「光を追うほど血が流れる」
低く不吉なそのアナウンスに呼応するように、ちょうど胸の高さあたりにある「壁の溝」を光の粒が走っていくものだから、部屋から出てきた面々は致し方なくそれについて行く他なかった。
各々、お互いの様子を探り合う。落ち着いて観察すればそれほどの人数はおらず、またどいつもこいつも特徴的な見た目をしているので覚えやすかった。
まず、顔に大きな火傷の痕がある男。彼は見るからに若々しく、こんな状況でも自信に満ちた雰囲気を纏っていて、火傷痕さえなければアイドルでも通りそうなほど整った顔立ちをしている。ただ個人的には、彼のこんな状況にあってもまるで不安とは無縁そうな、今までの人生さほどの難もなく生きてきたかのような振る舞いが鼻につく。一言で言っていけ好かない。
いけ好かない男の二人目として、キャバクラに来た金持ちよろしく美女を二人も従わせて歩いている男がいる。彼が片方ずつそれぞれの女と腕を組みながらも、周囲を気にしてあちこち目を動かす一方、女たちの方は周りの様子をあまり気にせず、自分たちの隣にいる男のことを見つめ続けている。片方は金髪ショートでデニムを履いた気の強そうな女で、もう片方の女は柔らかそうな長い髪に花柄ワンピースのお嬢様風だ。そしてどちらにモテることも不自然に思える程度には、真ん中の男はデブ、チビ、ハゲ、なおかつシンプルにブサイクである。
三人目は、いっそ化け物を思わせるほどの猛々しい筋肉を全身に蓄えた男。その肉体美を見せつけたいのか、彼の身につけている衣服は布面積の少なさが半端ではない。その袖や丈や裾の短いこと(あるいは無いこと)、いっそ水着でも着てはどうかと思うほどで、しかし彼が水着で今自分の目の前を出歩いていたら、なおさら近付きたくないように思うだろうことは確実だった。
そんな面子の中では若干異質だったのが、少し顔を見るだけでも分かるほどに大きな八重歯が目立つ、身長も服装も顔も全てが子供みたいな女と、彼女に連れ立って歩く丸ぶち眼鏡&三つ編みの文学少女だ。八重歯の方は背中からコウモリのような小さく黒い羽を伸ばしているけれど、何かのコスプレかファッションなのだろうか。というかウチの右左と違って、あの二人はマジの子供かもしれない。
ざっと目についた目立つ面々はそれくらいで、あとはひたすら暗い顔をして爪を噛んでいる猫背の男や、なぜか週刊の少年漫画雑誌を読みながら歩いている背の高い銀髪の女がいたけれど、火傷痕イケメンとキャバクラ風ブ男とマッチョオブマッチョと唯一の子供らしき八重歯キッズ&その友達の文学少女ペアに比べれば、残りの面子はそこまで印象のインパクトがあるわけではなかった。
殺風景なのかアトラクションじみているのかよくわからないデザインの、壁を走る光が道案内していること以外これといった特徴もなくただ長いだけの廊下を、このイカれたメンバーと呼んで差し支えなさそうな面々が揃って抜けていく。やがてその単調な道程の終わりには両開きの扉が見えてきて、それを開いた俺たちを待っていたのは、背もたれがない大量の椅子と巨大な長テーブルがいくつか並べられたホールだった。ホール……というよりも食堂だろうか。飯が出てくる気配はないけれど椅子やテーブルの配置がそれっぽく、そしてそもそも俺たちの居た部屋で壁が開くような気配は、実際にそれが開くまでまったく感じ取れなかったのだから、今いきなりどこかから一杯のかけそばが出現してきたとしてもおかしくはない。
ホールの前方中心の天井から垂れ下がる形で、これから何かしらの映像が流されるであろうテレビが取り付けられていた。むしろその天井から伸びるテレビの存在をもってして、そちらがホールの前方であると区別するしかない程度には、ここはその他の特徴が何もなく左右対称な部屋となっている。
それぞれ思い思いにテレビに近い席へ陣取ると、それを見計らったかのように独りでに、上から垂れる液晶が光を映し始める。それを受けて改めて見回してみたけれども、どこにも監視カメラの類は見受けられないが……。
「あっ」
「あれっ」
その場の全員が何かしら、短く驚きの声を上げる。俺もその例外ではなく、右左までもがそうだった。
画面に映った物は、あの気味の悪い男だったのだ。片方の目が空洞になっていて、今度はそこから、すでに脳みそが垂れ出ている。不気味な声のグロテスクな男。
どうやらこの場の全員が、その男に見覚えがあるようだった。
「あー、あー、汝ら、歪の徒。汝らの神は、汝らの外にあらず。我々の存在は、汝らの神にあらず。あるいは、汝らの神は、我々の神にあらず」
「すいませーん! 馬鹿にも分かるように喋ってもらっていいですかー!?」
突然声を張り上げたのは八重歯の子供だった。彼女の言う「馬鹿」という自虐的な言葉に、もしかすると彼女が覚えたばかりかもしれない皮肉がたっぷりと込められていたことは、その言葉を放った本人の表情を見れば嫌でも分かるものだった。一部の界隈ではああいった生意気な子供の女のことを、メスガキと呼んだりするけれども、まあ俺は口には出さない。
なんとなくその八重歯の子供は、個室にいた時の放送にも同じような反応をしていたんじゃないかと思った。あの謎の個室の防音が行き届いているから、それが俺には聞こえてこなかったというだけで。そう思う根拠を挙げるとするなら、彼女の隣に座る文学少女が、まるでそれがいつものことだと言うように、友人の大立ち回りに少しも動揺していないことがそれだろうか。
「……我々が求めるは血と血の衝突のみ。汝らに刻み込まれた理不尽の、業の、欲の、苦痛の、ただひたすらの衝突のみ」
「つーまーりー!? 一言で言うと!?」
「たたかいたまえ」
「はぁ? ……うっ!?」
不意に八重歯の子供が頭を押さえたかと思うと、その場でうずくまり「うぅ、うぅ……」としか言葉を発さなくなってしまう。やはり友人であるらしい文学少女が「どうしたの!? マリア!?」とうずくまる彼女を心配そうにさするけれど、そのうち彼女自身も頭を押さえて苦しみ出した。
そしてその現象は俺にも、またその場の全ての人間にもやって来る。確かにそれを初めて味わった時、意思の及ばぬところで「うっ」と声が漏れてしまうほどの感覚があった。苦痛と言えば苦痛なのかもしれないが、それはまったく未知の感覚であり、「混乱」が感想の大部分を埋め尽くす。
頭蓋の内側、脳に、直接触れられる感覚……としか言いようがない現象。痛みはないけれど、自分を自分たらしめる概念の保証を撫でくり回されているかのような、少し何かが違えば、次の瞬間には自分が自分でなくなってしまいそうな恐怖を伴う、未知の感覚が淡々と頭の中に襲い来る。この場に誰もいなければ、あるいは隣に右左がいなければ、臆病な俺は、恐ろしくて叫び出していたかもしれない。
けれどその代わり多くのことを理解した。どうやら人智を超える存在らしい「脳の垂れた男」が、俺たちの頭に直接それを寄越したのだろう。俺たちがなぜここへ呼ばれ、何をさせられるのか。そのおおよそを理解した。
「おい、ちょっと待てよ」
立ち上がったのは火傷顔の男だった。この場の全員がすでに俺と同じことを理解しているに違いないけれど、彼は言った。
「まさか、ここにいる全員異能力者なのか!?」
俺が半信半疑に思っていたことを大声で口にしてくれて助かる。
脳に直接もたらされた内容には、ここにいる人間が異能力者なのかどうか、その情報は含まれていなかった。俺たちの全員が知らされたことは、この場の全員が意図的に選ばれた人物であり、そして今後一対一の「
一方で、この場の全員が異能力者かもしれない。彼がそう考える根拠は明白だ。自分自身が、紛れもない異能力者だからに決まっている。現に俺がそうだ。現に右左がそうだ。この場にいる俺たちは戦わなければならない、そのことは確実なことだけれども、俺たちが選ばれし者だというのなら、自分だけが異能の力を用いて一般人を蹂躙すればいいというような、簡単で甘っちょろくて何の面白みもない話があるわけないという説だって当然生まれてくる。
むしろこの場の全員が自分と似たような異能の存在であり、だからこそ傍観者気取った脳の垂れた男は面白がってそれを集め、俺たちに奴隷剣闘士じみた真似をさせようとするのではないか。と、そういう考え方が自然だとは思うけれど、それをこの場で直接確認しようというド直球勝負の発想と度胸が俺にはなかった。あの火傷のイケメンにはそれがあった。
「少なくともぼくはそうですね。あと隣にいるこの差位置さんも」
「おいっ」
右左が勝手に暴露してしまう。しかしそれを聞いて唖然とする火傷顔も、それとよく似たリアクションを取る周りの全ての人間も、そんなに素直な態度でいては全て口に出していることと同じだった。
大勢のそのリアクションには俺も驚かされる。そりゃもちろん、自分に異能があるのだから他人に同じ物があったっておかしくはないが……。正直、同族なんて右左以外には初めて見る。それがこんな人数と一気に対面することになるとは。
が、その中には一人だけ例外もいた。
「あたしは違うわよ。異能も何も、そもそも人間じゃないし」
八重歯のメスガキだった。背中についた羽をぴょこぴょこと動かしながら、上唇を指で持ち上げて言う。
「見ての通り吸血鬼なんだけど、まぁ人間なんかに比べたら強すぎて笑えもしないわけ。ほら」
そしてその中学生どころか下手すれば小学生にさえ見えかねない小柄な少女が、俺たちの目の前にあるテーブルを片手でひょいと持ち上げた。三メートルはある長方形のテーブルを、片手で持ち上げたかと思えば、今度はバスケットボールでバランスを取り遊ぶみたいに、小指一本で持ち上げたそれをぐらぐら揺らして弄んでいる。
異能を持たない大多数の人類の皆様方からすれば、俺も彼女も似たり寄ったりな物と思えるのかもしれないが、おそらくこの場の全員が彼女のことを「化け物」だと認識したことだろう。おそらくこの場の全員が、自分のことを化け物だとは認識していないことだろう。
「ってことで、あたしに面倒ふっかけないでよね」
宙にと放られたテーブルが、ものすごい落下音を響かせて一応元の位置に戻ってくる。どうやらテーブルも床も頑丈に出来ているようだ。ここにいる人間のメンタルよりも余程。
俺たちはこの面子の中で戦い合わなければならない。戦いのルールは指名制。一人一回の指名権を持ち、指名された者は必ずそれに応じて一対一の決闘をしなければならない。決闘は降参、気絶、死亡のいずれかにより決着と見なされる。……問題は、仮にその戦いで勝ったところで俺たちにどんなメリットがあるのか、何も明かされていないことだけれど。
気が付けば、この場のほとんどの人たちが不幸のどん底みたいな顔をしている。先行きの見えない不穏な状況に突如理不尽にも追い込まれたことに加えて、仮に戦いに勝てば元の世界に帰れるのだとしても、自分たちの能力では吸血鬼という名の脳筋に勝てる気がしないことが絶望感の要因だろう。皆、あの化け物に指名されることを恐れているのだ。指名が絶対であることは、脳に直接説明を受けて限りなく完璧に理解しているから。
いつまで続ければいいのかさえ見通せない戦い……。この先に戦いがあるという事実だけが、揺るぎない真実となった今、俺だって油断すれば悲観的な気持ちにのまれてしまいそうになる。けれどと、しかし絶対に諦めてはいけない。俺にはあの地下室に残してきた女たちがいるのだから。せっかく手に入れた、世界から見捨てられた死人同然の女たちが……。
……と、押し込められた現状に嫌気がさしてきた俺たちの頭上で、ゴウンン……ゴウンン……と重たく低い鐘の音が響いた。
「何の音だ……?」
異変があった時、それくらいしか見るべき物がないのでテレビ画面を見ると、いつの間にかそこに表示されている物が切り替わっていた。画面の中には気味が悪くグロテスクな男の顔ではなく、大きなアナログ時計の文字盤が映されている。第一印象としては、その文字盤は懐中時計の物のように見えた。
「指名者の心臓を指せ」
時計の文字盤を隠してしまいかねない主張の強さで、そんな文字が画面上を覆い尽くした。
全員に焦りの様相が浮かび始める。俺にもその意味が感覚的に理解できた。なぜだろう、具体的に何がというわけではないのに、今すぐに指名者を選ばなければ、何かとてつもないペナルティが待ち受けているような気がするのだ。
「せーのでいいでしょ?」
吸血鬼がそう言ったことをきっかけに、かけ声は誰からともなく一斉に起こされる。
「せーの」
右左が指さしたのは意外なことにマッチョだった。俺が指さしたのはその右左である。降参が認められるルールなのだ、まずは身内票の降参で戦いに勝つメリット、負けるデメリットを知りたい。指名制ゆえ一人の人間に複数の指名が入ることもあり、しかし決闘は必ず一対一なのだから、まさか負けた側が死ぬということはないだろう。
そう思って右左を指した、そこまではよかった。……けれども信じ難いことに、残りのほぼ全員は一斉に俺のことを指さしていた。
文学少女は吸血鬼を、爪を噛む男は少年漫画雑誌を読む女を指していたけれど、それ以外の人々が全員俺を指さしていた。火傷痕の美男、ブ男とその取り巻き、露出過多マッチョ、メスガキ吸血鬼、漫画を読む女……その七人が一斉に俺を、吊し上げるが如く、殺し屋であるこの俺を指名したのだ。
「……はぁ!? なんだ、どういうことだよ、おい!」
その場の全員に向けて怒鳴りつけると、皆それぞれ個性豊かな、しかし必ず冷ややかな目をして口をつぐむ。けれど俺には、その自主的に縫い合わせられた口の中に閉じ込められているであろう言葉が聞こえてくるかのように、その内容を理解できた。
「弱そう」
「雑魚っぽい」
「悪人面だとやりやすい」
「普通に勝てそう」
「消去法で」
どうせそんなことを思っているに決まっている。異能力に頼って殺し屋をしている身だ、昔に比べれば多少マシにはなったとしても、屈強な男とは程遠い容貌であることに変わりはない。特に今ここにある個性派集団の中だとなおさら、俺の容姿体型はまさに「平凡」、つまり取るに足らない物として目に映ることだろう。
ほとんどの人が俺のことを指さす光景に、それがそんなにおかしかったのか、隣で右左が必死に笑いをこらえていた。ぷっ、くくっ、ふくく……と、いや、もはやそれは笑いを堪え切れていなかった。この野郎……、と一発ゲンコツでも入れてやりたい気分になるが、そんな身内のことよりも、この場の全員が俺にとってクソッタレでしかないことが分かってしまった以上そっちの方が問題だ。
「運命は突然やって来る。誰も他人の葛藤を知り得ない」
相変わらずどこか地の底から這い出てくるような男の声でそう告げられると、テレビはそれきりぷつんと糸が切れてしまったかのように機能を途切れさせ、以降そこに何も映さなくなってしまった。
「はい、じゃあ解散ね」
当然のように場を仕切る吸血鬼の言葉に結果として全員が従い、各々が最後に脳の垂れた男から言われたことの意味を理解して、まばらに自分たちの部屋へと戻っていく。……決闘はいつ行われるのか分からず、突然始まる。部外者は誰もその内容を知ることが出来ない。……と言っても、口頭で内容を伝える程度のことは自由らしい。
そういうルールだからこそ、こうやってお互いその気になれば顔を合わせられる形式で俺たちは集められたのかもしれない。双方に協力する意思さえあれば情報共有は容易なのだ。むしろその点を制した者こそが勝利を手にすると言っても過言ではない説まである。俺は異能力者という存在をまだ自分と右左以外に一切知らないけれど、俺たち二人のどちらの能力も初見殺しの色がかなり濃いこともあり、情報を掴まれることが致死に値しかねないように思えてならない。
……が、俺の予想が正しければ、この面子の中で他人との協力関係を築くことは、この世から戦争を無くすことと同じくらい難しいはずである。なぜなら我々が、全員異能力者かそれに準ずる存在であるとするなら、同じように我々は、集められた全員が人間のクズなのではないか……と考えられるからだ。
殺し屋をやっている時点で言うまでもないことだが、俺も右左もまともとは言い難い人間で、他人に対して協力的とも友好的とも言い難い性格をしている。きっとここに集められた全員がそうであるに違いない。あの吸血鬼なんか一番分かりやすい高飛車タイプであるわけで、どうあっても俺たちは全員選ばれし者なのだから、人格だってその精査の基準になっていたと考えることだって間違いとは言いきれない。
部屋に戻ってから、右左になぜマッチョを選んだのか聞いてみた。
「見てみたくなったんですよ。ああいう人にぼくの能力を使ったらどうなるのか」
びびりのくせに、自分の興味があることになると猪突猛進になるタイプ。それは右左の良いところだと俺は思っているけれど、それはそうと吸血鬼よりマシとはいえ、あんな筋肉ダルマと戦ってどうなっても知らんぞと投げやりな気持ちにもなる。俺も右左も痛いのは嫌いだ。
……その後、結局その日は何も起こらなかった。トランプも大して盛り上がらず、腹が減るという気分でもなく、俺たちは早々に寝床につくことになった。枕元のデジタル時計だけが時間感覚の頼りの綱であるこの場所は居心地が良いとは言えないが、ベッドの寝心地だけはかなり悪くなかったように思う。二人で一つの部屋に押し込まれたからには、ベッドも二つ備えられている点がありがたい。熟睡できた。
目が覚めて、隣のベッドで寝ていたはずの右左がいないことに気が付く。時計を見ると九十九時九十九分というあり得ない時刻を示しており、窓のない監禁空間における頼みの綱はさっそく失われてしまったようだった。
一応部屋の中はそこらじゅう探した。もしかして外に出たのだろうかと思って、この部屋の「廊下とのゲートになる壁」は自分の意思で開けないのだろうかと考え始めると、その瞬間に、初め見た時とまったく同じ音を立てて、まったく同じ動きで壁が開き始めていく。
俺やその他の人をここに連れてきた存在は、人間よりも上位的な存在だと分かっていたつもりだけれど、思考を読まれているような現象に見舞われるのではさすがに気分も良くはない。
「……あ?」
壁が開いた先にある空間が、昨日見た廊下ではなくなっていた。あの廊下はどこかへ消え去り、かわりにそこにはだだっ広いだけの空間、巨大な空き部屋のような場所が展開されていた。
壁と天井が目で見える距離にあるから、それを見て俺は理解する。ただ広くあることを目的にしたようなこの場所は、ただでさえ殺風景だった食堂を思わせるホールから、さらにありとあらゆるアイテムを取り去った空間なのだと。
何のためにそんな空間があるんだろう……という当然の疑問に対する答えは、遠くの真正面で壁が開き、その向こうから多少見覚えのある人間が出てきたことで察することとなる。俺と向かい合った位置に出てきたのは、火傷顔の男だった。
「あれ、あんた……」
「……よう」
お互い勘は悪くないのだろう。居合の達人同士が距離を図るが如く、互いに歩は進めてもなかなか距離を詰めようとはしない。
「気付いたらこんな、知らない場所に出てきた。迷子ってわけでもないはずなんだけど……あんた何か知らないか?」
「いいや。俺も同じだ」
「そうか……。オレの名前は
「差位置」
「そうか、よろしくなサイチ」
「よろしくっていうのは、対戦よろしくお願いしますってやつか?」
「ははっ」
何も遮る物がない広大な空間にロクな説明もないまま通され、その向かいには「自分に指をさした相手」がいると来た。さらには枕元にあった、あのバグった表示のデジタル時計。あれは「非日常」のサインだったのだ。
これは、間違いなく始まっている。いつ始まる物なのかまったく告知されないという、俺たちが知っているルール通りの「決闘」が。
「家疎 対 差位置」
無機質な女の声で、たったそれだけの内容で、お互いの耳に聞こえるようにアナウンスが入った。脳の垂れた男の声ではなかったことが意外だけれど、何にせよこれで確定だ。
これが得体の知れない拉致に見舞われた、殺し屋差位置の栄えある第一回戦である。
「サイチ、オレたちはどう戦うべきだと思う」
「あぁ?」
「不良漫画みたいに殴り合うのか? 戦争みたいに殺し合うのか?」
「さぁな。自由だろ」
「そうかな」
……その瞬間、炎には音があることを知った。
話しながら、まるでそれが当然であるかのように、彼の手のひらから唐突に火炎が放たれ始める。ごうごうと燃え盛るそれはまさに火柱となって、低くはない天井を焼きかねない勢いで酸素を食い散らかしていく。
無色透明の代わりに白色をしています……といった具合の電灯からすでに十分な明かりを供給されているこの部屋の中で、炎の明かりはさらに過剰に、主人が際立つようにと荒れ狂い、家疎の火傷跡が目立つ顔を照らしてみせている。彼の顔はそうして改めて見ても、炎がよく似合うただの、いけ好かない美形だった。
「俺の能力は見ての通り発火。サイチは?」
「……催眠だな」
「ほら、やっぱりだ」
炎を消し、家疎が手のひらをぱんっと叩き合わせる。
「たぶんオレたち、ど変態が集められたんだろ。あの妙な言い回しからオレはそう読み取ったよ」
「変態?」
「お前の催眠能力とやらも、ロクでもない衝動から生まれている……違うか?」
「違わないな」
「だろう。そうだと思ったんだ、みんなそうだと。女を両脇に抱えてるブス、ナルシスト筋肉バカ、生意気な人外のガキとその平凡そうな友達。大体目立つところでもやばそうなやつばかりいて、そしてオレは自分の能力が「やばい物」だと知っている。それでサイチまでそうだって言うなら、これはもう確定だ」
非常にありがたいことに、彼は小説や映画なんかに出てくる探偵に憧れる気質であるようだった。話し続ける彼は活き活きとエネルギーに満ち溢れた、生き甲斐を貪り童心に帰る時の人間の顔をする。
俺はまったく楽しくはないけれど、きっと彼と同じことを考えていた。
「わざわざイカれた人間が集められた理由は何だと思う、サイチ」
「さぁな」
「さぁなじゃないだろ。差位置、あんたはまさか、勝ち続ければいつか元の世界に帰れるとか思ってないよな?」
「どうだろうな。明言されていないことだから、何とも言えん」
「そこだろ、鍵は。わざわざ人の脳みそをいじってまでルール説明をした「首謀者」が、なんでそこを明言しないんだ? 明言しなかったという事実にこそ、きっと意味があるに違いない、そうだろ? そこを考えなきゃいけないんだよ、オレたちが元の世界に帰るためには」
「なるほどな」
そう、それは彼の言う通り。俺たちは、言われるがまま戦うだけではダメなのだと思う。勝てば帰れると明言されていない以上、ただ闇雲に戦うだけでは一生戦わされ続けて、その割に何も得られないという結果を招きかねない。どうにかして元の世界に帰りたいと願うならば、どうすればそれが実現出来るのかを考えなければならないのだ。
だからそのための情報収集として勝ち負けのその先を知りたかったのだけれど、幸いにも今回は相手が馬鹿じゃなかった。右左でなくても誰でもいい、一緒に道を模索できる相手ならば何でもいい。現状の俺では何ら推論を立てられないので、ここは家疎にそれを任せるとしよう。
「そこでオレは一つの仮説を思いついた。撮れ高制だ」
「撮れ高?」
彼は天井を指さす。それはおよそ「神を指す」ジェスチャーだった。
「ど変態の異能力者を集めたってことは、首謀者は何かオレたちに期待している物があるんだろう。オレたちを集めればそれが叶う、っていう期待を。俺はその期待されている物っていうのが、人間ドラマなんじゃないかと考えた」
「変態だらけのテラスハウスってか」
「まあそんな感じだな」
それが正解だとしたら、俺たちを集めた神にも等しい存在は、相当に趣味が悪いことになるけれど。ただそう言われてみると、男女比がそれほど偏っていないことにさえ意味があるように思えてきてしまうもので。
「で、ということは、オレたちがここから解放される条件は一つ。十分な撮れ高を確保してクランクアップ、お開きになること。……どうだ? 悪くない推理だと思うんだが」
悪くないどころかそれが正解だと確信してやまない自信が、その凄惨な火傷痕よりも濃く彼の顔面に浮き出ている。協力するには良いかもしれないが、仲良くはなれそうにない奴だと感じた。
「俺には他に案が浮かばないから、とりあえずそれを試すしかないが……撮れ高を確保するには何をすればいい?」
「そりゃトークだろう。オレたちの根幹に関わるトーク、つまり異能力と性癖について」
「……なら例として、カソのそれを聞かせてくれよ」
「ああもちろん。けれど約束してくれよ、オレのあとでサイチも話すんだ。撮れ高っていうのは全員で協力しなければ発生し得ない物かもしれないからな」
「わかったよ」
家疎はその場にあぐらをかいて座り込む。そしてまるでタバコを取り出し自身の能力で着火するかのような、自然かつ割り込む隙のない流れるような動きで、着ていた上着を脱ぎ捨てそこに火を放った。
「オレの炎は、熱を感じさせることしか出来ない。何も焦がせない、熱く感じるだけの炎だ。だからこの顔の火傷は、能力による炎で付いた物ではないんだ」
目に見えぬ息吹がをかけられたかのように、上着を包み込む炎は突然消える。すると、まるでその炎が単なるCGであったかのように、燃やされていたはずの衣服には焦げ跡一つ付いていなかった。
「トリックか何かだと思うならお前の物で試してみてもいい。肌でもいいぜ、痕は残らないし、痛みでショック死でもしない限り安全だから」
「いや、遠慮する」
彼に合わせて俺も座り込む。少し前まで焚き火にも似た炎が俺たちの中心にあったことを思うと、何やら決闘とは程遠い和やかな雰囲気がこの場に訪れようとしている気がした。
もちろんそれは、気のせい以外の何物でもないのだけれど。
「そうか。まあそれで、オレがこの能力に目覚めたきっかけだけど、学生の頃付き合ってた彼女が親父に虐待されてたんだな。で、ある日彼女が「もう会えない」とか言うから何事かと思ったら、今のオレみたいな火傷痕が、もうすぐ二十歳になる女の顔に出来ていたんだって話。その親父はそれでさすがに牢屋行きになったんだけど」
巨乳が好きなんだと、暴露とも呼べない暴露をする、ニヤけた高校生みたいな顔をして、
「それはそうと、火傷痕のある彼女の顔がさ、オレにドンピシャだったんだ。その顔を見るとすっげぇムラムラしてさ。セックスするたび、この痕が付けられた時の彼女の反応はどんなだったんだろうって、どんどん気になり始めて……。しばらくはSMプレイとかで誤魔化していたけれど、やっぱり顔を焼かれる彼女が見てみたいって気持ちが抑えられなかったんだ。……そうしたら、ある日不意にこの能力に目覚めた」
推理を披露していた時と何も変わらず、楽しそうに彼はそう語るのだった。
「人に向けても死にはしない炎だって安心して、能力に目覚めた日さっそく彼女を焼いたよ。あれが人生で一番良かった。やっぱり初めてだったっていうのもあって、その時、本物の興奮ってあぁこういうことを言うんだって確信した。最高だった。……それ以来彼女は頭がおかしくなってしまったけど、それは些細な問題で、俺に焼かれてる時の反応はあんまり変わらないから別にいいんだ。……だからさ、オレはまた彼女を焼くために、ここを出て元の世界に戻らなきゃいけないんだ」
「……なるほどな」
少し尖りすぎた例だとは思うけれど、この家疎という男の性質こそ、俺が若く顔の良い男のことを「いけ好かない」と思う理由そのものだった。
顔以外は平凡な男が顔を理由にちやほやされるのはいい。しかし、どうしてこのようなクズが、恋人を作れるのだろう? 顔が悪くても彼は同じく彼女を作り、同じく彼女を焼いたのだろうか? いいや、きっと女は誰も、彼に近づきさえしなかっただろう。あるいはさらっと流したSMプレイの段階で離れていっただろう。
何度も言うけれど、協力はしても仲間にはなれない。今の話を聞いてなおのことそう思う。やはり俺の思った通り、今回集められた人々はきっと皆人間のクズであるようだった。
「ところでカソ、俺は思うんだ」
「うん?」
「まともなゲームキーパーなら、勝者には恩恵を、敗者には罰を与えるんじゃないかと」
「……何の話だ?」
「撮れ高っていうのは、やっぱり決闘その物のことも含めるだろう。でなければ初めから戦わせなんかしないはずだ。首謀者ってやつは、確かに人間ドラマを見たがっているかもしれないが、同時に真剣勝負も見たがっている、違うか? だとすれば、俺たちが真剣になるように、勝ち負けにメリットとデメリットを用意していると考えることも自然だ」
ピリッと張り詰めるような空気が、俺たち二人の間に起こった気がした。あるいはそれは、実際に火の粉の弾ける音だったのかもしれないけれど。
投げ出された上着を囲むようにして座った男が二人。双方とも、人と分かり合えるような器を持ち合わせているようには思えない。むしろ家疎はもうすでに、俺が約束を破ろうとしていることを見抜いているんじゃないか。奴はクズだがどうやら馬鹿じゃないから。
「俺はそのメリットデメリットを確かめたいんだ、協力してくれよ」
「何を言ってる? オレに「降参」をしてくれってことか? ……確かに、困ったよなそれは。お前が自分の異能力について語ってくれたとして、で、そのあとどうするのかって話になるよな、確かに」
「ああ、だがそもそも俺は何も語らない」
宣戦布告とばかりに、重い腰を上げて立ち上がる。その俺を見上げる男の視線は、もはや協力的には程遠い物となっていて……。
「性癖を語って人間ドラマもクソもあるか、ボケ。撮れ高の考え方には賛成だが、だったらなおさら戦うしかないんだよ」
「ああ、そうかい。……で? お前の「催眠」だっけ、それはもう成立してるのか? オレがお前を焼いて、痛みで気絶させるより先に、例えばなんだ、オレの口から「まいりました」とでも言わせられるのか」
「ああ、出来るよ」
けれどそれをしたところで、「降参」の定義に当てはまるのかは微妙なところだと俺は考える。
催眠を成立させ、思ってもないことを言わせたという意味では、見方次第でそれは俺の勝利と言えるのかもしれない。けれども、そもそも一連のルールを作った首謀者は、どうも俺たちの心を読んでいるらしい。脳みそに直接情報を刻み込んできたり、開けと思った扉が勝手に開いたり、どうにも思考のプライバシーという物は、この空間に攫われてきた時点から我々に存在していないように思える。
だとすると、いくら口に出す言葉としての「降参」を発音させたところで、彼の心が折れていなければそれは降参扱いにならない……なんて判定が下る可能性も否定しきれない。降参とは心の底からの屈服である、という定義がこの「決闘」には適応されているかもしれない。
「やってみろよ。まさか目につく人間を無条件で支配出来る能力ってことはないだろ? 悪いけどオレがあんたに指をさしたのは、少なくとも、あの場の全員を奴隷に出来るような圧倒的強者のオーラなんか、あんたからはこれっぽっちも感じなかったからなんだぜ」
「オーラね……」
確かにそれは大切な物だ。吸血鬼のガキなんかは上手くやっていたもので、ああいった明らかな強者に喧嘩を売ろうとするやつはそうそういない。だから強い奴だけではなく、強そうな奴もそれと同じくらい、人生のあらゆる場面で得をする。
だから俺が本当に強力な催眠の使い手なら、能力の強さ……つまりその内容ならともかく、強者であること自体をあのタイミングで隠す意味はなかったはず。俺が戦闘狂であるか、情報収集のためだけにより多くの決闘を望む猛者であるか、人智を超えた知識によりすでに勝ち負けのメリットを知っていたか、あるいは馬鹿でもない限り、確かな力を持っているならあの時それとなくアピールしていて然るべきだった。
家疎が手のひらを俺の顔に向ける。あとコンマ一秒後には、そこから火炎が噴き出し、火刑に処された俺は痛みに耐えかねて心の底から敗北を認めるか、その前に気絶してしまうだろう。そうしたらその後の彼は、引き続き撮れ高の説を信じて、いずれ俺以外との人間とも似たような展開と似たような戦いを繰り広げるのだろうか。
あるいは、今を乗り越えた先でだって、彼はそうするのかもしれないけれど。
「ファイアパンチっていう漫画を思い出すなぁ。顔が燃え続けていると、息が出来ないんだっけか」
手のひらを自分の顔面に向かうようにひっくり返し、自らに火炎を放ち続ける家疎を見下ろしながら、決め台詞としてそんなことを言ってみた。撮れ高だ、これも。
あぐらをかいていた彼は銃弾に撃ち抜かれたかのように背中側へ吹っ飛び、倒れたまま、燃え盛るまま、もがき苦しみ始める。しかし悲鳴を上げることさえ出来ないまま、ひたすらに自らの顔面を焼き続けている彼は、もはや逆転の可能性など一つも持ってやしないだろう。
もしやあの炎は本人には効かないだとか、そもそも熱を感じさせる力があるということ自体嘘だったらどうしようとは思ったけれど、それは杞憂だったらしい。
彼は俺の催眠にかかり、己の意思とは関係なく自らの炎で自身の顔を焼き続ける。心の中で叫ぶギブアップを神のような首謀者が受信してくれるか、あるいは痛みのままにその意識を手放す時まで。永遠に彼は焼かれ続ける。
「勝者 差位置」
一分と経たないうちに機械的な女性の声でそんなアナウンスが流れ、同時に炎が霧散するかのように消え去った。……そして確認できた状況を見るに、どうも彼の能力による炎は、本人が気絶すると出すことが出来なくなるらしかった。
俺はぴくりとも動かなくなったその男を見下ろしながら考える。家疎の話には、問いただすほどではないけれど、釈然としない点がいくつかあぬた。
まず何よりも、彼女の顔を焼いたことと、自分の顔の火傷について、まったく話が繋がっていないこと。彼の顔の大きな火傷痕が、虐待に苦しめられた恋人の顔を焼いてしまう話と、少しも絡んでこないなんてことがあるのだろうか?
どちらにせよそれは、撮れ高を求めるなら早急に語られるべきことであるはず。彼女の顔を焼く話に関連していてもしていなくても、彼自身の、ずっと周囲に晒され続ける部分に関する思わせぶりな特徴については、何かしらエピソードが語られて然るべきだったはずなのに。それを語る素振りが見られなかった。
そしてもう一つ。それは彼の目的について。彼はここを脱出して元の世界に帰り、頭のおかしくなってしまった恋人をまた焼き続けることが目的だと語っていた。……けれど、いくら命に関わらない炎とはいえ、そんなことが果たして可能なのだろうか?
可能だというなら、彼は恋人にいつでも会える環境を、恋人をいつでも焼ける環境と両立させていることになる。彼の炎は証拠を残さない炎なので、警察沙汰にならないことはまだ理解出来るとしても、それにしたって彼が彼女の存在を確保出来ていることが俺にはどうも不自然に思えてしまう。
いくら精神が壊れてしまったとしても、その彼女は彼から逃げようとはしていないのだろうか。あるいはいくら親父がクズだったとしても、他に彼女のことを守ろうとする力(道徳的な物に限らず、制度的な物を含む)は発動されなかったのだろうか。
俺がわざわざ殺し屋の身分についてまで求めているような特例、「誰にとっても死んでくれた方がいい存在」になってしまった相手でもなければ、何事もなく奴隷同然の人間を手元に置いておけるほど、今の世の中は簡単ではないように思う。その全てを彼はことごとくねじ伏せていたのだろうか? 発火と、推理と、見た目の美しさだけを武器に? まさか彼も裏稼業に通じる人物だとでもいうのだろうか。
これらの疑問点は、ひょっとすると何かの拍子にあっけなくネタバラシされるのかもしれない。俺自身が殺し屋で、吸血鬼とやらが実在することを目の当たりにしていたりもする。家疎の件についても、どんな真実がそこにあったっておかしくはない。
けれど何か彼の、人間ドラマだ撮れ高だという主張のわりにそういった疑問を残す語り方は、妙に引っかかるところのあるものだった。
……ともかく、終わってみればvs家疎戦は、情報収集としてはこの上なく良い初陣となった。
例えばその情報というのは、決闘の決着についての考え方でもあった。痛みだけを与える炎というある種精神攻撃的な能力を持った彼と当たって、この戦いはかなり精神的な物のようだと察知したのだ。降参の概念がある時点でそれに気付くべきだと言えなくもないけれど。
例えばひ弱な右左のことを考えると、彼だってどうにかしてあのマッチョの戦意を折ることが出来れば、肉体へ物理的な傷をつける力がなくとも、戦いに勝利することは可能だということになる。
そういう意味では、性癖の語り合いというのは中々面白いアプローチのようにも思えた。ある意味それは心の底をさらけだす行為であり、だとすれば相手の精神的な弱点につけ込むチャンスと巡り会う可能性だって相当あるだろう。
だから俺は、もしもあの炎が本人に効かなければ、次はそういった攻め方をしなければならなくなるところだった。不良漫画のように殴り合うよりは、そっちの方が余程可能性があるように思う。
……と、そんなことを考えていると、気が付いた時には、俺はベッドの上にいた。まるで今までのことが夢だったかのように、布団の中で姿勢よく寝転がっていた。
少し離れた位置にあるもう一つのベッドでは右左がまだ寝ていて、枕元のデジタル時計は午前七時を示している。
「……夢?」
まさかとは思いつつ、いてもたってもいられず、ゲートとしての壁の前に立つ。まずはそれが、念じるだけで開くのかどうか。
これはあっさりと、俺が知っている通りの開き方をした。ゲートとしての壁は、開けと思えばいつでもすぐに開く。思えばテレビのあるホールから部屋に戻ってきた時だって、壁は勝手に開いていたのではなく、俺の意思が開いていた物だったのかもしれない。
完全に開ききった壁から飛び出して外へ出る。そこに広がっていた空間は……長い廊下だった。今はもう壁面の溝に光は走っていないけれど、はっきりと見覚えのある廊下。他の人々がいる個室とも繋がっている廊下だ。
一応俺はそこを探索してみる。というか、家疎の部屋を探す。しかし壁が開く場所には部屋番号が書いているだけで、どれが誰の部屋なのか俺にはわからなかった。ホールから各自がそれぞれの部屋へと戻る時に、誰がどの部屋の住人なのかしっかり見ておくべきだったか……。
しかし早々に諦めるわけにもいかない。さっき起こったことが夢ではなかったとしても、それが夢であった場合と同じように、俺と奴以外はそこで起こった内容を知ることがない。両名のどちらかから口頭で伝えられでもしない限り、誰も知る由がない。だから夢か現実かを確かめるためには、家疎に接触するしか方法がないのだ。
もしも彼が今、俺と同じような状況になっていたら、彼も俺のことを探すはずだ。しかし部屋の場所が分からないとなると、そうだホールへ向かうかもしれない。あの場が暗黙の集合場所として使われるかもしれない。何もしないよりは動いてみようと、俺は長い廊下を歩き始める。
……するとどこかから、この朝の静かな時間帯だからこそかろうじて聞き取れたような、微かな微かな、声のような物が聞こえてきた気がした。何かと思い周囲を見回し、やがて「まさか」と壁に耳を密着させてみると、その声はどこかの部屋から響いてくる物のようだという気付きを得る。各部屋の優秀な防音性能も、どうやら何があっても完璧な物というわけではないらしい。
やがて声の出どころは、一つの部屋に特定された。そこに耳をすませてみると、部屋の中から取り乱した男の声で、何度も同じ言葉が聞こえてくる。
「ごめん……ごめんな……ごめんなぁ……ごめん……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさいぃ……ごめんなさいぃ……ごめんなさいぃぃ……」
……壁から耳を離す。
その声は、家疎の物だったように思う。それだけ確認して、俺は自分の部屋へと引き返した。
あれはきっと、顔を焼かれる痛みを知った、彼の後悔の声だ。だから俺がさっき体験したことは夢ではなくて、本当にあった決闘だったのだ。
……そういうことにしておこう。でなければ俺は、彼のことを気味の悪い精神異常者としてしか見られなくなってしまいそうだから。これからしばらく、仲間ではなくとも隣人として過ごしていくであろう相手に、そんな印象を抱かなければならないなんて勘弁してほしいものだ。
部屋に戻ると右左が起きていて、どこから取ってきたのか、こんがり焼けて美味そうなトーストを食べていた。
「食べたいなと思ったら出てきたんです」
何も無かったはずの虚空から、牛乳の入ったカップを掴み取って、右左はそう言った。あまりにも彼の、適応能力が高すぎる。
俺も試しに、テーブルの前に椅子を持って行って座りながら、俺は朝はご飯派なんだ……と念じてみる。すると、白米に味噌汁に鮭の塩焼きに漬物に……と定番のセットが、いつ現れたのかも分からない速度で目の前に出現した。
考えてみれば俺たちは、これに慣れなければそもそも飢え死にしてしまうのか。そう思いつつ箸を持ち、せっかくなので情報共有を兼ねて右左に報告する。
「さっき決闘が起こったんだが、勝ったよ」
「へぇ」
彼は、今度はヨーグルトを出現させながら言った。
「まあ、あの感じだとそうなるでしょうね」