咲-Saki- 龍の娘は、裏雀士の夢を見るか? 作:ひびのん
小学校の頃、奈良の山中で迷子になったことがある。
わたしは昔から、近所にある山を走り回るのが最高に大好きだった。
嫌なことも全部忘れられるし、色んな発見があるし、それに朝日や夕日が綺麗なのも最高だ。だから今日もいつものように山を駆け回った。一番動きやすいジャージが、今でもお気に入りだ。
山巡りはいつからか、毎日の日課になっていた。いつの間にか、浅い場所を走るだけではどうしても物足りなくなって、山の奥の景色もどんどん覚えていった。
だから、慣れすぎて油断していたんだと思う。
その日、晴れていた空は急に暗雲に包まれ、風は冷たくなっていく。
異変に気がついたのは、迂闊にも山の頂上に立って、背伸びしながら空を見上げたときだった。
「ここ、どこ……?」
でも、いつもと違う道で知らない木々に囲まれながら、呆然と立ち尽くしていた。
普段なら臭いですぐに場所が分かるのに、急に降り出してきた弱い雨が、臭いを消してしまっていた。ぽつりと頬に雫が落ちてくるのを、青ざめながら指先で拭った。
「これ、ほんとにやばいやつじゃ……っ!?」
すぐに慌てて引き返した。しかし、もう遅かった。
普通の雨くらいなら、なんてことはない。むしろ大好きだ。しかしこの日は、普通の雨じゃなかった。
よりにもよって、目を開けることさえ辛いほどの、年に一度もないようなスコールだ。そのせいで、慌てたわたしは、手がかりの全てを見失って、とうとう遭難した。
肌をぴしゃぴしゃと、何度も、なんども打ち付けてきて、体力が奪われる。
ジャージから覗く素足は、雨水にまみれていた。山の奥深くで、ほとんど何の荷物も持っていない。小学校に入ってしばらくしてから連絡用に買ってもらった携帯は、今は圏外だ。
いつもより気温が低いせいか、雲がかかったみたいに、周囲を霧が覆い始めている。
(まずいまずい、このままじゃまずいっ……!)
いつもの目印が見つからない。大穴の開いた倒木も、リスの住んでいる木も、山葡萄のあるところも、何も見当たらない。
しかも随分と奥まで来てしまったので、もし今最短ルートを歩いていたとしても、麓まで一時間以上はかかるはずだ。
ほとんど特徴のない木々と雑草に囲まれながら、泣きそうになっていた。
そこらじゅうから聞こえてくる、いつもなら楽しい雨の音も、全然楽しく感じない。
「おかーさーん……!!」
ポニーテールは水を吸い込んで重くなっている。瞼から滴り落ちるのが涙か、雨かもうわからない。
返ってくる声はない。
しょんぼりと腕を下げ、ぽたぽたと額から顔に垂れてくる雨雫を拭う。
「わたし……遭難しちゃったのかな。そーなんです……なんて」
そんなダジャレを一人呟いてみた。でも湧き上がってきたのは笑いではなく、どうしようもない無力感だった。
こんなのぜんぜん笑えないじゃん、なにいってんだろ。
「わたしもしかして、このままここで……なんて、そんなっ。ないない!」
一寸先も見えないような状態に、もうダメかもしれない、という最悪の予想が頭をよぎる。
「……っ、ぐすっ。うぅ、っ」
雨も霧も、短い時間でどんどん酷くなっていく。体も冷えていて、むしろ動かない方がいいのかもしれない。
それでも判断ができない。一刻も早く帰りたいと言う気持ちで、山を彷徨っていた。
勝算がないわけでもない。何か一つでも目印を見つけられれば、そこから居場所が分かる。
なにか、たった一つでもいい。
「大丈夫、絶対帰れる。諦めるなわたし……っ」
歩くんだ。
ぜったい帰る。どんな場所でもきっと大丈夫。何も根拠のない鼓舞だったけど、一度は折れかけた心がまっすぐに前を向いてくれた。
ちゃんと探せば、ほら。目の前になにか目印が見つかるはず……っ!!
「えっ……?」
ある。人工物が。
石段。灯篭。
上り階段と、その上に、見覚えはないけど、木造の建物が見えた。
「……あ、っ……あっあっ、ああああぁっ!!」
幻覚、じゃない。
走り疲れて、歩いているわたしは石灯籠を見つけた。その足元は石畳。近づいてみると、さらに点々と灯籠が続いていおり、そして向こうには神社のような、瓦屋根の建物があった。
ぱあああっ、と顔が明るくなった。
火も付いているみたいだ。知らない建物だけど、これで帰れる。
「やたっ、やったぁーっ!! ……でも、こんな大きな神社山にあったかな……?」
この山に、こんなに大きな神社があっただろうか。見知らぬ建物の存在に首を捻ったが、現にここにあるんだから、きっと今まで見逃していたんだろうと結論づける。
「……ま、そんなことはいいや。すみませーん! ……誰もいないのかな」
建物の正面をどんどん叩いて、呼びかけてみる。
ここがどこなのか、帰り道を教えてもらいたいのに、扉には鍵がかかっていた。
(だ、だめかぁ……うぅ)
灯篭には明かりがついているし、立派な建物だから、誰かいると思ったんだけど。
人がいるのは、ここではないのだろうか。
「……うぅ。仕方ない、このあたりをもうちょい探してみよう」
そんな風に、ほとんど諦めかけたときだった。
扉の向こう側から誰かが近づいてくる気配がした。
「どなたですか……? 誰か、そこにいるのですか」
声は自分と同じ、子供の女の子のものであった。
「うそ、人いるっ……!? もしもし、聞こえますかっ!?」
「はい、あなたの声は届いていますよ」
目の前に光が見えた気がした。やっぱり遭難なんてしてなかったんだ!
しかし奇妙なことに、神社の扉は開かなかった。
「ここは、神と人を隔てる境目の地です。あなたはなにゆえ、ここを訪れたのですか?」
声は微かに聞こえてくるだけで、はっきりと分からない。
よく聞こえなかったせいか、あるいは難しい言葉だったからなのか、判断がつかなかった。とにかく今は自分の現状を伝える。
「すいません、山に登ってたら急に雨が降ってきちゃって……ここがどこか教えてもらえませんか? その……わたし道に迷っちゃって」
「! ……驚きました。あなたは迷い人なのですか?」
「え。あー……まあ、その。ちょっと霧が濃くなっちゃって、迷子になっちゃった……かも。あははー……」
「……ふふっ」
カタン、と扉の反対側から音が聞こえた。
不思議に思ってもう一度扉に触れてみると、甲高い音を立てゆっくりと開いた。どうやら閂が外れた音だったらしい。
……恐る恐る、中を覗いてみる。
扉のそばに人の気配はない。しかし、建物の奥には人影一つ。
かろうじて巫女服が見えた。
だが建物の中にも霧がたちこめていて、ぼんやりとした姿しか見えない。
「あの、あなたは……?」
ジャージも靴も、全部びしょ濡れだ。このまま中に入ることはさすがに躊躇われたので、その場から声をかける。
声の主は答える代わりに、望んでいた帰り道を手で示してくれた。
「道に沿って山を降れば霧は晴れます。おのずと、望む場所に帰り着くことができますよ」
「そうなんですか? ……あっ、雨もさっきより弱くなってるかも」
振り返ってみると、確かに巫女さんの言う通りだ。
森を歩いていたときは、数本先の木が見えないくらい酷い霧だった。今は随分と薄まって、ましになっている。酷かった大雨も、いまは小雨に変わっていた。
「ここを降りれば麓なんですね! ……その、わたし急いで帰らなきゃいけなくて。本当にありがとうございましたっ! 今度またお礼を言いに来ますからっ、ぜったいにっ!!」
「……お気をつけて、さようなら」
わたしは、その神社をあとにして、言われた通りに階段を下った。
石畳は途中で無くなって道が途切れ、山道に変わった。
てっきり一般道に出ると思って、不思議に思った。しかし巫女さんの言葉を信じて前に進み続けていると、やがて霧が晴れてきた。
周囲の様子が見えるようになって、足を止めた。
わたしは呆然とその建物を見上げる。そこはよく見知った、帰るべき場所だった。
「あ、あれ……ここ……わたしんち?」
目の前にあるのは間違えようもない、わが家であった。
まじか、こんなに近くまで来てたんだ。
家の裏に神社なんてあったっけな……と不思議に思いながら、そのまま戻った。お母さんは「びしょ濡れじゃない。早くお風呂に入ってらっしゃい」と言うだけで、騒ぎにはならなかった。
……遭難したかもしれないと思って、ちょっと泣いたことは、一生の秘密だ。
あんな遠くから雨の中、歩いて戻ってきたのかと自分で感心したけど、どうもそうでないらしいことは、後日明らかになる。
次の日、さっそくわたしは恩人を探すために、家の裏山を登った。
しかし神社どころか、石畳一枚見つからなかった。一週間ずっと歩きまわってみたけれど、それっぽい痕跡は一つもなかった。信じられないことに、その日見た神社は、まるで夢幻の存在のようになくなっていたである。
神社も、助けてくれた女の子も、一度も見つけられないまま時間が過ぎていった。
あの出来事は、いったいどのほど前のことだっただろう。
山の方に遊びにいくときは注意するようにしているし、土砂降りになる日は感覚で分かるようになったので、そういうときは絶対に出かけない。
奈良あたりの山は制覇してしまったので、迷子になることなんてない。
山を登って木造の建物や、祠や、お地蔵様を見つけると、その日のことを思い出すようになった。
人生の中でトップクラスに苦い出来事だったけど、すごくいい経験だったとも思っている。
わたしはあの人に、あの日のお礼を言うために、ずっと例の神社を探している。
でも、どんなに探しても、駆け回っても、見つかることはなかった。
だから今、目を疑っている。
「これ夢……だよね?」
まだ日が昇る前の薄暗い霧島神境の外に出たわたしは、一人立ち尽くしていた。
たぶん午前四時を過ぎた頃だろう。みんなは、まだ眠っている。
勝手に出ちゃいけないと思ったけれど、どうしても確かめたいと思って、出てきてしまった。
来るときに見た光景が、記憶の中にある神社に、よく似ていたんだ。
急な山に沿って続く、長い石畳の階段。灯籠が煌々と階段の先の道を照らしている。
ある種の決意に駆られて、唇を結んで上を見上げた。
「……登るしかないっ!!」
靴をくの字に歪ませ、一気に駆け出した。
頂上の近くまで登りきって、初めて訪れるその場所で立ち止まった。
そして、やっとまた巡り合う。
「やっぱり……ここ、だったんだ」
わたし、ここを知ってる。
登りきった先にある、拝殿。閉じられた扉。灯籠の形。
薄れた記憶と、目の前にあるそれらがぴたりと一致する。目を擦っても同じ。そこには、変わらず建物がある。夢じゃない。
「……こんなこと、ありえるのかな」
いくら雨が降っていて、遭難したかもしれないと焦りながら歩き回ったとしても、遠く離れた鹿児島まで行けるはずもない。あの日の場所と、よく似た場所があるはずない。
でも場の雰囲気も、匂いも、見えているものも、ぜんぶあの時と同じだ。
登ってきた階段の先にある建物も記憶と一致した。
扉に、前と同じ様に手をかけようとして、触れようとする直前で止める。
永水の巫女さんたちは、この場所にあるものに触れるなと言っていた。
……でも。
「確かめなくちゃ……!!」
恐る恐る扉に近づいて、そっと手を伸ばした。