優子は、悪夢にうなされて目が覚めた。
ベッドの脇に置いてある時計を見ると、まだ朝の五時だった。酷い寝汗をかいていて、気持ちが悪かった。
あの冬の出来事についての夢を見るとは、と思い、優子はがっくりと項垂れた。
そして、そのまま、もう一度寝ようと試みた。
そういえば、今日から春休みが終わって三年生だったな、と思ったら何となく寝付けなくなってしまう。
仕方なく、優子はベッドから這い出ると、大きな欠伸をした。
洗面所に行き、とりあえず顔を洗い、歯を磨く。鏡に映った自分は、酷い寝癖で、寝惚けた顔をしていた。
優子は憂鬱だった。
出来れば、学校に行きたくない。
だって、もう学校には、楽しい事なんてひとつも無いし。
優子は、口をゆすいだ後、懸命に寝癖を直すことになった。
身だしなみを気にする意味って何かあったっけ?
裕介とは、あれから話を一度もしていない。もちろん、他の人ともだ。
彼は、優子の事を気にしているようにも見えたが、無関係な他人だ。元から他人だったが、何の関係も無い、という関係に戻ったのだ。
優子は、リビングにやって来て、テーブルの椅子に座った。まだ朝早いので、父も母も寝ているようだった。テレビのリモコンを手に取ると、朝のニュース番組を映した。
ぼんやりテレビのニュースを眺めていると、何か違和感を時々覚えた。おかしいな、と思いつつ、自分のスマートフォンを取り出すと、ニュースサイトを表示した。
またも、違和感を感じた。
この違和感の原因は、既視感だった。どのニュースも、前に見たことがある気がした。
そう。
去年のちょうど今頃のニュースだった。去年、話題になった芸能人の交際発覚のニュースがトップに出ていて、これは良く覚えていた。その人は、ファンだったので、大いに落胆したものだった。
でも、何で、このニュースが今になってまた出ているのか、彼女は不思議に思っていた。テレビでも、そのニュースはトップで扱われていた。
その時、ふと見たスマートフォンの待受画面に表示されていたカレンダーの日付を見て、優子はぽかんとなった。表示されている、今日の日付は、ちょうど、一年前のものだった。
焦った優子は、右往左往した後、落ち着こうと、リビングのソファに腰掛けた。そして、クッションを抱えると、考えを巡らせた。
タイムリープした? などと、ラノベの主人公になったような気持ちに一瞬浸って、にやにやとしてみたが、それも違和感があった。どうやら、先程まで現実にあったことだと勘違いしていたのは、夢の中の出来事だったらしい、という結論になった。
ということは?
優子は、頭を整理してみた。
・裕介は怪我をしていない
・裕介は彼女が出来ていない
・裕介は……
優子は、彼のことばかり考えている自分に、赤面して、クッションに顔を埋めると、一人で悶絶した。
そして、あれが夢だとしたら、あんな最悪のことが起きていないということだ。
優子は、決意を固めると、大急ぎで、部屋に戻って学校に行く準備をした。ブレザーの制服に着替えて、鞄を掴んだ。部屋を出ると、ちょうど母親が起きて来た所だった。
「おはよう! 行ってきます!」
「え? 優子、朝ごはんは?」
「いらない!」
優子は、母が何か言う前に、急いでドアを出ていった。
「どうしたの。こんな朝早く」
誰もいない玄関に向かって、優子の母は話しかけていた。
優子は、早足で学校に向かい、急いでその門をくぐった。ちょうど、早出の先生たちが、新しいクラスの発表をする紙を広げて校舎の入口に貼りだそうとしていた。
「おはよう。佐藤じゃないか。随分と早く来たな」
優子は、大きく息を切らしてぜいぜいと、入り口でしゃがみ込んだ。
「お……おはよう、ございます」
やっと息が整って来たところで、先生たちが二年生のクラスを、貼りだそうとしていた。優子は、固唾を飲んで、その紙を眺めた。それこそ、目を皿のようにして。
すると、優子は自分の名前を見つけた。クラスは、夢でみたのと同じ。優子は、続いて、彼のクラスを確認しようと、同じクラスの男子を目で追った。
あった。
裕介も、彼女と同じクラスだった。それを見て、心の中で小躍りする優子だった。
しかし、ふと、気になることがあった。
更に他のクラスメートを探すと、それもあったのだ。優子をトイレで平手打ちした滝沢玲香と、その取り巻き。そして、裕介の彼女になった瀬上彩夏。
優子は、少しだけ青ざめた。そんなところまで、正夢にならなくてもいいのに。
割り当てられた新しいクラスの教室へ向かい、優子は誰もいない教室でぽつんと座って、皆が登校するのを待った。
やがて、少しづつ新しいクラスメートが、次々に教室に現れ、それぞれが同じクラスになったことを喜びあっていた。優子は、それを尻目にいつものように本を読んでいた。
そして、遂に裕介が登校して来た。教室に入って来た彼は、足を引きずってもいないし、杖もついていない。優子が、一番素敵だと思っていた時の彼の笑顔も見られて、彼女はちょっとだけ幸せだった。
優子は、本を読むのを止めて、彼の動きを目で追った。いつものように、彼の周りには自然とクラスメートが集まり、相変わらず彼は人気者だった。
しかし、何故か、彼は優子の方を一瞬だけ見た。優子も見ていたので、完全に目が合ったような気がした。慌てた優子は、目をそらして、手に持つ本に視線を落とした。もう一度、彼の方をちらっと見てみるが、もう視線が合うことはなかった。
自意識過剰なのかな、と彼女は思っていた。
しかし、彼と目が合ったことは、彼女にとっては、小さな幸せだった。
それから、数ヶ月が過ぎ、優子の既視感は、増々強くなっていた。夢で見た出来事が、次から次へと起こっていたからだ。いつしか、本当にタイムリープしたんじゃないかと、彼女は疑うようになっていた。
そんなある日、学校帰りに本屋に寄った彼女は、ある本の前で釘付けになった。
「科学技術の発展と人類の未来」
この本は、夢の中では、十一月の後半頃に買ったものだ。その時読んでいた海外のSF小説で、恒星間航行の技術的な内容を、作者が豊富な知識と調査で書いてあるのに感銘を受け、それを実際の科学者の目線で良くまとまっている本が無いか探して買ったのだ。その元となった小説の方は、確か十一月の初旬に発売されていた。
優子は、これはもう、夢見たとか、デジャヴとかそういうレベルの体験では無いと感じていた。そして、その本は、彼と仲良くなる切っ掛けを作ってくれた本でもある。
そういえば。
優子は、裕介がスポーツだけでなく、勉強の成績もいいのを思い出した。特に、二年の今のクラスは、理系の進学クラスだ。彼が、数学や物理の成績がいいのも、テストの順位発表などで知っていた。
夢の中と同じように、現実でも、彼はこういう本に興味があるのだろうか?
優子は、本を手に取ると、表紙を眺めた。学者が書いた本を発行するシリーズで、無味乾燥な幾何学模様がデザインされたものだ。これも、夢の中で見たままだった。優子は、その本を大切そうに抱えて、レジに向かった。
優子は、家に帰って、自分の部屋でその本の第一章を読んでみた。読み進むと、間違いなく、この本は、読んでいたと感じた。
優子は、本を閉じると、ベッドに横になった。
これだけ、夢の中で見たことが現実化するなら、裕介は大丈夫なのだろうか、と心配になってきた。バスケの部活の試合に向かったバスが事故に合うのは、夏休みが開けてすぐの九月頃だった。
しかし、考えた所でどうにかなる訳でもない。夢で事故にあうのを見たと彼に言ったところで、ただでさえクラスで浮いているのに、頭がおかしいと思われるのが関の山だ。
優子は、そこで考えるのを止めた。
七月になったある日、母親が、浴衣が出来たから、受け取りに行こうと誘ってきた。言われて見れば、ひと月程前に、母に連れられて、浴衣の採寸に行ったのを思い出した。
「優ちゃん、サイズが合わなかったら、お直しが必要だから、早めに行った方がいいから」
優子は、面倒だと思っていた。浴衣なんて作っても、一緒に夏のお出かけする相手は、父と母しかいないのに、お金の無駄だと思っていた。それなのに、年頃なんだから、作っておいた方がいいと、母が譲らず、結局作ることになったのだ。既製品でもいいよ、とも言ったのだが、何故か母親は強硬だった。
「わかった。来週でいい?」
「駄目。今日行かないと、夏休みに間に合わなくなったらどうするの」
「その夏休みに、それを着る予定なんて無いし」
「いいから、行きますよ。すぐに支度して頂戴」
優子は、少し呆れていたが、こうなった時の母は、かなりしつこくて面倒なのは知っていた。
「わかったよ。支度するからちょっと待って」
優子は、部屋に戻って着替えをしながら考えた。そういえば、このことは、夢の中では無かった出来事だった。寸分違わず、夢と同じことが起こっている訳では無いのは、先日、本を夢と違うタイミングで買えたことからも明らかだ。むしろ、寸分違わなければ、裕介が事故に合ってしまう。そんなことは優子は望んでいなかった。
母親と一緒に電車を乗り継いで向かったのは、都営大江戸線の本郷三丁目駅から、歩いて十分程歩いた場所にある着物屋の大黒屋だった。江戸時代からあるという、歴史ある店舗らしい。優子の母親曰く、昔、父とは違う男性とデートした際に、ここで作った浴衣を着たとのことだった。素敵な男性だったと母は言い、ここで作った浴衣が良かったから上手く行ったと思ったらしい。結局、冴えない父と結婚したのだから、それが役に立ったとは、とても思えなかった。
二人は、暑い中歩いて、やっとのことで、大黒屋と看板を掲げる店に到着した。
「暑いー。疲れた」
「文句ばっかり言わないの」
そんな二人が店に入ると、クーラーの冷気が、汗をかいた身体に心地良かった。
「あー。生き返る」
「そうね。ああ涼しい」
店は、歴史ある店舗と言っても、建物も内装も現代的だった。入り口を入ると、店の奥に向かって沢山の生地が棚に陳列されていた。中央には、いくつかの着物や浴衣が美しく展示されていて、高級感があった。
「佐藤といいますが、前に頼んだ浴衣が出来たと聞いたので受け取りに来ました」
優子の母が、店内にいたスタッフの女性に声をかけた。
「お暑いところようこそ。佐藤優子さんのお着物で間違いありませんか?」
「はい、そうです。この娘の浴衣です」
「お待ちしておりました。今、ご用意しますので、少々お待ち下さい」
しばらくすると、優子の浴衣が運ばれてきた。
うっすらと青い生地に青い花が散ったデザインだった。優子は、当初興味無さそうにしていたが、その出来栄えにうっとりと見つめることになった。
「どうぞ、試着して見て下さい。私がお手伝いしますので、こちらへ。もし、違和感があれば、再度お直ししますので、遠慮なく言ってくださいね」
スタッフの女性に促され、その人と一緒に試着室に入った。服を脱いで浴衣を着てみると、見違えるような自分の姿に優子は照れた。肩まである髪をもう少し直せば、もっと映えるだろうと、優子は鏡の中の自分を評価した。
「良くお似合いですね。よろしければ、私の方で髪をアップにしましょうか。より、お着物に映えると思いますよ」
優子は、少し恥ずかしくなったが、せっかくなのでやってもらうことにした。
「じゃ、じゃあ。お願いします」
そのスタッフの女性は、手慣れた手付きで優子の髪を弄って、手早く髪を頭の後ろに、まとめて行った。
「あとは、この髪飾りなんてどうですか? ちょっと付けてみますね」
「あ、はい」
優子は、言われるがまま、青い印象的な少し大き目な髪飾りをつけられた。
「可愛いですよ。本当に良く似合っています」
優子は、鏡の中の自分を見て、初めて自分のことを可愛いと思った。
こんな姿で、誰かとデート出来たらなぁ、と優子はため息をついた。
「じゃあ、お母様にも、見て頂きましょうか」
優子は、頷いた。
スタッフの女性は、背後のカーテンを開けたので、優子は照れくさそうに、少し下を向いて振り返った。
そこに、何故か母はいなかった。
奥の方から、優子の母の声が聞こえるので、自分の着物を物色しているようだった。優子は、褒めてもらおうと思っていたので、少しがっかりしていた。
そんな時、向かい側の試着室が開いたので、何となく優子は、そちらを向いた。一人の男性が出てきて、優子と同じように浴衣を試着していたようである。
下を向いていた優子は、その男性の視線を感じて、顔を上げた。
そこにいたのは、裕介だった。
優子は、驚きのあまり、少し後退った。
裕介はといえば、まるで魅入られたように、優子の姿から視線を外そうとしなかった。
優子は、何と言っていいかわからず、目を丸くしたまま、固まっていた。あまりの偶然の出来事に、脳の処理が追いついていないようだった。
先に口を開いたのは、裕介の方だった。
「佐藤さん……だよね」
優子は、こくこくと頷いた。
「何やってんの? こんなところで」
「何って、その、浴衣を受け取りに……」
裕介は、ばつが悪そうに頭をかいて目を逸らした。
「そりゃ、そうだな。ああ、俺も、同じ」
優子は、裕介も浴衣を試着しているのを改めて確認した。彼の背丈は、百八十センチぐらいあるだろうか。長身の浴衣姿は、いつもとがらりと雰囲気が違っていて、すごく素敵だと彼女は思って、ついまじまじと見つめてしまっていた。
彼は、少しだけ照れたように言った。
「浴衣、似合ってるよ」
優子は、彼の一言で、顔から火が出るかのような感覚を味わっていた。
もとの服に着替えて、試着室を出ると、優子の母が、裕介の母親と話し込んでいた。裕介も、優子と同じようにして、ここに連れて来られていたのだろう。どうやら、親同士も、この偶然に驚いていたらしく、何やら楽しそうに話していた。
優子の母親は、裕介の浴衣姿について褒めちぎっていて、彼女はいたたまれない気持ちになっていた。
恥ずかしい、帰りたい、と優子は思っていた。
試着する前に預けてあった自分のバッグを受け取った優子は、その際に取り落してしまい、中身を床にぶち撒けることになった。
「何やってるの、もう」
優子は、母親に文句を言われつつ、しゃがんで散らばった荷物を拾い集めた。
すると、散らばった荷物を、目の前にいた裕介が、一緒に拾っていた。優子は、恥ずかしいと思いつつも、少しだけ嬉しいと思っていた。
「あ、ありがとう……」
だが、裕介は、バッグの中身の一つを拾った後、何故か動かなくなった。優子は、顔を上げて、どうしたのか確認した。
裕介が持っていたのは、今日のバッグに入れてあった一冊の本だった。彼は、その本の中身を、何故か確認していた。裕介の表情は、明らかに、驚愕と言っていいほど変化していた。
優子も、その反応を見て、息を飲んだ。
この間思わず買った、あの本を今日は持っていたのだ。
「科学技術の発展と人類の未来」
裕介は、本を閉じると、本を持ったまま、何か言いたげにしていた。
優子は、不思議そうに思って彼の目を見つめた。二人は、暫し見つめ合うと、優子は耐えられなくなって目を逸らした。何か言わなければ、と優子は思っていたが、中々言葉が出なかった。そういえば、前にもこんな事があった、と彼女は思っていた。
「あの、さ……」
だが、その時とは違い、先に口を開いたのは、裕介だった。
「俺、実はこういうの興味あるんだ……」
彼らしく無く、とても自信が無さそうに、言葉を繋いだ。優子は、その言葉が、夢の中で彼と最初に交わした、大切な台詞だと気が付いた。
もしや、彼は優子と同じ夢を見たのだろうか?
そのような疑念が、彼女の中で、大きく膨らんでいった。その事を、口に出すべきなのか、彼女は大いに迷った。口に出せば、頭のおかしい変わった女子だと思われるかもしれない。しかし、夢で体験した、あの絶望感を味わう前に、勇気を持つべきだと、優子は決意した。
「あ、あのね。何か、こういう事、まっ、前にもあった気がするんだけど……。デジャヴって言ったらいいかな……」
裕介は、それにすぐに返答をしてきた。
「そ、そう。実はさ、俺も、それ感じるんだ」
二人は、互いの目を見て確信した。
二人とも、同じ夢を見ていると。
二人は、ちょっと話したい事があると、互いの母親に告げた。母親たちは、二人の事を若干冷やかしつつ、素直に言う事を聞いて先に帰って行った。きっと、帰り道にいい話のネタになっていることだろう。
残された二人は、互いにどうしてよいかわからず、大黒屋の前でしばらく立ち尽くしていた。結局、裕介が、優子を誘って、ぶらぶらと街を歩いて、お茶をする場所を探す事になった。年頃の女子としてはあり得ない事に、男子とカフェなど入った事もない優子は、緊張のあまり何も話せなくなっていた。
二人は、帰り道にもなる上野駅の方へ歩いて行った。途中、不忍池を左手に見ながら歩き、上野駅付近まで歩いた。駅の近くにあったカフェに入った二人は、飲み物を持って小さなテーブルに顔を突き合わせて座ることになった。
ここでも、先に話始めたのは裕介だった。
「佐藤さん。ちょっと言いにくい話なんだけど」
優子は、裕介が話し難そうに言い淀むのを、上目遣いで眺めた。
「実はさ。俺、二年の新学期が始まった日に、夢を見たんだ。佐藤さんが出てくる夢」
優子は、それを聞いて驚くと同時に、どんな内容なのか、ちゃんと確かめたかった。
「俺、夢の中のことなんだけど、事故で足が上手く動かなくなっちゃって、落ち込んでた時に、それまで話したこともなかった、佐藤さんと初めて話したんだ。その話す切っ掛けになったのが、さっきの本だったんだよね。すごく、変なこと言ってると思われるかも知れないけど、こんな偶然あるのか、驚いちゃってさ」
そこまで聞いた優子は、不思議な感覚に襲われていた。
これは、奇跡だ――。
そう思うと、自然と、瞳から涙が溢れてしまっていた。
「ど、どうしたの?」
急に泣き出した優子に、彼が慌てているのが、わかり、優子はハンカチを出して涙を拭った。
「う、うん。ごめんなさい。つい、嬉しくて」
優子は、自分も話さなければ、と勇気を振り絞った。
「氷室くん。あ、あのね。その。私もなの。私も、その夢を見たの」
二人は、それから堰を切ったように、夢で見た内容を、話し合った。そして、全く同じ内容であることを把握したのだった。
「私ね、あの、ラノベの主人公みたいに、タイムリープしたんじゃないかって思ってるんだ」
裕介は、それを聞いて少し考え込んだ。
「確かに、そんな感じだけど……。やっぱり夢だと思うんだよ。どうしてかって言うと、俺たち二人だけが覚えてるって、それこそ作り話みたいでちょっと都合良すぎない?」
優子は、そうかなぁと考えていた。
裕介は、そんな優子の表情を見て、笑顔になった。
「まぁ、でも、タイムリープでもいいよ。俺さ、もっと佐藤さんと話したいと、思ってたんだ」
優子は、少し顔を赤らめた。
「そ、それって、どういう意味……かな」
裕介は、その理由について話し出した。
「俺さ、本当は、科学とかに昔から興味があってさ。本気で宇宙旅行とか行きたいって思ってるんだ」
優子は、そのことは、夢の中でも聞いたのを覚えていた。
「そういえば、そんなこと言ってたね」
裕介は頷いた。
「多分、バスケ部で活躍出来るようになってからだと思うんだけど、そういう俺のイメージみたいのが周りで勝手に出来上がったみたいで。宇宙旅行とかの夢を、大真面目で話すと、嘘っぽいって引かれたりする事があって、俺も言い難くなってさ」
裕介は、テーブルの上に出していた優子の本を取ると言った。
「それで、夢の中でこの本を貸してもらった時に……。こういう話しが合う人かも知れないって、嬉しかったんだ」
優子は、期待したような話しが語られなかったので、少しだけがっかりしたが、それでも十分に嬉しかった。
「そ、そしたらね。今からでも、あの時みたいに、本を貸し借りしたり、いろいろお話ししよっか……?」
優子は、恐る恐る言ってみた。すると裕介は、笑顔でそれに返事をした。
「ありがとう。じゃあ、現実でもよろしく」
優子も、それには笑顔で応えた。
しかし、優子は、肝心なことをまだ言い出せなかった。彼がこれから事故にあってしまうこと。このタイムリープのような現象は、先を知っていればこそ、これを回避することが出来るはずだ。
「あ、あのね。氷室くんが、事故に合う件なんだけど……」
裕介は、その話に少し表情が硬くなった。
「あの事件が、起こると思ってる?」
優子は首を振った。
「起こって欲しく無いって思ってる。でも、この数ヶ月、夢で見た通りのことが次々に起こってる。あの事故も、これから起こると考えた方がいいと思う。知ったからには、回避出来るように行動すればいいんじゃない?」
裕介は、少し悩んでいるようだった。
「俺も、考えてはいるんだ。でも、そんなに簡単じゃ無いよ」
「どうして? あのね、もし嫌でなければ、バスケ部を辞めるのも選択肢だよ?」
裕介は、少し悲しげに笑った。
「それ、最初に考えた。でもさ、俺だけ辞めたって、友達が大勢酷い怪我を負うのを止められない。俺だけ助かるのは、ちょっと違うと思ってさ」
優子は、はっとした。彼の事を思うあまり、周りが見えなくなっていた。確かに、それでは不十分だ。
「ごめんなさい」
裕介は首を振った。
「俺のこと心配して考えてくれたんだよね。ありがとう」
優子は、他の案を考えた。
「当日のバスの出発時間を遅らせれば?」
裕介は、それも考えた、と言った。
「タイムリープもののお話しなら、そんなことをしても回避出来ないって、よくあるでしょ? それにね、当日、その時になるまで事故が防げるかどうかわからないなんて、リスクが大き過ぎる思う」
優子は、確かにその危険性は一理あると思った。
うーんと悩み続ける彼女を見て、裕介は笑った。
「今は、いい案が思い付かないけど、まだ二ヶ月も先の事だから、それまで一緒に、考えてよ」
優子は、嬉しくなって大きく頷いた。
十分に話し合ったと思った二人は、SNSでやり取り出来るように、スマートフォンを取り出して、アドレス交換を行った。優子は、憧れの裕介と通信や通話を直接やり取り出来る事に、内心狂喜乱舞していたが、顔に出ないように努力した。
二人は、店を出て、地元へ帰る為に上野から電車で移動した。地元の駅で降りると、優子は少し名残惜しいと思っていたが、まるで恋人同士のように手を振って別れた。
優子は、帰り道興奮しつつ、家路に着いたのだった。
そんな様子を、これから裕介の彼女になるはずの、瀬上彩夏が目撃していた。彼女は、クラスで誰も友達がいない優子が、何故、裕介と一緒にいるのか訝しんでいた。
あの日から、時折優子と裕介は、学校でも話すようになっていた。
本の貸し借りをしていただけで、長い時間話す事は無かったが、二人の急接近を、周囲のクラスメートたちは見逃さなかった。
七月も後半になり、間もなく夏休みに入ろうとしていた。
裕介は、昼休みに友人らと昼食を取っていると、そのうちの一人にそのことを質問されていた。
「お前さぁ、最近佐藤と仲良いじゃん」
「んー? それがどうかしたの?」
「あいつみたいなのと、お前がどうして話してんのか謎だって、皆言ってる」
「あいつみたいって……お前、ちょっと言い過ぎだぞ」
「だってさ、誰とも口聞かずに、もっぱら本が友達の変わりもんって皆思ってるよ。何でまた、急に話すように、なったんだよ」
裕介は、答えに困窮した。確かに、以前までは彼も同じように思っていたからだ。だが、夢で体験したあの怪我の後、精神的な苦痛を癒やしてくれたのが彼女だったことが、彼の中で大きな意味を持っていた。更には、その夢を共有するという不思議な体験は、彼女を特別視することになった原因でもあった。
それだけでは無く、同じ科学という興味の理解者が、周りに彼女しか居なかったのだ。
そして、彼の中では、先日の浴衣の一件で、彼女がとても魅力的だと気付いてしまったのが、決定的な要因でもあった。
裕介は、その友人の顔を見ながら、一体何と説明したものか、と少しだけ悩んだが、それは難しいとすぐに諦めた。
「この間、偶然外で会う機会があってさ。結構、いい奴だって知ったんだよ」
「まぁ、お前は前から誰とでも仲良くなれる奴だから良いんだけどさ……」
その友人は、顔を裕介の耳に近づけると、ひそひそと言った。
「今日、いつものお前の取り巻きの女子が、佐藤の悪口言ってるの聞いたんだよ。どうやら、お前が彼女と少し話すだけでも気に入らないみたいだ。ちょっと気を付けた方がいいぜ」
裕介は、その話しに少し驚いたが、友人の忠告に感謝した。
「ありがとう。ちょっと気を付けるよ」
確かに、自分を持ち上げ続ける女子たちがいるのは裕介も認識していた。それ自体を嫌だと思った事は無く、寧ろ嬉しいと思い、悪い気はしていなかった。
しかし、夢で体験したあの怪我で、辛い思いをしている時に、すぐに良くなるとか、またバスケ頑張って、とか言われて、とても不快な気持ちになったのを、彼は忘れる事が出来なかった。あの時、ありのままを普通に受け入れてくれた優子が、彼の精神的な癒やしとなったのは、その対比からでもあった。
ふと、裕介は優子の事が気になって彼女の席の方を見た。いつもなら、自分の席にずっと座って弁当を食べている姿を見かけたが、何故か今日は居なかった。
その頃、優子はその彼の取り巻きの一人、滝沢玲香らに呼び出しを受けて、体育館の裏に連れて来られていた。
優子は、あの夢で見たトイレでの出来事を思い出して、怯えていた。優子を連れて来たのは、その時の同じメンバーだった。
「あんたさぁ。何で呼び出されたか、わかってる?」
優子は、隅に追い詰められて、目の前の玲香の低い声に恐怖を感じ、下を向いたまま首を小さく小刻みに振った。
その玲香は、ため息をついて、腕組みしていた。
「あたしは、ここにいる彩夏の親友なの」
その、瀬上彩夏は、玲香の後ろで暗い表情で立っていた。
「彩夏はね、一年の時から、裕介に憧れて、ずっと彼の為に尽くしてきたの。バスケ部のマネージャーにもなって、ずっと彼を支えて来たんだ」
「玲香。私は、大丈夫だから、こんな事止めようよ」
その彩夏が、玲香の袖を掴んで彼女を止めようとしていた。
意外に思った優子は、顔を上げて、その彩夏の顔を思わず見てしまった。彼女は、苦痛に満ちた表情をして、今にも泣き出しそうだった。
「よくない。こんな奴に、裕介を取られてもいいの?」
「そ、それは、嫌だけど……」
「だったら、ここではっきり言ってやった方がいい」
玲香は、優子の方を見て手を伸ばした。
また、叩かれる! と思った優子は、身体を強張らせた。
しかし、彼女はその手を止めて、自分の手を見つめた。そして、結局手を引っ込めたのだった。
「今まで、誰とも仲良くなろうとせず、何の努力もして来なかったあんたが、大切な友達を差し置いて、裕介と仲良くしようってのが、あたしは許せない」
優子は、玲香が言う事に身体が浮揚するような感覚を感じた。
確かにそうだった。彼女の言うとおりだった。
夢で彼女に叩かれた後、酷いとか、理不尽だとか、そう思って優子は苦しみ、彼女を恐れた。しかし、大切な友達を思うあまりの行動だった事を、今、ようやく理解出来たのだ。
彼女の言うとおり、自分は何も努力せず、降って湧いた幸運を享受しようとしただけだった。
「だから、これ以上、裕介に近付くのを止めてくれない?」
玲香は、優子の顔を覗き込んだ。その時、彩夏は強い口調で言った。
「止めて、玲香。こんなの私望んでない!」
「彩夏……」
玲香は、振り返って彼女の方を見た。
「気持ちは嬉しいけど……。私が、早く、ちゃんと裕介に気持ちを伝えればいいだけだから」
彩夏は、玲香と優子の間に割って入って来て、優子に語りかけた。
「ごめん。もう二度としない。だからこの事は忘れて」
彩夏は、玲香の背を押してそこから去ろうとしていた。
もう一度振り返った彩夏は、優子に最後に言った。
「私、裕介に告白するから」
そう言って、彼女たちは、優子をその場に残して去っていった。
夢の中の出来事で、彼女たちを恨んだりもした。しかし、決して悪い人たちじゃなかったのだ。あれは、彩夏が告白を成就させた後の出来事で、優子のした事は、確かに泥棒のような行為に彼女たちには映ったのだろう。
優子は、悲劇のヒロインのような気持ちになっていた自分が、何だかとても恥ずかしくなった。同時にどうしようもない虚しさも感じていた。
夢で起きた通りのことが、これからも起きるなら、裕介は、彼女の告白を受け入れるのが、既にわかっている。
数日後、夏休み前のすべての授業が終わり、家に帰った優子は、制服のままベッドに寝転んで、ここ最近の出来事を振り返っていた。
あれから、玲香や彩夏に言われたことを気にした優子は、裕介と話すのをやめた。彼は、そっけない彼女の様子に、少しがっかりしているように見えた。
今頃、今日も裕介は部活で汗を流しているに違いない。そして、この間の彩夏の真剣な表情からも、もしかしたら、もう裕介に告白してしまったかも知れない。
優子は、いつものように、どうせ自分何て、と自らを卑下し、乾いた笑いが口から漏れていた。
でも。
優子は、自問自答した。
本当にそれでいいの? と、誰かに言われたような気がした。
このまま諦めて、またいつものように、誰とも関わらずに、一人で過ごす生活に戻ることが、本当に望んでいることなの?
それとも、もう、そんな生活に戻りたくないの?
自分の気持ちは、どっちなのだろう。
裕介と、もっと話したいと思う?
これからも、ずっと一緒にいたいと思う?
夢を共有するなどという奇跡は、こんな風に無駄に時間を費やす為に起きたことなのだろうか。
あの日、大黒屋で浴衣を受け取りに行った時に起きたことは、偶然なんかじゃないとも感じていた。
彼女は、背中を押されて、勇気を出しなよ、と誰かが言っている気がした。
優子は、いても立ってもいられなくなり、ベッドから起き上がった。
優子は、家を飛び出して、再び学校に向かって走った。ベッドで長い時間、考え込んでいたので、すっかり夕方になっていた。普段、運動もろくにしていない身体が、酷く重かったが、彼女は走るのを止めなかった。
優子は、息をぜいぜい言わせて、しばらく校門のところでへたばっていた。しばらくして、息を整えると、裕介のいるであろう体育館へとゆっくりと歩いて行った。
体育館に着くと、ちょうどバスケ部は練習を終えて、後片付けをしている最中だった。
優子は、体育館の入口の近くに立って、中の様子を窺った。裕介は、バスケのコートの中央で、ボールを集めて、籠に入れているのがすぐに見つかった。
優子が黙って彼を見つめていると、彼も彼女の存在に気付いたようだった。彼は、にっこりと笑顔を向けていた。
優子は、マネージャーをやっている彩夏の姿を探したが、今は居ないようだった。ならば、今こそその時、と彼女は決意を固めた。
裕介は、片付けを終えると、体育館の隅に佇んでいた優子の傍にやって来た。
「佐藤さん、こんな時間にどうしたの?」
優子は、下を向いて、言い淀んだ。先程から、何て言うか繰り返し考えていたので、どの言い方がいいかを悩んでいた。
そして、決意した優子は、彼に気持ちを伝え始めた。
「氷室くん」
「なに?」
「あ、あの……」
裕介は、不思議そうな表情で、優子のことを見ていた。
これは、今から優子が言い出すことを、微塵も想像していない顔だと、彼女は気がついた。
それでも。
もう、後悔ばかりの生き方を変えようと決意したんだから、と彼女は最後の勇気を振り絞った。
「氷室くんに、ちゃんと伝えなきゃと思って……」
裕介の表情は、まだ何の話か気づいていない。
優子は、自分の顔が真っ赤になっているのを自覚したが、そんなことを気にするのを止めた。
「わ、私、ずっと前から、氷室くんのことが……」
裕介の表情は、そこまで聞いて、やっと何を言おうとしているかわかったようだった。とても驚いているのが、表情の変化からもわかった。
優子は、そこで下を向いた。
やっぱり止める?
彼は、想像もしてなかったみたい。
でも、傷ついてもいいと、覚悟を決めて来たんだから、ここで止める訳には……。
優子が、再び顔を上げて続きを言おうとした時、目の前の裕介の後ろに、彩夏が立ち尽くしていた。
優子は、赤くなっていた顔が、急速に青ざめて行くのを感じていた。
彩夏の表情は、あの時の泥棒と優子を呼んだ時の表情に似ていた。
「裕介くん」
彩夏は、裕介に声をかけた。
彼も、それに気づいて後ろを振り返った。
「ずっと、言えなかったことがあるの」
彩夏は、真剣な表情で、裕介の目を真っ直ぐに見ていた。そして、少し顔を赤らめながら、彼女が言わなければならないことを、そこで言った。
「一年生の時から、ずっとあなたが好きでした。よかったら、私と付き合って下さい」
裕介は、突然の彩夏の告白にも驚いていたが、それだけでなく、明らかに先に話していた優子も、告白しようとしていた。彼は、彩夏と優子の二人を交互に見て、とても困っているようなのが見てとれた。
彩夏は、そんな様子を見て申し訳無さそうに言った。
「裕介くん、ごめんなさい。突然、こんなこと言って、びっくりさせたよね。返事は、急がなくてもいいから、夏休みの間にくれると嬉しいかな」
そう言って、彼女は振り返って、小走りに去って行った。
残された裕介と優子は、ばつの悪い雰囲気になってしまっていた。
「え、えーっと……」
裕介は、明らかにどうしていいか、わからなくなっているようだった。
「こ、困らせてごめんなさい。わ、私も、同じなの!」
そう言って、優子は駆け出して、一目散にその場を離れて行った。
走って校門を駆け抜けて、校外に出た優子は、そこで立ち止まって、切らしていた息を整えようとした。
「ちゃんと、言いたかったのに……最後まで、言えなかった」
優子は、そのことだけが、心残りだった。きっと、彼は今頃、同時に告白してきた二人が、自分を残していなくなったことに、困惑しているに違いない。
一応、気持ちは伝わったかな、と優子は思っていた。
未来は、変えられるんだろうか。
夢の中では、やっていない行動なので、どうなるかはわからない。
それでも――。
前よりも少しだけ自分に自信がついたのはわかる。
そう思いながら、彼女は、心も身体も疲れ切った状態で、ゆっくりと家路についた。
それから、夏休みは穏やかに過ぎて行った。
宿題をやるか、好きな読書にふけるかで、淡々と過ぎて行く。
優子は、スマートフォンの通知を時々覗く以外は、そんな風に過ごしていて、特に外出することも無く、のんびりとした日々が過ぎて行った。
あれから、裕介とSNSでのメッセージのやり取りも、すっかり途切れていたし、自分からもメッセージを送るのが怖くて、通知だけを気にする毎日だった。
一応、告白らしきものをしたので、最初は日々どきどきとスマートフォンを眺めていたものの、十日以上が過ぎた今となっては、諦めの気持ちも湧いて来ていた。
もしかしたら、彩夏にだけ返事をして、自分は放置されているのかもしれなかったが、確認をする勇気が持てなかった。
少し、自分に自信が持てた気がしたのも、束の間のことだった。
ある日、家でじっとしている優子を見兼ねたのか、母親が地元のお祭りに行こうと誘って来た。退屈だった優子は、二つ返事で了承したが、母は、せっかくなので先日買った浴衣を着なさいと言ってきた。
面倒くさいと思っていた優子は、拒否したが、せっかく買ってあげたのに、と母が悲しげにしているのを見て、やむを得ず言うことを聞く事にした。
当日、母に手伝ってもらって浴衣に着替えた優子は、大黒屋で着付けを手伝ってもらった時に髪をアップにしてもらったのが気に入っていたので、それも、母親にお願いしてやってもらうことにした。
母は、せっかくなので、少し化粧もしようと言い出したので、慣れない手付きで自分でやり始めると、見兼ねた母親が、それも手伝ってくれた。
完成した姿は、いつもとまるで違う、見違えるような姿になっていた。優子は、鏡を眺めながら、心の中で、自分で自分を褒めて悦に入っていた。
そんな時だった。
優子のスマートフォンが、通知を待ち受け画面に表示していた。
優子は、裕介からの連絡を、半ば諦めていたのに、その通知は裕介からのメッセージの受信を示していた。
「えっ? ええっ?」
優子が変な声を出してスマートフォンを眺めていたので、母が画面を覗いて来た。優子は、母親に背を向けて、隠れるようにロック画面を解除して、メッセージを急いで確認した。
そこには、次のように書かれていた。
「一緒に、お祭りに行かない?」
優子は、告白の返事では無かったので、一瞬落胆したが、良く考えると、これはデートの誘いのようにも見えた。
「……! ……!」
優子が、また変な声を出しているので、母親が聞いてきた。
「どうしたの一体? まさか、男の子から、デートの誘いでも来た?」
優子は、驚きのあまり、母親からスマートフォンを隠した。
「みっ、見たの?」
「見てないけど。あんた……まさか、本当に誘われたの?」
優子は、こくこくと小刻みに頷いた。
母の顔が、驚く程変化し、満面の笑みで言った。
「やったじゃない。誰なの? 母さんの知ってる子?」
そこで、母親は、はっとしたような顔をした。
「もしかして、氷室さん家の息子さんじゃぁ……」
「……!」
優子は、顔を手で覆って、声にならない声を出した。
「ちょっと、化粧崩れるよ。そうなのね? やったじゃない! よかったね、優ちゃん」
優子は、顔から手を離すと、少し心配になって言った。
「お母さん。あの、出来れば行きたいから、今日一緒に行く約束は……」
優子の母は、思い切り優子の背中を叩いて来た。
「ばかねぇ。良いに決まってるでしょ。楽しんで来なさい」
優子は、うん、と頷いた。
「ありがとう、お母さん」
その母も、何か思いついて悦に入っていた。
「あの店の浴衣は、やっぱり効くねぇ」
優子は、その後、すぐに返事を返した。急いでいたので、随分と堅いあっさりした文面になっていた。
「はい、行きます」
ちょっと、あっさりし過ぎて、冷たい感じだったろうかなどと、優子が悩み始めると、すぐに返事が来た。
「よかった。待ち合わせ場所と時間は……」
優子は、跳び上がって喜びたい気持ちを抑えて、出掛ける準備をした。
優子は、待ち合わせ時間よりも、三十分も早く待ち合わせ場所に着いていた。そこは、お祭りの会場となっている神社の入口だった。大勢の人がごった返しており、裕介が来ても、すぐに自分に気付くか心配になった。
そわそわと、時計を眺めて、裕介の到着を待っていた優子は、だんだんと不安な気持ちになっていた。そして、ありがちな最悪のパターンなどを想像し始めていた。
・裕介のメッセージには、一人で来るとは一言も書いていなかった。クラスメートが複数名一緒に来てしまい、浴衣を着ているのが優子だけで浮く。
・裕介は、彩夏を伴って来て、この場で振られる。
・裕介が現れない。そして、優子がめかし込んでいるのを影から見られていて、後日笑い者にされる。
・玲香らのグループがやって来て、浴衣を汚されたり、酷い目に合わされる。
優子は、頭を振って、嫌な予感を振り払おうとした。こんな事で悩むなら、こんなに早く来るんじゃ無かったと後悔をした。
すると、優子のすぐ隣に、背の高い誰かが立ち止まった。優子が、横を向いて見上げると、そこには、浴衣姿の裕介が立っていた。
「氷室くん……」
優子は、笑顔を浮かべるが、まさかと思って周囲を確認した。心配していたようなことなどなかったらしい。裕介を疑った自分が恥ずかしくなった。
「どうしたの?」
「な、何でも……ないよ」
二人は、そこで、始めて、互いの姿を正面から確認した。
優子は、改めて裕介の浴衣姿を見て、あの時見た通り、とても素敵だなと思っていた。
「あの時の浴衣……だよね」
「あ、ああ。佐藤さん、もだね」
裕介は、薄化粧をした優子の浴衣姿に、釘付けになっていた。
「あの、すごく、可愛い……と思うよ」
裕介が、とても恥ずかしそうにしながら、優子の姿を褒めた。それを聞いた優子は、気が遠くなりそうになった。
「あ、ありがとう……氷室くんも、格好良いよ」
「う、うん。ありがとう。えーと、じゃ、じゃあ、行こうか」
裕介は、優子を伴って神社の中へと入っていった。
二人は、神社のお祭りの屋台を巡ってゆっくりと歩いて行った。
屋台の食べ物を食べ、射的をやったり、金魚すくいに挑戦したり、ごく当たり前の恋人同士のように過ごした。楽しそうに笑い合い、子供の頃の思い出を話し合ったり、楽しい時間はあっという間に過ぎて行った。
裕介は、優子にちょっと休もうと言って、神社の比較的人が少ない、隅にあったベンチに座った。
二人は、横に並んで座ったまま、しばらくの間無言になった。
優子は、心の中で、とても楽しいと感じていた。もしかしたら、一生分の運を使い切ったのではないか。こんなに幸せでいいのかな、などと考えていた。
でも、結局この間の答えはもらえるのだろうかと、少し不安に思っていた。
裕介は、優子の方を向いて、頭を下げた。
「ごめん」
優子は、とても驚いた。
頭を上げない彼の姿を見て、あれっと思っていた。
もしかして、これって答え……なの?
足もとが波打つような感覚を優子は覚えた。
頭を上げた彼は、優子の顔が蒼白になっているのに気が付いた。
「ち、違うんだ。俺が謝りたかったのは、すぐに返事をしなかったこと」
優子は、次に彼が何を言うのか恐れた。
「それって……どういうこと?」
裕介は、少し言い淀みながら、次の言葉を探した。
「実は、あれから、部活は夏休みも毎日やってたから、彩夏とは、あれから何度か話をした」
裕介は、自分の行動を振り返って、説明を続けた。
「彼女には、付き合えないってちゃんと話したんだ。でも、中々納得出来なかったみたいで、少し話し合うのに時間がかかってしまったんだ」
彼は、優子の顔を真っ直ぐに見て言った。
「答えが遅くなってごめん。俺は、佐藤さんと一緒にいたい。気持ちが変わっていなければ、ぜひ、俺と、付き合って下さい」
彼は、再び頭を下げた。
優子は、彼が言った言葉が、信じられなかった。疑っていた訳じゃない。ただ、こんな風に、ずっと夢見てた事が現実に起こったのが、それこそ夢の中の出来事のように感じて、自らの頬をつねりたい気分だった。
頭を下げ続ける彼に、優子は、この間ちゃんと言えなかった事を、自分の口から言わなきゃ、と思って口を開いた。
「ありがとう、氷室くん。私、ずっと前から、本当はあなたが大好きでした。こんな私でよかったら、お付き合いして下さい。お願いします」
優子は、ちゃんと言えた自分にほっとしていた。
裕介はというと、頭を上げた彼は眩しい笑顔をしていた。
「よかった。じゃあ、これからは……」
「そ、そうだね。こ、恋人同士……っていうことだよね」
二人は、ぎこちなく隣に座ったまま、しばらくそのままで余韻に浸っていた。
裕介は、その後、彩夏のことについて、少し教えてくれた。
「あの夢では、彼女は俺と付き合ってから、マネージャーを辞めた。彼女を好きだった他の部員がいて、ぎくしゃくしてしまって、それが原因だった。でも、それで彼女はあの事故にも遭わずに済んだ。今回も、結局彼女は、辞めると言い出した。もし、あの事故が起きるなら、そのままの方がいいかも知れないと思ってる」
優子は、彩夏のことを聞くと、いろいろな不安が頭をよぎったが、裕介がそれを払拭してくれた。
「彼女、最後に佐藤さんに悪いことをしたって、謝ってた。玲香が嫌がらせをしたって聞いたよ。そういうことはもうさせないって言っておいて欲しいって」
優子は、やっぱり彼女は、悪い子なんかではなかったのを知った。あらゆる事が夢の出来事から好転している。
優子は、残った一番大きなあの事故の問題を、どうにしなきゃいけないと思っていた。しかし、あれから、あまり特にいい案は浮かんでいなかった。
「氷室くん、あのね」
裕介は、そこで話を遮って言った。
「あの、さ。よかったら、名前で呼び合わない?」
優子はびっくりした。
でも、優子も、そう呼び合いたいってずっと思っていたことだ。
「じゃ、じゃあ、裕介くん……。は、恥ずかしいかな」
「優子ちゃん。そ、そうだね。照れるね」
二人は、見つめ合って笑いあった。
「えーと、裕介くん、あのね。あの時の事故のことで、何か覚えていることってない?」
「事故のことで、か。例えばどんなこと?」
「例えば、事故が起こった時間だったり、どんな事故だったのか、とか」
裕介は、少し、夢の記憶を探っていた。
「時間は、ちょうど十一時ぐらいだったな。事故は、走行中に、反対車線のトラックが突っ込んできたから起きた」
優子は、少しその情報を考えていた。
「相手のトラックのことって、何か覚えていることある?」
裕介は、暫し考えていた。
「確か、運送会社のトラックで、事故を起こした原因は、整備不良でブレーキが効かなくなったって聞いたと思う。会社名は……西川運輸って名前だったと思う。大阪にある会社だったかな」
優子は、スマートフォンを取り出して、検索してみた。ホームページが見つかり、会社は実在していた。
優子は、裕介に見えるように、スマートフォンの画面をみせた。
「見て。詳しい場所とか書いてあるから」
裕介は、優子に寄り添って、画面を覗き込んだ。
優子は、思い付いた考えを、彼に話した。
「ここに、行ってみない?」
裕介は、とても驚いていた。
「ここ、大阪だよ?」
優子は頷いた。
「今のままじゃ、事故は回避できるかわからない。行って、確かめて見ようよ。もう、残り時間は一ヶ月ぐらいしかないから、行ってみるなら、この夏休みの間しかないよ」
裕介は、うーんと考えていた。
「新幹線って幾らかかるか調べようか」
二人は、東海道新幹線の、東京から大阪までの往復の運賃を確認した。
「結構するね……でも、何とか出せるかな」
「俺も、大丈夫だと思う」
二人は、何だか宿泊する旅行の予定を決めているような気になっていた。
「ひっ、日帰りだと、現地であんまり長い調査の時間はとれないね。でも、何かやらなきゃ、あの事故は回避出来ない気がするの」
「わかった、次の部活の休みは、来週の水曜日の予定なんだけど、その日でどう?」
優子は、にっこりと笑った。
「じゃあ、決まりだね」
裕介も、笑顔を返した。
優子は、ぽつりと言った。
「そのうち、ちゃんと旅行に行けると、いいなぁ」
その時、頭上で大きな破裂音が鳴った。二人が夜空を見上げると、花火が打ち上がっていた。
「花火! あれ、すごい綺麗!」
優子が指差す先を裕介も見上げた。
「本当だ」
次々に打ち上がる花火を、二人は、しばらく、黙ったまま見上げた。
その時、手が一瞬触れ合ったかと思うと、突然裕介が優子の手をそっと握って来たので、彼女はとても驚いた。彼は、優子の方を向いて照れたように笑っていた。彼女も、彼の手を握り返し、いつまでも花火が続けばいいのに、と思っていた。
あれから、一週間が過ぎた。
優子と裕介は、東京駅を早朝に出た東海道新幹線に乗り、新横浜を通過して、ちょうど富士山が見える辺りを、通過していた。
お弁当を広げて朝ごはんを食べていた二人は、車窓から現れた富士山に感嘆していた。
「裕介くん、見て!」
「おぉー、いい眺めだなぁ」
二人は、あの日から大阪への日帰り旅行の準備を始めていた。優子にとって何よりも難関だったのは、父親に、何しに行くのか、誰と行くのかといったことを説得することだった。
当初、優子は、女子の友達と遊びに行くと言おうと考えていたが、裕介に、何にも悪い事していないのに、嘘をつく事は無いんじゃないかと諭され、本当のことを話す事にしたのである。
確かに、優子に友達がいないことは、ここ数年の両親の悩みであり、急に女子の友人の話をするのは、すぐに嘘だとばれたであろう。既に、先だってのお祭りで、裕介と恋人同士になった事が母親に知れていたことから、彼女の母親は、父親にそのことを嬉しそうに話してしまっていた。それによって、ただでさえ、悪い男に騙されてないかなどと、余計な心配を彼女の父親はすることになっていたところに、大阪への旅の話は、追い打ちをかけることとなった。
更には、何でそんな遠い所に行くのか尋ねられて、それだけは本当の話を言う訳にも行かず、かなり苦しい言い訳をすることになってしまった。
しかし、この窮地を救ってくれたのは、優子の母親だった。彼女は、強力な援軍として優子の味方をし、この機会を逃したら、優子は一生独りぼっちかもしれないなどと、とても失礼な説得を父に行い、無理矢理了承させたのだ。
新大阪駅に到着した優子と裕介は、大阪市内へ移動する為、慣れないローカル線に右往左往しながら乗り換えた。
電車を乗り継ぎ、JR大阪環状線の大正駅に降り立った二人は、スマートフォンのマップを頼りに、この旅の目的地である運送会社へ向かった。
「優子ちゃん、そっちじゃなくて、こっちだと思う」
あらぬ方角へと進み出そうとする優子を、裕介が呼び止めた。
「あれ? でも、でも、ほらマップだとこっちだよ」
二人は、寄り添って同じスマートフォンの画面を見た。
「これね、北がこっちでしょ。だから、こっちの方角が正しいよ」
優子は、方向音痴だった。自覚がない彼女は、不満を口にしつつ、裕介の言う方角に移動した。
「あれ……ほんとだ。裕介くんの言ってるのが正しいみたい」
裕介は、苦笑して言った。
「じゃあ、俺に着いてきてくれる?」
裕介は、手を優子に伸ばした。
「はぁい」
優子は、笑いながら裕介の手を掴み、そのまま手を繋いで歩き始めた。
二人は、十五分程歩いて、ようやく今回の目的地の西川運輸の前にやって来た。
「やっと着いた!」
「さすがに、遠かったね」
「あれ? 何か、変じゃない?」
その敷地に、十トントラックが十台程並んでいた。しかし、入口の門は閉鎖されており、敷地内にある事務所の建物にも、人の気配がなかった。
「お休み……なのかな?」
裕介は、入口に近付いて、背伸びして中の様子を、窺った。
「事務所の中が見えたんだけど……机も何も無い」
「ええーーっ」
裕介は、その場でどういうことか考えた。
「この会社のトラックのデザインとか、事故後に見せられた写真と同じもので間違いないよ。俺の記憶違いじゃないって断言出来る」
「この会社潰れちゃったのかな……。もう、夢と同じじゃないってことだよね。未来が変わったのかな?」
「確信は持てないけど……そう、なのかも」
二人は、しばらくその場で立ち尽くしていた。
「裕介くん」
「優子ちゃん?」
優子は、納得がいかないという顔をしている。
「私ね、やっぱりこのままじゃ、本当に大丈夫って言えないと思う」
裕介は、腕組みをして、一緒に考えた。
「確かにそうだね。でも、どうしたらいいか……」
そこに、通りかかった中年の男性が彼らに声をかけてきた。
「あんたら、西川さんに用か?」
優子と裕介は、不思議そうな顔でその男性の方を見た。
「は、はい。あのう、この会社って、潰れちゃったんでしょうか?」
優子は、男性に質問をしてみた。
その男性は、少し訝しげな表情をしたが、親切に回答をしてくれた。
「先月、西川社長に、会社畳むって聞いてなぁ。せやけど、会社を買ってもらえることになったらしいんや」
「西川運輸の社長さん、どちらにいらっしゃるかご存知ですか?」
男性は、裕介に向かって手を振った。
「ご近所さんなんで、たまに話してただけやから、そういうのは知らんなぁ」
「そうですか……」
「あんたら、学生さんか? 何の用だか知らんが、まだトラックとかの財産が残っとるやろ? うろちょろしとると、泥棒やと思われるで」
そう言って、その男性は、向かい側のビルに入って行った。
優子と裕介は、互いの顔を見合わせた。
「どうしようか?」
その時、優子のお腹が鳴った。優子は赤くなってお腹を抑えた。裕介は、優子の顔を見て笑顔になった。
「お腹すいたよね。取り敢えず、お昼ごはんにして、どうするか考えようか」
「そ、そうだね……」
優子は、恥ずかしいと思いつつ、頷いた。
二人は、大正駅まで戻り、近くにあったたこ焼き屋に入った。
テーブルに向かい合って座った二人は、黙々とたこ焼きを食べていた。
「うーん。これ、美味しいね」
「本場だもんね」
食べ終えた二人は、これからどうするか話し合うことにした。
「さっきの人に聞いたことで、気になる事があるんだよね」
優子は、さっきから考えていたことを口にした。
「どんなこと?」
「トラックとかの財産が、って言ってたじゃない?」
「うん」
「あれって、会社を買ったっていう別の会社のものになったってことじゃない?」
「そうか! 問題は、あのトラックのどれかが、整備不良ってことだから……。買い取った会社の人に、トラックの状態を確認させればいいね」
「そんなに上手く行くかわからないけど、そうなれば、安心出来るよね」
二人は、互いにスマートフォンを取り出して、買い取った会社がどうすればわかるか調べ始めた。
しばらくスマートフォンを弄っていた裕介は、何かを思い付いて、優子に画面を見せて来た。
「法務局って所で、会社の履歴が調べられるみたいだ。これで、誰が会社を買ったのかわかると思う」
「これって、電車で三十分ぐらいの場所だね。すぐに行こっか」
「そうしよう!」
二人は、再びローカル線を乗り継いで、今度は御堂筋線の淀屋橋駅に降り立った。
法務局北出張所に到着した二人は、窓口で事情を説明して、どの書類を取得すればよいかを教えてもらった。訝しげな顔をしていた窓口の男性には、夏休みの自由研究だと言って誤魔化した。そして、ようやく西川運輸の証明書を取得した二人は、そこに記載されている内容を確認した。
「これじゃない?」
「株式会社フィールドウィンって書いてあるね」
「取り敢えず、行ってみよう!」
二人は、またも電車に乗ると、フィールドウィンへと急いだ。四つ橋線の玉出駅まで移動した二人は、会社のある場所に向かった。既に、時間は十五時になっていた。優子も裕介も、さすがにもう時間が無いと感じて、焦りの色が見えていた。
やっとの思いでその会社に辿り着いた二人は、会社の様子を見て、呆然とした。そこは、広大な敷地の凄く大きな会社であることを知ったのである。
呆気に取られた優子は、口を開けて、巨大な施設を眺めた。
「私、そういえばこの会社のCM見たことあるかも」
裕介も、あ然としたまま頷いた。
「俺も。何ですぐに気が付かなかったんだろう」
これでは、まず会社の責任者に会うことなど、到底不可能だろう。そして、誰かもわからない学生が、トラックを調べてくれと言っても、門前払いされるのが落ちだろう。
二人は、もう一歩の所まで来て、途方に暮れることになった。
「どないしたんや」
二人の後ろには、いつの間にか、汚れた作業服を着た長身で筋肉質の中年の男性が立っていた。
優子は、落胆しつつ言った。
「この会社の偉い人に会おうと思って来たんだけど、こんなに大きな会社だと思わなくて」
「偉い人になぁ。良かったら、事情を聞かせてくれへんか?」
裕介は、少し悩んだが、諦めの気持ちもあって、ありのままを話し始めた。
「おかしな事を言っていると思われるかも知れませんが、実は……」
裕介は、西川運輸のトラックで、自分も含む大勢が重軽傷を負う夢を見たことを、簡潔に語った。その間、優子は、裕介の話は、客観的に見てさすがにおかしな事を言っているなぁ、と思っていた。
黙って裕介の話を聞いたその男性は、おもむろに笑い始めた。そして、裕介の肩をぱんぱんと叩いた。
「話はわかった。一緒に来なさい」
その男性は、突然ずんずんと歩き始めると、フィールドウィンのゲートの中に入って行った。入口のセキュリティ担当者に挨拶して、そのまま敷地内に入って行った。そこで振り返った彼は、大きく手を振って、二人を呼んだ。
優子と裕介は、顔を見合わせて、小走りでその人に着いて行った。
その男性は、敷地内に建っていた大きな建物に入ると、受付も素通りして、どんどん奥へと入って行き、エレベーターに乗った。何が何だかわからぬまま、二人もエレベーターに乗り階上へと上がっていった。
最上階に到着したエレベーターを出ると、更に奥にあった部屋に入った。
部屋の隅にはデスクがあり、中央にソファが配置されたその部屋は、明らかに偉い人の執務室だった。
「あっ、あのう……。おじさんは、いったい?」
優子は、恐る恐る聞いた。
「まぁ、座んな」
その男性に促されて、三人は、向かい合ってソファに座った。
「名乗るのが遅れてすまん。俺の名前は、勝野龍太郎。この会社の代表取締役をやっとる」
優子と裕介は、あまりの都合の良い展開に仰天していた。
「驚くのも無理あらへん。俺だって驚いてるんやから」
社長の勝野は、にこやかに事情を語った。
「つい、一週間前のことや。俺は夢を見た。二人の高校生の男女がうちを訪れて、トラックを調べて欲しいと頼まれる。俺も、変な夢を見たなぁと思っとったんや。そうしたら、あんたらが来た」
それを聞いた優子と裕介は、更に驚かされていた。
「そ、そんなことって……」
「信じられない……」
勝野は、嬉しそうに語った。
「これも、何かの縁や。もう少し詳しく教えてくれれば、力になるで」
優子と裕介は、見つめ合って頷き合った。
「は、はい。それでは……」
裕介は、これまでの事の詳細を、全て話した。
「なるほどな。わかった」
勝野は、二人の話を疑うことなく、大きく頷いた。そして、おもむろにデスクに移動すると、何処かへ電話をかけた。
「先日買い取った、西川運輸のトラックがあるやろ。今すぐ、整備担当者を数名派遣してくれんか。そうや。整備不良車が混じっとる可能性がある。そう。急いでくれ」
優子と裕介は、あまりの急展開に、呆気に取られていた。
「これでええやろ。でも、確認には、数時間はかかるから、何処ぞでゆっくり休んでてくれるか」
裕介は、立ち上がって勝野に深くお辞儀をした。慌てて、優子も一緒に立って、同じようにお辞儀した。
「ありがとうございます!」
勝野は、ゆっくりと首を振った。
「かまへんかまへん」
勝野は、西川運輸を買い取った経緯を話しだした。
「あそこはな、俺の親父の知り合いの会社でな、それが縁で会社を買い取った。西川さんは、もともと年齢的な問題で会社を畳もうとしていたんやが、会社を買い取ってくれるところが無うてな。買収を申し出たら、喜んでたで」
それから、三時間後、すっかり暗くなってから、勝野に連絡があった。別室で待っていた優子と裕介にも、その知らせが来たのだった。
「お二人さん。見つけたで。一台、ブレーキに不具合がある車両があったで。これで、あんたらのお陰で、事故起こさんと済むやろ」
優子と裕介は、顔を見合わせて喜びあった。
「やったね、裕介くん」
「ああ、これなら、大丈夫だな」
「うちのトラックは、定期的に検査しとるから、他の車両を心配する必要はないで。安心しぃや」
「ありがとうございます!」
二人は、大きく頭を下げた。
「ところで、あんたら今日は、どないするんや? どっか泊まる所はあるんか?」
裕介が時計を見ると、既に十九時を回っていた。
「優子ちゃん、不味い。早く移動しないと、帰れなくなる」
優子は、出発間際の父の形相を思い出した。帰れないなどと言ったら、夜通し車を走らせてでも、迎えにやって来るかも知れない。
「裕介くん、行こう!」
二人は、何度か勝野に頭を下げてから、大急ぎで会社を出た。別れ際、勝野は笑顔で「仲良うな!」と言っていた。
電車を乗り継いで、大急ぎで新大阪駅に着いた二人は、新幹線乗り場へと走って行った。裕介は、転びそうになった優子の手を掴んで、手を繋いだまま走った。
こうして、東京行きの最終の新幹線に乗った二人は、息を切らせて、ようやく安堵していた。
「ま、間に合った……」
「何とか、なったね」
ゆっくりと動き出した新幹線は、徐々に速度を上げて行った。
優子は、裕介の顔を見て、少し不安そうにした。
「未来、変わったと思う?」
「そう思う。だけど、本当に大丈夫かは、当日にならないと、わからないなぁ」
心配する優子の手を、裕介はそっと握った。
「信じよう。俺たち、あの夢のおかげでこうやって一緒にいれるように、運命が変わった。事故の件も、必ず変わる。そう信じようよ」
優子は、裕介の顔を見て、頷いた。
夏休みが終わり、九月になった。
夏休み明けには、二人が付き合い始めたことは、皆に知れることになった。どうやら、二人でお祭りに行っていた時に、誰かに目撃されていたようである。
それまで、友達すらいない優子と、何でそうなったのか、周囲はその点が意外で、裕介は質問攻めにあっていた。困った彼は、宇宙旅行の夢などを正直に話し、そういう話をちゃんとわかってくれたから、という説明をしていた。
クラスメートでもある、彩夏や玲香は、その様子を遠巻きに見ていた。寂しそうな顔をしている彩夏を、玲香は励ましたりしているようだった。
そうして、あっという間に、バスケ部がバスで遠征する運命の日が訪れた。
優子は、そのバスの見送りに行ったが、裕介に不安な顔を見せぬよう、無理して笑顔で送った。その日は、一日中、何も手につかず、嫌な予感を振り払うのに必死だった。しかし、結局、何事も起こらず、夕方遅くなって、バスは戻って来たのだった。裕介と再会した優子は、そこで初めて泣き出して、心配でたまらなかったことを彼に伝えた。
その後、優子と裕介は、フィールドウィンの勝野社長に連名で手紙を書いた。何事も起こらなかったことを、感謝する内容だ。手紙を投函した後、二人は、フィールドウィンについての考察を行った。
ホームページの会社の沿革を見ると、勝野社長の父は、戦後になってすぐに会社を興していた。どうやら、自らの先祖が、江戸時代に飛脚をやっていたことを知り、戦後の混乱期の辛い時期に、先祖に倣って運送業を始めることにしたらしい。その会社を興した社長の父は、今は会長になっていた。
優子は、少し疑問に思っていた事を裕介に話した。
「記憶が定かじゃないんだけど、夢では、あの会社のCM、見たことない気がするの」
「うーん、どうだったかなぁ」
裕介は、記憶を辿ろうとするが、既に、夢と現実が重なり合い、前はどうだったか、細部を思い出すのは難しくなっていた。
「私も、自信がある訳じゃないんだけど……」
優子は、分岐点となった出来事について考えを話した。
「大きな分かれ道が、二つあったと思う。一つは、浴衣を買いに行ったこと。夢ではやらなかったことだから」
「そうだね。あれがなければ、話すようになってなかったかも知れない」
「で、もう一つが、あの事故だと思う。あれは、裕介くんだけでなく、多くの人の運命を変えた事件」
裕介は、不思議に思ったことを呟いた。
「勝野社長が、俺たちが会いに行くのを夢で見たって言ってたけど、ちょっと、出来過ぎだよなぁ」
優子は、それについても、考えがあった。
「私ね、全部、何かに導かれたっていうか、そうなるように、誰かが手伝ってくれたんじゃないかって……そんな気がするの」
「それ、俺も思ってた。何かさ、時々、誰かに背中を押されるような感じがしたんだよな」
優子も、それは時々感じていたが、裕介がどうだったのか、知りたくなった。
「裕介くんは、どんな時に感じたの?」
裕介は、少し恥ずかしそうにして、苦笑いをした。
「えーと……。一番は、お祭りに誘うメッセージを送る時、かな」
優子は、それに少し驚かされた。あのメッセージは、凄く自然に感じていたのに、その裏で、彼の苦労があったらしい。
「あれを送るってことは、俺も告白しなきゃいけなかったから、送ったら、もう後戻り出来ないって、緊張してたんだ。あの時、やらなきゃ後悔するぞ、って誰かに言われた気がしたんだよ」
裕介は、ほんの一ヶ月前のことを懐かしそうに思い出していた。優子も、あの告白をする時、同じように感じたのを、思い出した。
「誰か見てるのかなぁ」
「それは、それでちょっと困る」
「どうして?」
「見られたくない時だってあるよ」
「例えば?」
裕介は、本当は優子とキスをしたいと思っていたが、そんなところを誰かに見られるのはごめんだった。それに、どういう時に、そういう雰囲気になるのかが、彼にはわからなかった。急にそんなことをしたら、凄く驚かれそうだし、もしかしたら嫌われてしまうかも知れない。
裕介は、苦笑いをして言った。
「えーと、今は内緒」
「えー? 気になるよー」
「内緒だってば」
優子は、頬を膨らませていた。
裕介は、そんな彼女を本当に愛しいと思っていた。
裕介と付き合うようになってからの優子は、徐々に人と話せるようになっていった。自分に自信が持てなくて、人と話すのを放棄してきた彼女だったが、大切な人のお陰で、随分自信がついたのだ。
三年生になる頃には、少ないが、普通に話せる女子の友人も出来ていた。そして、受験も控えていたことから、恋に、勉強にと忙しい毎日を送るようになっていた。裕介は、部活を続けていたが、受験のことを考えると、どこかで引退する必要性も感じていた。
そして、二人は、理工系の同じ大学を目指して勉強に取り組んでいた。裕介の夢は、宇宙飛行士か、何か宇宙に関われる職業だった。優子はと言えば、まだ目標は定まっていなかったが、同じように科学の分野で何か世の中の役に立ちたいと思っていた。
ある日、だいぶ後になってから、勝野社長から手紙が届いていた。二人で手紙を読むと、不思議なことに、一言だけ、こう書かれていた。
「頑張れよ」
ずっと二人の背中を押してくれたのは、もしかしたらこの人だったのだろうか。
またいつか大阪に行って、彼に会いに行こう――。
二人は、そう約束を交わした。
時は流れ、二人の卒業式の日を迎えていた。
卒業証書を片手に抱え、彼らは寄り添って学校を後にした。
これから続く人生を思い、二人はその長い道のりに、足を踏み出した。
続く…
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