遥か彼方の永劫を超えて   作:とも2199

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遥か彼方の永劫を超えて2 火付盗賊

 長屋暮らしが板についてから、かれこれ五年になる。武士を辞めて町人になってから、生計を傘張りなどに頼っている。貧乏を絵に描いたようなみすぼらしい暮らしだったが、同居人の妹は、文句一つ言わずに明るく振る舞っていた。

「およね。いつもすまねえな。大黒屋の用心棒の仕事が上手く行ったら、ちょっとした稼ぎになる。もうちょっとの辛抱だ」

 およねと呼ばれた女は、傘張りの仕事を続けながら、出掛けようとする彼に声をかけた。

「兄様、期待してるよ。頑張ってね」

 およねの笑顔に見送られ、勝野龍之介は、本郷の町を歩き始めた。

 太陽はまだ高く、日差しは強かった。龍之介は、手で日を避けるようにかざしたが、あっという間に、汗が吹き出した。手拭いで汗を拭いながら、彼は大黒屋へと歩みを早めた。

 

「ごめんよ」

 龍之介が、大黒屋の暖簾をくぐると、何やら揉め事の最中だった。

「大黒屋の旦那。あんたに貸した百両、今すぐに返してもらいてえんだが」

 武士崩れと思われる三人の男たちが、店の中で大声を張り上げていた。そのうちの一人が、板の間に土足で足を踏み入れて、凄んでいた。

 対して、大黒屋の主人が、正座して頭を下げていた。

「もう少し待ってくれないか。今日明日で売掛金の集金をすれば、すぐに返せる目処が立つ」

 別の男が、たまたま外出から帰って来た丁稚奉公の若い娘に目をつけた。

「お房じゃねぇか。相変わらずの器量良しだな」

 男が、お房と呼ばれた女を羽交い締めにしていた。

「おやめ下さい!」

「大黒屋の旦那。どうだい、この娘を借金のかたに差し出せば、半金でいいと、うちの親分が言ってんだ」

 大黒屋の主人は、慌てて立ち上がって抗議した。

「それだけは、ご勘弁を。その娘は、私が世話になった家の子なんだ。大切にすると約束して奉公を受け入れた」

「そんなこと知ったことか! 今すぐ、耳を揃えて返すか、この娘を差し出すか、どっちか選べ」

 龍之介は、冷静に様子を窺っていた。高利貸しの男衆は、明らかに堅気の者たちではなかった。恐らく、雇われて集金を担当しているのだろう。自分の敵では無いと判断したが、ここで刀を抜くような真似をすれば、騒ぎが大きくなり、嫌がらせが酷くなる恐れがあった。

 ふと、手前に立っている男が、証文らしきものを持っているのが見えた。龍之介は、男の手首を掴んで捻り上げた。

「な、なにしやがる!」

 龍之介は、男の腕を捻ったまま、証文の内容を確認した。

「ほう。こいつにゃぁ、月末に返済とあるじゃねぇか。まだ、三日はあるぞ」

 板の間に土足で踏み込んでいた男衆の頭と思われる男が、龍之介に気づいて振り返った。

「何だてめぇは」

 龍之介は、掴んだ腕を離すと同時に、その男の尻を軽く蹴飛ばした。証文を持った男は、よろよろと前に、進んだかと思えば、土間にへたり込んだ。

「俺か。今日から雇われた用心棒よ」

 その男は、腰巻きから短刀を取り出して、龍之介に凄んだ。

「うちの親分が、金が入り用なんだ。そっちの都合なんざ知らねぇな!」

 そう言い終わらないうちに、その男は短刀を、腰だめに構えると、至近距離から襲いかかってきた。

 龍之介は、ため息をつくと、ほんの僅かに左に避けた。男は、勢い余って龍之介の脇を走り抜けて行こうとしていた。龍之介は、その首筋に軽く手刀を振り下ろした。

 男はその一撃で、その場に倒れ込んで気を失った。

「あ、兄貴!」

 倒れた男衆の頭の元に、男たちが駆け寄った。

「お、覚えてやがれ!」

 そう言い残すと、倒れた男の肩を抱えて、彼ら借金取りは、慌てて店を出ていった。

「やれやれ」

 大黒屋の主人は、龍之介に駆け寄ると、大きく頭を下げた。

「勝野殿。助かった。礼を言わせてもらうよ」

 主人は、傍に呆然と立ちすくんでいた、お房を呼び寄せて、一緒に、頭を下げさせた。

「礼などいらぬ。それよりも、本当に今日から雇ってもらえるのだな?」

 主人は、頭を上げると、笑顔で言った。

「もちろんですとも」

 龍之介は、気になっていたことを、少し言いよどみつつ、確認をした。

「そのう。なんだ。借金があるのだろう? 俺の給金は、そのう、大丈夫なのか?」

「それならば、さっきあやつらに話していた通り、月末の集金が済めば、まとまった金が入りますので」

 龍之介は、ほっとしていた。およねにたんかを切ってやって来たからには、おいそれと駄目だった、と言うことは出来なかった。

「あのう。もし」

 お房と呼ばれていた女が、龍之介に話しかけてきた。

「もしや、およねちゃんの兄様の龍之介殿ではございませぬか?」

 龍之介は、少し驚いて娘の顔を見た。確かに、歳の頃は、妹のおよねと同じくらいか、と彼は見てとっていた。

「いかにも。あんたは?」

 女は、改めて礼をした。

「房江と申します。およねちゃんとは、前の勤め先で知り合って。前に一度、お家にも遊びに行ったことがありますよ」

 龍之介は、お房の顔をまじまじと見ると、こんな器量の良い娘を忘れるとは、と首を捻った。

「そうだったか。面目無い。すっかり忘れてしまったようだ」

 先程のような立ち回りを見せた彼の間の抜けた一言に、大黒屋の主人とお房が笑い出していた。

 

「で、なんでまた、あんな高利貸しから金を借りたりしたんだ?」

 大黒屋の客室に通された龍之介は、刀を畳の上に置くと、早速先程のことを主人に質問していた。

 大黒屋の主人は、少し表情を曇らせた。

「実は……」

 

 ほんのふた月程前のこと。大黒屋では、蔵で出火があった。火は蔵を焼き尽くす程に燃え上がり、蔵に保管していた商品の着物の生地が、全て燃えてしまったのだ。

 幸いにも、怪我人も無く、商売も上手くいっていた事から、商いを立て直す為にも、何処からか金を借りる必要があった。たまたま、知人に紹介された金貸しから金を借りることで、店を畳まずに済んだのだった。しかし、ひと月程前に、金貸しの主人が失踪したかと思えば、先程取り立てにやって来た男衆が、証文を譲り受けたと言って、毎日のように押し掛けるようになったのだ。

 稼ぎは問題が無いものの、あのような輩が店に頻繁に顔を出すようなら、商いにも影響が出てしまう。

 火事についても、火元となる物が無く、不審火という疑いが強かった。

 主人は、物騒な事件が起きる前に、店を守る用心棒が必要だと考えるようになったのだ。

 

「奉行所は何やってやがんだ?」

 大黒屋の主人は、首を振った。

「火事の後、すぐに火盗改が来てくれました」

 龍之介は、それには驚いていた。

「何とまあ。そうかい。火付盗賊改が目をかけてくれるなら、安心だな」

「勝野殿。そりゃあ、そうなんですがね。悪く言えば、凶悪犯が、うちを狙ってるってことですよ」

 龍之介は、それを聞いて考え込んだ。

「そんだけ、貯め込んでるって、思われてんだな?」

「冗談じゃありませんよ。実際、火事のお陰で、今は大変な時で」

 本郷の町は、火事が多かった。そして最近では、儲かっていると噂される商店を狙った火付盗賊の被害も、今年になってから、数回起きていた。賊に入られた店は、家族や丁稚を含めた全員が殺害され、金品を強奪され、彼らは火を放って去って行くのだ。

 そのような、凶悪な犯罪が起きるたび、商人は打つ手がこれと言ってなく、用心棒を雇い入れることが多かった。

 火盗改も活躍していて、事件が未然に防がれることもあったが、江戸は広く、十分な警備が出来る訳も無かった。そうなると、商人たちは、自衛するしか無かったのである。

 

「じゃあ、今夜から寝ずの番をすりゃあいいんだよな?」

 大黒屋の主人は、大きく頷いた。

「旦那、それじゃあ、お願いしますね」

「あー。給金のことだが……」

 大黒屋は、にっこりと笑った。

「わかってますよ。すぐに月末ですから、最初の給金は日割りで出せますよ」

 龍之介は、目を輝かせて自分の胸を拳で叩いた。

「わかった。任せてくれ」

 

 その夜、龍之介は、皆が寝静まった後も、一人起きていた。かと言って、何もなければただ起きているだけで、特にやることは無く、しごく退屈だった。

 彼は、大きなあくびをしていた。そして、真夜中に厠に行きたくなって、住居の外の庭に出た。厠は、家から少し離れた塀の傍にあった。

 ふと、物陰に何かしらの気配を感じた。不思議そうに彼は、周囲を見回すが、何も見つけることは出来なかった。

 

 その日、初めての給金を受け取った龍之介は、三日ぶりに勇んで家路についていた。真夏の真っ盛りだったが、夜勤明けで朝早く、まだ外は涼しかった。

 龍之介は長屋に帰るなり、妹のおよねに大声で言った。

「およね! 金を受け取って来たぞ。今日はこれで美味いものでも食べよう」

 およねは、土間で龍之介の為に朝食ならぬ夕食を用意しているところだった。

 龍之介は、乱雑に金を渡すと、それをおよねは両手で大切そうに受け取った。

「まだ働いて三日だっていうのに、こんなに? 兄様、本当にお疲れ様でした」

 龍之介は豪快に笑った。

「何の。ただ夜中に起きているだけだ」

 およねは、少し考え込んでいた。

「兄様、このお金は大事に使いましょう。美味しいものは、次のお給金までとっておきましょう?」

 龍之介は頭をかいた。

「そ、そうか? いいんだぞ。今日ぐらい」

「じゃあ、少しだけ。今日は、これでお米を買ってきますから」

「おう、頼んだぞ!」

 

 粗末な食事を食べながら、およねは龍之介に聞いた。

「大黒屋にお房さんが? 兄様、お房さんは、私の命の恩人ですよ」

 漬物を口に入れながら、龍之介は思い出すように言った。

「うん? 彼女がそうだったのか。何も話してくれなかったがな」

 およねは少しだけ嬉しそうな表情をしていた。

「前にお勤めしていたお店、賊が入って大変な事になったでしょう? お房さんが逃してくれなかったら、私もどうなっていたことか。あの後、お房さんに会えなくなってしまって、生きているのかどうかさえ、わからなかったから」

 それを聞いた龍之介は、その時の事を思い出していた。

 

 一年前のことだった。

 およねが勤めていた店に、盗賊が入ったのだ。同じ店で働いていたお房が、それにいち早く気づき、およねを逃してくれたのだ。その際に、一家や丁稚たちは殺害され、店は火を放たれて焼失してしまった。

 生き残ったのは、およねを含めて数人しかいなかった。およねは、しばらくの間お房を探していたが、見つからず、一家とともに亡くなったのだろうと考えて諦めていたのだ。

 

「あのお房さんがお前を助けてくれたとはなぁ。言ってくれりゃあいいのになぁ」

「兄様、私も一度大黒屋に行ってもいいかな。お房さんにお礼を言いたいの」

 龍之介は頷いた。

「いいんじゃねぇか? きっと、喜ぶだろう」

 およねは、笑顔で頷いた。

「ありがとう、兄様。今日にでも行ってみようかな」

 龍之介は、昨夜大黒屋の主人から聞いた話を思い出した。

「そういやあ、今日は、暇をあげたって聞いたな。明日以降の方がいいんじゃねぇかな」

「あら、そうでしたか。残念……。じゃあ、明日伺いますね」

 

 龍之介が、食事を食べ終えて眠りについた頃、大黒屋では、お房が外出しようとしていた。

「旦那様。それじゃあ、すいませんが、今日は、暇を頂きます」

「お房、気をつけてな。あまり遅くなるんじゃないよ。実家のお父上にも宜しく言っとくれ」

 大黒屋の主人に深々とお辞儀をして、お房は店を後にした。彼女は、真夏の日差しを眩しそうに見上げてから、実家の方へと歩みを進めた。

 お房の実家は、浅草の方にあった。途中、不忍池付近の団子屋で、お房は早い休憩をとっていた。

 お房が店先で茶を飲んでいると、つい昨日まで大黒屋にやって来ていた高利貸しの男衆が通り掛かった。既に、大黒屋は借金を全額返済していたので、彼らとの関わりは、終わったはずだった。

 彼らは、お房の前で立ち止まると、顎でついてくるように示した。男衆が、不忍池の方に向かったので、お房は少し後からその後を追った。

 

「姐さん、それでいつ決行で?」

 男衆の頭が、腰を低くしてお房に尋ねていた。

 お房は、男衆を蔑んだ冷たい目で睨んだ。

「今夜がいい。用心棒も、お前たちとの縁が切れたことで今なら油断しているはずだ。父上はなんと言っている?」

「へい。いつでもやれると。準備は整っておりやす。既に、別の盗賊仲間とも合流して、頭数も十分で」

 お房は頷いた。

「わかった。今夜、丑三つ時に決行と伝えてくれ。裏木戸を開けておく」

 男衆は、うやうやしく頷いた。

「わかりやした。すぐに盗人宿に戻って伝えてきやす」

「頼んだぞ」

 お房は、急ぎ足で去って行く男衆の背中を見送った。

「後は、あの用心棒をどうするか、だな」

 お房は、池をのんびりと泳ぐ鴨を眺めながら、龍之介の始末の方法を考えていた。

 だが、彼女にも、一つ気がかりがあった。

 お房は、およねのことを思うと、兄の龍之介の始末をどうするか、迷っていた。

 

 お房は、盗賊の首領の子として生まれ、数年前から、本格的に手伝いを行っていた。表向きは、堅気の商売をしている事になっていた為、一家が盗賊であることは当然知られていない。大黒屋の主人とも、堅気の商売人同士として、以前から父との付き合いがあった。お房は、この縁をきっかけとして、丁稚奉公として店に入り込んだのだ。彼女は、中の様子を探り、時が来たら仲間を引き込む役目を負っていた。

 約二年前、初めてその役目を受け持った時に、同じ店で働くおよねと出会った。お房にとっては、初めて出来た同年代の友人だった。本来なら、本気で友情など感じてはいけない立場だったが、お房は若かった。そして、友人を死なせるようなことが、どうしても出来なかった為、迷った挙句、仲間を侵入させる直前になって、密かにおよねを逃したのだった。

 そして、今回が二度目のおつとめである。にもかかわらず、またしてもおよねに関係のある人物が店にいることになってしまった。

 何かの因縁なのか、それともただの偶然なのか。

 今度こそ非情に徹すると心に誓って、今回の役目を引き受けたからには、邪魔者は消すしかない。

 お房は、落ちていた小石を拾って、池に浮かぶ鴨に向かって投げつけた。池に、落ちた小石の波紋が広がると、鴨は少しだけばたばたとその場を離れたが、少し離れたところで再び池に落ち着いた。

 お房の心のさざ波はといえば、一向に晴れることはなかった。

 

 日が落ちる頃になって、お房は大黒屋に戻っていた。

「只今戻りました」

 そう言って暖簾をくぐると、土間には龍之介が立っていた。彼は、たった今出勤してきたところだった。

 龍之介は、お房の方を向くと、破顔して言った。

「お房さんか。丁度良かった。明日な、うちのおよねが、お前さんを訪ねて来たいと言ってるんだが。迷惑じゃなきゃ、ぜひ会ってやってくれないか。前に、命を助けてくれたことの礼を言いたいそうだ」

 お房は、およねが来ると聞いて複雑な気持ちになった。

 そう。明日になればこの店はもう存在しない。そして、自分自身も、この地にはもう戻らない。

 すると、龍之介が、深く頭を下げた。

「俺からも礼を言わせてくれ。あんたは大事な妹の命の恩人だ。すぐに礼を言えずにすまなかった」

 お房は、恐縮した様子で頭を振ってから言った。

「お気になさらないで。私もおよねちゃんには会いたいから、大歓迎ですよ」

 お房は、作り笑顔で龍之介に答えるのが精一杯だった。

 

「勝野殿。それでは、今日もお願いしますね」

「おう。任せておけ」

 大黒屋は、店を締めたあとの後片付けに追われていた。番頭や手代、そして丁稚らが、商品の着物の生地を運んで元の場所にしまおうとしていた。大黒屋の主人はというと、そろばんを弾きながら、今日の商いの売上を帳面に筆で書き込んでいた。

 特にやることも無い龍之介は、邪魔にならないように隅の方に座ってその様子を眺めていた。

「そういや、勝野殿。妹さんがいるって言ってましたね。良かったら、うちの生地で着物を作ってやったらどうです? きっと、喜ぶと思いますよ」

「考えとくよ」

 さすがに、そんな金は無い。

 仕事が順調だったら、いつか考えてもいいな、と龍之介は思っていた。

 龍之介は、ふと周りを見回した。お房の姿が見えない。多分、夕食の支度に借り出されているのだろう。

 龍之介は、家を出る前に、早い夕食をおよねと二人で食べて来たので、ご相伴にあずかるつもりも無い。

 今日からまた、定休日まで泊まり込んで、長屋には帰れない。食事代を浮かすいい機会だったが、およねと過ごす時間の方を大切にしていた。

 龍之介は、ここに居ても邪魔かと思い、与えられた客室に引っ込んだ。後は、皆が寝静まった後に、賊がやって来ないか寝ずの番をするだけだ。

 このまま、単に夜中に起きているだけで済めば、楽な商売なんだが、と彼は思っていた。

 

 やがて深夜になり、龍之介は客室で正座して気を鎮めていた。こうしていると、僅かな物音にもすぐに反応できるのだ。

 

 同じ頃。お房も起きていた。

 

 周りを見渡すと、彼女と同じ様に丁稚奉公でこの店に住込みで働く同僚の女たちが、川の字になって寝ていた。夏の暑い夜のため、皆布団を剥いで寝ている。

 お房は、彼女たちが間もなく命を落とす事を知っていた。平和そうな寝顔を見ると、非情になろうとする決意が揺らいでしまう。前回のおつとめの時、仲間が店の者たちを寝たまま殺害したり、逃げ惑う者を斬り殺すのを目撃した。返り血を浴びたお房は、不覚にも茫然自失となり、仲間に抱き抱えられて店を脱出したのだ。

 隠れ家に集まった際に、父に叱責され、折檻されたのを今でも思い出す。

 二度と、あのような無様は晒すまいと、心に誓って非情になろうと努力してきた。

 

 それでも。

 

 およねの兄、龍之介の姿を見た時から、心の動揺をひた隠しにしていた。彼が初めて店に現れた時、何も言わなければ気付かれなかっただろうに、およねのその後のことがつい気になり、余計な事を喋ってしまった。

 彼が疑問を抱く前に、事を進めるしかなかった。

 

 それにしても、今宵のおつとめで、彼が邪魔なのは明白だった。

 お房は、龍之介をどのように始末するか迷っていた。

 先だって、借金取りに扮した盗賊仲間の男衆を、軽くあしらった龍之介の実力はわかっている。正攻法では、お房自身の力では絶対に敵わない。しかし、彼にもしもの事があれば、およねが悲しむだろうことは、容易に想像がついた。それを思うと、どうにも気持ちの動揺を抑えることが出来ない。そして、ここ数日、彼の様子を窺っていたが、心優しい良い人なのは十分にわかっていた。

 

 本当に、彼を始末出来るのだろうか。

 

 仲間がここに入った後、彼に全員がやられることはないだろうが、それなりの被害がこちら側にも出ることが予想される。それを考えると、やはり油断している時に、不意を付くのが良いはずだ。

 

 お房は、しばらくの間、布団の上に座り、店の中の物音に注意を払った。龍之介が油断なく見張っているはずなので、まだ迂闊な動きは出来ない。

 

 龍之介は、急に厠に行きたくなって、小さく震えた。

 脇に置いてあった刀を掴むと、立ち上がって厠に向かった。龍之介は、鼻歌を歌いながら、ゆっくりとした足取りで廊下を進んでいった。

 

 お房は、誰かの足音がしているのに気が付いた。

 彼女は、龍之介に違い無いと確信した。足音が遠ざかって行くのを確認し、彼女も立ち上がって、足音のする方へと足を忍ばせた。

 どうやら、厠に行こうとしているらしい。

 その時お房は、土間の台所を通りかかり、そこにあった少し小さ目の漬物石が目に入った。これなら、自分の細腕でも持てるだろう。そして彼女は、咄嗟に龍之介を始末する方法を思い付いた。

 

 龍之介は、鼻歌混じりに裏庭に出て、縁側に置いてあった下駄をつっかけた。そして、裏庭をのんびりと歩くと、厠に入って扉を閉めた。汲み取り式の厠は、酷い匂いがしていたが、龍之介は特に気にすることもなく、小便をした。用をたし終わり、ぶるっと震えた彼は、かなり警戒心が薄くなっていた。

 龍之介は、突然、背後に人の気配を感じて、後ろを振り向こうとした。

 

 そこには、お房が立っていた。

 

 龍之介は驚愕して、何か言おうとした矢先に、何か固いものを後頭部に叩きつけられた。龍之介は、突然のことに対処出来ずに、厠の中で倒れ込むと、そのまま意識を失った。

 

 お房は、彼が、意識を失うのを見て、ほっと胸を撫で下ろした。

 お房は、龍之介の頭に投げつけた漬物石で、彼が命を落とすかも知れないと恐れていた。だが、それなら、それでもいい。兎にも角にも、これで邪魔者を排除することが出来たのだ。

 お房は、厠の戸を閉じると、急ぎ裏庭の塀沿いに走った。そして、途中にあった裏木戸を開けた。

 既に、盗人仲間たちが外に待機しており、静かに彼らが続々と入って来た。

 しばらくすると、ほっかむりをしたお房の父も中に入って来た。

「お房。ご苦労だった」

 裏木戸の傍に立っていたお房は、黙って会釈した。

「用心棒はどうした」

「既に、わたくしが始末しました。邪魔される事はありません」

 お房の父は頷いた。

「よくやった」

 裏庭に集まった、総勢三十名程の盗人たちは、無言で頷き合い、母屋の中に侵入して行った。

 

 お房は、その様子を見送ると、途端に激しい後悔に包まれた。

 

 私は、なんと言う事を。

 本当に、これで良かったの?

 

 懸命に自問自答しても、答えは出ない。

 流れに身を任せ、自らの意思で、ここまで手伝ったのだから。

 お房は、その場でうずくまると、目を閉じて耳を塞いだ。これから起こる恐ろしいことを、何も見たくないし、聞きたくなかった。

 

 

 

「起きろ」

 龍之介は、誰かに体を揺すられていた。

 目を開けると、目の前に同心と思しき人物が立っていた。

 そういえば、厠でお房に襲われたのだと、龍之介は思い出していた。痛む後頭部に触れると、大きなコブが出来ていた。

 周囲には、厠の強烈な悪臭よりも強く、ものが焦げたような匂いが漂っていた。

 はっとした龍之介は、飛び起きて走り出そうとした。

 しかし、彼は既に大黒屋の母屋が火事で全焼し、瓦礫と化しているのを目撃した。

「そ、そんな……!」

 龍之介は、膝から崩れると、その場にへたり込んだ。

 そこでは、同心や与力たちが、現場検証を行っているようだった。

 龍之介を起こした同心は、申し訳無さそうな表情で言った。

「俺たちは、火付盗賊改の者だ。お前、雇われてた用心棒だな?」

 龍之介は、茫然としたまま頷いた。

「ひでぇことしやがるな。どうやら、生き残ったのは、お前さん一人のようだ。すまねぇが、詳しく話を聞かせてもらいてぇんだが」

 龍之介は、その声が、とても遠くに聞こえていた。

 そういえば、お房は、どうなったのだろう。

 彼女が、大黒屋に火を放った盗賊を引き入れたであろうことは、容易に想像がついた。

 龍之介にとって唯一の救いは、今日訪れる予定だった妹が、巻き込まれずに済んだことだけだった。

 

 

 

 それから、一月が過ぎた。

 

 龍之介は、再び傘張りの仕事をしていた。

 彼は、手を止めて、一緒に傘張りをしているおよねの顔をぼんやりと見ていた。

「どうしたの? 兄様。手が止まってますよ」

「あ、ああ。すまん」

 およねは、思い出したように言った。

「私ね。何だか、またお房さんには、いつか会える気がするの」

「ほう」

「そんな気がするの」

 龍之介は、暫し考えた。

 彼女が、盗賊の一味だったことは、妹には話せなかった。だが、あの娘が本当に悪人だったのかどうか、彼にも疑問が残っていた。

「うむ。どういう訳か、俺もそんな気がしている」

 二人は、微笑み合って、仕事に精を出した。

 

続く…




注)pixivとハーメルン、及びブログにて同一作品を公開、または公開を予定しています。
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