心臓を素手で握られているような恐ろしさを感じさせるその鮮血の如き色をした扉の前にユダは一人立っていた。
ウルフは、無理をするなと彼女に告げたっきり怪我の手当てをした後は疲れたのか眠ってしまった。
それを見届けると、彼女はこの決戦の場へと足を運んだのだ。
重い扉がゆっくりと開く。
マントをなびかせ、ユダは塔の中へと足を踏み入れた。
異様な臭い…異様な声…それは彼女のみが感じることのできる疑似魔術の鼓動であった。魔が塔全体に蔓延っているのがよくわかる
ここは地上で最も死に近い場所なのだ。
「どなたですか」
か細い女性の声……震えていた。
それは、暗闇の先から聞こえていた。
目が慣れていないが、この塔は外から見る限り上空から見れば円状の、そこまで広い空間のものではなかったはずだ。
声の大きさからして、そう遠くではない。
「君は誰だ」
「留里子です」
脅えたその声はそう告げた。
「影抜きはされていないのか」
「えぇ…多分。なにもされずにここに」
「寅彦は」
「外へ出かけました…私なら外に出ることはないだろうと…一人残して」
「…なぜ逃げない」
「魔術をかけられました。鎖のようなものを私の足に」
「なるほどな。だんだん理解できてきた」
「あなたは、魔術師ですか?
もしそうならば私の鎖を…」
「茶番はここまでだ」
ユダはそう言うと、上空に何かを投げた。
それは光!
疑似太陽であった!
疑似太陽は天井にふわふわと張り付き辺りをまばゆく照らす。
フロアは予想した通り円状であり、壁に沿って上へと向かう螺旋階段があった。
螺旋の真ん中は空洞であり、ユダは一階のその場所に立っていた。
見上げると、空高い天井には何かが蠢いている。
階段の三段目ほどに少女は立っていた。
一糸まとわぬ少女の体には黒く禍々しい血管が浮き上がっていた。
「恋人をよみがえらせるため死霊の術を使ったのは寅彦自身ではなく君だったのだな。
そして、術の魔自身に乗っ取られてしまったッ!」
ユダは錫杖を構える。
留里子は、ケタケタと笑いながら階段を上っていく。
「愛に囚われ、恋人の死を認められなかった。
だがその心を利用されてしまったッ!」
階段を上る留里子を錫杖で指す。
彼女はユダを見下ろして笑いをかみ殺しながら問う。
「ご名答。
私は『留里子』ではない。
私は『魔』。
姿かたちを持たない疑似魔術をつかさどる情けない生き物だ。
何故わかった」
「聞こえるのだ。
貴様の腹の底の
左目を
人差し指を押し込んで、それはいともたやすく飛び出して空中で破裂する。
飛び散った血で、赤い華ができる。
「血解…とは違う。それは」
「華だ。貴様の援軍を呪い殺す…」
雨…!
留里子は目を疑った。
雨が降っている。
普通の雨ではなく、華から天井に向けて降る
天井からは次々と呻く声が聞こえ、バッタバッタと降る魔物の数々。
それらは留里子の作り出した自分専用の警備隊であったが、華の雨に降られては無事ではいられない。
穴という穴から体液をまき散らしながら墜ちる。
墜ちる。
墜ちる。
墜ちる。
ユダはそれらを踏み台にしながら空中を歩く。
その姿の美しさに、留里子は思わず逃げることを忘れた。
トンッ…と留里子の前にユダは降り立った。
「終わりだ」
「そう思うかしら」
留里子の右手が壁に触れる。
それと同時に、壁のいたるところから黒い正方形の何かが飛び出す。
それは黒碑だ。
黒碑はユダをめがけて壁中から飛んでくる。
ユダはしゃがむなりしてよけるが、数が多すぎる。
「忘れないことね。
私は『留里子』ではなく、『魔』であるということを!!
人ではできぬことが私にはできるということを!!」
黒碑を避け、後ずさるユダ。
だが留里子は攻撃をやめない。
むしろそれは過激になっていく。
四方八方からユダめがけ迫りくる黒碑。
よけることはできない。
彼女の体は押しつぶされていった。
肉が裂ける。
曲がる。
砕ける。
飛び散る。
痛む。
まだ感覚がある。
消えていく。
体の
いたるところが
潰されて…
形が……
階段に残ったのは残骸と血だまりとそのそばに落ちた錫杖だけであった。
血は滴り落ち、一階へとこぼれていく。
「舐めないでもらいたいわ。
私だって死にたくないの。
それに…体をもらった恩は返すわ。
しばらくはあの死霊と一緒に暮らすつもりよ。
だから、邪魔をしないでほしいわ」
冷ややかにユダの屑を見下ろす。
そうしてその血の上を踏み越えて彼女は階段を上がっていく…
はずだった。
「…ひっ」
足を何かがつかんだ。
読者諸君はお気づきだろう。
彼女が、術に使われるか処女を失うかでしか死ねないことを。
そう、彼女は甦るのだ。
血だまりから這い出て留里子の足をつかむのは女の手であった。
血だまりからゆっくりと現れるのは、バンカラな服装の死神だ。
留里子は何度もその手を蹴った。
踏んだ。
何度も…何度も…。
漸く拘束を離れ、彼女は必死に上を、上を目指す。
逃げなければならないと本能的に悟ったのだ。
勝てるはずがないのだと。
しかしユダは冷静であった。
甦るとすぐに錫杖を拾い上げ、動く留里子を標的として錫杖を構え、狙いを定める。
そうして…錫杖からは光が放たれた。
それは留里子の足を打ち抜いた。
バランスを崩し階段に倒れる。
衝撃で歯が一本折れる。
痛い…
ユダは階段を上がっていた。
一段一段を踏みしめて。
留里子は階段を這っていた。
生きるために。ズルズルと。
みっともなくても生きていた。
両社の距離はだんだんと縮まっていき…ユダの錫杖は留里子の後頭部に触れた。
留里子の呼吸が激しくなる。
体が言うことを聞かずにうまく息ができない。
だが彼女はどうにか言葉をつなぐ。
「…思い出した……CMH開発の錫杖型兵器…弥勒…ッ!
だ、だけど……
それは疑似魔術の力では到底扱えない…代物……だと…」
目を見開く。
「まさか…まさか!
あんたは…本物のッ……」
「さぁ。覚えてないな」
留里子の後頭部が破裂した。
ユダは階段を上っていく。
上り続けた先には、扉があった。
彼女はそこを軽くたたき開ける。
鍵はかかっていなかった。
椅子とベッドと小さなテーブルがあるだけの部屋だった。
男は椅子に座っており、ユダの訪問に気が付くとすっと立ち上がった。
「寅彦だな」
男はその問いに小さくうなづいた。目が赤い。泣いていたのだろう。
「矢文を見た。
お前の願いは叶えた。
少し下に血だまりが見えるはずだ」
「見なくてもわかる。
僕の体にかけられた死霊の術が崩壊していくのがわかるからね…」
矢文…彼女のもとに送られた矢文には、震える文字で書かれていたのだ。
『彼女を 魔から解放 してやってくれ 寅彦』
「留里子は…間違えてしまったんです。
生と死を捻じ曲げるなんてこと…
許されるはずがなかったんです」
「…運が悪かっただけだ。
彼女もお前も何も間違えちゃいない。
命の行方に正解などないのだから」
「そうなんでしょうか……僕にはもうわかりません」
寅彦はそうつぶやくと扉を出て階段を下りていく。
「死霊の術が解けながら死ぬのは相当に苦しい。
私が楽にしてやってもいい」
ユダのその一言は、彼女なりのやさしさであった。
だが、寅彦は首を横に振る。
「この痛みも彼女の愛なんです。
最後まで…私はこの愛とともにいたいのです。
石榴塔の裏に小さな墓があります。
何の文字も刻まれていない粗末な墓が。
そこを掘れば大金が手に入るはずです。
それが僕からあなた方への報酬です」
寅彦は下へと降りていく。
ユダもそれに続き階段を下りて行った。
寅彦は、死んだ恋人の骸を見つけると、しゃがみ込んで優しく抱きしめた。
優しくとも強く…。
瞳を閉じたまま眠るように寄り添う。
ユダはその横を通り抜けて石榴塔を出た。
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「よぅ。無事で何よりだ」
ウルフは帰ってきたユダを見てそう笑った。
ユダも微かに笑い返す。
「その様子だと…」
「留里子は死んだ。
もう帰ってこない。
私が殺した」
ウルフは何も言わなかった。
何が起こったのかは何もわからない。
ただ、あの矢文が彼女にそう決断させたのだと推測することしかできない。
深く聞くようなことでもない。
第一、彼女が話したがらないだろう。
だが、ウルフは呟く。
「一つだけ聞かしてくれ。
お前は何を見てきたんだ」
ユダは力なく笑った。
「人の愛の行き着く先だ」
石榴塔の前を通ると、恋人同士の仲のよさそうな談笑が聞こえるという。
だが、周囲にそれらしき影が見えることもない。
それはきっと幻なのだ。
神が彼らの愛に贈る最期の奇跡なのだ。
石榴塔 《完》