咲-Saki- 龍の娘は、裏雀士の夢を見るか?   作:ひびのん

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第21局

 小学校の頃、奈良の山中で迷子になったことがある。

 

 わたしは昔から、近所にある山を走り回るのが最高に大好きだった。

 嫌なことも全部忘れられるし、色んな発見があるし、それに朝日や夕日が綺麗なのも最高だ。だから今日もいつものように山を駆け回った。一番動きやすいジャージが、今でもお気に入りだ。

 山巡りはいつからか、毎日の日課になっていた。いつの間にか、浅い場所を走るだけではどうしても物足りなくなって、山の奥の景色もどんどん覚えていった。

 

 だから、慣れすぎて油断していたんだと思う。

 

 

 

 その日、晴れていた空は急に暗雲に包まれ、風は冷たくなっていく。

 異変に気がついたのは、迂闊にも山の頂上に立って、背伸びしながら空を見上げたときだった。

 

「ここ、どこ……?」

 

 でも、いつもと違う道で知らない木々に囲まれながら、呆然と立ち尽くしていた。

 普段なら臭いですぐに場所が分かるのに、急に降り出してきた弱い雨が、臭いを消してしまっていた。ぽつりと頬に雫が落ちてくるのを、青ざめながら指先で拭った。

 

「これ、ほんとにやばいやつじゃ……っ!?」

 

 すぐに慌てて引き返した。しかし、もう遅かった。

 普通の雨くらいなら、なんてことはない。むしろ大好きだ。しかしこの日は、普通の雨じゃなかった。

 よりにもよって、目を開けることさえ辛いほどの、年に一度もないようなスコールだ。そのせいで、慌てたわたしは、手がかりの全てを見失って、とうとう遭難した。

 

 

 肌をぴしゃぴしゃと、何度も、なんども打ち付けてきて、体力が奪われる。

 ジャージから覗く素足は、雨水にまみれていた。山の奥深くで、ほとんど何の荷物も持っていない。小学校に入ってしばらくしてから連絡用に買ってもらった携帯は、今は圏外だ。

 いつもより気温が低いせいか、雲がかかったみたいに、周囲を霧が覆い始めている。

 

(まずいまずい、このままじゃまずいっ……!)

 

 いつもの目印が見つからない。大穴の開いた倒木も、リスの住んでいる木も、山葡萄のあるところも、何も見当たらない。

 しかも随分と奥まで来てしまったので、もし今最短ルートを歩いていたとしても、麓まで一時間以上はかかるはずだ。

 ほとんど特徴のない木々と雑草に囲まれながら、泣きそうになっていた。

 そこらじゅうから聞こえてくる、いつもなら楽しい雨の音も、全然楽しく感じない。

 

「おかーさーん……!!」

 

 ポニーテールは水を吸い込んで重くなっている。瞼から滴り落ちるのが涙か、雨かもうわからない。

 返ってくる声はない。

 しょんぼりと腕を下げ、ぽたぽたと額から顔に垂れてくる雨雫を拭う。

 

「わたし……遭難しちゃったのかな。そーなんです……なんて」

 

 そんなダジャレを一人呟いてみた。でも湧き上がってきたのは笑いではなく、どうしようもない無力感だった。

 こんなのぜんぜん笑えないじゃん、なにいってんだろ。

 

「わたしもしかして、このままここで……なんて、そんなっ。ないない!」

 

 一寸先も見えないような状態に、もうダメかもしれない、という最悪の予想が頭をよぎる。

 

「……っ、ぐすっ。うぅ、っ」

 

 雨も霧も、短い時間でどんどん酷くなっていく。体も冷えていて、むしろ動かない方がいいのかもしれない。

 それでも判断ができない。一刻も早く帰りたいと言う気持ちで、山を彷徨っていた。

 

 勝算がないわけでもない。何か一つでも目印を見つけられれば、そこから居場所が分かる。 

 なにか、たった一つでもいい。

 

「大丈夫、絶対帰れる。諦めるなわたし……っ」

 

 歩くんだ。

 ぜったい帰る。どんな場所でもきっと大丈夫。何も根拠のない鼓舞だったけど、一度は折れかけた心がまっすぐに前を向いてくれた。

 ちゃんと探せば、ほら。目の前になにか目印が見つかるはず……っ!!

 

「えっ……?」

 

 ある。人工物が。

 石段。灯篭。

 上り階段と、その上に、見覚えはないけど、木造の建物が見えた。

 

「……あ、っ……あっあっ、ああああぁっ!!」

 

 幻覚、じゃない。

 走り疲れて、歩いているわたしは石灯籠を見つけた。その足元は石畳。近づいてみると、さらに点々と灯籠が続いていおり、そして向こうには神社のような、瓦屋根の建物があった。

 ぱあああっ、と顔が明るくなった。

 火も付いているみたいだ。知らない建物だけど、これで帰れる。

 

「やたっ、やったぁーっ!! ……でも、こんな大きな神社山にあったかな……?」

 

 この山に、こんなに大きな神社があっただろうか。見知らぬ建物の存在に首を捻ったが、現にここにあるんだから、きっと今まで見逃していたんだろうと結論づける。

 

「……ま、そんなことはいいや。すみませーん! ……誰もいないのかな」

 

 建物の正面をどんどん叩いて、呼びかけてみる。

 ここがどこなのか、帰り道を教えてもらいたいのに、扉には鍵がかかっていた。

 

(だ、だめかぁ……うぅ)

 

 灯篭には明かりがついているし、立派な建物だから、誰かいると思ったんだけど。

 人がいるのは、ここではないのだろうか。

 

「……うぅ。仕方ない、このあたりをもうちょい探してみよう」

 

 そんな風に、ほとんど諦めかけたときだった。

 扉の向こう側から誰かが近づいてくる気配がした。

 

「どなたですか……? 誰か、そこにいるのですか」

 

 声は自分と同じ、子供の女の子のものであった。

 

「うそ、人いるっ……!? もしもし、聞こえますかっ!?」

「はい、あなたの声は届いていますよ」

 

 目の前に光が見えた気がした。やっぱり遭難なんてしてなかったんだ!

 しかし奇妙なことに、神社の扉は開かなかった。

 

「ここは、神と人を隔てる境目の地です。あなたはなにゆえ、ここを訪れたのですか?」

 

 声は微かに聞こえてくるだけで、はっきりと分からない。

 よく聞こえなかったせいか、あるいは難しい言葉だったからなのか、判断がつかなかった。とにかく今は自分の現状を伝える。

 

「すいません、山に登ってたら急に雨が降ってきちゃって……ここがどこか教えてもらえませんか? その……わたし道に迷っちゃって」

「! ……驚きました。あなたは迷い人なのですか?」

「え。あー……まあ、その。ちょっと霧が濃くなっちゃって、迷子になっちゃった……かも。あははー……」

「……ふふっ」

 

 カタン、と扉の反対側から音が聞こえた。

 不思議に思ってもう一度扉に触れてみると、甲高い音を立てゆっくりと開いた。どうやら閂が外れた音だったらしい。

 ……恐る恐る、中を覗いてみる。

 扉のそばに人の気配はない。しかし、建物の奥には人影一つ。

 かろうじて巫女服が見えた。

 だが建物の中にも霧がたちこめていて、ぼんやりとした姿しか見えない。

 

「あの、あなたは……?」

 

 ジャージも靴も、全部びしょ濡れだ。このまま中に入ることはさすがに躊躇われたので、その場から声をかける。

 声の主は答える代わりに、望んでいた帰り道を手で示してくれた。

 

「道に沿って山を降れば霧は晴れます。おのずと、望む場所に帰り着くことができますよ」

「そうなんですか? ……あっ、雨もさっきより弱くなってるかも」

 

 振り返ってみると、確かに巫女さんの言う通りだ。

 森を歩いていたときは、数本先の木が見えないくらい酷い霧だった。今は随分と薄まって、ましになっている。酷かった大雨も、いまは小雨に変わっていた。

 

「ここを降りれば麓なんですね! ……その、わたし急いで帰らなきゃいけなくて。本当にありがとうございましたっ! 今度またお礼を言いに来ますからっ、ぜったいにっ!!」

「……お気をつけて、さようなら」

 

 わたしは、その神社をあとにして、言われた通りに階段を下った。

 石畳は途中で無くなって道が途切れ、山道に変わった。

 てっきり一般道に出ると思って、不思議に思った。しかし巫女さんの言葉を信じて前に進み続けていると、やがて霧が晴れてきた。

 周囲の様子が見えるようになって、足を止めた。

 わたしは呆然とその建物を見上げる。そこはよく見知った、帰るべき場所だった。

 

「あ、あれ……ここ……わたしんち?」

 

 目の前にあるのは間違えようもない、わが家であった。

 まじか、こんなに近くまで来てたんだ。

 家の裏に神社なんてあったっけな……と不思議に思いながら、そのまま戻った。お母さんは「びしょ濡れじゃない。早くお風呂に入ってらっしゃい」と言うだけで、騒ぎにはならなかった。

 ……遭難したかもしれないと思って、ちょっと泣いたことは、一生の秘密だ。

 

 

 あんな遠くから雨の中、歩いて戻ってきたのかと自分で感心したけど、どうもそうでないらしいことは、後日明らかになる。

 

 次の日、さっそくわたしは恩人を探すために、家の裏山を登った。

 しかし神社どころか、石畳一枚見つからなかった。一週間ずっと歩きまわってみたけれど、それっぽい痕跡は一つもなかった。信じられないことに、その日見た神社は、まるで夢幻の存在のようになくなっていたである。

 神社も、助けてくれた女の子も、一度も見つけられないまま時間が過ぎていった。

 

 

 

 

 あの出来事は、いったいどのほど前のことだっただろう。

 山の方に遊びにいくときは注意するようにしているし、土砂降りになる日は感覚で分かるようになったので、そういうときは絶対に出かけない。

 奈良あたりの山は制覇してしまったので、迷子になることなんてない。

 山を登って木造の建物や、祠や、お地蔵様を見つけると、その日のことを思い出すようになった。

 人生の中でトップクラスに苦い出来事だったけど、すごくいい経験だったとも思っている。 

 

 わたしはあの人に、あの日のお礼を言うために、ずっと例の神社を探している。

 でも、どんなに探しても、駆け回っても、見つかることはなかった。

 だから今、目を疑っている。

 

「これ夢……だよね?」

 

 まだ日が昇る前の薄暗い霧島神境の外に出たわたしは、一人立ち尽くしていた。

 たぶん午前四時を過ぎた頃だろう。みんなは、まだ眠っている。

 勝手に出ちゃいけないと思ったけれど、どうしても確かめたいと思って、出てきてしまった。

 来るときに見た光景が、記憶の中にある神社に、よく似ていたんだ。

 

 急な山に沿って続く、長い石畳の階段。灯籠が煌々と階段の先の道を照らしている。

 ある種の決意に駆られて、唇を結んで上を見上げた。

 

「……登るしかないっ!!」

  

 靴をくの字に歪ませ、一気に駆け出した。

 

 頂上の近くまで登りきって、初めて訪れるその場所で立ち止まった。

 そして、やっとまた巡り合う。

 

「やっぱり……ここ、だったんだ」

 

 わたし、ここを知ってる。

 登りきった先にある、拝殿。閉じられた扉。灯籠の形。

 薄れた記憶と、目の前にあるそれらがぴたりと一致する。目を擦っても同じ。そこには、変わらず建物がある。夢じゃない。

 

「……こんなこと、ありえるのかな」

 

 いくら雨が降っていて、遭難したかもしれないと焦りながら歩き回ったとしても、遠く離れた鹿児島まで行けるはずもない。あの日の場所と、よく似た場所があるはずない。

 でも場の雰囲気も、匂いも、見えているものも、ぜんぶあの時と同じだ。

 登ってきた階段の先にある建物も記憶と一致した。

 

 扉に、前と同じ様に手をかけようとして、触れようとする直前で止める。

 永水の巫女さんたちは、この場所にあるものに触れるなと言っていた。

 ……でも。

 

「確かめなくちゃ……!!」

 

 恐る恐る扉に近づいて、そっと手を伸ばした。

 

 

 

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