吸血鬼マリアとの決闘から数日。未だ罪悪感を引きずる俺のもとに、暴風雨が窓を叩くようなけたたましい勢いで、まさしく天災のようなノック音が響いた。部屋の、望めば開く部分の壁の向こうから、ドスドスドスドスと荒々しく壁面を殴る音がする。
せめてそれが本当の天災のように、どうしようも無い不幸ながら、感情とは無縁の単なる自然現象なら、まだマシだったのかもしれない。「開けろ、開けろ! 差位置! 開けろ!」と、正気とは思えない怒気でもって、狂いかけの声が壁一枚隔てた向こう側から聞こえてくる。少しも止まる気配がない壁の殴打の音は怨嗟の音であり、諦めてその壁を開いてみると、やはりそこには鬼の形相の女が立っていた。
声から察せた通り、その女は子供だった。三つ編みと細い丸ぶち眼鏡の、吸血鬼と仲の良い文学少女。彼女が俺への明確な憎悪を纏ってそこにいた。次の瞬間にも刺し殺されそうに予感してしまうほどの、凄まじい復讐の眼光を目の当たりにする。
「あんたマリアに何したのよ!!!!」
吸血鬼と同じく子供の中でも背の低い彼女が、俺に食ってかかる勢いで首根っこを掴んでくる。比喩ではなく、背伸びをしているようだった。
「あの子がずっと怯えてる。私の血を吸ってくれなくなった。あんたと決闘してからよ!! 何をしたの!? どんなひどいことをすればあの子をあんなに出来るの!? 大人のくせに!! 人でなし!」
「……悪かったと思ってるよ」
「悪かったで済むわけないでしょ……!!」
「…………」
チッ……と舌打ちが聞こえた。
ドスドスというノック音が響いていた時はへっぴり腰で怯えていた右左が、そのほんの一瞬後の今となっては、背後からそんな音を聞かせてくるようになったのだ。
なぜこの修羅場にそんな音がはっきりと聞き取れたのかは俺にも分からないけれど、それは同じく文学少女にも聞こえたらしく、
「何よあんた、コイツの仲間? 自分の身内が人の心を殺したのに、あんた何も思わないわけ!? この、……人間のクズ!」
「やめて!」
怒り狂う友人の後を追って現れた吸血鬼が、まさに顔面蒼白といった様相で叫んだ。
「やめて、鈴、もうやめて。いいから、やめてよ。お願い……」
しがみつくように背後から友人の肩を抱き、そのままへたりこんでしまいそうなほど足を震わせる彼女は、しかしただそうやって頼み込むだけで、どうやら吸血鬼の力を使わないようだった。
第一印象から受けた彼女の性格上、やめてと言うなら力ずくでやめさせようとしてもおかしくなさそうなものだけれど、友人相手にはそういう乱暴な真似を控えているのだろうか。……それとも俺が、彼女のことをそんな風に変えてしまったのだろうか。
自分に関することで他人に怒り狂う友人を止めようと、必死になる少女。彼女は友の振る舞いを恥と思っているわけではなく、むしろそんなことを考える余裕もないほどに、俺に対して震えるほど恐怖しているように見てとれる。
「あの、違うんです、鈴は悪い子じゃないんです。違うんです」
実際にそんなことは行われていないのに、吸血鬼が跪いて許しを乞う光景が見えてくるように感じた。そのくらい露骨に、彼女は俺に媚びていた。
……強く、強く、俺は反省する。催眠能力をあのような形で使ってしまうと、使われた相手は後々こうなってしまうのだと、実のところ今日初めて知った。無責任なことを言ってしまえば、まさかこんなことになるとは思わなかったのだ。けれどいざ眼前の光景を突きつけられると納得してしまう。なぜこうなることが予想出来なかったのか、一瞬前までの自分が馬鹿馬鹿しく思えてしまうほどに。
「……ああ分かってる」
敵意がないことを伝えたかったのだけれど、吸血鬼の少女は少しも安心してはくれないようだった。
文学少女は、まじないのように「違うんです、違うんです」と繰り返す友人の姿を見て、怒りとは違うなんとも言えない憂いの表情を表している。それで彼女も沈静化させられたのか、荒れ狂う様から人が変わったかのように疲れきった顔をして、俺の存在が見えていないかのように、無言で背を向け去っていった。
……そして彼女は振り返ることなく、ぶら下がった腕の先で小さく逆さまのピースサインを作った。
吸血鬼が「ごめんなさい、ごめんなさい」としきりにこちらへ向かって頭を下げながら、幼児めいたおぼつかない足取りで友人の背を追って去る。……二人が完全にこの場からいなくなったと見るや、ネットに繋がらないスマホをいじりながら右左が言った。
「ああいう女は嫌です」
「だろうな、お前は」
右左がスマホで何をしているのかというと、彼はここに来てからというものその機械をカメラとしてしか使っていないので、それとなく覗いてみるとやはり写真を眺めているだけだった。
俺にはあまり見覚えのない女の写真。それは芸能人やフリー素材の類ではなく、彼が個人的に付き合いのある人間の物だろう。写真はここへ拉致される前からスマホの中に入っていた物のようだ。別に懐かしむわけではなく、拠り所にするわけでもなく、右左はそうやって時々写真を眺めている時がある。彼の趣味の一つだ。
単純にそれがちょっと羨ましい。地下室の女を写真に収めてしまうと、それは世に出してはならない情報を増やす行為になるので、そうそう気軽に撮影することは出来ない。……というのが建前で、俺は他人の姿を写真に残そうと思うことが出来ない。右左を見ると羨ましくなるのに、いざ真似出来るとなると、やっぱりやめておこうという気持ちになってしまう。
あとから見返すことで愉快な気持ちになれるほど、俺の人間関係はどこを取っても良い物ではないのだ。……もちろん右左の写真を撮ったところで何一つ面白くない前提の話である。
……その日の夜、長らく触れていなかった俺のスマホがヴーッと震えた。インターネットに繋がらないのではガラクタじゃないかと、ずっと放置していたそれが、何らかの受信を表現したことは小さな異常事態だった。
その振動音でもって「そういえばここに置いていたのか」と思い出す程度にはスマホから関心を失っていたのだけれど、そのわりには一瞬で、その微かな音に気が付けたことに、何か意図的な、神にも等しい力が働いているのではないかと勘繰ってしまう。……まさか「テコ入れ」の通達ではあるまいな……? そんな予感がよぎり少し恐れながらも画面を見ると、
「今朝はすみませんでした」
鈴という名前のアカウントから、メッセージが送られてきていた。
なるほど、と思わず心の中で手を打った。俺たちが禁止されているのは「外部との交信」であって、この施設内に連れてこられた者同士なら、こうしてオンライン風のメッセージを送り合うことも可能なのか。それもまったく連絡先を教えた覚えがない相手からのメッセージとあっては、むしろこれは「首謀者」から推奨されている行為なのでは……という印象を受ける。そのわりにいつも通り説明不足なので完全に盲点となっていたけれども。
鈴からのメッセージは続く。元々考えてあった文面を小分けにして送るかのように絶え間なく、しばらく触れていなかった「メッセージ」という形でもって文章が送られてくる。
俺がベッドに潜り込んでその内容を読む一方、右左はすでにすやすやと静かに眠りについていた。
「ある朝、マリアが別人のように臆病な子になってしまった。ずっと何かに怯えていて、私に対しても「今までごめんなさい」というような言葉ばかり繰り返すようになって、ついこの前までの、自信と自己肯定感に満ち溢れた彼女の姿は消え失せてしまった。その原因をすぐには気が付けなかった自分が情けないけれど、でもそれくらい本当に、彼女が決闘に負けるだなんて信じられなかった。ましてやそんな、心に傷を負う形になるなんて。
けれどそれは私の勝手な思い込みでした。どれだけ聞いてもマリアが「言えない」としか答えてくれないことだから、あなたが彼女に何をしたのかは、もう考えないことにします。
そして、今日の私の、無礼な行いのことは謝ります。私に出来ることならなんでも、どんなことでもします。なのでどうか、マリアのことを許してあげてください。彼女はあなたに対して怯えているように思います。私にはそれしか考えられません。どうか彼女を許してください。お願いします」
……一通り読み終えて、一度画面から目を離す。
それを読みながら、俺は、やはり自分が今までしてきたことは正しかったのだと痛感した。「今まで」というのは、「ここへ連れてこられる以前まで」という意味だ。
わざわざ殺し屋として振る舞ってまで「誰からも見捨てられた女」を探し求め、それを地下室に監禁する相手として選んだことの理由は、本当のところ二つある。一つは当然、世界が俺の所業を暗黙の形で肯定してくれることの好都合と、ついでにそれが金にもなること。そしてもう一つは、……誰かから求められる人に対して俺が手を加えると、やはり今のようになってしまうからということ。
「まず要点から話すと、俺の異能力は催眠の能力になっている」
一瞬で既読のつくトーク画面へ、暗い部屋の中で液晶の光に照らされ視力を焼かれつつ、俺は淡々と文章を打っていく。出来るだけ何も考えないように。いろいろなことから目を背けるように。
「彼女が怯えているのは、まだ自分がその催眠の支配下にあると思っているからだろう」
催眠に対する恐怖の仕組み。それが俺の今日初めて気が付いたことだった。
催眠によって恐怖を植え付けられた人間は、その後現在のマリアのようになってしまう。なぜかといえばそれは、考えてみれば何のことはなく当然のことだったのだけれど、「いつかけられたか」が分からない能力は当然、「いつ解かれたか」も分からない。だからあの吸血鬼はずっと「次」に対して怯えている。決闘以外で異能力を使ってはいけないなんてルールはどこにもないから。
「が、俺の催眠は解けない。一度かかったらかかりっぱなしになる性質をしている。けれど重要なのは、これがあくまで催眠であることだ。俺の望んだ通りに相手を操る能力は、俺が何も望まなければ完全に無害となる。そして俺はもう、あの吸血鬼に何を望む気もない。もちろん君にその見返りを要求するなんてこともしない。
だからそのかわり、今後俺やその身内に関わらないでくれ。そちらが何もしなければこちらも何もしない。怯えさせてしまったことは申し訳なく思うけれど、言い訳がましいことを言わせてもらえば、他に決闘を終わらせる方法が思いつかなかった。しかしこれ以上何もしないことは確実に誓うから、それでどうにか手打ちにしてもらえないだろうか。
本当に悪かった。出来れば彼女にもそう伝えてほしい」
それが俺に言えることの全てだった。悪いと思っていることに違いはないけれど、かといって彼女からの報復を甘んじて受け入れるという気にもなれない。いくら申し訳ないとは思っていても、死んでもいいという気にはそう簡単になれるものではない。だからこの傲慢で不誠実な文面が、俺の言えることの全てだった。
これでようやく気付いたことだけれど、
……既読がついてからしばらく経ったあと、短く返事が表示される。
「分かりました。私たちはあなたやその友人に一切危害を加えません。マリアのことは私の方でどうにかします」
「申し訳ない。ありがとう」
それきり鈴という文学少女からの音沙汰はなくなった。
俺は、意図的に情報を伏せた。本当のことを言うと、マリアだけではなく鈴も、とっくに俺の催眠にかかっている。怒り狂う彼女に対して身の危険を感じた俺は催眠を試みて、それが成功したのだ。だから彼女は本人の意識の外で、俺に操られたことを示して、逆さのピースサインをささやかに作って見せた。彼女だって一生催眠の対象候補からは逃れられない。
だから催眠に怯えるということは、それを自覚しているかどうかという話に過ぎないのである。彼女が約束を守ってくれる限り、俺の方も誓ってこれ以上催眠を悪用することはしない。催眠の存在に怯えずに済むことと、催眠の効果外にいることはまったく別なのだ。
鈴が友人を心配することばかりに集中していられる事実が、俺の催眠は無害になることもあると証明している。だから本当は、マリアが催眠に怯えることは臆病に過ぎる話なのだけれど……。けれどもそれは、俺だけが知っているべきことであるように思える。
あの吸血鬼には頼れる友人の存在が必要不可欠なはずだ。万が一にでも、その友人まで同じ恐怖にのまれてしまうようなことだけは、今のマリアのためにあってはならない。だから俺は黙っていることを選んだ。
それから数日が経ち……おそらく約一週間後。マリアや鈴とは一度たりとも顔を合わせることはなく、むしろさすがの俺も部屋の外に出る気力が失せきってしまっていた頃。自分の置かれている状況を忘れさせはしないと言わんばかりに、神の力によってそれはやってきた。
九十九時九十九分、他に誰もいない寝室にて。四度目の決闘の始まりを察した俺には、ため息を吐く気力も湧いてこなかった。
どうか今回の相手は右左でありますように。それならこれといった苦労もなく終えられるだろう。催眠が効かない相手に対してなら、俺はどうしようもない敵意の類からは解放される。きっと魔女の時と同じように早々に降参出来るはずだ。逆に筋肉ダルマだけは勘弁してもらいたい。いつか必ず来るとは分かっていても、あんなやつと戦うなんて絶対に御免だ。もっと言えば、右左の二の舞は御免だ。
部屋を出て、闘技場と呼ぶに相応しい広大な空間に赴く。反対側から現れた対戦相手は……全部で三人いた。
男一人、女二人。なぜだか両手に花の状態となっているシンプルに醜い容姿の男が、今回俺の対戦相手となるらしい。……心を読める首謀者が、間を取ったとでも言ったところか?
「差位置 対
アナウンスが流れると、図体の大きい獣の類を彷彿とさせる聞き取りにくく低い声で、両腕ともを別々の女と組んでいるそいつが話しだす。
「お、お前だろ? 魔女に妙なことを吹き込んだのは」
一瞬、彼が何の話をしているのか理解できなかった。けれど「魔女」という、普遍的なわりにこの場では明確な一個人を指す言葉によって、瞬く間に記憶が呼び起こされていく。
撮れ高説を知った魔女がどんな行動に出たのか、あるいは何もしていないのか、俺はまったく感知していなかった。けれどどうやら水面下で彼女は動いていたようだ。
「妙なこと?」
「撮れ高が何とかって聞いた。へ、部屋の中に急にあの魔女が現れて、俺に吹き込んできたんだ、決闘をするなら撮れ高を意識しろ……ってな。具体的な方法も聞くには、聞いたが……なあ、意味あるのか? それは」
「知らんよ。やらないよりマシだろう」
「ふん。そんな程度のリターンで、じ自分のことを、ペラペラ喋るのは、俺は、どうかと思うけどなぁ。……まあ俺は、隠すほどのことでもないから、教えてやるけど」
彼からまるで分離するかのように、二人の女が離れてその場に立つ。気の強そうな金髪ショートの目付きが鋭い女と、育ちの良さそうな両手を前で揃えた長髪の女……。
「おれの願望は「百合の間に挟まれる」こと。そして、そこから生まれた異能力は、無から百合を生み出して、それを使役する力」
「ははぁ、なるほど」
それは確かに本人が言うように、隠すほどの物ではなかった。戦闘においては、細く力の弱そうな女を二人呼び出すことによって作られる「三対一」の構図が彼の能力の全てであり、初見殺しの要素もなければ対策という対策もない、見ての通りの内容、それ以上でもそれ以下でもない能力だ。
そして性癖自体も、過去に二通り見たようなイカれたサディストたちに比べればずいぶんマシで、また比較的理解しやすい物であるように思う。百合(平たく言ってレズビアン)に挟まれたいという部分は若干理解し難いが、二人の女を同時にはべらせたいという程度の欲なら、それは多くの男が持っているポピュラーな欲だと言えるだろう。
屈折した性癖を持つ相手や、逸脱した精神に圧倒的力を持つ魔女などに比べれば、この音無という名の男は、総じてかなりイージーな相手だと言える。
「そ、そっちの能力も教えてくれよ。撮れ高になるんだろ?」
「ああ、俺は催眠だよ。由来はまあ……言わなくても大体分かるだろう。能力はエロ漫画に出てくるそれと同じ内容だ」
「なら、この二人に催眠が通じるかどうか、それが勝負の分かれ目になるわけだ……?」
「効かねぇよ」
「ん……?」
「今すでに試した。催眠が効くなら、今頃二人でお前のことを殴ってるよ」
「……ならオレの勝ちだな?」
音無が、粘り気のある気色悪い笑みを浮かべたかと思うと、彼の分身体とも呼べる二人の女がポケットから「鞘」を取り出した。そこから抜かれ現れるのは当然、降り注ぐ照明を反射する銀色の刃。彼女らの武器は小型のナイフらしい。……拳銃でも持たれていたらどうしようかと思ったが、助かった。
何の指示があるわけでもなく、女たちは無言でこちらに突っ込んで来る。俺の催眠と同じく、音無の「使役」とやらは、指示を口に出さなくてもいいタイプのようだ。
そしてやはり「彼女ら」に催眠は通じない。俺の催眠は相手が「心」を持っていることが大前提の能力であるため、尋常ではなく精巧なアンドロイドと言っても差し支えないような……完全に心無き存在である美女二人には、俺の唯一の強みがまったくもって通用しないのである。
が、異能を除けば取り柄がないという点において、俺と音無はきっと同じだろう。だから俺も武器を取り出す。それはそう、拳銃だ。「女の形をした物」を生み出し使役する力しか持たないはずの音無が、平然とナイフという武器を扱う通り、この場に武器の持ち込みを禁止するルールはない。
決闘開始後の世界でも、望んだ物がその場で得られるのだろうか? そう真剣に考え始めたのはマリア戦の後のことだったけれど、とりあえず今回はいつ決闘が始まってもいいように、鈴やマリアと停戦協定を結んだ日以降ずっと、毎晩眠る前には拳銃を携帯しておいた。すると案の定それを持ち込むことは出来た。この夢の中のような空間に、直前まで身につけていた物品は引き継がれる。……これがあれば素人以上プロ未満の俺でも、あの吸血鬼に対してしたことよりはいくらかマシな形で暴力を使えるだろう。
……と思って持ち込んだ物だったのだけれど、まさかこんな状況で使うことになろうとは。俺は安全装置を外すこともなく、そのまま拳銃を音無に向かって投げる。
オートパイロットで主人を守るようには設定されていないのか、それとも緩やかに投げられた銃は驚異として認識しないのか、こちらへ向かってくる女二人は放られたそれを無視した。
「おっ……?」
飛んできた物をキャッチしつつも、意図を理解出来ず間抜け面を晒した音無を確認しながら、俺は全力疾走で女たちから逃げる。刃物相手の格闘術なんか出来やしないし、二対一ならむしろこっちが武器を持っていても負けかねない。謙遜でも何でもなく俺の戦闘はほぼ全て催眠頼りなのだ。……そして拳銃で女二人を狙わなかったことが、今回の作戦になっている。
逃げることには何の不自由もなかった。部屋は普段なら無駄とも思えるほどに広く、俺と女たちの足の速さはほとんど変わらない。ここが格闘技のリングのように狭い空間でなくてよかった。容易に逃げることが出来るからこそ……必要な時間を稼ぐことが出来る。
「う、うおっ……!? な、なに、しま……しまった……!」
音無が銃の安全装置を外し、その銃口を両手でゆっくりと、自分の額に向けていく。
彼自身には俺の催眠が効いているのだ。俺が捕まるよりも先に、彼を自害させる。……と見せかけることが作戦である。
女二人に滅多刺しにされて殺されるなんて御免だが、それとは別に、俺はある結末を予感して、その可能性に賭けてみることにしたのだ。ダメで元々だろうと、撮れ高は狙えるだけ狙う。一刻も早くこんな場所から解放されて、早く元の世界に帰りたいから。鈴やマリアとの一件がその気持ちをより確固たる物にした。
「くそっ、俺を助けろ!
命の危機を感じた音無が思わず叫ぶと、二人の女は彼の元へと一目散に戻って行き、自ら命を絶とうとする主人の両腕を押さえて思いとどまらせようとし始める。……俺が本気で殺意を持っていれば、彼女らが間に合うこともなく音無はすでに死んでいたのだけれど。
催眠に力ずくで逆らうことは出来ない。自殺させようとすれば助けを呼ぶ暇も与えずにそれを実行させることが出来た。なぜそうしなかったのかといえば、俺はこうして「殺されず、殺せない」という拮抗状態を作り、彼と再び会話することを目的としているから。
「オトナシ! 女たちを無力化させると約束すれば、今は殺さないと約束してやる。……どうだ、乗るか?」
「し、信用しろって、いうのか……!?」
「いや、脅してるんだ」
もう一挺拳銃を取り出す。わざわざ弾薬を詰め込むところから見せて、相手へプレッシャーを送り込む。
「女二人に対して、お前自身と俺。二対二で戦いたいっていうなら、それでもいいぞ俺は」
銃口を彼の顔面へ向ける。
「なっ、ま、待て! 待てっ! わかった!」
もはや為す術なしと悟ったのだろう、彼はこちらの提案を飲んだ。約束通り催眠を解除してやる(そうしたように見せてやる)と、彼も約束通り女たちをその場に座りこませる。話し合いの場は整った。
「……何がしたいんだ?」
ひとまず危機から脱した音無が言う。改めて見るとやはり彼は醜い人物だった。男にしては異様に背が低く、目に見えて肥え太っていて、頭髪の薄れはいっそ坊主にした方が良いだろうに、頑なに未練のようなわずかな毛を残している。特に未練というのは、どんな形にせよ見ていて気持ちの良い物ではなかった。
恋人に肌を焼く痛みを与えて喜ぶ男や、友人の首筋に牙を立てて血を吸う女の方が、見た目容姿としては優れていたことから、俺だって自分たちの生まれた世界への理不尽を感じないこともない。自分の見た目が音無のようになっていないことは、単なる幸運であるようにも思える。
「提案をしたい。が、その前に一つ聞いておきたいことがある」
顔に大火傷を負った恋人に倒錯的な魅力を感じ、その痕が付けられた時の様を知りたがった男は、「傷」はそのまま変えることなく「痛み」だけを与える炎に目覚めた。首筋に噛み付くことで愉悦に浸るサディストの女は、血を飲まなければ生きていけない体と引き換えに圧倒的な膂力を得た。……内容自体は理解し難い物ながら、今までの相手はそれなりに理屈の通った異能力を持っていたように思う。
けれど今回はその点少し疑問に思う。ご丁寧に彼を挟み込む女たちまであの時俺を指さしたから、今日この日まで彼女らが人間ではないと気付けなかったけれど。
「オトナシ、お前は本当に、百合に挟まれることが望みなのか?」
「え……」
本当に百合に挟まれたいと願うなら、もっとマシな能力を得ていたんじゃないだろうか。一言も話すことなく、ロボットのように命令されたことだけをこなす二人の女を見ていると、百合とは何なのか……と考えさせられる。同性愛だろうと異性愛だろうとそれは恋愛、つまり心がある前提で行われる概念のはずで、それと彼の能力は矛盾しているように思うのだ。
洗脳するにしたって度合いを弁えなければ、そこには百合も何もなくなってしまうはず。それを彼は「無」から生み出すのだという。文脈も背景もあった物じゃない。彼は本当にそれでいいのか? ……そう考えてしまうのは、自分自身が望みから少しズレた異能力を持つが故の、シンパシーのような現象なのだろうか。
……いや、違う。俺は、俺の筋書き通りに話が運ばれてくれないと困るだけだ。撮れ高説の行き着く先は「進展」にある。仮に撮れ高説が正しかったとしても、何かを進展させなければ俺たちは一生元の世界に帰れない。だからせめて俺は進展を起こして、撮れ高説は的外れな推理だったと納得することだけでもしてみたい。
そのせいなのかもしれない。音無の能力に違和感を覚えた時から、俺の脳裏には右左の顔がチラついて仕方がない。
「百合に挟まれるのではなく、自分自身が百合になりたいとは思わないのか? 自分が美女になって、綺麗な女と恋愛したいとは思わないのか? お前は本当に男のままがいいのか!?」
良くないと言ってほしい。そうであってほしい。彼はまだ自分の本当の気持ちに気付いていないから、だからそんな出来損ないの能力を得たのだ……と、そういうことになっていてほしい。そうすれば進展があるかもしれない。
「……そんなの」
涙声で彼が言う。
「そんなの、出来るわけない。俺は、俺は、自分が美少女になっているところが、想像できない……」
そして彼は実際に泣き崩れた。「なりたいに決まってるだろ!」とか何とか、その後も喚き散らしている。……俺はあまりにも上手く話が進みすぎて暫し唖然となってしまった。
しかしすぐに気を取り直す。今こそが、俺にとっても彼にとっても、新たな一歩へ踏み出す時だと信じて。
「出来るよ、オトナシ。お前は美少女になれる。……俺の友達が、男を女に変える能力を持っているんだ。どんな男でも美しい女に変えるんだ。ニューハーフや男の娘とは違う、本当の美少女に変えられるんだよ!」
その場にへたりこんだ涙目の彼に手を差し伸べる。なるほど確かに、こういう時は相手が美少女ならどれだけ嬉しいだろうと俺でも思った。
「そいつにお前を紹介してやるから、ここはそっちで降参してくれ。早くこの空間から抜け出して美少女になろう。なぁ……!」
「ほ、本当に……? なれる、のか……?」
「ああ! 神に誓って!」
「神……。あぁ、神様か……」
不健康に太った手が、差し伸べた俺の手をぎゅっと握りしめる。
「神様は、今日まで嫌いだったけど。感謝しなきゃいけないのかもな……へへ」
立ち上がった音無はそう言って、ニチャっと音が立ちそうな笑顔を浮かべるのだった。……早く右左のところに連れて行こう。
「勝者 差位置」