上手くスクロールして読んでいただければ。
完全に沈黙したジイドを見ながら、私は拳銃を落とした。糸の切れた人形のように脱力した私を、戦いの闖入者となった織田作が駆け寄ってきて支える。
そっと私を降ろした彼は、傍で膝を突いて覗き込んだ。
「花! しっかりしろ、無事か⁉」
「やあ、織田作。何故君が此処に……ゴホッ」
口元へ宛がった手に温かい感触が広がる。
吐血したという事は、私もまたそれなりに毒が回っているという事だ。戦闘で痺れていた脳が疲労を認識し始め、身体が鉛のように重い。二つが相まってか、私は指一本動かすのも億劫で、如何にか口だけは回るといった調子だ。幸か不幸か意識だけは依然はっきりしている。
「太宰から事情は全て聴いた。言いたいことはあるがその前に治療だ。診るぞ」
「散布するタイプの毒を撒いた。織田作は一応部屋から出るんだ。まだ残っているかもしれない」
「分かった」
織田作は私を小脇に抱えると、迅速かつ丁寧に数部屋移動して私を降ろした。
私は
しかし、織田作が此処に来ることは予想外だった。時期がズレたり、私が早々にジイドに敗北していれば、織田作の命が危うかったところだ。太宰のせっかちめと普段なら思いもしない悪態を吐きかけて思い留まる。織田作の鳶色の瞳が私に向けられたからだ。太宰にも向けただろう其れに彼が進退窮まって結局話してしまったことが分かった。織田作にしては珍しく、強く鋭い光を宿している。その輝の正体の名を思い浮かべようとした私は、その思考を打ち切った。その権利を私は持ち合わせていなかったからだ。
「花。解毒薬は何処だ。毒を盛ったのは花なんだろう。有事に備えて薬もある筈だ」
「織田作、私はいいから此処から離れてくれ。頭目を失ったとはいえミミックはそこらの破落戸とは訳が違う。不殺を誓う君に対処は難しい」
「お前を置いて行く訳にはいかない」
「頼むよ、織田作」
「何故だ? 何故死にたがる?」
織田作の問いに、私は答えられなかった。答えたくなかった。正直に答えれば、彼は彼自身を生涯責めることになる。する必要のない苦悩を負って生きて行かねばならなくなる。
刹那――ほんの一瞬だけ、純白な邪が過る。
「太宰と一緒にされるのは甚だ不本意だなあ。死にたいわけないじゃないか」
ならばと必死に私の言葉を待つ織田作の表情を見て、私は魔が差したことを恥じた。口八丁手八丁で誤魔化して、嘘を吐いてでも――そんな事を思って仕舞った事実に暫し閉口し、後悔し、再度言葉を継いだ。
「……けれどもう手遅れだ。何もかも」
「未だだ」
織田作は突然私の襟首に手を回した。思わず制止の声を掛ける私に構わず、彼は私の襟の裏に忍び込ませてあった解毒薬の錠剤を摘まみ上げる。
「織田作!」
「過去の仕事で覚えのある隠し場所だった。誇れることじゃないが、経験に助けられたな」
織田作は半ば強引に私の口内にカプセルを放り込むと、温かい掌で私の顔の半分ごと口元を覆って上に向けた。仕方なく、私はそれを喉の奥へ押し込んだ。乾いたカプセルが何度かつっかえて咽たが、お互いに飲料を持っていなかったから、そのまま呑み込み続けるしかなかった。やっと食道を通りきって落ち着いた私を、織田作が心配そうに見降ろしている。
「解毒……出来たのか」
「効果が出る迄時間が掛かるから、まだだよ。でも、毒では死ねないかな」
「そうか。よかっ……――?」
私の身体を支えている織田作の右腕を見ながら彼が言葉を止めた。
一瞬緩んだ顔がみるみる強張っていく。
「血、が、止まらない。花。何処を怪我している」
「…………」
「ッ~~~~! 済まない、花。服を脱がすぞ」
私はシャツを着、コートを羽織るというマフィアに馴染みの格好をしていた。胸部は晒を巻いて固定してある。今更羞恥することもない。私の沈黙を肯定と捉えた織田作はまずコートを脱がせた。そして、表情を強張らせる。純白のシャツの右腕部分が鮮血で染まっていたからだ。ナイフで袖を割くと、右腕と肩が厚さ一
「銃撃戦をしていたんだろう⁉ これは何の怪我だ」
私は、口の端を歪めるので精一杯だった。身体全てが悲鳴を上げている。
千切れ掛けた腕が発する激痛と、これから離れていく部位の違和感と、戦闘の疲労が一気に押し寄せていた。
私は、殆ど無意識のうちに――それは苦痛から逃れるための防衛本能だったのかもしれない――異能力を発動した。《狭き門》との融解を経た今、私の異能は織田作の異能を引き摺り出した。時間が無限に引き延ばされ、私を襲う苦痛の全てが希釈されていく。
「これは……何だ」
「異能同士がぶつかり合った時、稀に想定外の方向へ異能が暴走することがある。異能の特異点というやつだよ」
「花! 無事か!」
時間を引き延ばした影響で、私たちは指一本動けなかった。だから織田作が私に顔を近づけようとしたことは分かったが、其れが遂げられはしない。金縛り状態ではあったが、織田作もまた直感的に現状を理解したのだろう。
私は溜息を吐いた。
「大丈夫ではないけれど、其れはこの際置いておこう。こうなってはお手上げだ」
「永遠にこうなのか」
「いいや。時間が伸びて感じているだけだ。孰れ現実の感覚に戻るし、私の怪我はどうにもならない」
「それはまだ」
「解かるよ。この後、左脚、右脇腹、左手の順に身体から欠けて、確実に失血死する。いや、ショック死の方が先かな? ともあれ織田作が気に病むことじゃあないさ。これは私の異能の副作用なんだ」
私の異能は、基本的に対象を一つながりのものに指定する。人なら髪の毛から脚の先まで丸ごと一人、拳銃なら銃弾や火薬、薬莢まで含めて一つ、という具合に。其れには当然精神力と体力を消費する。特に人を巻き戻すのはホイホイやれることじゃない。戦闘中に怪我を無かったことにするために使うようなものではないのだ。
エネルギー消費を抑えるには、部分的に異能を使うのが当然効果的だ。しかし、大きなリスクが伴う。部分的に時間を戻すという事は、異能を作用させた部位とその周辺で進んでいる時間に差異を生じさせてしまうという事だ。進んでいた時間、その時の変化、継続している状態など、小さな誤差が出る。物体ならば一度や二度の行使で破損することはあまりないが、人体となってくると話が変わる。身体は細かく機能が分かれ、細胞の中にも役割がある。其処に時間的差異が生じると、回り回って大きな誤差となっていく。
一度目の世界で、これが原因で同じ腕を欠損して以来、部分的に異能を使った後はすぐさま時間を調律していたのだが、今の私にそんな余力は無かった。同じところに二度三度異能を使った所もある。とても把握しきれていない。
生き乍らに身体が崩れる痛みを二度と経験したくはなかった。だから毒で自死を図った。そちらの方がまだ楽に死ねた。
何よりこんな――血肉を撒き散らし、物言わぬ肉塊となり果てていく様子、見られたくはなかった。織田作には、特に。
私は、偶然とか神様とかに頼ったりはしない。故に之は必然。ならば受け入れるより他にない。苦しみ悶えて死の淵に落ちていくことになるし、その様を織田作に見られる訳だ。もし本当に神様とやらがいるなら文句の一つも言ってやりたいところではあるが、不平等、理不尽、不完全というのが世の中だ。
今はただ、泥のように眠りたかった。
永遠の静けさを手に入れる眠りだ。
瞼がどうしようもなく重かった。
誰かが私の名を呼んだ。
織田作だ。
この2、3日で、私の友人たちは今まで見せたこともない表情を見せてくる。
手元に映写機が無いのが、少しだけ残念だった。
「何だい、織田作」
「死ぬな、花! 必ず助ける‼」
「ふふ、無理無理。私は人間、君も人間。出来ることには限りがあって、いつかは死ぬ。私はそれが今日だっただけ」
何より、私の身体は既に限界だった。正確に言うなら、脳が最早負荷に耐えられなかった。何せ強制的に数十年分にもなる記憶を上書き保存されたのだ。人間の身体で受け止め切れるわけがない。
昨晩、安吾の眼鏡に映った自分を見て思わず笑ってしまった。私の寿命は宣言通り、今日までだったのだ。安吾に打ち明けた時の泣きそうな顔が脳裏を過り、織田作と重なった。
「なんて顔をしているんだ、織田作! 酷い顔だよ」
「そうだろうか」
「うん。ねえ織田作。君は今何を思ってる?」
きょとんと眼を丸くした織田作は、視線を宙に彷徨わせた。神妙な顔で暫く考えてから、ゆっくりと言葉を零す。
「如何すれば花が助かるか」
「何故俺に相談もなしにこんなことをしたのか」
「太宰や安吾は知ってたんだろうか」
「俺だけ除け者というのは……」
「そう、かもしれない。だが、それだけじゃない」
「怒られると思うのか」
「そうだろうか」
「真理だな」
「…………」
「わからない」
「それも、わからない」
「何故だ」
「……いつか、解かるだろうか」
「俺の
「花」
「花!」
「それ以上言うな、花‼」
「ッ」
此処まで来て一番酷い丸投げっぷりだ。我乍ら言い訳の口上を探してしまいそうなほどには傑作な言葉が並んでいる。
けれど、撤回しようとは思わない。
そもそも、だ。織田作の自己評価の低さは、私に失礼だろう。
こんなにも私は、自称凡夫に救われたのだから。その事実を否定するのは誰だろうと赦さない。
ぎしりと軋んだ音が聞こえた気がした。この世界の終わりが近づいていた。
これが小説なら、随分なご都合主義だ。主人公が友人の死の際でお涙頂戴の会話をしてどうのこうの、などと云うのを読んだら、その日一日寒気で体が震えてしまう。
私は
嗚呼、だが、しかし。”去り行く友人”に一つだけ贅沢が許されるなら。
今だけは少し、彼らの気持ちが解かる気がした。
「織田作。私は嘘が嫌いなんだよ」
「ああ。知っている」
「本当は、織田作ともう一度咖哩が食べたかった。約束したら嘘になると思った。けれど、この気持ちに嘘はない」
「
「そうか……ふふ、良かった……」
――ありがとう、織田作。
織田作の身体が動き出す。私の痛みがぶり返す。
――君のお陰で、私は
思考が塗り潰され、視界が紅く染まり、耳鳴りが五月蠅かった。
上限なく続くと思われたそれらが不意に消えた。脳の許容量を超えたのだろう。
感覚が悉く駄目になっている。目は辛うじて織田作の輪郭を捉えるくらいで、触覚も聴覚も嗅覚も味覚も駄目だ。不思議と怖くはなかった。空気に溶けたみたいに、ただただ身体が軽かった。
織田作が何か言っている。駄目だ、よく見えない。
私の腕が持ち上がったのが見える。織田作の頬に当てたらしい。彼は私の手を両手で包んでまた何か言った。眩しくて、眠たくて、唯静かで――――
――――幸福だった。
吐き出された紫煙が空気と混ざり合い、踊るように消えていく。指先に挟まれた煙草から昇る一筋の煙が、彼の吐息で揺らめいた。
身動ぎさえ憚られる静謐が満ちた其処は、深い森の中でも美術館の展示室でも丑三つ時の表通りでもない。今の静けさからは考えられぬ程銃弾と血に塗れた廃屋だった。
沈黙を破ったのは、ある程度手入れされた革靴の足音だった。窓ガラスが一面に張られた舞踏場だった此処は、散乱した硝子で見る影もない。時折それらを踏み割る軽い音がした。
彼は振り返らない。
「織田作」
「…………」
「答えなくていい。聴いてくれ。ミミックはほぼ壊滅状態だ。残党狩りは私の手勢で事足りる。戦いは終わったんだ」
「そうか」
「ッ……織田作。中花は……君が生きることを望んでいた。不殺の誓いを貫く君を尊敬し、そう在ってほしいと希っていた。こうなることは本望だった筈だ」
「太宰」
織田作に名を呼ばれ、太宰は肩を跳ねさせた。親に叱られる子供のように蒼白な顔をしていた。
しかし織田作は太宰に一瞥をくれることもなく、眼前の遺体を見つめていた。自然、太宰はそちらへ視線をやり、一層顔を強張らせる。
「十八だ。巷なら花盛りの、見合いなどを薦められる年だ。それが、こんな姿になってまで貫かねばならないものとは何だ?」
絨毯のように血溜まりが広がり、その中心に花の遺体がある。西洋式の、胸で手を組む格好にしようとしたことが伺えた。左手首は切断されており、腕は重力に沿って僅かに胴から離れている。右腕は丸ごと胴から抜けており、失血を抑えるために紐を縛った跡があった。左足が不自然に傾いている。胴体部分は血に塗れ過ぎており、シャツが所々歪に歪んでいることもあって中が如何なっているかは想像に難くなかった。拷問を受けたかのような様相であるのに、彼女の顔は幸福な微睡の中に居るように安らかだ。其の血の気の無さから、織田作の前に転がっているのは、花によく似た、部位が切り離されたマネキンのようだった。
織田作は緩慢な動作で立ち上がると、吸っていた煙草を握りしめて消した。
じゅっという音と共に、煙草の
「おださ」
「俺はマフィアを抜ける」
「!」
「やりたいことがあるんだ」
織田作が振り返る。
目元が赤く腫れていた。
「俺はずっと、小説家になりたかった。ある人に書いてみろと云われたんだ。『小説を書くことは人間を書くことだ』、『お前にはその資格がある』と。人を殺したらその資格が無くなると思った。だから殺しを止めた。だがな太宰、花を殺したのは俺じゃないのか」
「違う! 中花は――」
「違わないさ。そんな俺に、花は小説を書けと云った。きっと見透かされていたんだ。結局俺は、俺自身で、俺の手に馴染むのは血に染まった拳銃だけなんじゃないかと思っていることに。資格だ何だとあの人を言い訳にしていたんじゃないかと。無論全部じゃない。だが、もしかしたら花はそう感じていたのかもしれない。当然だ。人を書きたくて不殺を誓ったのに、俺は花や安吾や、太宰――お前たちの内奥にある柔らかい所に土足で踏み入ることをしなかった。俺たちは踏み込まなかったから友人だったし、友人だったから踏み込むべきだったんだ」
織田作は握りしめていた手を開いた。指の隙間で変形した煙草が、子供の宙返りの様な不規則さで転がる。
「考え続けろとも花は云った。俺に燻るこの嵐の様な思考と感情の渦を一つずつ考えろと。それが、花にとっては写真を撮る事で、俺にとっては小説を書くことだと云った。意味はまだ分からない。耳に入ってすぐのところで止まっている。だが、花が命を賭して望んだことなら、俺も命を賭して報いるべきだ」
織田作と太宰の視線が交錯した。
「マフィアを抜けるのは簡単ではないよ」
「だろうな」
「最悪処刑される。小説が書きたいからとどうにかなると思っているのかい」
「『友人とは頼るものだ』――太宰、何か妙案があったら教えて欲しい」
太宰は一瞬、呆気に取られた顔をした。織田作からしたら何の捻りもない願いで、もう少し頼み方を工夫すべきだったろうかと内心首を捻ったくらいだが、太宰の内心はそれはもう天地をひっくり返すほどの大騒ぎだった。
「…………君はまだ、私を友と呼んでくれるのだね」
「何だ? 声が小さくてよく聞こえない」
「いーや! 師弟揃って私に頼り過ぎだと云ったのだよ!」
「すまない。この借りは必ず返す」
「やめておくれよ。私と織田作の仲だろう。その代わり、一つ約束してほしい」
太宰は普段通りの微笑を浮かべた。
窓だった壁の穴から斜陽が差し込んでいる。
硝子がキラキラと輝いていた。
ミミックとの抗争は、あまりに犠牲を出し過ぎた。
通常、抗争にて絶命した構成員は、密かに業者に引き渡されて各々の処理を受ける。
しかし今回、少なくない犠牲のせいで一時、裏社会の掃除屋がパンク状態になっていた。それでも竜頭抗争時のように遺体を捨て置くことがないだけ
通常より一回り小さな棺の中に、一人が寝かされている。少女から女性への階段を上る途中で眠りこけた彼女は、首から下が埋もれて見えない。敢えて隠されているのだ。
死体の山をものともしない構成員でさえ、彼女の遺体には瞠目し、剰え戻してしまうものさえいた。其れは戦死の様相ではなかった。
部下の手前という事だけが彼をその場に凛と留まらせていた。そうでなければどうなっていたかは分からない。
彼はそっと彼女の髪を梳いた。生前では何かが閊えて出来なかったことだ。くすぐったそうに彼女が頬を染めた気がしてハッと息を呑み、込み上げたものを押しとどめる為立ち上がる。
――だから広津さん。私に何かあったら……
彼は――広津は、その狭い部屋の後方に足を向けた。
彼女が最後に使っていた映写機が置いてあるのだ。
彼女が主として使っていた部屋は、居間と暗室が隣り合った風変わりなものだった。暗室の方は、彼女が部屋を改造して作っていたらしい。
其処には、目を見張る写真の山が在った。
写真に写る者達は、喜び、怒り、哀しみ、楽しんで生きていた。彼女の世界は、彩り鮮やかに輝いていた。
映写機を持ち上げようとして、広津はふと手を止めた。置いた覚えのない花が三輪、置いてあったからだ。名を思い出そうとして広津が集中を切った時、彼に声を掛けるものがあった。
「――惜しい奴を亡くしたな」
跳ねるように広津は背筋を伸ばして敬礼の形をとる。
「中原殿……! このような所に態々御足労戴くとは……」
ポートマフィアの幹部である中原中也が伏し目がちに入口に立っていた。
彼はいつも通り外套から
「供える華はそれか」
「いえ、これは知らぬ間に置いてありまして……」
献花などは用意しなかった。彼女が神や仏といった類のものを信奉していないのは知っていたから、宗教観の一切ない葬儀――の真似事で彼女を送るつもりだったのだ。
映写機と共に持ち上げる。
広津は下手人に思い当り、その願いを聞く気になった。
花言葉は、“勇気”、そして――“大切な思い出”
目を細めた広津の肩を軽く叩いた中也は、静かに云った。
「彼奴ァ口調はいけ好かねェし散々俺を揶揄ってきやがったが、腕は立つし人を惹きつける、部下としちゃ申し分ねえ奴だった。だからアンタも無理すんな。惜しまれる奴は其れだけで幸せモンだ」
「ありがとう、ございます」
広津は中也と共に棺の前まで戻ると、映写機と花薄雪草を手元であろう所に置いた。彼女の身体は今や、大小様々な紙とインク、そしてフィルムに埋まっている。
彼女は自身の撮った様々な想い達と共に、安らかな眠りにつくのだ。
『私に生きる意味を与えてくれて、ありがとうございました』
彼女の部屋には、彼女らしく簡潔な手紙が置いてあった。
その手紙と、彼女が自身を撮った写真だけが、広津の持つ彼女の遺品だった。
「さらばだ、私の大切な――――」
ポートマフィア首領の森鴎外は、護衛も付けずふらりと街を歩いていた。
「ハナ……死んじゃったのね」
彼の側にはいつの間にか、金髪に碧眼、真っ赤なドレスに身を包んだ少女が随伴している。
「エリスちゃん……そうだね、残念な事だよ」
「二度とそんな事云わないで。リンタロウが殺したくせに」
森は反論しなかった。
花の結末は、森と彼女の利害が一致していた結果だった。
戦禍を最小限にするならば、織田作之助とミミックがぶつかることが最適解だった。
しかし其れは、あくまで花が何も知らなかった場合の話だ。彼女が未来を変えようと動くのであれば、その最適解は瓦解する。彼女が愚者であったなら、森は麻酔など使わず花を抹消するつもりだった。太宰をはじめとする不確定要素が制御不能の状態に暴走する可能性があったからだ。
しかし、彼女は幸いにも“聡明”だった。
森が何を手に入れればシナリオの変更を許容するか理解していたのだ。
同時に、もし森が此処で織田作之助を無理に使えば、彼女は二度と森に――正しくはポートマフィアに――協力することは無いという事を彼が理解していると良く解っていた。
情報戦に於いて、彼女の異能は政府でさえ喉から手が出るほど欲しいものだ。
しかしその信頼性が喪われているのなら、彼女は猛毒にもなり得る。未来視系の異能者の使い勝手が悪い点の一つだ。彼らの発言が正しいかどうかは、未来にしか分からない。悪意が混じれば一瞬で真実が漆黒に染まってしまう。
それは、無言の取引だった。
異能開業許可証を得る代わり、織田作之助に手を出さず、花の妨げもしない。
掛け金に対しておつりが返ってくる結果だ。
これが今回の最適解だった。
不意に、エリスと
少しばかり頭の切れる、有能な異能者、だった。
まさかここまでとは、と、安っぽい映画の悪役の様な台詞が頭に浮かんだ。
――本当に、残念だよ。
抜けるような青空に落ちてしまいそうな錯覚を起こしながら、依然力の入らない足取りで森はエリスに続いた。
町は、平穏を取り戻しつつある。
今日もどこかで人が死ぬ。
人知れず戦いがある。
一日は人が定めた区切りに過ぎず、時間の経過は自然の理。
その流れに抗う事に、意味は無いのかもしれない。
それでも――
店内に響くジャズ。日没を過ぎて薄明、暗順応の追いつかない瞳が捉える薄暮の時間を切り取ったような明るさのバーには、絶えず寡黙な客が出入りしていた。行き来する度客同士がすれ違うような狭い店内のカウンターに彼は、いいや、彼らは座っていた。
「それで、幸介は何と云ったんだ」
「私が幹部なら自分は首領どころかこの町のトップにもなれると仰せさ」
「政治家か。良いじゃないか」
「多分そういう意味ではないと思うのだけれど……」
酒を嘗めるようにグラスを傾けていた男は、思い出したように持参した紙袋の中を漁った。ガサガサという音に、このバーの看板猫の耳がピンと立つ。
「太宰。約束通り持ってきた」
紙袋を横目で見ていた男は数瞬目を見開き、それからグラスをカウンターに置いて体をそちらへ向けた。
「……そう、か。感想は貰えたかい?」
「二人に訊けと云われた」
「うふふ、“らしい”ね、まったく」
取り出されたのは、二百枚は優に下らない、薄いB4の紙の束だった。差し出された其れを慈しそうにもう一人が受け取った直後、更なる人物が階段を下って姿を現した。
「こんばんは、太宰君、織田作さん」
「やあ、安吾! 暫く見なかったけど、元気そうじゃあないか!」
「元気なものですか。幾ら個人的にとはいえ、二大異能組織の構成員とこうして会っていることが上にバレたら首が飛びます。冷や汗ものですよ」
幾らか萎びた様子の彼は、階段から降りるなり二人の後ろを通って店のほんの少し奥まで進んだ。
「――だが、それにしてはよく会うな」
「僕はこの店が気に入っているだけです。よく会うのは貴方がたが入り浸っているせいですよ」
「つまり、お相子って事だねえ」
「そうだな。仕方ない」
吐息のような笑みを三人で交わし、太宰の隣のバー・スツールに着く。
いつもの、とマスターに頼んだ安吾は、鞄を降ろすと二人の方へ視線を向けた。
「ところで太宰君。織田作さんから受け取っていた其れは何ですか」
「うふふ、当てて御覧?」
「先日の共同作戦の報告書でしょうか」
「はーずれ! こんな分厚くてクタクタの報告書嫌だよ、私」
「俺が書いた小説だ」
気まずそうに織田作が答えた。太宰にクタクタだと云われたことが少し堪えたらしい。安吾がフォローしようとしたが、その前にハタと動きを止めた。
「完成……したんですね」
「今から細かいところを詰めていく。完成まではまだ掛かるが、一先ず、と云った所だろう。三番目になるが、安吾も読んでみてくれ」
「三番目ですか。太宰君の後に僕の先約が?」
「私の前に読むべき人物が居るだろう、安吾。私が二番手なのだよ」
太宰の言葉を聞いて、安吾は脳裏に、天狼星の下で揺れる黒髪を幻視した。
目の端で何かが光って、現実に引き戻される。安吾の前にはいつもの酒が置かれており、浮かぶ氷がランプの光を弾いていた。
「――そうですね。その通りです」
「揃ったところで、乾杯するか」
「うふふ、何に乾杯する?」
決まっている、と織田作はグラスを軽く持ち上げた。織田作の隣には置かれたままのグラスが一つあった。彼はそれを太宰――三人の中心に座っている――の前に置いて微笑む。
燻る紫煙が闇に溶け、閑に夜が更けていく。
曲がった因果を知るのは土の下、記憶の中の只一人。
黒髪を靡かせ、不敵に笑う彼女が確かに其処に居た。
――――”ストレイドッグに”
四つのグラスが、透明な音を立てて鳴った。
まだ、朝は来そうにない――――……
完
先ずは、この小説を書くに至り、素晴らしい原案をくださったラー油をかけよう様、
そして壮大な世界観、個性豊かなキャラクターたちを産んでくださった朝霧カフカ様と春河35様に深く御礼申し上げます。
次いで、最後までこの小説をお読みいただいた読者諸兄に深く感謝を。
(本編がシリアスに進んだ反動で以下は狂気が混じってます。お気を付けください。)
文章を書くというのは難しいもので、修行中の身としては、皆様のお目に触れるのが恥ずかしくも嬉しかったです。同時に、矢張りこの世界は自由で、人としての生活を切り崩すほどに熱中してここまでやって来られました。
つまり何が云いたいかと云うと、超楽しかった!(語彙力喪失)
云いたい放題やりたい放題させていただきましたが、「薄雪の咲く頃に」は如何でしたでしょうか。
この小説が皆様の織田作人気を上げ、且つ織田作の小説を増やす切欠に微力ながら為れれば幸いです。
あー、云っちゃったぜ☆
小説二巻をまた読んでアニメを十三話から見直しましょう!
泣きます。
そして皆さんも織田作を、文ストの創作を書きましょう!←ここ大事! テストに出るよ!(何のだよ)
何故ハーメルンの原作一覧に文ストが無いのだ。悔しいです!
一つ心残りがあるとすれば、第六話で匂わせていた、花が太宰にオレンジジュースを被せた場面を書き損ねたことくらいですね。まあ御想像の通りです。はい。
あまり書き手がなんやかんや書いて読者諸兄の解釈等を阻害するのは良くないと思いますので、私からはこの辺で失礼します。
最終の場面が書けて私は満足です!(自己満足の極み)
またいつの日か皆様とお会いできる日を楽しみにしております。
最後の最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました!
みーごれん