この話は本編の前日譚、夜宵がライダーメイジーになるまでを描いた、仮面ライダーWでいうところのビギンズナイトに相当する物語となります。本編と進行度合いをある程度リンクさせたいのでこちらも更新頻度はかなり低くなってしまうと思いますが、どうかお付き合い頂きますよう、お願いいたします。
それでは本編スタート!
むかーしむかーし、さらわれていたおんなのこがかえってきました
彼女は走っていた。
土砂降りの外を、身に纏っている白かった筈の患者衣を、裸足を踏み出す度に跳ねる泥と雨水で汚しながら。
無我夢中だった。
どうやって、自分と親友が監禁されていたあの場所から抜け出せたのか、覚えていない。抜け出した後の、その道順も今となっては定かではない。それどころか、自身がその監禁場所で何をされていたかさえも。
確かなのは、自分でも何が理由で湧き上がっているのか分からない恐ろしさに突き動かされるまま、時に転んだりしながらも必死に足を動かしていたという事。そして、気づけばいつの間にやらアパートの一室である自宅の扉の前に辿り着いていたということだ。
扉横に備えられたチャイムのスイッチを押そうと伸ばした右手が、酷く震えた。
そのせいで人差し指がなかなかスイッチを捉える事が出来ず、唯でさえ全速力で走っていた彼女の息が募る焦燥によって更に荒くなった。
それでも何とかスイッチを押し込み、チャイムが鳴る音が扉越しに聞こえて来た時には、引き攣った口を出入りしていた呼気にも安堵の息が混じりもした。
暫くして、はーい、という応答と共に扉の奥から、パタパタ、というスリッパの鳴る音が近づいて来る。
そうして、扉を隔てたすぐ先まで辿り着いたスリッパの音が止むや、チェーンロックが掛かったままの扉が僅かに開けられ、そのスペースからスリッパの主がその顔を覗かせた。
青み掛かった優し気な瞳、瞼の上で切り揃えられた淡い茶髪、若々しく穏やかさを感じさせる面持ち。
愛おしくて、会いたくて堪らなかった、母の顔が。
その顔を目にして、漸く、少しずつ、顔の引き攣りが、体の緊張が、心を満たしていた恐怖が、解消されていく。
対照的に呑気な視線を向けていた双眸を見る見るうちに見開いていった母が、すぐさまチェーンロックを外し、壁に衝突してけたたましい音が出る事も構わず、力任せに扉を全開にする。
そうして、エプロン姿の全身を顕わにした母は、目の前の事態を受け入れるのに時間が必要だったのか、暫く玄関で呆然と立ち尽くしていた。
が、剥かれたその目が眉間と共に歪んだかと思いやそこから涙が流れ落ち、遂には倒れ込むようにその場に立っていた彼女に抱き着き、号泣し出した。
濡れそぼっていた患者服から水や汚れがうつる事も構わないとばかりに、痛みを覚える程に強く、固く抱き締めて来る母のその腕や体から、様々なものが冷え切っていた彼女の身体へと染み渡って来る。
心地良い温もり。
懐かしい匂い。
サラサラとした髪の感触。
何もかもが待ち望んでいたものだった。
何もかもが、攫われたあの日から永遠に失われてしまったのではないかと不安になっていた。
半ば諦めかけていた。
二度と会えないのではないかと思っていた最愛の母親と、やっと再会できた。
気づけば、彼女もまた決壊したダムのように、小刻みに震える母の体を抱き締め返して、泣き叫んでいた。
この時ばかりは、置いてきてしまった親友の事は彼女の頭には無かった。
故に、その腰に巻かれたままだった
親友――須藤 沙也加と共に消息を絶ったその日から、およそ一ヵ月。
彼女――星観 夜宵が待ち焦がれて止まなかった我が家への帰省が、ようやく叶った瞬間であった。
帰って来た夜宵を待っていたのは、焦がれて止まなかった母と我が家だけでは無かった。
まず、彼女の帰還の報を受けた警察からの聴取だ。
家に辿り着いた翌日、自分と沙也加、それからあの場へ自分達が赴く理由であった学校の先輩の九条を含む、数名の人物の捜索を行っていたという警察の人間が彼女の元を訪れた。
当時の状況について、当事者である夜宵から直接確認したかったためとの事だったが、彼女の証言から明らかになったのはこの一件が誘拐事件であったことと、同時に夜宵と沙也加以外の消息不明者は皆何者かによって殺害されてしまった、という事のみ。彼女達の監禁場所や、彼女達を攫うと共にそれ以外の人間を抹殺した犯人の行方等については判明せず、これ以降も何度か夜宵は聴取を受ける事となったが、それは変わらなかった。
また、どこからか情報を嗅ぎ付けて来たマスコミが時折家の前にごった返したりしたこともあったが、何度か足を運ぶ内に有用な情報が得られない事を察したのか、気づけばこちらも姿を見る事は無くなっていた。
どちらも、ある共通の問題があった。
共に情報源として目星を付けていた夜宵の口から、目的の情報が得られなかったという点だ。
しかし、これは致し方無い事だった。
何故ならば、彼女は誘拐されてから帰還するまでの、一ヵ月の間の出来事を殆ど忘れてしまっていたからだ。
誘拐の現場となった廃工場へ向かった事。そこで繰り広げられた惨劇。そして恐らくはその後に起きたことの一部であろう、断片的な記憶。
それと既に警察に押収された一部の証拠品のみが夜宵の元に残っていた微かな情報であり、それ以上の情報を提供する事は彼女にも不可能であった。
何故なら、その時の夜宵にはもう一つ問題があった。
当時の彼女は、更なる追及に耐えられるような精神状態ではなかったのだ。
夜宵の帰還からそろそろ一ヵ月が経とうかというある日の夕方、星観家。
玄関からダイニングまで続く廊下の、その横道に設けられた自室のベッドの上で、赤色のパジャマ姿の夜宵は頭まで布団を被って縮こまっていた。
深々と雪の降り積もった真冬に外へ放り出されたかのように震えるその体が、覆い被さっている布団すら振動させて微かな絹擦れの音を鳴らさせていた。
一言でいえば、恐ろしかった。
恐怖が、不安が、滾々と、どうしようもなく溢れ出てきて、途切れなくその心に注がれ続けていた。
収まり切らなかった怖れが、一部は痛みへと変わって頭をズキズキ、と痛ませ、もう一部は涙へと変わり、閉め忘れた蛇口から滲み出て来る水の様に見開かれた双眸から流れ落ちては引き攣った顔を濡らし続けているような有様だ。
こんな状態が、帰って来てから四六時中続きっ放しであった。
当然まともに眠ることも出来ない。よしんば怖れ疲れて寝入れたとしても、1時間と経たない内に何かに脅かされたかのように飛び起きては、赤ん坊のように泣き叫ぶことばかりが続いていた。
そんな生活の果に、
一ヵ月という、それなりの時間を経て、なおそのような状態なのだ。戻ってすぐの頃など、もはや語る言葉も無い。
最大限の配慮の下行われた警察からの聴取でさえ、何日、十何日という長い時間を掛けて、周りにこれ以上無い程に気を遣わせて、押し寄せる恐怖を必死で押し殺すことで、どうにか伝え終えられた程なのだ。無遠慮なマスコミから質問など、どうして応答する事が出来ようか?
兎にも角にも、今の彼女は恐ろしすぎて溜まらなかったのだ。
(怖い……怖い……)
では、一体何に対して夜宵はこれ程までに怯えているのか?
――分からない。
一体、何がこれほどまでに怖いのか? 一体、何から逃れようと自分は布団の中に包まっているのか?
当の夜宵自身が分からない。
ただ、全く心当たりが無いわけでも無い。
先に記載した、寝てもすぐに飛び起きてしまう、その理由――夢。
寝付くと共に、確かに脳裏に描き出され、そして恐怖を呼び起こしては彼女の覚醒と共に消失してしまう、その映像。
恐らくは、攫われていた時の記憶なのではないかと、夜宵自身は目星を付けている。
あくまで目星だ。自分が一体何を見て、何を怖れて飛び起きているのか、その夢についての記憶が殆ど残らないため、当の夜宵自身が分からないのだ。
ただ、それについて夢を見る機会が多いのか、一部の断片的な映像は微かに彼女の頭の内に残っていた。
上から覗く幾つもの白いガスマスク。
狭い水槽の中で拘束される自分の体。
視界を覆い尽くす緑掛かった煙。
意味の分からない誰かの会話。
そして――左上から右下までを縫い跡が横断する顔で微笑む、金髪に赤い瞳の、赤い
それらが、一体何を意味するのか夜宵には分からない。
確かなのは、どれも思い出す度に恐怖と頭痛がより一層酷くなるということ。
そして、相乗的に彼女の内の恐怖が増していくという事だけだ。
(嫌だ……嫌だ……)
まるで、繁みの中にその姿を周到に隠し、唯ぎらつく眼光だけを覗かせてこちらに襲い掛かる時を窺っている獣の群れに囲まれているような、そんな得体の知れない恐怖が心を満たし、布団に包んだ夜宵の体をガタガタと震わせる。
恐ろしすぎて、どうにかなってしまいそうだった。
いや、実際どうにかなってしまっていただろう。
心を蝕むような、そんな恐ろしい時の真っ只中に、例え僅かながらだろうと安らぎを得られる切れ目が無く、常にその身を置かれていたならば。
(助けて……誰か、助けて……)
歯を忙しなく打ち鳴らす音と、体が震える音と、それに伴うパジャマや布団との衣擦れの音以外、何も聞こえなかった夜宵の耳に、初めて別の音が伝わって来た。
ガチャリ、という玄関の扉の施錠を解く音が。
その音にはっとして、起こした上体を左奥の出入り口の扉へ向けた夜宵の耳に、更に扉を開く音と、慌ただしく廊下を早歩きする音が連続して聞こえて来る。
そうして、その足音が部屋の扉の前で止まると共に、扉が開け放たれ、曇り空に陽光が差し込むように、廊下の灯りと共にその姿が薄暗かった部屋と夜宵の視界の中に勢い良く入り込んで来た。
「夜宵ちゃん!」
声が聞こえた。
母が呼び掛ける声。
待ち望んで止まなかった、自分を助けてくれる最愛の親の声。
「お母……さん……」
強張る体を動かし、布団の中から上半身をどうにか引きずり出した夜宵を、すかさず母が駆け寄り、抱き寄せる。
「もう大丈夫。もう、大丈夫だから。お母さん、どこにも行かないから」
そう優しく囁く母の、後頭部を優しく、壊れ物を扱うように慎重に撫でてくれる暖かな感触が、固まって罅の入った心と体を解してくれる。
夜宵もまた、母の首に腕を回し、抱き締める。
先程までの恐怖によるものとは違う涙が溢れ出し、程無くして彼女の泣きじゃくる声が部屋の中に響き渡った。
夜宵の帰還から数えて、ざっと3ヵ月。
その長い期間の間、この日のような事が、ほぼ毎日に渡って起きていた。
そして、過ぎ去る時間の中で夜宵の精神がある程度落ち着いた事で、星観家の中でこういった場面が殆ど見られなくなった後も、休学していた中学校に復帰するまでに、更に1ヵ月という時間が必要で。
それだけの時間を要してもなお――否、より多くの時間を費やしていたとしても、本当の意味で夜宵の内に刻まれた傷が癒えた訳では無かった。
誘拐事件発生より、約5ヵ月。
どうにか外を出歩ける程度には回復した夜宵はこの頃より復学したのだが――もし、彼女が当時の、復学から中学校を卒業するまでの期間を回想する機会があったならば、間違いなくこう述べるであろう。
帰って来た後で、一番ツラい時だった、と。
「なに? 星観の奴、学校来てんの? ずっと休んでたくせに」
「なんか、ユーカイされてたらしーよ? 須藤と一緒に」
「何その面白そうな話? 須藤の奴も来てないのってそのせい?」
長い休学を経て教室に戻って来た夜宵を歓迎したり、心配したりする人間は殆どいなかった。
あまり明るいとは言えない内寄りの性分である夜宵は、昔から人と打ち解け合うのが苦手だ。周囲の者達がやっているように、誰彼構わず気軽に話しかけては、大人数で集まって他愛無い会話を楽しむという行為をした事など、片手で数えられるくらいしか記憶に無い。
その癖、母譲りの整った顔立ちは、そんな彼女自身の意思など知らんとばかりに周囲の目を寄せ集めてしまう。良くも悪くも。
結果、クラスの男子の少なく無い人数が夜宵の容姿に目を惹かれて猥談のネタにし、それを面白く思わない女子達からは、その無口な在り方も相まって、一方的に嫉妬の目を向けられて嫌われている、という有様だ。故に、いつも彼女は浮いた存在で、孤独だった。
そんな夜宵だからこそ、初めて出来た親友――須藤 沙也加の存在はとても大きいものだった。母以外で心を開き、何の気兼ねも無く笑い合える存在。如何に周囲が自分を遠ざけようと、彼女さえいればそんなもの一切気にならないと思わせてくれる、唯一無二の存在だったのだ。
しかし、その親友が今はいない。
代わりにあるのは、よりにもよって誘拐事件に巻き込まれた
そう、
となれば、周囲が話し合っている、二人が事件に巻き込まれた、という話自体が、――おそらくは事件の発生時期と、夜宵と沙也加が学校に来なくなった時期を照らし合わせた――誰かの推測を基にした噂だったのだろう。
だから、事実と一致する話もあれば、全く一致する箇所の無い、根も葉もない話も時折聞こえて来る。
あるところでは、
「九条っていたじゃん? 三年の、ヤベー連中とツルんでるって噂の」
「あー、知ってる知ってる。レ〇プ動画とか撮ってネットにばら撒いてるって奴だろー?」
「そーそー。なんかそいつも行方不明らしくってさ。しかも、どうも須藤と星観、攫われる前にそいつに誘われてたらしいんだわ」
「えっ、何? それって、つまり」
「九条と、九条とツルんでるっていうヤベー連中が犯人で、星観と須藤はそいつらに捕まって、
「マジかよ! もう星観
「嘘だろー!? 俺、割と星観いいなーって思ってたのにー! 他の奴の
「でもって、姿が見えない須藤は、今頃九条その他としっぽり
数名の男子がありもしない性的被害の話を肴に、勝手に幻滅したり、興奮したりしている。
またあるところでは、
「ユーカイとか絶対ウソでしょ!」
「だよね! 星観と須藤、仲良かったモン! 絶対テキトーな事言って、二人仲良くズル休みしてただけだよね、アイツら!」
「やってるよね絶対、アイツらアタシらの事マジ見下してるし! アタシらマジメに学校来てんのに、アイツらだけ勝手に休み取ってしかも被害者ヅラとか、マジサイテー!」
数名の女子がそもそも事件の存在自体を否定し、夜宵と沙也加への一方的な不満を募らせていた。
教室のそこかしこで、各々が身勝手な事ばかりを口にしていた。久方ぶりに登校したその日から3年生へと昇級し、卒業するまでの間、絶える事無くずっと。
多少落ち着いたといえど、事件で被った傷や置いて来てしまった沙也加への罪悪感は未だ夜宵の心の内に残ったままだった。未だそういったものを残したままの彼女がそんな日々にずっと耐えていられる筈も無く、度々彼女は学校を休んだ。
そしてその度に、呼び出されて如何わしい動画を撮られている、またズル休みしてる卑怯者め、などと周囲は偏見を強めていく。
上履きや教科書を隠すだとか、机に落書きされるだとか、そういう分かりやすい虐めにまで発展する事こそ無かったが、それ故に夜宵もそういう周囲に対して何の行動も起こせなかったため、その事が不幸中の幸いだったとも一概に言えない。
被害者である筈なのに、まるで加害者になったかのような仕打ちだった。
そうして、気づけば高校受験という中学生にとって最も大切な時を迎えていたが……唯でさえ事件で傷つき、時間的にも大きなロスを強いられたというのに、追い打ちとばかりに周囲からの好機と無理解に耐える日々を送り続けて来たのだ。受験勉強など、まともに出来るワケが無い。
結果、元々の志望校は模試の時点で諦めざるを得ず、新たに第一志望に選んだ、幾分かランクの下がった高校さえも落ち、滑り止めとして受けていた私立御伽高等学校の入試にどうにか合格するという、芳しくない結果に終わったのだった。
しかし、結果的にはそれで良かったのかもしれない。
元々の志望校も、その後の第一志望校も、中学校と近いエリアにあり、一方で御伽高校はそれらから多少離れたエリアに立地していた。そのお蔭かは分からないが、いざ始まった高校生活では、中学時代の知り合いが殆どおらず、何処へ行っても付き纏われるかのようだった事件についての噂も、ピタリ、と止んだのだ。
故に、その点については、高校生活は事件後の中学生活に比べればまだマシだといえた。
あくまで、誘拐事件の事を好き勝手話される事が無くなったという点、だけは。
高校に上がったからといって、元々の気質が治ったりはしないし、事件で受けた傷も癒えず、むしろ悪化していた。クラスメート達にしても、中学時代とその本質に変化はない。
何より、沙也加が戻って来たワケでも無い。
結局、無口で人と関わろうとしない夜宵の在り方は以前よりもずっと酷くなり、以前にもまして人を遠ざけ、遠ざかろうとするようになった。
誘拐事件の捜査や沙也加の捜索についても、その頃には進展どころか音沙汰すらなく、周囲にとってはもはや忘れ去られた存在と化していた。――夢や不意のフラッシュバックといった形で、尚も当時の記憶の断片に苦しめ続けられる夜宵を、置き去りにしていくかのように。
孤独と、喪失と、そして苦しみを、解消する事も癒すことも出来ず、ただ抱え、怯えて生活していく、空しい日々が過ぎていくばかりだった。
――思わぬ転機を手にする事となった、その日まで。
その日は、特に何の変哲も無い日だった。
特に雨が降ったりする気配も無い、スカイウォールの上端が覗く晴天の下でいつも通りの時間に登校し、人の気など知らずに一方的な興味か嫌悪を向けるか、そもそも感心一つ向けないクラスメートに囲まれながらの授業を終え、いつものように空しさに沈んだ心を抱えながら帰宅するだけの、いつも通りの日常だった。
そのいつも通りの日に最初に異変を齎したのは――家の出入り口の扉の前に置かれた、小包だった。
大きさは両手で難なく持ち上げられる程度。重さも――どういう訳か、事件後の彼女の身体能力はそれ以前とは比較にならない程上がっており、以前までは持ち上げるのが無理と思える程重く感じた物さえ軽々持ち上げられるようになったため、感覚で重量を探ろうとしてもあまり意味は無いのだが――至って軽い。ダンボール箱か何かを薄茶色の地味な包装紙で包み、適当な箇所をガムテープで留めただけの雑な梱包が施されたその小包には宅配便の伝票などは特に貼り付けられておらず、代わりに天面の部分にペンで宛先が走り書きされていた。
書かれていた宛名は――“星観 夜宵 様”。
小包に記載されている情報はそれくらいで、送り主の名前や住所、小包の中身が何であるかといった事については、どこにも書かれていない。
送り主不明、中身不明の、自分宛の小包。
露骨なまでに怪しい。見なかった事にして、小包をここに置いたまま家に入るべきじゃないかと、夜宵は少しだけ逡巡した。が、どうせ置いたままにしたところで、後で母が持って来ると思い直し、結局家の中にそれを持ち込んだ。
そのまま自室へ向かい、机からカッターを引っ張り出して小包の開封を始めて――間も無く、あらん限りの絶叫を上げていた。
あっという間に身体から力が失せ、耐え切れず尻餅を着いた夜宵は、慌てて引き攣った悲鳴を上げながら後退る。
床に打ち付けた尻や、後退り過ぎて閉まっていたドアに強かに打ち付けた背中が痛みを発している筈なのだが、そんなものまるで感じなかった。
感じている余裕など無かった。
「なっ……な……あ、ぁ何でっ……!?」
彼女が尻餅を着くと共に、その衝撃によって入れられていた段ボール箱諸共床に落ちた
梱包を解いた小包の中から出て来た
あの事件の証拠品として警察に押収され、もう二度と目にする事など無かった筈の
夜宵は怯える。歯を鳴らし、ガタガタ、と体を震わせ。
怖れに揺らぐその双眸を通して、
――困――ねぇ、――近の――は――
――ほんの――ばかり、――を止めて――うだけ――、さ――
――被検――、脈――常。身――無し――
――“ビルド”の――方針を真っ向――する――気に――ない――ね――
――このボト――ドライ――預け――。“仮面ライダー”に変身――んだ。それ――なければ、君は――もう二度と家族には会えない!――
――わた――と、――致――しょう?――
記憶が蘇る。
あの日、家に帰って来た時点ではもう忘れていた筈の記憶が。
記憶が駆け巡る。
頭の中のあちこちを行き交い、耐え難い痛みを夜宵に齎す。
記憶が呼び寄せる。
あの日感じた感情、幾月も掛けてようやく忘れていられた――封じ込めていた、あの感情。
何匹もの飢えた狼に囲まれ狙われているかのような、あの悍ましい恐怖を。
「あ……あ……あぁ……」
逃げなければ、と錯綜する記憶に邪魔されて途切れ途切れになる思考の中で、夜宵は思った。
このまま、ここにいてはいけない。このまま、
すぐにでも、この場を去らなければいけない。
あの、黒光りする長方形の本体から赤いハンドルが伸びた機械と、その傍に転がり中のピンクレッドの液体を揺らす、透明な円柱形の物体から。
あの日、証拠品として警察が押収して、もう二度と目にする事など無かった筈の、あの忌まわしい事件の
1年と半年余り前に必死の思いで逃げて来た夜宵が何故か身に付けていた、あの
頭上斜め左上から突き出ていたドアノブを握るや、それを支えに夜宵は立ち上がろうとするが、産まれ立ての小鹿のように震える足には力がまるで入らず、身体どころか腰一つ上がらない。
それでも必死に、引き攣った顔に遂には涙を流しながらも、麻痺したように感覚の覚束ない両手で夜宵はドアノブを回そうと足掻いた。
一刻も早く目の前の恐怖から逃れたいがために、ガチャガチャ、とけたたましい音を立てて。
上手く回らないドアノブに焦燥を募らせながら、なおもガチャガチャ、ガチャガチャ、と――。
『……ぅうん、何ですの?』
ふと、ドアノブの音に混じって誰かの声が聞こえた。
反射的に、夜宵はドアノブを回そうとする手を止め、それによって部屋から一切の音が消える。
――違う。聞こえた
今部屋には、家には夜宵一人だけ。母は今出ているし、父は――あの
つまり、今のは唯の気のせい――。
『アラ? ここは一体?』
再び、声が聞こえた。
さっきよりもハッキリと、確かに今、近くから。
夜宵が何か考えるのを待たず、肩が跳ね、身体が血の気が失せていく。
『さっきまでは確かに
聞こえる筈の無い声が、再三誰も居ない部屋の中に響く。
聞き覚えの無い――筈なのに、何故か覚えのある気がする――女の、少女の鈴を鳴らすような可憐な声は、疑問でもあるのか何やら自問自答しているようだったが、そんな些細な事は今の夜宵が気に留められる事では無い。
突如目の前に現れた忌々しい過去の遺物と、続けて聞こえてきた謎の声という怪現象を前に、もう恐怖など通り越して殆ど思考が止まってしまっている彼女が出来る事など、ドアノブの方を向いていた視線を声がする方へ、潤滑油の切れた歯車のように上手く動かなくなった頭ごと、ゆっくり動かすくらいなものだった。
そして、遂に、
『ん? ――まぁ、貴女は!』
漸く向け切った視界の先で、声の主と夜宵は
『これは一体どういう事ですの!? あの日
驚きと喜びに声を張り上げる声がするそこには、やはり人はいない。変わらず、部屋にいる人間は夜宵のみだ。
しかし、確かに夜宵は今、声の主と目を向け合っていた。
『いえ、この際そんな些細な事はどうでも良いですわ。あの日から1年、いや2年かしら? ともかく随分と待たされてしまいましたが、やっとこの忌々しい封印から解放される時が来ましたのね!』
――整理してみれば単純な話だった。
人はいない。尚且つ、電話やテレビのような人の声が出る物も近くに無い。
となれば、答えは一つだ。
『さぁ! あの日の
しかし、それを自ら導き出し、尚且つ受け入れろなどと求めるのは、今の切羽詰まった心境の夜宵にはあまりにも酷というもの。
そもそも、どうして
きっとこの場に他の者がいたとて、今の彼女と同じ反応を返す筈だ。
新たに込み上げて来た恐怖がために、再びそうした彼女のように絶叫する事こそが、むしろ自然な反応の筈だ。
たった一つのその答えを――。
『文句は言わせませんわよ? ――星観 夜宵さん』
――横倒しになっている容器に表面に浮かび、ハッキリと聞こえる声で語り掛けてくる一つ目などという、文字通りの怪現象を目にしたならば。