探求者たちのマッチ   作:氷の泥

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03 上位的Nの混入

 家疎との決闘から数日、勝者である俺の身には、拍子抜けなことにこれといって何も特別なことは起こらなかった。さらには、あれだけの人数に指名されたのに、次の決闘は一向に始まる気配もない。かといってそれとは別のアクシデントが発生するわけでもなく、そして大した不自由もないような、ただ限りなく無駄に近い数日の時が流れた。

 あれ以降何度試してみても、部屋の開く壁の向こうにある空間は、廊下以外の何物でもない。家疎と戦った「何もない大部屋」は幻覚の類だったのではないかと思うほどに、この部屋から続く「外」は廊下にしか通じていないのだ。だからこそ、そこから続くホールへならいつでも好きな時に向かえるのだけれど、そこに設置されたテレビが何かを映すことは今日に至るまで一切なかった。

 脱出のための現状唯一の仮説である「撮れ高」の件を考えると、いつまでも部屋の中で右左とだけ関わっているのは良くないんじゃないかと思えて、誰か来てやしないかと何度かそのホールに足を運んだりもした。しかしこれが、もはや誰一人として姿を見かけず、脱出に向けた申し訳程度の努力は徒労と化し続けている。

 よほどの入れ違いが起こっているのでなければ、誰一人として、部屋から一歩たりとも外に出ていないんじゃないだろうか。そう思えてしまうのは誰の姿も見かけないことの他に、まだもう一つ理由がある。

 その理由というのは、俺たちが拉致されたこの空間(便宜上「施設」と呼ぶ)の特性について。俺自身、撮れ高の進展の無さとは別に、ここでの暮らし方のコツをかなり掴んで来ているように思う。例えば飲食物は、望んだ物が望んだだけ出てくることが早々に明らかになっているし、それ以外の物でも大抵は何だって、望んだ物が望んだだけ手に入る。欲しいと思った時には目の前にそれがある……という環境が、この施設の特徴なのだ。

 そして逆に、「大抵何でも得られる」の例外側、望んだところで一向に供給されはしない物というのもあるのだが、どんな物がそれに当てはまるのかの基準も分かってきている。

 俺たちに与えられない物、言い換えれば、ここではきっと永遠に存在しない物。それはつまり、外部との交信手段だった。パソコンはもらえるけれど、インターネットには繋がらない。テレビはもらえるけれど、朝のニュースでジャンケンをして申し込む懸賞にさえ手が出せない。少年ジャンプを望んだ時に至っては、ここに拉致られて以降に発売された最新号だろうと供給されるが、読者アンケートのハガキはその中からご丁寧に取り除かれていた……。ポストも無いのにわざわざである。それが「メッセージ」であると俺は考えた。

 具体的に望めば「実在するインターネットページ」をオフライン画像として供給してもらうことも出来たことから、とにかくここの支配者(家疎の言う「首謀者」)は俺たちに不自由を与える気はなく、同時に外部との交信を許すつもりも一切ないらしい。そして他の拉致被害者メンバーは俺の知る限り部屋の外に出てこないので、オフライン生活を強いられる今、俺にある人間関係は右左ただ一人だけとなっている。

 しかし、だからそれが普通なのではないかと思えるのだ。例えば各自に与えられた部屋が、元の世界のそれぞれの自宅だったとしても、望む物がその場でなんでも手に入るというなら、人によっては外へ出る理由が全て消え失せてしまっても不思議ではない。だから実際誰も出てこない。

 まさか俺が早々に気が付いた「望めば得られる」ことにまだ気が付いていない人などいないだろうし、集められた全員が若干不自由で、しかしこの上なく快適な生活をしていることは確実だと見ていいだろう。だからまだ誰も、人恋しさによって部屋を出るほどには、その生活に飽きていないのだと思う。俺のように積極的に脱出しようという気持ちさえ、もしかすると弱まっているのかもしれない。それが誰の姿も見かけないことの理由なのかもしれない。

 この調子では撮れ高説を支持することも厳しくなる。あの時俺はそれを「変態だらけのテラスハウスか」と、ドキュメンタリー的な恋愛番組に例えたけれど、変態だろうと聖人だろうと、恋愛をする気がない人間が集まってしまったらテラスハウスは成り立たない。そして脱出の気力を失った状態が、俺たちにとってはその「成り立たなさ」の形なんじゃないか。だとすれば今の状態で撮れ高なんか確保出来るわけがない。仮に本当に撮れ高次第で脱出が叶うのだとしたら、今の俺たちは脱出から限りなく遠いところにいる。

 けれども逆に言えば、この状況から急転直下、ある日突然物資が限られた物となり、誰がそれを手にするかを賭けて仁義なき戦いが始まる……なんてことになれば間違いなく、血で血を洗う地獄の環境が控えていることが現状だ、とも思う。もしも家疎の提唱した撮れ高説が正しいのなら、あまり何もせずにだらだらと無為な日々を過ごしていると、いつかそんな悪夢のような「テコ入れ」が行われてしまうことになりかねない。

 とはいえそうであるとしても、事実として誰も部屋から出てこないというのに、その中で俺にどうしろっていうのか。これで俺までテコ入れの被害を被ることになれば、それはいわゆる連帯責任ってやつなのか? まさか神にも匹敵するような力によって、自分の天敵とも言える悪しき日本文化に相見えることを恐れるようになろうとは……。

 と、そんなことを考えながら、無限の供給をいいことに酒をかっくらい、うっかり昼寝してしまいそうになっていた何日目かのある日、右左が突然カミングアウトしてきた。

「実はぼくも決闘を体験しました」

 酔いも眠気もすぐに覚めた。

 右左が決闘に向かったことを俺が知らなかったのはもちろん、自分が決闘に参加させられた時を除けば、右左が姿をくらませたと思ったことさえ一瞬たりともなかったのに。

 だから右左のその報告で、あの決闘という物は、俺たちには原則認識出来ない概念の中で行われているのだということを知る。決闘が行われる際は、時間も場所も何もかも、いわゆる「現実」とは違う場所にある。……きっと決闘とはそういう物なのだと思われる。

 しかしそれはそうと、気になるのはその結果だ。子供みたいなちんちくりん体型の右左が、その異能力や精神攻撃を用いて、あの人間としては肉弾戦最強とも思えるマッチョに打ち勝てたのか。情報とかなんとか言う前に、単純にその決闘の内容に興味があった。

「負けましたよ」

 そっぽを向いたまま右左がそう言うので、かなり不本意な負け方をしたらしいことが察せられる。

「あー、そうかそうか。俺は勝ったんだけどな」

「いいですね、対戦相手に事欠かない人は楽しそうで」

「ああ、そうなんだよな……」

 今後のことを考えるとげんなりする。どうして俺だけがそう何人も相手取らなければならないのか。撮れ高が必要だというなら、俺以外の人がそれを満たしてくれれば最高なのに、その真逆が現実だとは頭が痛い。

「ちなみにどういう負け方したんだ。降参?」

「いいえ、死亡です」

「……は?」

 空耳かと思って聞き返すと、そうされることが分かっていたかのように右左が食い気味で答える。

「死にました」

「マ、マジ?」

「マジです」

「ちなみにどんな風に……?」

「内臓破裂です」

 ……まぁ、このチビが至って単純に、あの筋肉モンスターに喧嘩を売ったとすれば、なおかつなぜだかは知らないけれど降参しなかったのだとしたら、気絶とほぼ同時に死亡という結果が訪れてしまっても不思議ではないのかもしれないけれど。

「なんで降参しなかったんだよ」

「……それがですね、差位置さん。この降参というルール、ちょっと曲者ですよ」

 椅子に座り背もたれにだらんと身を預けて、らしくもなく右左は大きなため息をつく。

「心の底から「降参」と思わないと、適用されないみたいなんです。ちょっとでも「クソ、気に入らねぇ」みたいな、日頃の差位置さんが全ての人間に対して向けているような気持ちがあると、それは降参とは認められないんですよ」

「ははぁ、なるほど。今まさに思ったよ。クソ野郎が気に入らねぇってな」

 そう言って右左をにらみつけると、びびったことを誤魔化すためなのか卑屈な薄ら笑いを浮かべて、彼は俺から目を逸らした。そんな右左が暴力にさらされた時、楽な屈服よりも苦痛に満ちた死を選んだというのだから、人間ってやつは本当に分からない。

「で? お前は何が気に入らなくて殺されるに至ったんだ?」

「……それはあの男が、ぼくの能力に文句を言ってきたからですよ。この世に存在してはならない能力だとか、そんな能力を持つに至るぼくの精神や存在そのものさえ許してはならないだとか、無茶苦茶言ってくるんですよ、ゲイのくせに」

「……ん? あぁ、あいつゲイなの? 情報量よ」

 家疎の本性を見た限り、ここに集められたのはど変態の集団らしい……という話にも真実味が出てきているのだから、ああいうヤバい人間に比べれば、同性愛者なんかむしろ可愛いものだとは思うけれども。その線で言うなら今頃あのメスガキ吸血鬼が文学少女と性的によろしくやっていても俺は驚かない。

「まったく、歪んだ男尊意識の極みみたいな人でした。ああいう古い輩は現代社会に圧殺されて死んでしまえばいいのに」

「その理屈だと同性愛者を迫害するお前も圧死するだろ」

「え、ぼくは別に同性愛反対ではありませんよ?」

「……ああ、そうだったな。はいはい」

 俺は右左の性癖を把握しているので、その面倒くささと理解の出来なさを熟知しているので、深いところまで話を進めようとは思わない。右左の性癖や、それを取り巻く本人の意識の面倒くささを例えるなら、家疎が「え? オレは焼かれる女の悲鳴が好きなだけで、腹パンとかはむしろ許されない行為だと思ってるけど? 子供出来なくなったらどうすんのあれ」みたいなことを言いだすような物だと思っていれば大体間違いない。

 しかしまあそんなことはどうでもいいのだ。戯れもこのくらいにしておかないと、俺はあのマッチョからも指をさされているのだから、右左の死に様も洒落や他人事じゃ済まない。ひょろい人間相手なら内臓を破裂させかねない筋肉への対策を考えなければ。俺も肉体に自信があるわけではないのだ。

「ともかく、決闘中に死亡したとしても、決着後には生き返ることが出来るんだな。初耳だ」

「そうみたいですね。でなければ、ぼくはここにいませんから」

「それで、マッチョの能力は何だった?」

「不死です」

「……あ?」

「不死、死なない能力です。傷とかも全部瞬時に治ります。……だからまぁ、決着条件のうち一つは、彼にとって存在しないことになりますね」

「とんだチート野郎じゃねぇか」

「差位置さんも大概でしょう」

「俺の能力は公正だ! マッチョの不死はインチキだろ!」

「うわぁ、いっそすがすがしい」

 心の底から俺のことを軽蔑したような目をして、一度凄惨な死を経験したはずの小柄な男は、へらへらとそこで笑っていた。……右左、恐ろしい男。どうせあのマッチョにも自分の能力を使用して、あわよくば懐柔することを狙ったのだろう。

 そういうわけで、奇しくも俺がたどり着いた結論「決闘は精神勝負」がさらに補強されることになったけれど、正直ゴリゴリの異性愛者かつ普通体型である俺に、おそらくゴリゴリの同性愛者でありなおかつ脳みそどころか骨まで筋肉で出来ていそうな男の精神など、これっぽっちも理解できる気がしない。ゆえにマッチョのメンタル的弱点にも見当がつかない。……ならマッチョマンと戦う際はさっさと降参した方がいいのではないか? 今のうちに白旗の心情を練習しておかなければ。

 と、そこまで考えて、とても重要なことを忘れかけていたことに気付き、かろうじてその話題を口にする。

「ところで右左、負けたあと何か変わったことはあったか?」

「変わったこと? 敗北のペナルティみたいな話ですか」

「ああ。ちなみに勝者である俺には、今のところ認識できる恩恵が何もない」

 望んだ物が望んだだけ出てくることは右左も同じであるため、これが勝者に授けられる恩恵という線はない。

「ぼくも何もありませんね。……血を吐いて死ぬまで殴られる経験自体が、ペナルティなのかもしれませんけど」

「うーむ……」

 そう言われてみると、勝者となることの最大のメリットは、敗者が受ける苦痛から免れられることであると考えられるような……そうでもないような……。降参がただ口にするだけでは意味を成さないことと合わせて考えれば、決闘は勝利のメリットより敗北のデメリットが重視されているという説も、まったくあり得ない話ではないとは思うけれど、まだ何とも断言できる段階ではない。

 しかしなぜこんなにも、ここの「ルール」は不透明なのか。全てが手探りだ。最低限のこと以外、まるで説明しようという気概が感じられない。これが神のやり方なのだとすれば、やはり上位的存在というやつは横暴極まる存在なのだと感じるしかない。……そこを行くと、家畜から見た人間もそんな感じなんだろうけれど。

 いくら疑問を頭の中に浮かべても答えは降ってこず、不平を口に出しても何も変わりやしない。そのことを「まあいいか」で済ませられるような気分には一向になれないのだけれど、すると望んだ物がなんでも手に入るような、かなり恵まれた生活をしているはずなのに、文句や愚痴という物は必ず人間の中から湧いて出る物らしかった。人の心から湧き出る不満は、呼吸をするだけで吐き出される二酸化炭素と同じような物なのだと思われる。

 結局、あまり愉快な内容の話ではないことも相まって、決闘についての会話はそこまで長持ちせず、かといって他に何か盛り上がる話題といえば、今週のジャンプ読んだ? みたいな話しかないので、これといって特別なことはないまま今日の日の時間も浪費されていく。

 ……時間の流れが、ここと元の世界で同じなのだとすれば、そろそろ地下室の女たちの安否が気になってくるようになってしまった。食料は備蓄してあるけれど無限ではないし、そしてそこまで多量なわけでもない。その上、もしも彼女らが飢え死ぬことになるのだとしても、そうなったところで困る人間は、本人たちを除けば俺以外に誰一人として存在していない。そういう人間を選んで閉じ込めているのだから、それは当然のことなのだけれども。

 もしも彼女らの無惨な亡骸を見ることになるのなら、それよりはいっそここから出ていかない方が俺にとってはマシかもしれない。そんな思考が頭をよぎる間隔が、近頃段々短くなっている気がする。

 けれど結局、良心に欠けた俺という人間は、何か不安になったようなフリをしながらも毎日夜はぐっすりと眠れるのだった。

 

 

 

 

 

 ハッとして目を覚ますと、また部屋に右左がいない。時計を確認すると九十九時九十九分。また同じだ、二回目が来た。あれだけの人数に指名されたわりに、かなり遅いペースだったように思う。一日一人のペースで襲い来るものかと身構えていた時期もあったのに。

 寝室を抜け出して開く壁を抜けて、やはりだだっ広い空間に出てきた俺は、またその遠い向かいにもう一人の人間が姿を現すところを見た。前回に続いて今回も入場のタイミングまで同じとなると、これは本当にこの場の時空が歪んでいる気がしてきた。

 今日の対戦相手は、銀髪高身長の女だった。初めに集合した日、廊下を歩きながら漫画を読んでいたことが印象に残っている。というかそれはジャンプだったのだけれど、だからといって「好きな漫画なに?」と声をかけるわけでもあるまいし。

 向こうが愛想を振りまくような微笑みを携えて何の躊躇もなく、ほんのわずかに速い歩みで接近してくるので、俺はそれに対して少し後ずさってしまった。

「ああ、安心してください。危害を加えるつもりはありません」

 なぜだろう、両手を上げてそう口にする銀髪女の言葉は、紛れもなく彼女の心の底からの、本心であるように思えた。敵意というものがまったく感じられない。自分をそういった感情に鈍感である方だとも思わないのだけれど。

 そして、だからというわけではないのだけれど、今まで漫画雑誌の方に意識を持っていかれていて全然気が付かなかったことに、今になって目が向いた。いざ面と向かってみると、俺の視線は、彼女の巨大な胸に多少なりとも吸い寄せられたのだ。そのこと自体はしょうもない男の生態でしかなかったのだけれども、しかしそれで一つ思いついたことがあった。

 

「差位置 対 ニマド」

 

 機械的な女性の声でそうアナウンスが入った。ニマドとはまた妙な名前の奴が来たもので、そうなってくると彼女は異国の血が入っている人物で、ひょっとして銀髪が地毛だなんてこともあるのかもしれない。

 自己紹介より先に他己紹介をされたからか、なんだかバツが悪そうに彼女は苦笑いを浮かべて、

「どうも、ニマドと申します。サイチさん……?」

 そう俺に問いかけてくる。彼女の声はいわゆる清楚な物で、これが初対面であったなら、まさか目の前の女が少年漫画を愛好しているとは思わなかっただろう。

「あ? ああ、そうだ、差位置」

「よろしくお願いしますね」

 初めて見た時のイメージとは違う口調で挨拶をして、それから彼女は、背もたれの付いた大きな四脚の椅子をその場に出して座った。

 ああ、なんだ、この闘技場とも言える空間でも、望んだ物が与えられることには変わりがないのか。そう思って俺も椅子を出そうとすると、すでに自分の隣に彼女が座った物と同じ椅子が出現していた。

 ……望めば瞬時に叶うとはいえ、ここ数日で経験してきたそれよりも、少し速すぎる気がする。そんな違和感を覚えながらも、とりあえずその椅子に座る。ここまでが全て彼女の策略の範疇なら、もはや俺は敗北する他にないように思う。

「……ああ、あの、すみません。危害を加えないというのは、少し語弊があったかもしれません」

 いかにも申し訳なさそうな表情で彼女が言う。

「え?」

「敵意はありません、というのが正確でした。……これから見た目が少し乱暴なことをしますけれど、痛くはありませんし、ちゃんと元通りに治せるので、心配しないでくださいね」

「何の話だ?」

「えいっ」

 彼女が空気をかき混ぜるようにくるくると人差し指を回してから、俺の肩に向けて何かを飛ばすように、その指先をポイっと前に向けた。……目の錯覚でなければ、その瞬間彼女の指が発光したように思う。

 直後、何かが床に落下する音がした。ボトリと、それは重いのだか軽いのだか分からない微妙な音だったが、しかし直感的に、それなりに大きな物が落ちたことを察する。

 はて……、と床を見下ろせば、そこに落ちていたのは腕だった。五本の指先から始まり、絶たれた肩で終わる、一本の腕だった。

 右肩を見ると、丸々自分の腕がなくなっている。落ちた物は自分の腕である……という事実を受け止めるまで、ひどく長い時間を要したような気がした。

「……痛くねえな、確かに」

 驚くほど何の感覚もない。仮に残った方の片手で、肩があった箇所の断面に触れてしまったとしても、何一つ苦痛は生じないような気がしたけれど、さすがにそれを実行することはない。

「ああ、パニックにならないんですね。助かります。こういったやり方しか知らなくて」

「いや、まあ、死んでも生き返れるらしいことを知ってるからな」

「え、そうなんですね。へえぇ」

「……何者なんだ? あんたは」

 おおよその答えを予測しながら、無謀にもその女を睨み付ける。……この女はたぶん、人間じゃない。人外は吸血鬼だけではなかったのだ。

 痛覚を麻痺させながら腕を落としただけなら、それは俺と同じような異能力者だということの証左に過ぎなかったのかもしれないけれど、その事実は事実として、依然として俺には彼女の敵意が皆無と思えてしまう。その矛盾は、仮に彼女が人間だったとしても、不可解極まる物であることに変わりはない。むしろ彼女が人外であってくれた方が、この異様な環境下では納得出来てしまいそうな気がするのだ。

「何者と聞かれますと、魔女です。……と言っても分かりませんよね。ええとつまり、私は、サイチさん含む大勢をこの空間に攫ってきたような存在と同じ、人間より上位的な存在なんです。……ああ、すみません、語弊がありますね。私は決して人間を下に見ているわけでは……」

「なるほど」

 片腕を落とされてバランスの悪くなった体で、煙を吐くようなため息と共に、背もたれへ体重を預ける。

「すみません、魔女であることを手っ取り早く理解してもらうために、ちょっと乱暴な手段を使ってしまいました。ごめんなさい」

 魔女であることの証明とはつまり、俺がどうあっても勝てない相手であることの証明という意味だった。この施設へ俺を拉致った首謀者に、まったく手も足も出せていないことと同じであるというわけだ。

「それは構わないが。……俺たちは今から戦うのか?」

「んー、まぁ、形式上は……?」

 何にせよ二人のうちどちらかが敗北条件を満たさなければ、きっと永遠に出られない空間が今いる場所であろうから。だから俺たちがやることは「形式」と書いて「ポーズ」と読むような事だけれど、彼女が乱暴な手段とやらを初手に使ってくれたおかげで、俺はもはや彼女には勝てないことをすっかり理解している。降参しようと思えばきっと今にも出来る。

 けれども上位的存在という対戦相手は、そんな存在にこうして出会えたということは、彼女から仕入れさせてもらわなければならない情報が山ほどあるということではないか? 俺たち人間が持っていない知識を彼女なら持っているかもしれない。家疎の推理よりも確実な、ただの事実を彼女は知っているかもしれない。

「決闘に勝ったり負けたりすることのメリットって、魔女なら知っていたりするのか?」

「え? いいえ、まったく。私は船馬(せんば)……あの爪を噛む癖のある、猫背の男性、わかりますか? 彼と形式上戦い、そして勝ちましたけれど、二人とも何も起こらなかったように感じます。サイチさんは、勝ち負けで何が起こるのか、知っているんですか?」

「いや俺もまったく」

「……ああ、もしかして魔女である私に、ここの知識を期待していますか?」

「正直」

「あら……。それは、ごめんなさい。それはダメなんです。私にも何一つ分かりません。ここに船馬と来たこと自体、私の意思ではないのです」

「なるほど」

 そう冷静に言ったつもりだったけれど、内心での落胆はものすごかった。情報が何もないなら、俺はただ彼女に負けるだけのことしか出来ない。降参ですと口にして、それでハイおしまいだ。人外に接触して得られる物って、こんなものなのか……?

「それより、ごめんなさいね。指名相手は誰でもよかったんですけど、結果がなんだか、集中狙いみたいになってしまって」

「え? あぁ、いいんだ別に。それは、そういうものだから」

 殺し屋をやっていた時も、舐められるということに関しては、今とさほど変わらないことだった。業界に名が売れたところで、である。

 美女殺し差位置。その名は裏の世界に轟いたが、その名前がまた「監禁趣味の悪趣味野郎」という意味を持っていることも、名前と同じくらい広く知れ渡った情報となっている。だから業界ではほとんどの人間が、多かれ少なかれ俺のことをこのように捉えている。差位置は結局「殺し」が出来ない二流だ……と。

 仮に俺が地下室に連れ帰った女を拷問の末に殺す趣味を持っていたとしても、依頼対象を私的な理由で一度生かすこと自体が、「本物」たちにとっては二流なのだ。……そう思ってくれる方が好都合で、むしろ俺にはありがたい話なのだけれども。

「……せっかくですし何かお話ししますか?」

「え?」

 ひょっとして一切の苦痛なく俺の息の根を止めるのではないかと思われた魔女が、その時何を言い出したのかわからなかった。

「趣味のこととか」

「……えっ?」

 彼女が脳の垂れた男と同じく、心を読む能力を持っているのだとしたら、俺が今ここで生存していることはひとえに彼女の慈悲によるものだった。何を考えるよりも先に、「は? 何を言ってんだこの女は」と心底思ってしまったから。

「こうしてお話しする機会を得たことですし、せっかくならどうかなと思いまして。腕のお詫びでもあります」

 言うと同時に、落とされた腕が宙に浮かび上がり、接着剤でそうするかのように俺の肩に押し付けられる。するとそれですっかり治ってしまったようで、ぐるぐると肩を回し動かすことも出来るようになった。痛みどころか違和感一つなく、完全に元通りくっ付いたのだ。

「……ニマド、と言ったか」

「はい」

「負けたくないんだな、あんたは」

 気のせいかもしれないが、相手の心に踏み込みすぎたかのような静寂が訪れた気がした。右左が俺から目を逸らす時の気持ちがよくわかる。まさか奴にとって俺が上位的存在というわけもないだろうけれど。

「船馬という男は、あんたの身内なんだろう? 彼があんたを指名したのはそういう理由なんじゃないか?」

 文学少女が吸血鬼を指名したことは、彼女が見た目のイメージ通り非力あるいは臆病な存在だったなら、身内票のような決闘に逃げ込むことが目的だったのだろうと推測出来る。右左がマッチョを指名したような例外があるから「見た目上の弱者は身内を指名する」ということが必ずしも絶対ではないとも言えるけれど……。

 俺が右左を指名したように、文学少女が吸血鬼を指名したように、爪噛み猫背の船馬は、身内であるニマドを指名したんじゃないか。半ば当てずっぽうの推理だったが、

「ええ、そうですね。彼は私の友人です」

「でも決闘にはあんたが勝ったんだろう? 人間より余程強い存在が、友達の負けを肩代わりしてやろうとは思わなかったわけだ」

「……そうですね」

「ペナルティが怖かったんだろう。それを与える存在もまた上位的な物で、何をしてくるか魔女であるあんたにさえ分からなかったから」

「まったくもってその通りです」

「だから今もあんたは負ける気がない。お詫びだ何だと言って、どうにか俺に降参させようとしている。違うか?」

「……違いません。何も」

 推理は当たった。けれどそれは特に愉快な物でもなく、家疎はなぜあんなに楽しそうに語れたのだろうと不思議に思う。

 それが当たっていようと外れていようと、誰もその推理自体を評価したりはしないのに。

「サイチさんの言う通り、私はペナルティを恐れています。一度負けただけでは何もなかったとしても、二度三度と負けた時も同じとは限りませんからね。私は船馬のことを大切には思っていますけれど、それ以上に元の世界に帰りたいのです」

「なるほど……」

 だったら、と思う。彼女に家疎の推理、撮れ高の件を話せば、かなり協力的に動いてくれるのではないかと。何せ人外の存在だ、味方に付けるに越したことはないはずである。

 ……しかし一方で、右左の顔が脳裏をよぎってしまう。なぜ降参しなかったのかと聞いた俺にあいつは言った、気に入らないからだと。……俺もたまには、あいつを見習ってみてもいいんじゃないか。そんな考えがよぎってしまうのだ。

 そして俺はその考えが抑えきれなかった。勇気を搾り出すような深呼吸なんかせず、肩の力もわざわざ抜こうとしたりせず、けれどせめて目だけはそっぽに逸らしながら、胸の内に浮かんだ言葉を吐き出す。

「しかし、お喋りがお詫びになるって、よほど自分の価値を高く見積もってるんですね?」

 それだけは言わずにいられなかった。

「あ、もちろんお喋り以外でも、なんでもいいですよ」

 魔女を名乗る女はほんの少しの動揺も見せなかった。俺に内心を言い当てられた時はそうでもなかったのに、俺から悪意をぶつけられた時は、驚くほどびくともしていないように思う。

 そして今に至っても、彼女から敵意という物が感じられなかった。それでようやく俺は気が付く。彼女は敵意を持っていない。ただ罪悪感があるだけなのだ。自分が負けないことは決定事項であり、それに付き合わせる相手に罪悪感を抱いている。彼女にとって勝つこと自体には、そもそも敵意なんか必要ないのだ。

 だから何か、本人が人外を自称する通り、彼女のメンタルは人間に理解出来ない構造をしている気がする。さっきから試しているけれど、彼女には俺の催眠が効かない。どうやら俺の催眠能力が、相手の心理状態に大きく依存するその「発動条件」を満たしていないらしい。

 その事実が俺を困惑させる。彼女は負ける気が一切なく、俺は彼女と初対面であるはずなのに、それで能力が適用されない理屈がまったく理解できない。

「この場でならどんな言うことでも聞くので、私に勝ちを譲ってください。サイチさん、お願いします」

 訴えかけるような目で彼女が言う。あまりにも真っ直ぐで、本当に何を言っても「わかりました」としか答えなさそうな目。

「……なんで俺に負けさせようとする。別にあんたは、力ずくで勝ってもいいわけだろう」

「それはそうですけど……。ですから本当に、お詫びですよ」

 そう言われて、俺はまさかと思い至る。まさかここの主催者、脳の垂れた男も、「お詫び」で俺たちに望んだだけの物を寄越してくれるのか……?

 人外の考えることは、何にせよ人間には分からないことだった。けれども人間は、そもそも人間同士でさえ……。

「だったら……」

 もしかすると魔女が想定していたかもしれないことを、俺はそこで要求した。それは単純に俺の望みを、この場で実現出来る範囲に割り切った物だった。

 俺が要求したことを、魔女は案の定と言うべきか少しも驚かず、即答で「いいですよ」と了承した。そしてその要求を果たすべく彼女は立ち上がり、俺の方へ向かってくる。俺はそれを座ったまま待ち構えた。彼女の目を見て、彼女のことを見上げながら。

 ……ニマドという名の魔女は間違いなく人外だ。彼女の精神は、人間に理解できる物じゃない。催眠は最後まで効かず、要求が果たされてからしばらくあとに、もはや口にするまでもなく、俺の降参は認められたのだった。

 

「勝者 ニマド」

 

 魔女は最後に俺に耳打ちをして、それにより俺の心へ釘を刺す。

「これでお詫びは終わりなので、会いに来たりするのはやめてくださいね」

 なぜ彼女がそう言ったのかは分からない。単純に面倒な相手に関わりたくないと思ったのか、それとも他に理由があるのか。何にせよ俺はその警告に背く気なんか少しも起きなかったけれど、最後にこれだけは言っておく。

「なら今のうちに話しておきたいことがある。ここから脱出する方法の、候補かもしれない物だ」

「えっ、なんですかそれ」

「撮れ高説というものでな……」

 ……それを魔女に説明し終えて、具体性のない協力を約束されたその瞬間、俺はベッドの中で意識を取り戻した。悪い夢から覚めたみたいに、心地の悪いはっきりとした目覚めだった。時計を見ると、またしても午前七時ちょうどが表示されている。

 俺は、布団のぬくもりに包まれたまま虚空へ向かって願う。望めば叶うのだとしたら、地下にいる女たちを、ここに連れてきてくれ……と。しかし薄々分かっていた通り、やはりその願いは聞き届けられなかった。外との交信がタブーだというのなら、外の存在そのものをこちら側に閉じ込める形にすればどうかと思ったけれど、そんな理屈はどうやら許されないらしい。もしかすると、これ以上他の人間をここに連れてくること自体が禁止されているのかもしれない。

 女は望めば得られるのか? 自分の男としてのくだらない習性を改めて自覚した際にそんなアイデアが浮かんだが、それは状況と不安を打破するだけの力を持つ閃きではなかったようだ。

 ……俺は二度寝を決め込むことにした。

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