ルート5も、これにて完了となります。
[消失がなくただ落っこちるという移動があるだけ。つまり今回の曰く滅びが世界という区分けされたそれの一つの様態であれば、終わりは違う始まりへの地続きでしかないね。故に、救いも危機もそもそもないよ。現行の命という形態が失われるばかりに、お嬢ちゃんは人間らしくも少し頭が囚われ過ぎだ]
ある日月野椿がした世界が救われるべきかという問いに、とある賢しい人はこう答えた。
彼の見目は金色の猿、である。毛深き、しかし現に染まった死を忘れた猿人。近頃ようやく死に方を思い出したみたいで檻の奥で塵と消えることに成功したそうだが、そのしばらく前に、彼は椿と会っていた。
「……人、らしく考えては世界を救えないということ?」
[先に言った通り、それは違う。ワシも同じく生物は命が故に死を禁忌するが、しかしそもそもそれは必要が故にある。生は静物の繁栄のためで、死は静物の広がりのためとも取れるもんだ。ありとあらゆる現象が推移。そして意味は偏重だ。世界という区分けの中でのありとあらゆる状態はそれそのものに対する許容範囲であり、だからこそ世界というものは現状そもそも救いが
「……私達の死は、無意味?」
[全ては無価値とワシは採って楽しんでいるが、反して全てを有意義と縋って悲壮に思うこともあるだろう。そもそも死なず滅びずなんて、冗談だ。ワシだって、何時かは死にたい]
「そう、なんだ……」
人語が発生する前から物語を紡いでいたらしいUMAは、英語でも日本語でもない太古の共通語を用いて喋る。これには、トライリンガルでしかなく猿語を話すなんて夢のまた夢である椿はとても助かったと感じたと記憶していた。
[ふむ……お嬢ちゃんの考え方も分かるが……そうだな。語る前に少し糖分をとるか。中座、失礼する]
「ええ……」
彼、新しい一つと名乗る万年を生き続けている人の手前のまま人に混じっている男は、椿の前に長い手の平を見せつけ、話を止める。やがて彼はテーブルから一房のバナナを掴んで眼の前で剥いて、当たり前のように食んだ。
こうして黙っている姿を眺めるとただの新種の猿にしか思えない、と失礼なことを考える椿を他所に年齢と言うよりも種族柄か皺だらけの彼は、しばらく顎を動かしてから分厚い唇を舐め、こう続ける。
[最近の果実……特にバナナは旨いな。これまでワシの嗜好としては肉に偏重していたが、こと熱帯の果実は口に合う]
「果物が美味しいという気持ちは私にも分かるけれど……全ては無価値、じゃないの?」
[おお、それだ。お嬢ちゃんがオウム返しにした通りに、瞳を巨視に置けば点がぼやけるのは然り。故に、ワシは軽々と世界のためになんてホザケやしない。だから、ワシは今も飯が旨いと戯けられるのよ]
「……なんとなく、お猿さんの言いたいことは分かったわ。世界、と一括りにして憐れむのがそもそも正しくないのね?」
[まあ、正解なぞ各々持っても構いやしないが、ワシからすりゃ救いたいなら手の中の命一つにしておくべきだと、諭したいもんだ。そもそもテメエの範囲外をどうにかしたけりゃ、最早ただ願うしかないぞ?]
「そうね……私も世界を救うなんてどうしようもない考えとは、思うわ」
そんな思いを持ったのは、そしてそれに囚われるようになったのは、何時からか。椿は明確にそれを憶えている。
自分のためだけになってくれた百合が手放した皆のためという想いを叶えたいがためだ。
だが、そんな他人が捨てた妄執に囚われた結果どうなったか。あの日月野家は家族郎党否定され体を保てない程に殺し尽くされた。その上気づけば資産の一部を残して国に多くを受け渡させられ、影響力を多分に減少させることとなる。
月野は出過ぎた杭だったと、何時か誰かが言った。またそのように目立たせた、何もかもを掬えるようにと動いた原動力は椿の心に違いなく。
故に、少女は己を否定しきってくれるだろう、知恵を求めて遥々パリの動物園にまでやって来たのだ。椿は前日の様子見のためのいち来場者とした訪れた際に、広場にて彼からスピーチとして聞いた、尻尾から天辺まで全身金に染め直すのには一日はかかるのだという冗句を思い出しながら、次の言葉を待つ。
隣接した檻のマントヒヒの叫びなどを遠くに、新しい一つだと自称する古きものは、悟った様子でこう言った。
[ふん。なるほど他人の持ち物を負ったか]
「ええ……どうしようもない、でしょ?」
そう返し、椿は賢者の言葉を待つ。だが、しばし猿は愉快そうに金毛著しい頬を掻くばかりだった。
この男は、何時しか日本でファッションブランドを立ち上げたと思えば、近頃何故かフランスの動物園に居を構え出した自由な存在。そしてそれ以前も、伝説神話の一部への介入を認められるような、有名登場人物でもある。
ブッダとも語り合ったと自称するこの猿の人ならば、迷いなど一蹴してくれるに違いない。疲れに膿んだ瞳の、歪んだ期待を一身に受けた不死身の魔法を使う獣は、しかし迷いすらまともに取って、人のように一笑に付さないのだった。
[ふっ、どうしようもあればこそ、だ。今からそれを捨てるも抱くも自由。そもそも物質は属性に徹し続けるべきではないが、だからこそ一途は面白い。ワシからすると、青臭さも一つの味よ]
「……救わなくていいのに、そもそも救えないのに、誰もかもを掬いたいと願っても、いいの?」
椿は、よく分からない。世界で一番に毛深いだろう男はただ面白いからと、間違いを赦して彼女が背中に隠していた犠牲の数々ですら認めている。そもそも最初からボタンを違っていた願いを、後生大事にしても良いのか。
だが、楽になりたい少女を前に、獣はそれらしくにっかり笑んで知恵者とはとても思えない言葉を放つのだった。
[おうよっ! 血迷えよ人間! ワシみたいな魔獣の言葉なんて気にするべきでもない。思い、偏り愛してみろ……そうすれば]
「そうすれば?」
椿は、驚きにただ彼の猿人の言葉を繰り返すばかり。悟った人ではない、ただ賢しいばかりの猿は眼の前のお嬢さんの考えの大凡を理解しておきながら、それを無価値な全てとはうそぶかず。
これまで幾万年を死んでいない彼は、だからこそ送り人としてこう誰にも通じる言葉で語ったのだった。
[際に
老いた猿は去り際に手を振らず、でも確かに悩める他人をどうでも良いともせずに、椿の心に言葉を響かせたのだ。
「はぁ……これで、限界ね」
結論として、月野椿は諦めなかった。残った財の全てを彼女は皆のためにと使い続けたし、百合と共に滅びを止めるために考えることをずっと訴え続けている。
とはいえ、そんな風に努めようとも終わりまではごく短い。最中を短距離走のごとく燃え続かせて、それで終わりにようやく彼女は息を吐けた。
全身に走った罅も赤く、椿はずっと隣の百合の同じく罅だらけの手を取り微笑む。
「ありがとうね、椿ちゃん」
「こちらこそ……と言いたいけれど。でも実際私は何も出来なかった」
「……そんなこと、ないよ」
「ふふ……百合ちゃんは、そう思ってくれるのね」
ずっと少女たちは幸せな生存を、求めた。それが無理と言うなら、命は辛い。
でも、本当は辛くても生きて良くて、そのために死ぬのだって仕方なかった。
とはいえ、椿と百合はそんな風に悟ることはどうしたって無理な頑固者。トラウマを増やし続けながら、滅亡の否定のために生きて、こうしてほぼ時を同じくして亡くなる。
無念。だが、それでも泣かずに笑えるのが、彼女にとっては良かった。結果が自嘲でも、確かに大好きな彼女の願いを生かせ続けたのだから。
椿は、何時しかくっつけ合うことをも忘れた唇を動かして、こう言う。
「これだけ頑張って、でも何も残らなかったっていうのは笑えるけれど……私はそれでも百合ちゃんの隣に居続けられたわ。それが、私にとって一番の報酬」
「それなら……良かったのかな?」
「ええ。どうしようもない中で、何も出来なくても願いのために私はあれたわ……」
「そっか」
落ちて落ちて、赤く赤く。空に青は欠片しかなく、それだって不安定であればもう終わりだ。そして、それでもう仕方ないと認めてしまえばただ全ての光景は悲しくもない。
しばらくの沈黙。風が二人の頬を撫で、熱をさらう。倣うように、椿は目を閉じた。
そして、それきり。バラバラと静かに少女は寝台の上にて終わりの赤に散り消える。
その隣、もう見ることも感じることも出来ない百合も、ただ声帯は動かせたから失った恋人の名前を単に呼べて。
「……椿ちゃん」
幸せだったと伝えたかったけれども、相手が居なければ意味はなく。それでも少女だった欠片の群れは落ちきる前に。
「あたし、救われ、たよ……」
博愛という重荷を放した少女は恋に生き、死ぬ。それが終わりの世界の救いと決めつけるのはあまりに悲しいが、それでも確かに最期に少女は微笑んで。
ぱりんと、弾けて消える。そして、掬いたかった何もかももそれに倣う。
ただそこに誰か一人を愛せた彼女の呪いはもうなくて。
これはそんな、願いの終わり。