龍之介は、恐ろしい夢から目覚めた。
身体中から、酷い寝汗をかいていた。龍之介は体を起こすと、土間で朝食を作っているおよねの元に近付いた。
「兄様、まだ寝てていいのに」
「ん? ああ、いいんだ。何だか、酷い夢を見ちまってな」
およねは、にっこりと笑って龍之介に言った。
「兄様の朝食も用意しますね。少し待っていて」
龍之介は、沢庵を口に放り込んでぽりぽりと食べていた。向かいに座るおよねが、龍之介に話しかけた。
「兄様、今日は大黒屋さんに夕刻から行く予定でしょ。食べたら、もうひと眠りしてね」
龍之介は、驚いて沢庵を噛み砕くのを止めた。
「何だって?」
およねは、箸を進める手を止めて、不思議そうに兄を見つめた。
「だから、今日から用心棒のお仕事でしょう?」
驚愕した龍之介は、思わずおよねに何か言おうとした。
「だ、だってな。大黒屋は……」
「呉服問屋ですってね。綺麗な着物の生地が沢山あるんですってね。私も、今度行ってもいいですか?」
龍之介は、口の中の沢庵をごくりと飲み込んだ。
「あ、ああ」
龍之介は、大黒屋に向かうにはまだ早い時間だったが、出掛けることにしていた。
「およね。じゃあ、行ってくるぞ」
およねは、傘張りの仕事を続けながら、出掛けようとする彼に声をかけた。
「兄様、期待してるよ。頑張ってね」
およねの笑顔に見送られ、龍之介は、本郷の町を歩き始めた。まだ午前中だというのに、太陽は高く、日差しが強かった。龍之介は、手で日を避けるようにかざしたが、あっという間に、汗が吹き出した。手拭いで汗を拭いながら、彼は大黒屋へと歩みを早めた。
龍之介は、道中考えを整理しようとしていた。
大黒屋に賊が入った上、放火で焼失したことは、どうやら夢だったらしい。
それにしても――。
龍之介は、その夢を振り返った。
あまりにも現実的だった。
およねのあの様子からすれば、彼の方が夢と現実を混同しているのは間違い無さそうである。龍之介は、本当に大黒屋が存在しているか確かめたくて、居ても立っても居られず、長屋を飛び出して来たのだ。
そうこうしているうちに、ちょうど昼頃には、大黒屋の前に着いていた。
龍之介は、あ然と大黒屋を見つめた。店は、そこに存在し、何も変わった様子は無かった。
やはり、夢だったか。
龍之介は、苦笑して、その場を立ち去ろうとした。まだ大黒屋に入るには、早い時間だったので、その辺の蕎麦屋で酒でも呑んで、時間を潰そうと思っていた。
すると、大黒屋の番頭が店先に現れた。まだ顔を合わせたことの無いはずの番頭の顔を、龍之介は良く知っていた。
不思議に思ってその男の姿を見ていると、後ろからあの、お房が姿を見せたのだ。龍之介は驚いて、慌てて向かいの店先に姿を隠した。夢で見た彼女は、龍之介の顔を知っていたからだ。龍之介は、お房の顔を軒先から良く見てみた。夢で見た彼女に間違いなかった。だが、龍之介は、彼女の顔を知らないはずだった。
彼女は、何処かに出掛けようとしているようだった。恐らく、お使いを頼まれたのであろう。
お房が、番頭の男にお辞儀をして、何処かへと歩きだしたので、こっそりと後をつけることにした。
お房はゆっくりとした足取りで、本郷の町を後にし、浅草の方へ足を進めていた。
距離をとって後をつけた龍之介は、考えずにいられなかった。
あの夢は正夢に違いない、と。
番頭やお房の顔は、大黒屋に初めて訪れた時は、彼は知らなかったはずだった。大黒屋の主人だけにしか、彼はまだ会っていなかったのだ。にもかかわらず、彼らは、夢で見たそのままの顔だった。
後をつけること、四半刻程経っただろうか。お房は、上野の不忍池の近くまで来ていた。
お房は、池の近くの茶屋でひと休みしようとしていたので、龍之介は、別の茶屋に足を踏み入れて、少し離れた場所から彼女の様子を窺った。
お房が茶を飲んでいる様子を観察していると、龍之介にも茶が運ばれて来た。仕方なく龍之介は、団子を一串注文した。懐のなけなしの金を払うと、彼は運ばれて来た団子をほお張った。
そうしていると、向かいの茶屋に、龍之介も見たことのある連中が現れた。大黒屋で借金取りに来ていた男たちだった。だが、その男たちにも、龍之介はまだ会っていないはずだった。
男たちは、お房に何か合図をすると、不忍池の方へ向かった。後から少し遅れて立ち上がったお房が、彼らの方へと歩いて行ったので、龍之介は、慌てて団子を全てほお張った。
龍之介が後をつけて行くと、彼らとお房は、池の畔で何か話し合っていた。龍之介は、雑草に身を隠して彼らの会話を聞こうと近付いた。
「今日、用心棒の男が、店にやって来る。どんな男かは私も知らぬ。お前たちには、奴の実力を確認して貰いたい」
お房は、男たちに命令をしていた。
「へい。そいつが来る頃に、借金取りに向かいやす。適当に難癖をつけて、奴に襲いかかってみやす」
「姐さん、俺たちが、その場で使い物にならなくしてやりやすよ」
お房は、厳しい表情で、男たちを諭した。
「馬鹿を言うんじゃない。用心棒を請け負うということは、それなりの手練のはずだ。実力がわかれば充分だ」
男たちは、お房に頭を下げている。
龍之介は、その様子を見て、確信した。
そうか。あれは、正夢だ。
ならば、お房らは盗賊の一味ということで間違いが無い。彼らの計画を、どうにか阻止しなければ、夢で見た悲劇が現実になってしまうのだ。
しばらくすると、男たちは、不忍池を去って行った。お房は、一人その場に佇んでいる。
龍之介は思案した。彼女をどうすべきか。たった今、彼女の本当の姿を見た後でも、どうしても合点がいかなかった。彼女が本当に悪党なのかどうか。
お房は、不忍池に石を放っていた。鴨たちが、放られた石を避ける為、ばたばたと暴れていたが、すぐに別の場所に、落ち着いて再び池に浮いていた。
龍之介は、そっと彼女に距離を置いて、静かに不忍池から立ち去った。
大黒屋に向かうにはまだ早い時間だったが、龍之介は店に入り、主人に挨拶をした。
「これは、これは勝野殿。良く来てくれました。今夜から、お世話になりますから、よろしくお願いしますね」
龍之介は、挨拶もそこそこに、主人に言わなければならなかった。
「ところで、旦那。借金取りに困ってるんだよな?」
大黒屋の主人は驚いていた。
「どうしてそれを?」
龍之介は、照れたように笑った。
「ま、まぁ、下調べをさせてもらったんだ」
主人は、感心した様子で頷いた。
「なるほど、そうでしたか。さすがは勝野殿」
龍之介は、一つ試してみることにした。大黒屋の主人に顔を寄せ、耳打ちした。
「え? どうして、そんな嘘を?」
「まぁ、やってみてくれ。近くで見てるから、危なくなれば、助けに入るからよ」
「わ、わかりました。そんなことでいいのなら」
半信半疑の大黒屋の主人を置いて、龍之介は店を出ていった。
やがて、借金取りの男衆が、大黒屋を訪れて、ひとしきりくだを巻き始めた。
「おうおう、今すぐ借金を返しな。うちの親分がもう待てないって言ってんだ」
大黒屋の主人は、ひれ伏して彼らに話しかけた。
「月末には返せますから、今日は、どうぞお引き取りを」
男たちは主人に凄んでみせた。
「親分の気が変わったんだよ。今すぐ、耳を揃えて返しやがれ」
大黒屋の主人は、そこで打ち合わせた通りに言った。
「ああ、こんなことなら、用心棒に今日から来て貰えばよかった」
男衆は、その一言を聞き逃さなかった。
「んだと。おい、用心棒を雇ったのか」
「あ、明日から来ることに……」
男たちは、それを聞いて、店の土間で集まって何やら話を始めた。
「話が違うな。どうする?」
「奴がいないんじゃ、意味ねぇな」
「じゃあ、引き上げるか」
男たちは、先程までの様子と打って変わって、急に勢いが無くなった。
「仕方ねぇ。おい、大黒屋。明日、また来るからな」
そう言い残した男たちは、店を出ていった。
呆気にとられた大黒屋の主人は、彼らの後ろ姿を目で追った。
「勝野殿に言われた通りにしただけなんだが……何故だ?」
龍之介は、店の影に隠れて、男たちが出て行くのを見守った。夢で見た通りなら、そろそろお房が店に戻るはずだ。
龍之介が見守る中、そのお房が、お使いから戻って来た。
店に入ったお房は、まだいるはずの男たちがいないことに少し驚いていた。
大黒屋の主人は、事も無げに、お房に声をかけてきた。
「お房かい。お帰り」
「は、はい。ただいま戻りました」
お房は、きょろきょろと辺りを見回した。
「俺をお探しかい」
振り返ったお房は、店先に立っている龍之介の姿を確認して、はっと驚いていた。
真っ青になった彼女は、主人に具合が悪いと言うと、店の奥に早足で逃げ込んだ。
その様子を見た龍之介は、違和感を感じた。暫し考えた彼は、一つの結論に達した。彼女も同じ夢を見て、これから起こることを知っているのではないか、と。
その夜、龍之介は大黒屋で夕食のご相伴に預かっていた。給仕をするお房の様子を眺めつつ、出来るだけ彼女には敢えて接触しなかった。彼女も、龍之介には接触して来なかったので、彼はしばらく様子を見ることにした。
しかし、ちらちらと視線を感じていたので、彼女が龍之介を意識しているのは間違い無さそうだった。
龍之介は、大黒屋の主人や番頭と談笑しながら、いつもより少しだけ豪勢な食事を楽しんでいた。そして、主人に酒をすすめられたが、今夜からの寝ずの番があるからとそれを丁重に断った。
早目に食事を切り上げた龍之介は、与えられた客室に行こうと廊下を歩いて行くと、お勝手の近くを通りかかった。そこでは、主人の家族や番頭たちとは別に、八名程の丁稚奉公らが遅い食事をとっているところだった。
そこには、彼らと一緒に食事をとるお房の姿もあった。そのほとんどが女子ばかりで、楽しそうに他の丁稚らと食事をする様子を見た龍之介は、このまま通り過ぎるのも何だと思い、軽く挨拶をしてみることにした。
「今日から用心棒として世話になる、勝野龍之介と申す。皆、よろしくな」
龍之介は笑顔を彼らに向けた。
「用心棒ってもっと怖い人かと思ってたよ。随分若いじゃないか。旦那は本当にお強いのかい?」
中でも年長の女が龍之介に軽口を叩いてきたので、龍之介も軽く返した。
「おう。あたぼうよ。若いって言ってくれて嬉しいが、俺ももう三十路だ。何か困った事があったら言ってくれ。力になるぞ。あぁ、でも金は持ってねぇから、そういうのは番頭さんとかに相談してくれ」
女たちの甲高い笑い声が響く。
「あんたも、今日からここの使用人だろう? 明日はこっちで、一緒に食べないかい?」
「ここは、おなごばかりじゃねぇか。俺みてぇなむさ苦しいのが一緒でもいいのかい?」
年長の女は大きく頷いた。
「構わないよ。皆もいいだろう?」
女たちが、楽しそうに了承の返事をしているのをみて、龍之介は気を良くした。
「じゃあ、明日の朝飯は、こっちでご相伴に預かるか。よろしくな」
笑顔で立ち去る龍之介に、女たちは口々に待ってるよ、などと言っていた。しかし、龍之介は、お房が目を合わせずに無表情になっているのを見逃さなかった。
その夜、龍之介は、皆が寝静まった後、寝ずの番をしていた。時折、厠に行くついでに、庭の様子を確認したりしたが、特に異常はなかった。
念の為と、丁稚奉公らが眠る部屋もそっと覗いて見たが、肝心のお房はぐっすりと寝ているようだった。
そのお房はと言うと、心中穏やかでは無く、中々眠りにつけずにいた。龍之介が、深夜に自分たちの部屋を覗いている時も起きていて、寝たふりをして誤魔化していたのだ。
何故、あの男がいる?
お房は、龍之介の存在に怯えていた。
お房は、昨日の夜、悪夢を見たのだった。
彼の意識を奪い、仲間を店に引き入れて、店の者たちを惨殺して火を放った。そしてその後、激しい後悔に苛まれ、橋から川に身を投げたのだ。
夢はそこで覚め、彼女は大いに泣いた。周りの丁稚奉公の仲間たちが心配する中、涙が枯れるまで泣いた。理由を尋ねられたが、言えるはずもなかった。
何せ、これから予定している計画通りの出来事なのだから。
気を取り直したお房は、計画を進めようとしていたが、夕刻になって現れた用心棒が、龍之介その人だったのを見て、愕然とした。
あれは、正夢だったのか――?
お房の震えは止まらなかった。
あのような後悔をするのも、正夢だとしたら。
自ら命を絶つのも正夢だとしたら。
お房は、眠れない夜を過ごし、そのまま朝を迎えた。
昨夜の話の通り、龍之介は、朝食を丁稚奉公ら使用人たちと一緒に食べた。女たちにちやほやされた龍之介は、少々鼻の下を伸ばしていたが、お房の様子だけは、注意を払っていた。何やら、彼女は、魂が抜けたような虚ろな表情をしていた。
このままにしておけぬと考えた龍之介は、お房と対峙することに決めた。
龍之介は、食事の後片付けを終えたお房を呼び止め、裏庭に誘った。彼女は、酷く怯えた様子を見せていたので、同じ夢を見たのに違いないと思う彼の確信は、更に強まった。
「な、何かご用でしょうか?」
龍之介は、お房の問いに答えず、裏庭で立ったまま、お房に背を向けていた。
何と言うべきか思案していた龍之介は、決意を固めて言った。
「漬物石ってなぁ、女の力でも持てるもんなのか?」
龍之介の言わんとしていることに気づいたお房は、次第に身体が震え出した。
龍之介は、振り返ってお房の様子を確かめた。酷く焦燥しきった様子から彼は更に追い打ちをかけるべく次の言葉を探した。
「おなごでも持てる軽いのもありますので。お話が、それだけでしたら、仕事がありますので」
逃げようとするお房に、龍之介は言った。
「まぁ、待ちな。俺は、お前さんの正体を知っている。そいつを、大黒屋のご主人に言いつけてもいいんだぜ」
その一言で、お房は怯えた様子から一転、逆に冷静になり始めていた。
「何を仰っているのか、わかりかねますが」
「ならば、俺の話を聞け」
龍之介は、彼女が逃げられないように、彼女の周りをゆっくりと歩き始めた。
「お前さんは、盗賊の一味だ。引き込み役を果たす為、この店に丁稚奉公として入り込み、店の者たちの信用を得ようとしている。そして、今日から三日後、おつとめを決行する。邪魔な俺は、不意をついて、厠で用を足している最中に、漬物石で殴って意識を奪うことになる」
お房は、青くなって龍之介が、自分と同じ夢を見たことを悟った。お房は、龍之介に何か言い返そうとしたが、あの悪夢が正夢であることの確信が増し、どうしても言葉が口から出なかった。
「俺はな、ひとつだけ、わからねぇことがあるんだ」
龍之介が、更に続けた。
「俺が意識を失った後、お前さんは、俺を殺すことも出来た。それに、俺を盗賊仲間に付き出して、殺させる事だって出来たはずだ。何故、そうしなかったのか。俺は、それが知りてぇんだ」
龍之介は、お房に近付いて、彼女の表情を窺った。彼女は、冷静さを保ちながらも、言われた内容に動揺を隠しているように見て取れた。
「俺が思うに、お前さんは、本当は盗賊の手伝いなど望んでいないんじゃないか? だから、俺を殺すのにも躊躇した。本当は、殺生など望んでいないと俺は見たんだが、どうだい? 当たってるんじゃねぇか?」
お房は、図星をつかれて、つい、龍之介の顔を見てしまった。
「俺は、これからお前さんを奉行所に突き出して、盗賊仲間の居場所を連中に伝えりゃあ、それでひと仕事終わりに出来る。だが、俺はただの浪人で、岡っ引きじゃねぇ。お前が悪人じゃねぇってことがわかれば、別の方法を考えるだろうよ。何と言っても、妹のおよねが悲しむのは見たくねぇからな」
そこまで言って、龍之介は口をつぐんだ。後は、彼女が考えることなのだ。
お房は、震える声で言った。
「およねちゃんは、元気?」
龍之介は、お房の寂しげな顔を見て、少し口元を緩めた。
「ああ。元気だ。年頃だってのに、毎日文句も言わず、大した儲けにもならねぇ傘張りに精を出してるぜ」
お房は、微笑して一歩前に進み、龍之介に背を向けた。
空を見上げたお房は、やっと本当のことを話そうと決意した。
「私は、およねちゃんと仲良くなって、初めて他人を大切にする気持ちがわかったんです。そうしたら、盗みや殺生が何をもたらすのか、初めて恐ろしさを理解出来ました。彼女がいなければ、私は、今もそれを知らないままだったでしょう」
振り返ったお房は、瞳に涙を浮かべていた。
「私は、盗賊の一家に生まれました。父も母も盗人で、私は、彼らの仲間や、親戚に育てられ、両親の愛情など知らずに育ちました。私が大きくなると、両親は私を呼び寄せ、一緒に暮らすようになりました。私は、それが嬉しくて、両親に愛されようと、言われるがままに、盗賊としての教育や、訓練を受けるようになりました。そうやって、前に丁稚奉公で入った店で、最初のおつとめをしました。非情になりきれなかった私は、およねちゃんを逃し、その後、仲間が畜生にも劣る殺生を働くのを見て恐れをなし、私は最後まで仕事をすることが出来ませんでした。私は、反省をして、今度こそ非情に成り切ろうと心に決めて、ここへやって来ました」
お房は、下を向いて、苦しそうな声で言った。
「ばれてしまったからには仕方がありません。奉行所に突き出すなりして下さって結構です」
龍之介は、お房の肩を叩いた。
「俺が聞いているのは、お前さんが悪党かどうかだよ。後悔してんだろう? 今までのことをな」
お房は、小さく頷いた。
龍之介は、しばらくどうすべきか悩んだ。
彼女が本当のことを喋っているかどうかも、確信した訳ではない。
ならば、それを確認するしかないだろう。
「夕べは、お前さんも、あんまり寝てないみてぇだが。お互い様だな。ちょいと一緒に来てくれ。大黒屋の旦那には、俺が話す」
龍之介は、お房を連れて、大黒屋を出掛けて行った。
妹の友人だとわかったので、妹に会わせたいと大黒屋の主人には説明した。すぐ戻ると言い残して、二人は、急ぎ龍之介の長屋へと向かった。
龍之介とお房は、暑い中、龍之介の長屋に向かって歩いていた。龍之介は、手拭いで汗を拭いて、暑そうにしている。
「こりゃあ、今日も暑くなりそうだな」
当初、どこに連れて行く気か疑っていたお房は、本当に龍之介の自宅に向かっているのだと気が付いた。お房は、龍之介が何を考えているか、わからなかった。ただのお人好しなのか、それとも――。
しばらくすると、ようやく、龍之介の住む長屋に着いた。龍之介は、お房について来るように促しながら、自宅の戸を開けた。
「およね! 俺だ。今帰ったぞ」
龍之介は、大きな声で、家の奥に声をかけた。奥で傘張りの作業を行っていたおよねは、今日は戻らぬはずの兄がいるのに驚いていた。
「兄様、一体どうしましたか?」
およねは、立ち上がって入口の方を見て、そこにいる人物を見て、持っていた傘を取り落した。
「そ、そこにいるのは、もしや……」
龍之介の後ろには、お房が立っていた。
「およねちゃん。ご無沙汰だね」
お房は、気恥ずかしそうに龍之介の後ろで小さくなっていた。
「お房さん!」
およねは、勢い良く入口に走り寄った。
「ああ、本当にお房さんなのね。もう、会えないのかと思っていたのに」
龍之介は、後ろに隠れているお房と、妹に話しかけた。
「およね。お房さんはな、大黒屋で丁稚奉公をしていたんだ。お前に会わせたいと思って連れて来た。お房さんも、そんな所に隠れていないで、およねの近くに寄ってやってくれ」
龍之介は、お房の背を押して、およねの前に近寄らせた。およねは、お房の手を取ると、大粒の涙を流した。
「よかった。生きていたのね。あれからずっと、心配してたの」
お房も、感極まっておよねの手を握った。
「ごめんね。心配かけて。およねちゃんも、元気そうで良かった。私も、ずっとどうしているか、気にしてたんだけど」
二人は、互いの手を握り締めて、どれだけ心配していたかを話し合っていた。
龍之介も、これには少し感極まっていた。
「二人とも、良かったな。俺も、連れて来た甲斐があったってもんだ」
龍之介は、二人の様子を見て、大黒屋で聞いた告白は、嘘を言っているのでは無いと確信した。
「悪い人に狙われている?」
龍之介の家の中で、三人は膝を突き合わせて座って話をしていた。およねは、龍之介の話に驚いていた。
龍之介は、およねに向かって頷いた。
「そうなんだ。大黒屋は、借金取りがやって来て、商いを妨害している。その上、お房さんを借金の形として、連れて行こうと狙っているんだ」
「まぁ、何て酷い」
その話を聞いたおよねは、憤慨していた。
お房は、二人の会話を、黙って見守っていた。龍之介が、何故このような嘘を言っているのか、計り兼ねた。確かに、そのような芝居を借金取りの男衆にやらせて、油断させようとしていたのは事実だった。
「それでな、今日の所は俺もお房さんも大黒屋に戻るが、雲行きが怪しくなったら、うちで匿ってやりてぇんだが、いいか?」
およねは、心配そうな表情で、大きく頷いた。
「もちろんですよ。お房さんがそんな目に合っているのなら、私も心配ですから」
龍之介は、あ然とした表情でお房が自分の方を見ていたので、背を叩いた。
「良かったな。やばそうなら、ここで隠れているといい。大黒屋の旦那には、俺から話してやるから」
お房は、龍之介が目配せしているのに気付き、生返事をした。
「あ、ありがとうございます。およねちゃんにも迷惑かけてしまうけど」
「気にしないで。命の恩人のあなたには、いつか恩返しがしたいと思っていたから」
龍之介は膝を叩いた。
「よし、決まったな。じゃあ、俺たちは、一度大黒屋に戻るから、お房さんを匿うことになったら、よろしく頼む」
「任せて、兄様」
龍之介は立ち上がって、お房にも促した。
「じゃあ、そろそろ大黒屋に戻るぞ」
「兄様、お房さんも、気を付けてね」
こうして、龍之介とお房は、彼の長屋を後にした。お房は、長屋から少し離れた所で、龍之介に聞いた。
「どうして、あのようなことを?」
「大黒屋の襲撃当日、火盗改に通報して、盗賊一味を捕まえてもらうようにする。お前さんは、引き込みを止めて、ここで隠れていればいい。だが、お前さんの両親も捕まることになる。それでもいいかい?」
お房は、心底驚いていた。
「何故、そこまでしてくれるんです? 私は、両親のことは、罪を償うべきだと思っています。たとえ、極刑に科せられるとしても……。でも、私も自分のしたことが許されるとは思っていません。私も、両親と一緒に奉行所に突き出してもらっていいんですよ」
龍之介は、照れくさそうに、頭をかいた。
「俺はな。妹のおよねを悲しませたくねぇんだよ。妹の命を救ってくれた恩もある。それに、俺はどうしても、お前さんが悪党だと思えねぇんだよ。本当はやりたくもねぇことを、無理矢理やらされただけじゃねぇか。俺は、何とか助けてやりてぇんだよ」
お房は、そんな龍之介の様子を見て、彼は本当のお人好しだと思った。同時に、本当に優しい人なのだと知った。
二人は、急ぎ足で大黒屋に向かって歩みを進めた。
それから、三日後。
大黒屋襲撃の当日の夜を迎えていた。
龍之介は、既にお房を自分の長屋に避難させていた。
火盗改への通報も既に済まし、龍之介は、大黒屋の人々が寝静まった深夜に、一人裏庭で待機していた。
「お月さんが、綺麗じゃねぇか。今宵は、いい夜だ」
龍之介は、夜空を見上げて、星の位置を確認すると、時間になったことを悟った。
「頃合いだ」
龍之介は、裏庭の木戸に近付くと、扉を開けて外に出た。
そこには、既に三十名程の盗賊たちが待ち構えていた。お房が裏木戸を開けるのを、待っていたのであろう。
「な、なんだ、てめぇは」
龍之介は、左手に持った刀の鞘から、ゆっくりと右手で刀を抜いた。
「俺か。俺は、大黒屋の用心棒よ」
「お房の奴がしくじったな?」
盗賊の頭と思われる男が、吐き捨てるように言った。龍之介は、その男の方を見て言った。
「違うな。おめえらがしくじったんだよ」
龍之介は、刀を構えた。
「お前たち! こいつを始末して、大黒屋に入るぞ」
しかし、盗賊たちの背後から、三方の通りを塞ぐように、多数の提灯が見えた。その提灯には「火盗」と書かれていた。
「火付盗賊改方である。神妙に縛に付け!」
盗賊たちは、騒然となった。
「おい、火盗改だぞ!」
「馬鹿な!」
盗賊たちは、逃げようとばらばらに右往左往し始め、火盗改との斬り合いが始まった。
火盗改の同心たちは、盗賊らと死闘を演じ、次々に斬り倒していった。抵抗しない者は捕縛し、刃を向ける者は、容赦無く斬って捨てた。
混乱の中、盗賊の頭と、三人の男たちが、包囲を突破して逃げて行くのが見えた。
「待て!」
龍之介は、男たちを追跡して、背後から一人を斬り倒した。うめき声を聞いた、盗賊の頭と残りの男たち二人は、振り返って龍之介に向かって刀を構えた。
彼らは、暫し刀を構えて睨み合った。
「お前ぇ、用心棒か! 姐さんをどうしたんだ」
姐さんと聞いた龍之介は、お房のことを言っているのだとすぐにわかった。
「安全な所で匿っているぜ」
「貴様、お房を拐かしたんだな?」
盗賊の頭が、憎々しげに龍之介に言った。
「拐かしたとは、人聞きが悪いな。同意の上のことだ」
すると、その中の一人の男が、前に進み出た。
「お頭! ここは、あっしが引き受けやす。逃げて下せい!」
龍之介は、その男が、借金取りの中でも、兄貴と呼ばれた男だったのに気が付いた。
「すまん!」
盗賊の頭と、残った一人が、その場を後退りながら、振り返って一目散に走り出した。
「あ、待ちやがれ!」
「おめぇの相手は、この俺だ」
その男は、正面から龍之介に刀を打ち込んで来た。
龍之介は、縦に振り回された刀を、少し身体を横に移動して避けた。そして、自らの刀を上段から鋭く振り下ろし、男の両腕を手首から斬り落とした。
男の両手と持っていた刀が地面に転がると、男は酷い悲鳴を上げて、地面を転げ回った。
龍之介が男に気を取られている間に、盗賊の頭と、もう一人の男の姿は、何処にも見えなくなっていた。
龍之介は、ほっとして、背後を振り返った。夢で見た大黒屋の悲劇は、どうやら回避出来たらしい。しかし、火盗改と盗賊たちの騒ぎは、まだ収まっていなかった。
ふと、龍之介は背筋に悪寒が走り、嫌な予感がした。血相を変えた龍之介は、一路、自宅のある長屋の方へと走って行った。
大急ぎで走って長屋の近くまで戻った龍之介は、信じられないものを目撃した。
長屋から、激しく炎が吹き出し、燃えていたのだ。
真夜中だというのに、辺りは炎の灯りで明るく照らされていた。
慌てた龍之介は、長屋へと真っ直ぐに駆け付けた。火が出て間もないようで、まだ火消しの姿は現れていなかった。しかし、何処かで火災を知らせる鐘の音が鳴っている。
龍之介は、長屋の近くを走りながら、隣家にも大声で叫んだ。
「火事だ! 皆、起きろ! 早く逃げろ!」
龍之介は、やっとのことで、自宅の前まで来たが、激しい炎で、近付くとことが出来なかった。
「およね! お房! ああ、なんてこった!」
自分の住まいは、内部が激しく燃えており、妹とお房の安否はわからなかった。
龍之介は、膝をついて、頭を抱えた。
盗賊の頭を逃したせいだと、彼はすぐに気が付いた。恐らく、用心棒として大黒屋に入った龍之介は、身辺を調べられていたのだろう。この火災が、彼に対する復讐であろうことは、容易に想像が出来た。
「大黒屋を守ったのはいいが、これじゃあ、あんまりじゃねぇか」
龍之介は、涙を流して、呆然と火災を見つめた。
そんな彼に、背後から声が掛けられた。
「兄様!」
驚いた龍之介は、狂喜してその声の方へと、地面を転げながら向かった。
「およね!」
およねは、向かい側の家の軒下にいた。
龍之介は、彼女を強く抱きしめると、安堵の息を吐き出した。
「良かった……! 無事で」
およねは、龍之介に笑顔を向けた。
「お房さんが火事に気がついて、寝ていた私を起こしてくれたんです」
龍之介が、およねの横を見ると、確かにお房の姿があった。
「お房さんも無事だったか。本当に良かった」
お房は、龍之介を心配そうに見つめた。
「私たちは、大丈夫です。でも、お家が……」
龍之介は、炎を上げる長屋を振り返った。
「なあに。生きてさえいりゃあ、何とかなるさ」
だが――。
龍之介は、逃げた盗賊の頭のことを考えた。
彼が捕まらない限り、安心して暮らすのは、困難ではないか?
龍之介は、お房に耳打ちして、彼女の父が逃げたことを伝えた。お房は、真っ青な顔をしている。龍之介は、その顔を見ながら考えた。
盗賊の頭、つまりお房の父は、捕まったのとは別の仲間と合流し、裏切り者のお房を狙って刺客を放って来るやも知れない。それに、龍之介とおよねも、逆恨みからの暴力的な行為に晒される危険も考えられる。何せ、長屋を放火して、関係のない人たちも巻き添えに焼き殺そうと考える輩なのだ。
奉行所などに相談するにしても、お房の正体が知れることを考えれば、それも出来そうも無い。
八方塞がりとなった龍之介は、一つの結論に達した。
「およね、それからお房さん。ちょっと大変だが、西へ行かないか」
およねとお房は、きょとんとした顔をしている。
「どうやら、俺たちは、悪い奴らに目をつけられちまったようだ。どうせ、家も燃えちまったことだし、すぐにでも江戸を離れて、西へ逃げよう。大坂に知り合いがいるんだ。そいつを頼ってみようと思う」
お房は、複雑な表情をしている。それはそうだろう。自分のせいで、龍之介とおよねが、このような目に合ってしまったのだから。
「お房さん。俺のちっぽけな正義感が起こした事だ。お前さんのせいじゃない。気にしないでくれ」
龍之介は、お房の目を見つめて、真剣な表情で言った。彼は、およねにも申し訳無さそうに言った。
「すまない。およね。こんなことになっちまって」
しかし、その彼女は、いつものように笑顔を龍之介に向けていた。
「兄様。お房さんの為になることなんでしょう? お房さんにこれで恩返し出来るってことだし。私は、兄様の言うことは、いつだって信じていますから」
お房は、手で顔を覆うと、感極まって泣き出した。生まれてこの方、こんなに誰かに優しくしてもらったことがあっただろうか。これもすべて、およねとの出会い、他者を大切にする気持ちを彼女に教わったことだった。
彼ら三人は、着の身着のまま、西へと向かった。
たまたま、昨夜大黒屋に給金をもらったばかりだったので、多少の金は持っていた。どうにかこれで、西へとたどり着き、そこで新たな生活を始めるのだ。
その後三人は、東海道を何日もかけて歩き続けた。そして、遂に大坂の街にたどり着き、知り合いのつてを頼ってどうにか住処を確保した。
以前と変わらぬ貧乏暮らしに慣れていたおよねは、変わらず明るく暮らしていて、お房を元気付けていた。
龍之介は、新しく事業を始めることを決意していた。飛脚として、大坂の街のあちらこちらに、荷を届ける商売を始めたのだ。
当初は、三人でその商売を切り盛りしていたが、次第に事業は大きくなり、使用人を雇って京の街や、果ては江戸まで荷を運ぶようになったのである。
風の噂では、江戸でお房の父が捕まったという話が伝わり、龍之介は安堵していた。彼は、そのことをお房にも伝え、複雑な表情をする彼女を支えた。
そして、それから気のおけない関係となった龍之介とお房は、祝言をあげた。およねも、使用人だった男と結婚することになり、益々事業は安泰だった。そのうちに、三人は、貧乏暮らしだった頃を懐かしむ余裕も出来たのだった。
ある時、お房が荷の依頼の帳面を確認していると、興味深い依頼を見つけて、龍之介に伝えに行った。
帳面に書かれていたのは、京から、江戸の大黒屋まで、着物の生地を送り届ける仕事だった。
龍之介は、それを見て大いに笑った。
「大黒屋さんも、益々商売繁盛しているみてぇだな」
「これも、龍さんのお陰ですよ」
「何言ってんだ。お房、お前さんのお陰さ」
お房は、ふと思い出した。
「あの時、二人で同じ夢を見たからじゃありません? 今でも、あの悪夢を思い出すことがあるんです。悪い未来にならない様に、仏様が導いてくれたんじゃないかって」
龍之介も、その夢のことはよく覚えていた。
忘れるはずもない。
あれは、彼らの運命を変える、奇跡だったと感じるのだ。
続く…
注)pixivとハーメルン、及びブログにて同一作品を公開、または公開を予定しています。