咲-Saki- 龍の娘は、裏雀士の夢を見るか? 作:ひびのん
小蒔さんの最初の牌を切り出す一動作は、絹の音すら立てなかった。
非常に静かで綺麗な所作で、手を引く際には金色のオーラが残像を残した。対戦相手を待っている間は、身じろぎ一つしない。
(すごい、神々しい感じの気配だ……)
さっきまで普通に話していた巫女と同一人物とは思えない。
纏う雰囲気は気高く、本当に"神"が宿っている――そんな気配を感じさせた。
一方で、穏乃も瞳が妖しく、地底に眠る澄んだ紅色の原石のように、輝いていた。
隙間風もないのに髪が何かに靡いて揺れている。二人の間で、全く別の圧力が激しく押し合っている。互いに無意識下でのぶつかり合いであったが、その影響は計り知れないほどに大きい。
上家、下家の神様は、決して場を荒らさない。ただそこに在り、二人をぶつけ合うだけの存在として居つづけた。
霧島の地に、雷鳴が鳴り響く。
押し合う力は絶妙なバランスで拮抗している。しかし、どちらかが気を緩めれば、すぐに保たれている均衡は、崩れてしまうだろう。
小さな殿の中で、牌が何度もかつんと音を立て続けた。
そんな綱渡りのような緊張感の中で、わたしの肌は痛いくらい痺れていた。
配牌から小蒔さんの捨て牌までが、ギリギリ見えるくらいに瞼を開きつつ、思考を深めていく。
(……固い。すごい防御力だ)
小蒔さんを相手にして、最初に出てきた感想は、決勝戦の評価とはまるで異なるものだった。
華々しい和了を繰り返していたスタイルとは異なる、超防御。明らかに、石戸さんの打ち方に近いスタイルだ。
当たり牌を決して出してこないのに、危険牌は軽々と通してくる。
(いま、間違いなく小蒔さんは、何かの方法でわたしの手を読んでる)
いまのわたしと同じように、捨て牌や相手の挙動、牌の位置から相手の手を掴み取っている……のだろうか。まだ対局が始まったばかりで、読み切ることができない。
「テンパイ……」
「ノーテンです」
また一局が終わり、わたしは一人でノーテン罰符を受け取った。
しかし、この点棒は意味はない。
小蒔さんが、手牌を裏側にぱたんと倒したのを見て悩む。今回はわたしのほうが手が早いと見て、テンパイした瞬間に回避されてしまった。
やはり、違和感がある。
こんなにスタイルを変えてくるなんて変だし、それで成立してしまっているのも妙だ。
(会場で感じたのと、違う理由……もしかして神様が違うとか……?)
思いついた理由は、常識外れではあったけれど、自分でもいい線をいっていると思った。
インターハイの解説を行う雑誌にも書いてあった。
神代小蒔は霧島神境の姫。その身に九人の神様を宿すことができる稀有な存在であり、その身に神を宿すことで人の身を超えた力を得る……とされていた。
それが本当のことなら、打ち方があまりに違うことにも説明がつきそうだ。
目の前で打っているのは小蒔さんでも、神様が別なら打ち方が違ってもおかしくない。
例えば玄さんと宥さんは火力が高く、憧は流れを読んで和了するのが得意だ。攻めるのが得意な人もいれば、それは苦手でも守るのが得意な人もいる。同じようなことが起きているのかもしれない。
「ロン。1000点」
「……はい」
今度は、わたしが喰いタンに放銃した。
大きな傷ではないが、手を察知できないまま振り込んだことに、眉をしかめた。
負けてはいないが、勝ってもいない。高い手を狙っていたとしても安手で流されてしまうことが、無性にもどかしい。
自分の手牌を裏向きに倒して、じっと小蒔さんを観察する。
澄んだ瞳に紫色の波紋を宿す霧島の姫の中に、確かに人ならざる超常の存在を感じた。
……やっぱり、神様がついているみたいだ。
(やっぱり本物はすごいや。でも、そんな小蒔さんに勝ってみたい……!)
もしも、ここでインターハイ最強の一角を超えることができたのなら、夢に手が届くことになる。
最強という名前に怯む気持ちなんて全然ない。夢の先を想像するだけで、喜びで胸が張り裂けそうになっていた――しかし、表情には現れない。真剣な眼差しで観察し続けて、情報を得ようとした。
だが集中していた時に、違和感を感じて顔をあげた。小蒔さんは目をつむっていて、自分の番になっても、牌を取ろうとしなかったのだ。
「……小蒔さん?」
声をかけてみたけれど、無反応。
首を傾げたそのとき。
不意に体がすっと軽くなったような、体につけていた重りをとったときのような開放感に包まれた。同時に、眠ったみたいだった小蒔さんは、目をぱちくりさせる。
「あ……」
「どうかしましたか?」
真剣な表情はどこかに、たった今夢から覚めたような、きょとんとした顔になった。
少し待っていると、小声で聞いてきた。
「穏乃さん。今は、南三局が終わったところ、でしょうか」
「はい。そうですけど……」
わたしが答えると、小蒔さんは微かに目を見開いて、驚いたような雰囲気で自分の手を見つめていた。
やがて自分の手を胸元に置いて、ゆっくりと息を整えた。
「……ちゃんと、覚えてる」
よく見ると、頬っぺたを赤くした小蒔さんの瞳の横に小さな雫が見えた。
だから、つい声を上げてしまった。
「えっ!? ちょ、こ、小蒔さん!?」
涙は袖ですぐに拭う。その向こうにあったのは、幸せそうな喜びの表情だった。
「ごめんなさい。とても嬉しくって……」
「そんなに、麻雀が楽しかったんですか?」
「はい、すごく……これ以上ないくらい、嬉しいです。穏乃さん」
ゆっくりと、無言で頷いた。
小蒔さんが、泣くほどに嬉しいと言ってくれた理由は、わたしには分からなかった。
でも……わたしとの麻雀を楽しんでくれたということなら、嬉しいことだ。
「わたしもすごく楽しいですっ! ……でも。そろそろ、夜が明けちゃいますね」
気づけば、この楽しい時間も多くは残っていないようだった。
わたしは振り返って扉の向こうを見る。隙間から微かに藍色の光が差し込んできており、部屋を包んでいた夜霧も徐々に消えている。
もうすぐ夜明けがやってくる。
きっと心配をかけてしまうから、みんなが目を覚ます前に、急いで戻らなくちゃいけない。
残されたのは、あと一局。オーラスのみだ。
この一局ですべてが決まる。だから最後に全てを出し切って、小蒔さんに勝つ。
わたしは、体の中から溢れるように湧き出てくる力を、抑えようとは思わなかった。
「この対局、わたしが勝たせてもらいます……っ!」
点差がほとんど存在しない今、和了さえ決めれば勝つことができる。
勇気が湧いてくる。身体の奥に存在していたエネルギーと万能感で、わたし自身が満たされていく。
すると部屋にある小物が、触れてもいないのに小さくカタカタと揺れ動いた。
(何だろうこれ。霧が、わたしに味方してくれているのが分かる……!)
霧が周囲に集まってくる。集まってくる、見えない力を身に纏っていく。
その一方で、小蒔も眠るようにゆっくりと目を瞑った。
穏乃が本気を出してきた。修験道を超え、運命の悪戯で遥か彼方の地に訪れ、いままさに自身を越えようとしてくる挑戦者の威圧を受けながら、平然と正座している。
運命に導かれた少女と、運命を導いた巫女は、いつしかその世界に立っていた。
松実玄と薄墨初美が戦った場とは異なる、霧島のもう一つの決戦の地だ。
決して人の手の及ばない、この世の遥か彼方の霧深い山中。
頂上の石畳の上に、朱色の鳥居が存在していた。
神々の住まう領域の中で、誰よりも麻雀に真摯で純粋な少女――穏乃の背後に現れたのは、幾星霜を経て生まれた、深山幽谷の化身だ。
しかし、紅色の瞳を持つ恐ろしほどに巨大な黒影を目にしてなお、霧島の姫は動じない。
少女の声とともに、周囲に九つの光が現れる。
『この最後の局が、あなたに真に与える試練』
九人の神々が人の形をとった。
霧島を守る九面の放つ光が、唯一の姫を守護するように包み込む。
瞑っていた瞳が開かれた瞬間。
小蒔の黄金色の波紋を宿す澄んだ瞳が、挑戦者の穏乃を見下ろした。
「存分に打ちあいましょう、穏乃さん」
「っつっ……!?」
――格が違う。
穏乃は、直感してしまった。
今にも膝を折るか、手を後ろについてしまいそうになる。小蒔に宿った九人の神々の圧力を、身に纏ったエネルギーで受けきれない。
太陽のような輝きを正面から受け止め、息苦しさに耐えながら顔を覆った。霧の能力が剥がれて、本来の穏乃の姿が戻ってしまう。
しかし、それでも不敵に笑ってみせた。
『負けられない……っ! 小蒔さん、わたしはあなたに勝つっ……!』
紛れもなく最強の、誰一人として敵わなかった全力の神代小蒔が、わたしだけのために本気で打ってくれる。
その想いにわたしも応えなければいけない。そして、今までで出会った中でも最大の壁を、この手で超えてみたい。
だから、どんなに強力な威圧を受けても、ワクワクが止まらなかった。