ。手詰まりの状況にネプテューヌはため息を吐きながら、紫の髪を手のひらで持ち上げる。
ここまで髪を伸ばしたことはあまりなかった。まず邪魔であるし、それに必要以上に髪を伸ばしても、ネプギアが嬉しそうに散髪の準備をするから、伸ばそうにも伸ばせなかった。
髪がこれだけ長い状態何て久しぶりで、それこそ、女神に変身したときくらいで。
「いつも通り……」
短く呟いてから、ネプテューヌは自分の髪を弄り始めた。
耳の後ろあたりで髪を纏めてから、三つ編みの形に整えていく。片手では幾分か編みづらくて、形も不揃いでずいぶん時間もかかったけれど、なんとか仕上がりはした。頭を軽く振ると、結った髪が尾のように揺れる。その感覚が、どこか懐かしくも思えた。
もう片方も同じようにしようかと思ったけれど、予想以上に手間がかかったせいで、思うに作業に入れなかった。かといってこれだけ苦労して編み上げた髪を解くのも惜しいし、けれどこのままでは違和感しかない。どうしたものか、と思い詰めていると、唐突に扉の開く音がした。
「ネプテューヌ?」
声の主は、こちらへ怪訝な目を向けるブランだった。
「あ」
「髪……それって」
「いや、ええと……その、さ」
何か言い訳を並べようと思ったが、特に何も思いつかない。そもそもの行為自体に意味がなかったのだ。言い淀むネプテューヌに、ブランは静かに笑いながら、その傍へと腰を下ろした。
「いいわ、貸してみて」
「でも」
「いいから」
ネプテューヌの否定を無視して、ブランが彼女の髪を手で掬う。
「あなたがうらやましいわ。変身したら髪が伸びるんだから」
「あー……そっか、ブランはあんまり変わんないもんね」
「だから自分の髪はあまり弄ったことが無いの。まあ、これが気に入ってるからいいけど」
「……うん、私も好きだよ。ブランは短い方が似合うと思うな」
「そう? そうやって褒められたことはあまりないから、嬉しいわ」
恥ずかしそうに笑いながら、ブランがネプテューヌの髪を編んでいく。
「……髪、弄ったことないんじゃないの?」
「自分のは、ね。たまにラムに言われたりするから、付き合ってあげてるの」
「そっか。そういえばネプギアもたまに髪型変えるけど、私には言ってこなかったな」
「あの子はあの子でしっかりしてるから。髪くらいは自分で整えられるでしょ」
そこで会話は途切れた。黙々と自らの髪を整えていくブランを、ネプテューヌはじっと見つめていた。一度だけ彼女がこちらを向いたから、すぐにばつが悪くなって目を逸らしたけど、しばらくしてからまたその姿を見つめていた。ブランは別に、怒っているような様子ではなかった。
やがてブランが手を止めたかと思うと、窓際の机の引き出しから鏡を取り出して。
「どうかしら? 結構似せられたと思うけど」
そこに映るのはプラネテューヌの女神の姿だった。もう二度と成ることはないと思っていた、けれど心のどこかで成ることを望んでいた、ネプテューヌの姿だった。
鏡へと手を伸ばす。ブランは無言でそれを渡してくれた。
「ほら、これがあなたよ、ネプテューヌ。たとえ変身できなくたって、あなたはプラネテューヌの女神なの。だから、無理に振舞わなくても大丈夫。あなたは、そのままのあなたで」
そこで初めて、ネプテューヌはブランの言葉を理解できた、そんな気がした。
「……そっか、私は、ネプテューヌ」
「そう」
「女神に戻る必要なんて、なかったんだ……私は、私にしかなれない。変身してもしなくても、私はプラネテューヌの女神のままで……皆に必要とされなくても、私はきっと……」
その在り方は、愚かと言えるのかもしれない。けれどその在り方こそ、女神の本質なんだろうと、ネプテューヌは信じられた。ならばたとえ愚かであろうとも、ネプテューヌはその在り方を全うし続けなければいけないと、いつも通りのネプテューヌで有らねばならないと、そう思えた。
「やっと気づいてくれたようで何よりだわ」
「ブラン……」
「それに、堕ちそうな時は一人で落ちるんじゃなくて、誰かに手を伸ばしなさい。あなたのことだから、その手を取ってくれる人は沢山いるでしょう? 私だって、その中の一人だもの」
改めてブランの顔を見上げると、彼女はとても柔らかい、優しい笑みを浮かべていた。
「おかえりなさい、ネプテューヌ」
「……うん、ただいま!」
彼女の言葉にネプテューヌはいつも通りの、屈託のない笑顔でそう返す。
いつしか雪は上がり、窓からは淡い陽光が差し込んでいた。
■
ネプテューヌがルウィーから戻って、数ヵ月が経ったころ。
「……んーっ、今日もいい天気!」
プラネタワーの頂上、ネプテューヌがそう叫びながら、プラネテューヌの街並みを見降ろした。
髪はいつも通り短く切った。右腕もシェアの力で元通り。杖も、もう要らない。たとえいつものように間抜けをしても、変身して空を飛べば、すぐにここまで登って来れる。そんなことで変身したら、またイストワールに叱られそうだけど。
なんてことを考えていると、非常階段の方から足音が聞こえてくる。その方向へと目をやると、果たして姿を表したのはネプギアだった。
「お姉ちゃん、またお仕事サボってるの?」
「いやー? ただ休憩してるだけだよー。何事も適度な休みが大事だからねー」
「そのセリフ、さっきも聞いた気がするんだけど……」
気のせいだよー、なんて適当に返しながら、ネプテューヌが吹き抜ける風へと身を寄せる。
その時にふと、たなびくネプギアの髪が視界に映った。
「そうだ! ねえねえネプギア、こんど髪型弄らせてよ!」
「え? 別にいいけど……急にどうしたの?」
「こんな綺麗なのに、飾らないのも勿体ないって思ってさ。お姉ちゃんとしてはやっぱり、妹にはお洒落とかもっと楽しんでほしいって思う訳ですよ!」
「そんな、綺麗だなんて……うん、分かったよ」
「それにネプギア、たまにポニテとかにするじゃん? 実はアレ私好きだからさー、ちょっと見てみたくなっちゃって。実はそっちの方が本音だったりするのかな」
「もう、お姉ちゃんったら……」
そうやって顔を赤らめながら、ネプギアは両手を頬に当てて。
「でもお仕事はちゃんとやってね?」
「えー」
「えー、じゃないよ! いーすんさん、ものすごい怒ってたからね!」
一転して起こり始めたネプギアに、ネプテューヌもはいはい、なんて適当に返す。
「ほらお姉ちゃん、早く戻ろう?」
「んー……」
そこでネプテューヌは唐突に、あることを思い出して。
「ねえねえ、ネプギア」
「どうしたの、お姉ちゃん?」
「ネプギアはなんであの時、私を探してくれたの?」
単純な興味だった。あの時のネプテューヌはネプギアに強く当たってしまったから、自分がどうなっても放っておかれると思っていた。けれど現実はそうではなくて、ネプギアはネプテューヌの異変に気付き、その日のうちにブランや他の女神へと連絡を入れてくれた。
「ネプギアが候補生じゃなくて、女神になれるチャンスだったかもしれないのに。どうして?」
もしかすると、ネプテューヌはその答えを知っているのかもしれない。でも、彼女の口から聞きたかった。我儘だと言われるだろうか。でも、そう言われるのには慣れていた。
やがてネプギアはきょとんとした表情を浮かべたかと思うと、すぐに口を開く。
「だって、私にとっての女神は、お姉ちゃんしかいないもん」
言い渡されたその言葉は、ネプテューヌの心のどこかに落ち着いた。
「そっか……うん、そうだよね」
呟きながら、ネプテューヌはくるりと振り返って、
「私の名前はネプテューヌ! このプラネテューヌの、たった一人の女神だよ!」
いつも通り、変わらぬプラネテューヌの街並みへと向けて、高らかに言い放った。
■