探求者たちのマッチ   作:氷の泥

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終 探求者たちの出会い

 決闘から目を覚まして、右左を叩き起こす。右左という男は……というか大抵の人間は無闇に睡眠を妨げられることを良しとしないけれど、おそらく今こうしている間にも音無がそわそわしているだろうから仕方がない。この一件にもしかすると俺たちの未来が懸かっているかもしれないのだから。

「何もう……なに……」

「起きろ右左、起きろ。ものすごく大事な話がある、起きろ! さもなくば殴るぞ貴様」

「うぇええ……いやだぁ……」

 布団をかぶり俺から逃れようとする右左が、背中を丸めることで腹部を守っているような気がして、彼の決闘のことを思い出し俺は急激な罪悪感に襲われる。物の例えだとしても「殴る」は良くなかった。しばくぞ、とかにすればよかった。

 しかしそれはそれとして彼をベッドから引きずり出し、寝ぼけ眼で床に転がる彼へなんとか事情を説明する。俺は音無という人物との決闘を終えたところで、右左にはそいつへ対して異能力を使ってほしいのだ……と。そのようなことを三週ほど繰り返し説明しているうちに、ようやく目を覚まし始めたらしい右左がまず口にしたことは、

「差位置さんは」

「おう」

「どうしてぼくがいないところで、そういう話をつけてきちゃうんですか……?」

「う、うむ……。悪い」

 ごもっともだった。俺も右左が勝手に殺し屋としての依頼を受けてきたらキレるだろう。しかし今は急を要する事態でもある。少しでも脱出に繋がりそうなことなら試してみるしかない。それは右左も同じことを思ってくれているはず。

 さらに何度も頼み込み、右左にとっても悪い話ではないであろうことを念押しして、それでようやく俺は交渉のテーブルに着くことが出来た。……彼は最終的にある一つの条件を掲げて言う。

「音無って人がその条件を飲むなら、差位置さんの言う通りにしましょう」

「わかった。悪い、助かる」

「撮れ高説ね……。これで帰れるなら、確かに願ったり叶ったりですけれども」

 話がついたので、スマホを手に取り、試しに力強く念じてみる。音無にメッセージを送りたい、送らせろ……と。そうすると本当に画面へ彼のアカウントが現れて、以前に鈴が俺へ対しそうしたように、何のことはなく音無へ向けてメッセージを送ることが出来た。

 そしてやはりと言うべきか爆速で既読が付く。俺がそうであったように、この手の神の力を借りたメッセージに関しては、「気付かない」ということがないのかもしれない。文章には右左がその気になってくれたことと、しかし彼がある条件を要求していることを書き伝えると、思考の痕跡が感じられない条件反射のような即行の返信で「大丈夫です。お願いします」との返事が寄越された。

 そうしてようやく部屋の壁を開くと、廊下の先で音無も同じように壁の中から現れるところだった。まるで決闘が始まる時のように同時に、同じ場所へやって来た俺、右左、音無の三人は、それぞれ微妙な空気のまま、なんとなく各々へ目配せしたりしては会釈をする。

「うへぁ、なるほどこれは面白いかも」

 顔を合わせるのは初めてではないはずだけれど、右左は音無のことを見るなり顔をしかめて、しかし意気揚々と彼に向かって歩を進めていく。

「どうも、まともに話すのは初めまして。TS趣味の右左です」

「あ、ど、ど、どうも……」

 右左の言うTSとは「transgender fiction」あるいは「transsexual fiction」、さらにもしくは「transsexual fantasy」という……つまりは超常的な力による性転換が含まれる、フィクション創作ジャンルのことである。彼はそれをこよなく愛し、愛し続け、愛しすぎて、いよいよその創作の架空を、現実に引き起こす能力を得た人なのだ。

 TSという単語がすんなり通じたことを見るやいなや、右左が音無にコソコソと耳打ちをしている。条件や能力の詳細な説明と、それに対する同意の最終確認を行っているのだろう。やけに長く彼は話しているようだったが、しかしその最中音無は、適当な相槌を打ちながら頷く以外のリアクションを見せなかった。

 やがて全ての確認を終えたのだろう。右左が耳打ちをやめると、たちまち音無の体が光り輝き始める。何よりも眩く真っ白に発光して、そのあまりに暴力的な眩しさに直視することが出来ない。それこそが、目撃するのはこれが初めてではない、右左の異能力の使用シーンだった。

 眩く白い光はやがて収まる。いかにも「変身」といったその演出の中から現れたのは……音無の原型を留めないほどの美少女であった。

 身長は本人の値をそのまま使っているのか、女性として見れば特別低すぎることはなく、元々のタヌキを思わせる肥満体型は、せいぜいむっちりと表現されるラインにまで落ち着いている。髪の方はボリューミーな癖っ毛になっており、前髪で目元が全面的に隠れている形だ。……しかしそこから垣間見える「彼女」の顔は、そこらへんのアイドルなんか目じゃないほど美形であるように見える。

 望んだ物がすぐ手に入るのをいいことに右左はその場に姿見を出現させて、音無の新たな姿を本人に確認させる。……鏡面に映るそれを見て彼は、

「これが、わたし……?」

 と口元を押さえて、感動からなのか何なのか、何やら全身を震わせていた。ともあれ一人称の変化からして気に入りはしたのだろう。

 右左いわく、TSとは無条件に美人となり、無条件にそれが維持される物らしい。その力の前には、あらゆる法則が無視される。

「気に入りました?」

 おそらく半信半疑で条件等を聞かされていたであろう時の頷きとは違う、全身で表現するような反応の「音無ちゃん」が、鏡に映った姿と合わせて二人分視界に映った。

 そしてそれを眺める右左が、貼り付けたような不気味な笑顔で、転身を喜ぶ彼女へ水を差す。元よりそういう話になる前提で、その能力は使われたのだけれども。

「それじゃあ……ね?」

 右左の女みたいに小さな手が、細い指が、やや強引に音無の手を握り引っ張っていく。精神的な強制力をもって音無を連れ、彼が向かう先は俺たちの部屋……その寝室。

 元の聞き取りづらいだけの低音はどこへやら、小鳥がさえずるような声で音無が搾り出すように言う。

「あっ、あの、あの……」

「うん?」

「その、お手柔らかに……お願い……出来ますか……?」

「うん。もちろん」

 本当かなぁ? 俺でさえそう疑ってしまうほど、彼の笑顔は出来すぎていた。右左はきっと、こういう状況以外ではそんな風に笑わない。そんな何かを覆い隠すためのような笑み、他の場面では浮かべない。

 二人が部屋の中へ消えていき壁が閉じるのを見届けて、俺はとりあえず食堂じみたホールの方へ向かうことにした。そちらに用があるというよりは、今は部屋に帰りたくないのである。俺は右左の能力が使用される様を見ることが初めてではないので、このあと何が行われるのかもしっかり知っているのだ。

 彼の出した条件は「音無のことを一日好きにする権利」を得ること。そして音無本人がそれを飲んだ。それが意味するところを意図的にぼかすほど、あのTS趣味の変態は姑息な真似をする奴ではないのにも関わらずだ。

 ……右左に恋愛感情という物が備わっているのかどうか俺は未だに測りかねているけれど、少なくともあいつの性愛対象は単なる異性ではなく、かといって同性でもなく、「元々男だった女」以外にあり得ないことを俺は知っている。あいつのスマホの中にある写真は、そこに映る女たちは、全員が全員例外なく、元々は男性だった。

 俺が部屋に戻ったところで、しばらくすれば寝室から嬌声が聞こえてくることになる。だから俺はホールに逃げる。右左のことを悪く言いたいわけでは決してないのだけれど、あいつの趣味はまるで理解してやれないから。姿がいくら丸っきりの別人になっていたって、元々男だったことを思うと俺はダメだ……。

 ここに連れてこられてしまった者たち全員でかつて集合したホールにて、俺はたった一人適当な椅子へ腰を下ろす。相変わらず無人で、物音一つしない。やはり誰も部屋の外に出てはいないようだった。

 家疎も、ニマドも、鈴とマリアも、あとついでにマッチョも、今頃どうしているのだろうか。特に家疎だ。俺はあいつに啓発されて、その撮れ高説を、ついにここまで進めてきたのに。奴は今頃どうしているのだろう。魔女は撮れ高説の最初の提唱者にも会ったのだろうか?

 音無は右左と出会い、本当の望みの実現へ一歩近付いた。彼は自分の両隣にではなく、自分自身の中に「美少女」を手に入れたのだ。自らが百合の一部となるというゴールへ向けて、約半分の道のりは踏破したことになる。これこそが「進展」だろう、そうでなければ何なのか。

 彼は、ここにこうして集められ、右左に出会わなければ一生、自分を誤魔化すための出来損ないの能力で気を紛らわせるしかなかった。それを思えば今日のことこそ、この上ない撮れ高じゃないか。

 とりあえず一時間くらい待ってから戻ろうか。そんな風に過去の経験からおおよその目安を定めて、暇つぶし用に部屋に置いてあったゲーム機とモニターをホールに移す。わざわざ時間をかけて運び出すのではなく、そうなるように望めばそれだけで、秒速で望みが叶えられた。

 テーブルや椅子を置いていてもまだ無駄に広いホールを独り占めして、心置き無く一人用のゲームで遊ぶ。誰も俺の存在を気にする者はいない。誰も俺を認識する者はいない。ここには誰もいない。

「おはようございます」

「うおっ! びっくりした」

 何の前触れもなく、いつの間にか隣に魔女が座っていた。その瞬間移動(または時止め)の能力もまた「魔法」というやつなのか。

「こんなところでゲームなんて、どうされたんですか?」

「そっちこそなぜここへ? 今まで来てなかったはずでは」

「……船馬(せんば)に嫌われてしまいまして」

「あー……」

 船馬というのは魔女の友達……あるいはそれ以上の関係にある、爪を噛み背中を丸めた陰気な男のことだ。その船場は消化試合を行うために決闘相手として魔女を指名して、そして未知のペナルティを恐れた魔女に……おそらくは裏切られる形で敗北した。結局敗北のペナルティなんて物は存在しないのだと俺は思っているけれど……。

 船馬の敗北自体は、きっと魔女の魔法によって少しの苦痛もなく行われたのだろうけど、今日に至るまでに二人の間で何があったのかは、あえて聞かないことにする。そういったことにこれといって興味が無い……というか、俺はもう疲れた。撮れ高説の検証はもう十分だ。船馬と魔女の関係を進展(言うなれば負の進展か?)と呼ぶのか、それとも単純に後退と呼ぶのかは、もはや自分にとってどうでもよかった。音無の件で何の成果も得られなければ、撮れ高説は的外れな物として葬ることにする。

「あー! せっかく仲良くなれたと思ったのに、こんなことになるとは! なんてこった!」

 唐突に叫び出した魔女がテーブルに突っ伏す。俺は思わずゲームを操作する手を止め、それを凝視してしまった。だ、誰この人……? といった具合に、目と耳を疑わざるを得ない。

「こんなところに連れてこられて、最初はちょっと楽しいかなとか思ったけど、散々だよもうー!」

「え、えっ、……大丈夫か?」

「うん大丈夫。どちらかといえばこのテンションが素。船馬がね、いつもと違う雰囲気になってほしいっていうから頑張ってたんだけど、やっぱり演技とかそういうのは私、からっきしだからな。ちょっと楽しかったけど」

「お、おう」

 それはまさに豹変だった。家疎のようなおぞましさがなく、マリアの時のように罪悪感を抱くこともないので、今までで最も純粋に、その変貌に驚かされる。声も姿も変わらないのに、おしとやかとか清楚とかそういった概念は、一瞬にしてその魔女から無縁の物となっていった。

「差位置くんはどう? 決闘の方は」

「どう? と言われても。一応どこかの魔女以外には勝っている……と言えばいいのか?」

「えっ、全勝? すごいじゃん。強者だな〜」

 おちょくられているような気分になる。しかしそれと同時に、これがあのドラマとかでよく見る「傷心の女の相談相手」的な立場に立った男の心情なのか……? と、魔女との仲はさほどの物でもないはずだけれど思う。なんというか、こう、背徳感……か?

「勝っても負けても意味があるとは思えなかったがな」

「うーん、そうだね。……差位置くんは元の世界に帰りたい?」

「そりゃあな」

「私も帰りたい。撮れ高説の方はどう?」

「今それを確認してるところだ」

「へ……?」

 一人用ゲームで遊んでいたところを止めて、対戦格闘ゲームにソフトを切り替える。なんとなくこの魔女はそういうのが得意だろうと思ってコントローラーを渡すと、案の定「いいの?」と彼女は目を輝かせた。

 そして魔女はゲームの天才だった。もしかして世界レベルなのか……? と思わされる彼女の腕前に十タテを決められているうちに、かなりの時間が経過していく。

「……チェンソーマンって読んでる?」

 負けが込むうちに会話が減ってしまって、初見の頃から魔女のキャラクター性を表す物として印象深い少年漫画の話を振ってみる。実際ゲームから少しは気持ちを離さなければ、負け続けることのストレスが馬鹿に出来なくなってきている。俺のメンタルは凡人のそれなのだ。

「読んでる!」

「アニメ化しないかなぁ、あれ」

「してほしいねぇ。……そういえば、鈴ちゃんと緒割(おがつ)くんの異能力が何なのかって知ってる?」

「え? 何て?」

「あー、えっと、吸血鬼と仲がいい大人しそうな眼鏡の子と、筋肉ムキムキな人の異能力」

「片方だけ知ってるな。マッチョは不死だろう」

「ううん、両方不死だよ」

「へぇ」

「ファイアパンチっぽくない?」

「ああ、確かに。まさか船馬も?」

「ううん、彼は違うけど。……彼の能力は秘密ね」

「ふうん」

 秘密にするということは、少なくとも音無のように見たままの能力ではないということだろう。……後々マッチョや右左との決闘を終えて、さらにその後二週目の決闘が始まったとして、その時船馬が俺を指名しない限りはどうでもいいことだけれども。

「差位置くんは元の世界に帰ったら何がしたい?」

 上手くコンボの始動技を刺されて十一敗目を喫しながら、俺は魔女の問いへの答えを考える。元の世界というのが、本当に元通りの、あの時昼寝をし始めたままの時間軸をしていてくれるなら、もちろん俺は地下室へ行くけれど。そうでなかったら、……そうでなかったら、どうしようか……?

「……まあ、いろいろかな」

「へー? やましいこと?」

「やましいこと」

「そうかそうか。……私はとりあえず、船馬との仲直りを試みたいかな」

「望めそうなのか……?」

「そりゃあだって元の世界に帰れば、彼は望むだけのことでは、何も手に入れられなくなるんだよ? 私の力がなければね」

「なるほど」

 魔女の操作する格ゲーは、人間とは思えない反射速度で反応して来るとか、未だ誰も確立し得なかった異次元の立ち回りを見せてくるとか、そういった分かりやすく異常なことは特に起こらない。ただシンプルに強く、ミスが無く、常に隙のない立ち回りをするかと思えば、時々唐突な大胆さを見せてくる。

 その「普通に強い」ということが、人外を相手取っているはずの人間に、つまり彼女と対等ではないはずの俺に、人並みに「悔しい」という感情を湧かせてくる。そこまでの全てを狙ってやっているならまさに神の成せる技といった感じだけれど、本人が演技はからっきしと言っていた通り、毎試合ごとに小さく漏れる「よしっ」の声は本心その物のように聞こえる。

 暇つぶしにゲームをやる俺のようなプレイヤーが魔女とゲームをするなら、もしかして協力型の作品の方が楽しめるのではないか……? いよいよ戦意を喪失してそう思い始めた頃、プツッ……と、何か小さな気泡のような物が弾ける音がした。

 二人して何とはなく同じ場所を見上げる。すると天井から垂れ下がるように伸びた液晶テレビ画面に、いつぶりだろうか、電気的な光が灯っていた。

 かつてここへ集合した時と比べて、たった二人では寂しくなった物だけれど、あの時と同じように俺たちはその画面から目が離せなくなる。どう考えたってそれは何か重大な変化を知らせる物だった。

「汝の性癖は罪なりや」

 久しぶりにその声を聞いた。久しぶりにその顔を見た。亡者のうめき声のような、喉から這い出る如き不吉な声と、空洞になった片方の目から脳の一部を垂れ下がらせたショッキングなビジュアル。その首謀者たる男の姿が液晶画面いっぱいに映り込む。

「さらば探求者たち。問いの答えを求めよ。さもなくば、再び他者の存在に向き合う時が来る」

 脳の垂れた男は、俺が初めて彼の姿を見た日から、今日という最後の日に至るまで、少しもその顔を動かさなかった。顔だけしか見せなかった。おそらくそれは静止画なのだと思う。だとすれば声だって加工された物かもしれない。

 首謀者が何者であったのか、俺たちに知る術はないのだ。

 

 

 

 

 

「差位置さん、起きてください、差位置さん」

 体を揺すられて、チェアの軋む音がして、俺は飛び起きた。

 周囲を見渡すと、元の世界の、俺が昼寝を始めた部屋だった。俺たちがあのわけの分からない空間に連れて行かれる少し前に、国からのエージェントがしょうもない依頼を持ってきた場所だ。今まで犠牲にしてきた女たちがいる、地下室へ続く扉がある部屋だ。

「何月何日だ! 今!」

「あれから一時間も経ってませんよ」

「……マジか?」

 ポケットからスマホを取り出して確認すると、インターネットとの繋がりも復活したそれが示している日付は、確かに「こちらの世界」で大した時間が進んでいないことを意味していた。

 ただ、地下室のことを気にするよりも早く、真っ先に目についてしまった異常事態が一つある。……部屋のソファの上で、女としての音無が眠っていた。

「おい、なんだ、どういうことだ。あいつは」

(とおる)は証拠ですよ。ぼくたちの記憶が夢ではないことの」

「トオル……?」

「ああ、音無のファーストネームです」

「へえ……」

 彼氏面かよ、と内心で毒を吐く。

「トオル、ほら起きて。おーい」

 右左が俺にしたのと同じように体を揺すると、すーすー寝息を立てていた音無もすぐに目を覚ました。そして俺たちの顔を見て、周囲の一切見覚えがないであろう景色を眺めて、ほとんど前髪に隠れた目元からでさえはっきりと分かるほど、彼女は困惑の表情を極めた。

 理屈は分からないけれど、音無は脳の垂れた男によって作られたのであろうあの施設から、俺たちの傍という座標でもって元の世界に戻ってきたらしい。何にせよ家疎の提唱した撮れ高説は、どうやら本当に正解だったようだ。現状からはそうとしか考えられない。

 突然の出来事に戸惑う女に、推測される現在の事情を右左が話している間、俺は地下室へ続くドアに手をかけた。……けれど、そこで思いとどまる。確認せずとも、地下の女たちは生きているだろう。見に行くのは今じゃない。

 テレビの電源を入れる。一応ニュースを流してみるけれど、何の変哲もない普段通りの内容が放送されているだけだった。自分たちの知っている世界とは事情が変わっているとか、複数名の人間が一斉に失踪した事件が報道されているだとか、そんな風な様子はまったくない。俺たちはただ本当に、妙な世界に拉致される前の時点に戻ってきたのだ。

「えっ、な、なんで!」

 すごく聞き覚えのある聞き心地の悪い声がして、面倒だなとは思いつつそちらを振り向く。すると案の定音無が男の姿に……元々の醜い容姿に戻っていた。

 右左の能力には可逆性がある。元々女として生まれた女を男にすることは出来ないけれど、自分の能力で女にした男を元に戻すことは自由に出来るのだ。そしてなぜ戻すのかといえば、男として生まれた人間がこれから一生女として生きていくのは何かと不都合があるだろうという彼なりの理由があり、そして彼はそれを今当人に説明しているところだった。

 要するに平たく言ってしまえば、右左は必要な時だけその能力を使い、それで己の欲望を満たそうと考えているような、捉え方にもよるが所謂クズの類と呼ばれても仕方がないタイプの人間である。どうせまた音無にもこのように言っているのだ。近いうちにまた女の子にしてあげるから、ぼくが呼んだら必ず来てね……とかそんな感じのことを。音無の「百合の片割れになる」というゴールに半分近付いた夢は、おそらく残りの半分が果てしなく遠い。

 音無のような例は稀な物であり、いったい右左がどこから都合のいい存在をとっ捕まえて来るのか、それは俺にとっても謎である。しかしあまりその点について探ると、俺まで女にされてしまうから、謎は謎のままでいい。「お前も女にしてやろうか」とは中々独特な脅しだけれども、少なくともそれが俺に有効なことを奴は知っているらしい。

 けれど右左には俺の催眠が効かないから、そういったニッチな精神的弱点まで把握されていることも、実はそんなに悪い気がしなかったりする。

「なんか結構近所みたいなので、透のこと送ってきますね」

 そう言うや否や彼の隣の醜い男は再び性別を反転させられ、そのままの姿で二人連れ立ち出ていった。

 右左の能力は「必ず美人になる」という大前提のもとで、対象の特徴を必ずいくらか残すようになっている。音無の場合身長と体型に名残が残り、目元を覆い隠すほど伸びた癖っ毛は、何か彼の内面性を表しているように思う。

 彼は自分が美少女になることを想像出来ないと言っていたけれど、いざそれになってみたところを見ても、彼が快活なスポーツ系の美少女になるところだけは想像出来ないと俺も思う。本人もそう思っているからなのか、右左がそう思っているからなのか、TS後の容姿がどのような仕組みで決められているのかは、俺の知る由もないことだけれども。

 ……そうして誰もいなくなった部屋の中、一人声に出してみる。

「進展……か」

 おそらくそれが本当に脱出の条件だった。そして数ある進展の中でも、欲望に向かって前に進むことだけがその条件に当てはまっていたように思う。

 吸血鬼マリアの変化も、人の痛みを知ることという言い方をすれば、長い目で見て進展と呼べなくもなかったのかもしれないけれど、そういった物では首謀者が掲げる「隠されし脱出条件」に見合わなかったらしい。音無の形でなければならなかったのだ。あのような明確な進展でなければ。

 そうであるならつまり、あの場に集められた人物たちは、何かしら進展の伸びしろを持っていたことになる。まさか皆で音無のことを救おうの会があの集まりの正体だったなんてことはあるまい。偶然傍に右左がいて、偶然家疎が撮れ高説を啓発してくれたおかげで、俺は運良く音無の伸びしろに気が付けたけれど、きっと他の相手に対しては違ったのだろう。見逃しただけだ。

 家疎には家疎の伸びしろがきっとあったのだ。彼も何か変わりたがっていたに違いない。鈴もマリアもそう、魔女でさえそうなのかもしれない。……だったら、俺だってそうじゃないか。それは自分が一番自覚していることだった。

 俺には欲望の伸びしろがある。認めた上で解決しなければならない課題がある。俺も進展しなければならない。「さもなければ」……最後にそんな台詞を聞いた通り、さもなければあの決闘の日々は「二度目」が来るだろう。……なるほど「次」を恐れるマリアの気持ちはこういうものだったのかと、二重の意味で精神を締め付けられる。

 ふと思うのは、右左の伸びしろとは何なのだろうかということ。彼との付き合いもそれなりに長いけれど、俺は彼に何か進展の余地を感じたことはない。TS能力を存分に活用して、それで満足しているように見える。彼は欲望と向き合うことに関しては、すでにゴールに立っているのではないか。そう感じることは視野が狭い俺の、単なる思い込みなのかもしれないけれど。

 しかし、なぜあの場に集められた人々は、身内と共に来た者とそうでない者に別れたのだろう? 火傷の家疎と、筋肉の緒割、それから能力を知った後で考えれば音無も、それぞれ一人であの場へ連れてこられていた。一方で俺は右左と、マリアは鈴と、ニマドは船馬とペアで来ている。ペアになっていた人たちはきっと、俺と右左の例に同じく部屋も相部屋だったことだろう。

 俺はそのことに意味を感じる。ペアにはペアでなければならない理由があったのではないか。それが具体的に何なのか分からないけれど、しかし「分からない」ということは、あの施設の中にいる限り何もかもがそうだった。脳に直接入れこまれた最低限のルール以外、俺たちは全て手探りで知っていくしかなかった。現実の世界に戻ってきてもそれは同じだ。

 手探りで、やれそうなことなら何でもやってみるしかない。それがいつか進展に繋がる。だから俺は、まだ地下室への扉を開けはしない。手探りの一つ、何かしらの進展の可能性は、そこに眠っているかもしれないのだから。

「ただいまです」

 右左が戻ってきた。妙に満足気な表情をしているところを見ると、また写真のコレクションを増やしたか、さもなくばそれ以上のことをしてきたのかもしれない。

 しかしそれは今どうでもいいことだ。俺は彼の目を見て聞く。

「右左」

「はい?」

「地下室の中、見たいか?」

 言葉が右から左へ、耳の中を通り抜けたのかというくらいに、彼が無反応になったまま時間が止まる。

「……どうしたんですか急に」

 そう聞かれてしまうと、俺も中々明確な答えには詰まってしまうものだった。

「気が変わったんだよ」

「ふむ? あれですかね、死線を乗り越えた感というか。友情の臨界点、みたいな」

「知らん。見たいのか見たくないのか答えろ」

「それはもちろん見たいです。そして見た物の一切を口外しないことはもちろん約束します」

「なら来い。また気が変わらないうちに」

「はーい」

 逆に不安を煽るほど従順に振る舞う助手を背後に従えて、俺はいよいよ地下室へのドアを開ける。その先の空間にいる女たちにとってはせいぜい一時間ぶりの、しかし俺にとっては約ひと月ぶりの再開へと向かう。

 階段を下り、何層かのロックを解除して、俺はそこへ帰った。大きな体育館のような、まったく仕切りのない広いだけの空間。今思えば決闘の場にも似ているようなそこに、俺の捕らえた女たちが住んでいる。住まわされている。

 その監禁空間へ足を踏み入れることと、彼女らの一人が俺の来訪に気付いたのとはまったく同時だった。

「あ、差位置さん! おかえりなさい!」

 俺が初めてここへ閉じ込めた女……所謂「一人目」が、華やいだ声で俺を歓迎しつつ抱きついてきた。「えっ」と、右左が明らかに驚いている。

「みんなー! 差位置さんが帰ってきたわよ!」

「え、はやーい! さっき行ってしまったと思ったのに! やったぁ嬉しい!」

「もしかして今日はお暇なんですか? それなら、よかったら私たちと遊んでください!」

「差位置さん! 差位置さん! 大好き! ずっとここにいて……!」

 様々な美女たちが次々俺の傍に寄ってくる。思い思いに俺への好意を口走りながら、みんな笑顔で、仲が良くて、つらいことなど何一つないような顔をして……。

 それは、俺がもうおそらく何百回と体験している光景だ。けれどそれを初めて見る右左は、文字通り開いた口が塞がらないようだった。

「どうだ、感想は」

「……思ってたのと違いますね。もっとこう、性欲のはけ口のように扱っているのかと」

「扱ってるよ、見ての通り」

 手近な女を一人引き寄せて、ほんの少したりとも抵抗する素振りのないその彼女の唇へキスをする。すると、いいなーいいなーと、歓声のような声が波のように押し寄せる。

 かれこれこの地下室へ監禁している人数は七人になっている。全員が一秒の隙間もなく催眠の影響下にあり、彼女らに元々備わっていた自我なんて物は、ずっと昔に封じ込められて以来ずっと忘れ去られている。

「昔、異能力者だってことをお互いに白状した時、俺はお前になんて説明したんだっけ」

「ええ……? えーと……、女は支配するに限る、でしたっけ?」

「ああ。そして、それ以外に方法がないとも言ったな」

 脳の垂れた男に拉致される前、俺は昔のことを思い出していた。子供の頃、強姦してしまった同級生のこと。俺は彼女のことが好きだった。何の取り柄もない俺が彼女のような、女神のような人を好きになること自体、罪だったのだろうか? ……その答えがどちらにせよ、仮に俺がまともに男として(あるいは人として)の努力をしていれば、あの頃彼女が俺を選んでくれることもあったかもしれないだなんて、そんなことは、そんなことだけは、間違いなくあり得ない話だとしか、俺には思えないのだ。

 魔女も同じだ。催眠が通じない彼女のことを、俺は支配することが出来ない。けれどあの魔女は俺に優しかった。あり得ないことなのだ、初対面の女に、俺の催眠が通用しないなんて。だから正直俺は彼女にも憧れたのだと思う。どうしたって敵わない力の差に敗北感を覚えながらも、彼女が俺を救ってくれるのではないかと、夢から覚める直前に俺は期待してしまっていた。

 けれどそれを口に出せば、今頃その望みは叶っていたのだろうか? まさか、そんなわけがない。結局あの魔女は船馬のところへ帰ったのだ。どうせ仲を取り直して上手くやっていくのだろう。その上マリアの件で学んだ通り、すでに誰かから求められている女にちょっかいをかけたところで、絶対にロクなことにならないと俺は知っている。

 女との関係は、支配出来るかどうかが全てだ。いや、むしろそれは男でも変わらない。右左が特別例外になっているだけで、俺にとって人間関係とは支配出来るか、そうでなければ敗北を味わうかの二択しかない。望んだ物が手に入らない敗北感は、ゲームで負けることとは訳が違う、決闘に負けることともまるで違う、耐え難いことだ。

「見ての通り俺は、ここにいる女を全員支配している。催眠により自我を奪い去って、都合のいい思考を与えてな」

 進展の第一歩はもしかすると、自分の心を自分の力で言葉にして、声に出すことなのかもしれない。自分で自分を疑ってしまうほど、その声は力なく震えていた。

「けど俺はな、右左、俺はな、……女性から愛されたいんだよ」

 唯一の友人が、絶句しているところを見る。当然だ、彼は俺の能力の詳細を知っているのだから。

「差位置さん、でもそれは……。あなたの催眠は、あなたのことを何とも思ってない人にしか、通じない物じゃないですか」

 俺はうなずく。まったく持ってその通りだと、その言葉を今一度噛み締める。そのことは、誰より俺自身が一番わかっている。俺の異能力なのだから。

 家疎は俺のことを何とも思っていない。催眠で邪魔しなければ、俺は彼の一切の慈悲無き炎に焼かれていただろう。その上彼は笑いもしなかったかもしれない。男の悲鳴を聞いてもつまらないとか、きっとそんなことを言って。

 マリアは俺のことどころか、きっと鈴以外の他人を全て何とも思っていなかっただろう。目の前で人が死んだ直後にでも談笑が出来るタイプであったように感じる。……もちろんそれは「かつての彼女」の印象だけれども、一度俺の催眠にかかってしまった者は、その後いくら意識を変えようとも、催眠の有効対象から外れることは出来ない。怒り狂っていた鈴も似たような物だった。

 音無もそうだ。彼は初め俺のことを取るに足らない存在だと思っていた。というか、彼以外の大半の人がそうだ。だからこそあの時、大勢が俺のことを決闘相手に指名したのだろう。あの時点で半ば決闘の勝敗は決まっていたような物だった。誰も俺のことを尊重していなかったから。俺が明日死んでも構わないと心の底から思っているような奴らだったから、だから催眠にかかるのだ。いとも簡単に操られるのだ、本人たちが気が付く暇もなく、滑稽なほどあっけなく。

 けれどそれは、あの場に集まった人間たちが特別薄情だったわけでも傲慢だったわけでもない。大抵の人間はそんなものなのだということを俺は知っている。催眠能力はそういう意味で判定機のような役割も果たせるが、例えばあの依頼を持ってきたエージェントだって、俺の催眠の影響下にある。悲しいかな、大抵の人間に催眠は有効なのだ。

 その点魔女だけがおかしかった。右左を除けば彼女だけが、俺のことを内心で尊重していたことになる。どうして計り知れぬ力を持つ魔女だけが俺に優しかったのだろう。……けれどそんな魔女は、すでに他の男の物だった。

 だから俺はずっとこの地下室で自分を慰めている。誰からも見捨てられた、俺のことをクズとしか思っていない女を見定めて、女の姿をした人形として扱っている。誰かが俺を愛してくれるという設定のおままごとを、もう何年も何年もずっと続けている。そして俺は未だに、この地下室をおしまいにする気にはなれない。

「差位置さん、愛してる!」

「愛してる!」

「愛してる!」

「愛してる!」

 ……愛しの彼女たちに暫しの別れを告げて、俺たちはまた地上に戻った。何か言おうとしては口ごもる右左に対して、目を逸らす以外に出来ることがない。しかし俺は信じている、この痛みが必要不可欠な物だということを。これが俺の進展へと繋がるのだということを。

 それから数日後、ニュース報道で聞き覚えのある名前を見た。家疎という名の男が自宅に放火して自殺したのだという。彼の家からは本人の焼死体の他に、女性の物と思われる白骨遺体が見つかったらしい。

 

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