翌朝、私はいつも通りの時間に目を覚まし、いつもよりゆっくりと支度を整えた。今日は非番なのだ。でなければ昨日、あんな時間まで夜遊びしたりしない。養父と暮らしていた頃なら考えもしなかっただろう。太宰や織田作といった、恐らく今日も仕事があるだろうに考え無しに気分で立ち寄って撃沈する者も居れば、安吾のように節度を守って酒をたしなむ者も居る。何が良いとかじゃない。悪い事じゃない。
“そういう自由”は好きだ。
惰眠を貪って一日を過ごしてもいいが、一度生活リズムを崩すと後々のパフォーマンスにも影響が出る。常に暴力と闘争の中に身を置く遊撃隊となれば猶更それは生命線だ。何より、新しい日が来たことを知らせる朝陽は好ましい。本音を言えば私は夜が一等好きなのだが、今日はカーテンを閉め切ったままにするのは勿体無かった。それ程よく晴れた日だった。
昨晩持って行った鞄から映写機を取り出し、閉め切っているもう一つの部屋に持ち込む。
突然だが、私の趣味は写真撮影だ。風景写真より人物写真を好み、薄給の中から少しずつ生活費を切り崩して映写機を豪勢にしてはにやけ、虎視眈々とシャッター機会(チャンス)を狙う。其れが堪らなく楽しく、やめられない。
昨晩は、白黒フィルムで撮ったルパンでの写真が現像されないままだったから、焼き付けの時間を利用して外に散歩がてら写真撮影に足を延ばそうと考えていた。
暗室に慣れてきた目でフィルムを固定液に浸しながら、昨日一目惚れして買ってしまった新たな我が子(カメラ)に思いを馳せる。ポラロイドカメラと呼ばれる其れは、専用の写真紙を使用して、撮ったその場で写真が吐き出されるという優れもの。フィルムカメラで撮った写真は固定液、現像液にフィルムを浸してから紙に焼き付けてやっと写真として完成する。陽の入らない暗室で、溶液の酸っぱい匂いと闘いながら完成する写真もまた魅力溢れるモノであるが、今日は兎にも角にも写真を試し撮りしたくてうずうずしていた所なのだ。だから今日の天気は重畳、いや、もしかすると私の想いが雲を払い除けたのかもしれない。
一通りの作業を終えて、後は待つだけであることを五度確認した私は、丁寧に目を慣らしてから暗室を出た。太陽はもう十分な高度になっている。
向かいの戸建てで飼われている犬の散歩前の様子と自分を重ねて苦笑しつつ、私はいそいそと町へ繰り出した。
風景写真も勿論嫌いじゃない。しかし、唯其処に在るだけの風景よりも、何を想い、何をしているのかを伝えてくれる人物写真の方が私の心を揺さぶる。人間という存在そのものが放つ輝きが、私には目映く、面映い。
活気あふれる商店街から一筋逸れた裏通り。何かに呼ばれた気がして、足音と気配を消したまま奥に奥に入って行く。ふと気配を感じて角から向こうを覗き見ると――
パシャッ……ジーッ
シャッター音で双眸が此方に向く。鳶色の二つはきょとんと見開かれていて、多少なりとも驚いているらしかった。私も思わず撮ってしまった事に驚いたのだが、伊達に写真趣味を公言していない。機会を逃さなかった自分を褒めたい。
「花か。こんなところで何をしているんだ?」
「其れは私の科白なのだけれどね……」
織田作が、いつも通り砂色のコートを纏って座り込んでいる。その膝やら肩やら頭の上には、織田作を押しつぶさんばかりに猫、猫、猫が乗っかっていた。映写機が吐き出した写真を手に取る。猫じゃらしを片手に大の大人がどことなく顔を綻ばせる様は、私の様な若輩が見ても微笑ましいとしか表現が出来ない。これは今日の酒の肴にしようと密かに思った。太宰や安吾に見せたいと。明日は仕事があるが、良いだろう。こんな日もある。
「天気がいいし、非番だったから写真を撮っていたんだ」
「見た事の無い意匠だな。新しく買ったのか」
「そうなのだよ! 昨日一目惚れしてしまって、思わず買ってしまった! 運命という奴だな! この映写機は――――」
何かに打ち込んでいる者というのは、往々にしてそれを他者と共有したがるものだ。冷静になれば素人に分からぬようなことも落語家より饒舌になって捲し立ててしまうことがある。普段それ程喋る質ではない私もまたその部類だったのだが、織田作は文句一つ言わず私の気が済むまで話させてくれた。
「……それで、織田作は何をしていたのだい?」
「俺は猫探しの仕事中だ。餌場を幾つか廻ってみている」
「ははあ、それで。相変わらず変わった仕事ばかりしているのだな。万屋か探偵屋の仕事じゃないか」
最下級構成員である織田作は、何かと雑用を押し付けられやすい。それが“人を殺さない”マフィアともなれば、仲間内からの風当たりが厳しいのも頷けた。
ポートマフィアは腕っぷしが全てだ。膂力、知力、体力、武力、権力、行動力、異能力――力という力を以って利益と統制を追求する。その為には、陽の光の当たらない仕事が山ほどある。最たるものが人殺しだ。金さえあれば子供でも拳銃を所持でき、同族が闊歩するこの町で、人の命は時に五寸の紙束より軽く散る。やらねばやられるこの界隈で人を殺さないことを信条にするマフィアなど織田作位なものだ。
信念を貫く精神力と、それでも生き抜いてきた生命力が私は堪らなく羨ましかった。自他に嘘を吐かない生き方に、私は焦がれている。
可愛いの権化たち(ネコ)と織田作にあと数歩で辿り着く、という所で、猫たちは一目散に散って行った。脱兎の如くという奴である。猫だが。私も織田作も疑問符を暫し浮かべて沈黙していたが、私はハッとなって着ている服を確認し、そして脱力した。
――現像液が服に付いてる……!
フィルムの現像には少々刺激臭のする薬品を用いる。これは中々曲者で、衣服に付いたら取れにくい。と言うかほぼ取れない。従って暗室には汚れても良い服で入るのが鉄則なのだが、今日は浮かれ調子だったせいか其れを怠ってそのまま出てきてしまったのだ。人間の鼻では殆ど感じないが、鋭敏な嗅覚を持つ猫たちには鼻が曲がるほど臭かったのだろう。
「ふむ、確かに少し匂うな」
「織田作の莫迦。そういう事は素直に言わないでくれる?」
織田作だって獣臭いじゃないか。野良猫たちを相手にしていたのだから当然と言えば当然なのだが。しかし、猫たちの溜まり場に行くためだろうか。今日はいつもの煙草の香りがしない。決して好きな香りではないが、織田作がいつもより少し遠い気がして落ち着かなかった。
思わず彼のコートの裾を掴むと、織田作は首を傾げた。
「どうした」
「織田作、猫探し以外の仕事、今日あるのかい?」
「ある。だが事務所の掃き掃除だ。直ぐ終わる。花が非番というなら稽古をつけるか」
私と織田作は共に異能力者だ。そしてその性質上、両者の戦闘形式は類似点が多い。自然、腕の立つ織田作に私が教えを乞う構図が出来上がった。互いの日程が合う時に数時間だけ実戦形式の手合わせをするのが常だ。今まで織田作が異能を使った事は無い。それ程実力差があったし、私も好きなだけ異能を使えるわけではなかったから、私が先に体力切れを起こして終了という何とも情けない状態である。つい一週間前に連続戦闘時間を更新したが、その後丸一日寝込んだ。当時織田作は大いに恐縮していたようだが、私から乞うている教えを反省されるのは私への侮辱に等しい。少々根に持っているので程なく再戦を申し入れたいところなのだ。だから織田作の提案は実に魅力的だった。
「是非頼むよ。ふふ、織田作が素直に稽古と言ってくれるようになって嬉しいなあ」
織田作は自己評価が低い。それこそ一般人を空に飛ぶ鳥としてやっと海の底のヤドカリくらいの気持ちで居るのだ。太宰や安吾の様な超人集団は地球をとっくに飛び出してしまっていることだろう。稽古を頼んだ当初、彼は人の鍛え方など知らないから他を当たれという旨を、丁度今のように困った顔で云っていた。手合わせしてくれるだけで構わないからと食い下がって現在、やっとこさ稽古認定を貰ったというわけである。何だかんだ的確に指導してくるあたり、やはり彼もまた歴戦の猛者なのだと実感する。
「ところで織田作。少なくとも次の仕事の前に自宅に戻って着替えた方が良い。猫の臭いが染みついている。それに毛まみれなんて掃除しに行く格好じゃないぞ」
「……確かにそうだな。嗚呼、自宅と言えば花、昨日は“酔いつぶれてしまって”すまなかった。送ってくれただろう」
織田作が言う。
今度は私が首を傾げた。
「いや、織田作は酔ったのじゃなく、太宰の新作水炊きを食べて倒れていたぞ」
「水炊き? そんなものを食べた覚えはないが……」
「え?」
「え?」
沈黙。
昨日、太宰と織田作は確かに水炊きを食べてから突っ伏していた。太宰が言っていた改良とはこういう事か。前回は食べた織田作たちが三週間ほどの記憶が飛んだと言っていた。その間の彼らは私の口からはとても言えない状態だったわけだが、今回はすぐに活動できる代わりに水炊きを食べた事さえ忘れてしまう仕様だったらしい。全てを察した私たちの間に一陣の風が吹き抜ける。今日も良い日だ。そういう事にしておこう。
一旦帰宅し、衣服と戦闘準備を再度整える。
黒服時代によれて使わなくなったお古のパンツと白いシャツを纏い、左右に拳銃嚢を下げて愛用の拳銃を仕舞う。腰に革袋を回し、感触がいつも通りであることを確認すると、それらが隠れるように黒い上着を羽織る。靴はいつも通り、使い込んだ革製のものだ。一般のマフィア構成員宜しく黒づくめになったのを鏡越しに見て苦笑する。似合ってない。子供が粋がってスーツに着られているようだ。長い髪を後ろで一つに括ってみたが、矢張り印象は大して変わらない。それなりの地位を得た今なら衣服の自由がかなり効くが、戦い慣れたこの服装を変えたいとはあまり思わなかった。外見は兎も角、戦闘スタイルが装備と一体化して身に付いているのだ。スーツの色を変えれば少しはまだ見られる格好になるだろう。
ポラロイドカメラも忘れず手に取って家を出る。
そういえば、と私は耳朶に届いた低音で思い出す。
「昼食まだだった……」
陽光が背中から差し込んでいる。暑くも寒くもない適温の室内で、私は頬に一筋汗をかいていた。よく遭遇する冷や汗とはまったく別種のものだ。
私の目の前には、香辛料の良く効いた咖哩が置いてあった。白米と既に混ぜてある状態の其れの中心に生卵が落としてあり、上からソースが掛かっている。この店の人気料理だそうだ。私は黙々とそれをかきこんでいた。要するに辛くて体感温度が上がり、発汗していたわけである。
「咖哩の味はどうだい?」
「美味いです」
店主に問われ、答える。人の良い親父さん、という風体のこの人は毎回この質問をする。味に自信が無いのではなく、自分の料理を美味しいと言ってもらえるのが嬉しくて堪らないという感じだ。柔和そうな笑みと共に目尻に皺が寄る。会った時からそうだった。人として大切な何かを積み重ねた人間だけが刻めるものなのだろう。
「花ちゃん、変わったよねえ。織田作ちゃんに連れられて初めて来たときはこう……人形みたいに表情が無くてさ」
「その頃の話は良いじゃないですか……おじさんは変わりませんね。血糖値大丈夫ですか」
木組みのカウンターを透かし見るように私が視線を下げると、枕にすれば頸を痛めるほど厚い腹を店主は片手で叩いた。
「洋食屋の店主はこのくらいの方が客も安心するってもんさ」
和太鼓の様な野太い音が響く。私は肯定したが、この店に客が入っているのを殆ど見た事が無いのは口にしないでおいた。料理が不味いわけではない。値段が高すぎるわけでもない。寧ろ大衆料理屋としてはかなり美味で安価な部類に入るだろう。だが、偶にある、テナントがよく替わる立地宜しく、人の入りが微妙に少ないというだけなのだ。
汗を拭い、コップの水を半分ほど飲み込んでから再び咖哩を口に運ぶ。
「今日も子供たちに会いに来てくれたのかい?」
「いえ、織田作と待ち合わせてて。稽古をつけてもらうんで子供たちには内緒にしt」
「あーー! はなだーー!」
「ん“ふっ」
織田作は、二年前の竜頭抗争で孤児となった子供たちを五人扶養している。下が四歳上が九歳の元気な風の子たちで、その体力と行動力の半分を分けて欲しい位遊び盛りなのである。彼ら彼女らは私が今居る料理屋の二階に織田作が部屋を借りていて、店主はその保護者係をやってくれている。
で、だ。
私は稽古前で、かつそれは大変元気と根気のいるものだというのは前述したとおりである。つまり眼前の天使(悪魔)たちと遊ぶ余裕は無い。断じてである。
だというのに、間の悪いことに、彼らは本日外で遊ぶ気分だったらしい。皆揃って各々思い思いの遊び道具を連れ出している。私が座るカウンター席に背が届くのは最年長とその次の男子二人だが、彼らが遭遇早々私のスーツの裾を思い切り引いた。幸い咖哩の最後の一口を頬張った直後だったから良かったものの、後少し匙を運ぶのが遅かったら、折角着替えたにも拘らずまた刺激臭を纏って過ごす羽目になっていた。まあ、咖哩の馨りなら織田作はやる気になってよかったかもしれないが。
「服が伸びるからやめろって言ってるだろ、克巳、幸介」
「いーじゃん、どうせもうヨレヨレなんだからさ」
「よく考え給え。この服は何故ヨレヨレなんだ」
「えー、使い方が悪いから?」
「残念。文字通り肌身離さず大切に使っているからだよ。克巳たちがしたような粗雑さではこういう草臥(くたび)れ方はしない。他人にとって価値の無いように見えるモノでも、当人にはとても大切のもののことだってある。逆も然り。だから物を粗雑に扱うなというのだ。分かったか」
「そんな大切なものなの?」
「分 か っ た か?」
「うっ……わ、わかった! ごめん!」
「ん」
気まずそうに口を尖らせながらも謝る二人を横目に見ながら、私はコップに残っていた水を飲みほした。僅かに残った水滴に、咖哩の油分が浮いてくるくると回転している。数瞬其れを黙って見た後、コップを机の上に置いた。
「仕事の就任祝いで戴いたものなんだ。今ではもう仕事に着ていけないけれど、そうでない時に着られるうちは着ておきたい」
ふうんと二人が鼻を鳴らした。私の話を分かったような分からないような顔だ。詳しく訊くといつものように子供扱いされると思っているのか、深くは訊いて来ない。しかし、物を大切に扱えという話の件でマフィアが其れを云うのかと皮肉を云えない時点で、まだまだ彼らは無知で幼く純粋なのだ。最年長の幸介はマフィアになりたいと嘯いているらしいが、織田作や店主の苦労が垣間見える。決して幼少から志す職業ではない。親代わりからすれば真っ先に反対する部類の仕事だ。
「しっかし、花ちゃんの前だと借りてきた猫みたいにおとなしいねえ」
「そんな事ねえし!」
礼を言って手渡した空の咖哩皿を受けとりながら店主が笑う。新しく注ぎ足されたコップを代わりに受け取り、私は空いた片手でシャッターを切る。
「私はおじさんや織田作より若いですからね。兄代わりに思ってくれてるんじゃないですか」
「姉代わりじゃなくてかい?」
「ええ。私にもそれくらいの自覚はあります。何方にせよ嬉しいものですよ」
遊びと云えば体を動かすことだし、贈答品も可愛げのあるものは殆どあげたこともない(但し最年少の咲楽という少女へは毎回殊更気を付けてはいる)ので、客観的に観て私は近所のお兄さんくらいの立ち位置なのだろうと思っているし、実際そうなのだろう。職場が男所帯という事も相俟って、私には如何いう振舞いが私に相応しいのかとかを考える前に所作が身についてしまっていた。育て親の両名はその辺りを慮って下さったのだろうが、生来私はこういう性質だったという事もあるのだろう。其処は申し訳ないとしか言えない。
ポラロイドカメラから写真が吐き出される。引き抜こうとして、ふと周りにいた子供たちと視線が合った。克巳と幸介だけでなく、後の三人――優、真嗣、咲楽――もまた私の周りをくるりと囲んでおり、どうあっても私をタダでは返さないという意思が見て取れた。太宰の包囲網も斯くやという陣形に暫し思案を巡らせてから、私は映写機を気弱そうな坊主頭の優に手渡す。
「今日は遊んでやれないが、代わりに此れを皆にやろう」
「えっ……いいの? 本当に?」
「ああ。ただし撮れる枚数には限りがあるから、皆で相談して仲良く使うんだぞ」
懐から専用の写真紙を全て取り出すと、今度は咲楽に渡した。全部で八枚。買い足すことも出来るが、子供たちの小遣いでは少々手が届かないだろう。使い方を説明すると、子供たちは嬉しそうに散って行った。波濤に反射された陽光のように目の眩む声と入れ替わるように、革靴が店内に入ってくる音がした。
「――――渡してしまって良かったのか」
待ち人来たれり。
織田作はカウンターの私の隣に座ると、咖哩を一つ頼んで外を見遣った。
「新しい映写機だったのだろう」
「元々あげるつもりだったから良いんだ。これでいい。いや、これがいい。自分用にはもう少し安価なのを買うさ」
「云い辛いが、その、高価なものだろう。大丈夫なのか」
半年ほど前だったか、私の映写機を子供たちが触りたがって喧嘩をした。コツコツ給金を溜めてカメラ本体からレンズからフィルム迄精一杯拘って揃えた逸品だった。ほんの少し。ほんの少し傷をつけられた。当時の私は放心状態で、だんまりを決め込んでいたらしい。織田作たちに随分と心配をかけたのだが、一週間ほど呆然自失状態で詳しく覚えていないのだ。その心配が半分と、純粋に給金が足りなくなるのではないかというのがもう半分と云った所か。
「大丈夫に決まってる。発言を撤回したりしないさ」
「其れなら良いんだが……」
注文していた咖哩が出された織田作は、茶道の家元の其れのように流れる動きで匙を口元に運んだ。ふわふわとシャボン玉の様な幸福感が目に見えるようだ。私は苦笑しながら、手中にあるコップを弄った。
「あーあ、織田作も食べるのならもう少し待てばよかった! どうせなら一緒に食べたかったなあ」
「花も食べたのか。そうだな。なら今度は一緒に食べよう」
「ふふ……いつもの事じゃないか。今日が偶々別だっただけで」
店主が気を利かせてサーヴィスしようか聞いてくれたが、私はもう十二分に腹が満たされていてこれ以上は入りそうになかった。私は水を喉に流し込み、心底幸せそうに咖哩を頬張っている織田作を、頬杖付いて眺めていた。いつもならすかさず映写機を向けるのだが、生憎今は手持無沙汰だった。
こんな時、隣に太宰でも居たら最高に生き生きした顔で「こういうの私知ってるよ! 心のアルバムに刻むというやつでしょ!」とかほざくのだろうが、私にはそういう趣向は無い。写真は、証拠なのだ。霧散して消えてしまう網膜の光信号をフィルムや紙に焼き付けて、確かにそこに何かがあったという事を私に教えて宥めてくれる。私も確かに何かを感じたのだと思い出させてくれる。そうでもしないと不安になってしまうのは、まだ私が自分を信じ切れていないせいなのだろう。自分が空っぽの儘だとどこかで思っているからなのだ。
「――――お――、――な? 花、どうした」
我に返る。
織田作と店主が小首を傾げて私を覗き込んでいた。
「…………ぁ、いや、すまない。呆ッとしていただけだ。何でもない。反応が無い間何か言った?」
「ああ。花、すまないが今日の稽古は延期にしてほしい」
「追加の仕事でも入ったのかい?」
「今日掃除していた事務所の裏手で不発弾を見つけてな。解体作業をすることになった」
事も無げに言い放たれた言葉に対する反応を数度口の中で転がしてから、私は努めて平生通りに返事をした。
「なら仕方ないな。映写機があれば付いて行きたいところだった」
「家に取りに帰るか? それくらいなら待つが」
「いいや、やめとくよ。そんなことをしたら、太宰から詰られるのは私なのだぞ」
「そうだろうか」
「そうだとも」
想像したくなくとも、「何故私を誘ってくれなかったのだね⁉ 仕事なんて放り出して駆け付けたのに!」という太宰の喚き声が聞こえてくるようだ。その奥で安吾が苦い顔をして私の沈黙を心中褒める所までありありと浮かんでくる。
「埋め合わせはする。明後日などどうだろうか」
織田作の申し出は有難いが、時期が悪い。
私は口元の笑みを消して織田作から視線を外した。
「どうかな……お願いは出来ない」
「予定が在るのか」
「夜なら今の所は空いてるよ。でも……胸騒ぎがするんだ。今日の此の長閑さが、嵐の前の静けさの様な気がしてならない」
「天気予報では晴れだったぞ」
「うーん、まあ、うん、稽古は暫くお休みでお願いするよ」
「そうか。わかった」
多くの血が流れる前、私の背筋には蜈蚣(ムカデ)が這ったようにぞわぞわとした感触が起こる。これが何なのか私はよく知っている。拒絶だ。本心と行動による齟齬が、精神と体を乖離しようとする感覚だ。殺し、犯し、壊されたくなければ、こちらが刃を、銃を相手に突き付けねばならない。命は等価な筈なのに、其れを傷つけ、喪失させねばならない。
私の心はマフィアに不向きで、私の命はマフィアの為に在った。
織田作が羨ましかった。
“思うまま”に生きられる彼が。
私は苦笑する。其れを言った所で如何にもならないのだから。
「織田作はさ、何故マフィアに入ったの」
「何故そんなことを訊くんだ」
「だって、私の識るマフィアと君は全然違うのだもの。世界から弾き出されたり、自らはみ出した感じじゃないというか……君の本当にやりたいことはもしかして実は別にあって、それはマフィアに居なくても出来ることなんじゃないかと思って。じゃあ何故そもそもこの世界に来たのかなってふと思った」
私は横目で織田作の顔を覗き見た。
彼は黙して考え込んでいるようだ。困らせてしまった……のだろう。私を含め、バー“ルパン”で時を過ごす友人たちは自身の過去を語らない。今を楽しんでいるのだから態々尋ねることも話しだすことも無いというのが主な理由だが、私達の距離感が自然な形としてそう在ったせいなのだとも思う。
切実に答えが欲しかったわけではなかった。気まぐれで零した言葉に、懸命に答えようとしてくれている。それだけで私は嬉しかった。
「…………いや、答えにくい事なら良いんだ。らしくもない質問だったな」
「花……何かあったのか」
「どうして? 何もないとも! 唯の気まぐれさ」
私は、嘘が嫌いだ。
「さあさあ、仕事があるなら行っておいでよ。くれぐれも気を付けてね」
嫌いだからと云って、吐かない訳ではないけれど。
私は、私の事が好きではない。
それは自己嫌悪も多分に含まれるだろうが、残りの僅かな部分――自覚しようとする程見えなくなる、蜃気楼の様なもの――にある、最も簡易で近しい言葉で表現すると“恐怖”と呼ばれるものが大きく影響しているように思う。
私は、私自身が恐ろしい。
私が話した時、その言葉は。
私が笑った時、その表情は。
私が瞼を緩めた時、その瞳は。
……“私”、なのだろうか。
わからない。
その声が、仕草が、視線が、想いが、誰かの真似事ではないと――鏡写しの虚像ではないと断言できるだろうか。
命を奪うのは嫌だ。
――ひとごろしはいけないことだから。
闘いたくない。
――たにんをきずつけるのはこわいから。
誰よりも知っている。
私は、空っぽだった。
何も求められず、何も求めず、何も為さず、何も為されず、何も……無かった。
周りの人々が色んなものをくれた。
其れを私が受け取れているのか、判らない。
空虚を過去のものとして良いのかも判らない。
私は、私の全てを埋め尽くしていたのが空っぽであるかもしれないことが――虚という硝子細工だけが私の全てであるかもしれないという仮定が――堪らなく怖くて、そして現実味に溢れていると思うのだ。
嘘が嫌いだ。
其れは自己嫌悪であり、自己否定だ。
此の気持ちだって、私のものであるという保証は無いのだから。
「安吾の莫迦」
「出合頭に何なんですか。流石に怒りますよ」
寄った眉根は北岳のように険しく、丸眼鏡の奥の瞳からは疲労が滲み出ている。陽が落ち切り夜の帳が落ちた道で、私と安吾はばったりと出くわした。目的地が同じだと分かっているから、共に何か示し合わせることもなく足並みをそろえる。
「えっ、じゃあお願いしようかな。存分に怒りをぶつけて呉れ給え!」
「……そう来ますか。矢張り遠慮しておきます。嗜虐趣味は無いので」
「あははは、其れは残念」
安吾は疲れているらしかった。というか、彼は大体何某かに頭を悩ませている。頭の螺子がきちんと整列されているだろう彼からすると、この世界は巧く生きていくのに難しいのだ。世界は私から見ても歪で、欠けだらけで、曖昧だ。そんな中で自身の信条や組織の規律や社会の規範を通して生きていくのは、タイヤとエンジンの螺子とブレーキが一つずつ無くなった車で山の斜面を走れと云われる様なものだ。彼はもう少し、横道に逸れることを覚えた方が良い。そんな車乗り捨てて、ケーブルカーを使った方が余程賢い。きっと彼も其れは判っているというのだからややこしいのだ。私には……少しだけ、その気持ちが解かる気がしたけれど。
「自慢ではないけれど、私は誰かに怒られたことが無いんだ」
「一度もですか?」
「うん。生まれて此の方、一度も。少なくとも記憶の限り無いねえ。怒りっていいよね。方向(ベクトル)が確りしている。何となくは怒れないもの」
「何が良いものですか。双方疲れるだけですよ」
「其れが良いんじゃないか」
怒りで心身とも疲弊すると分かっていて猶、心動かさずにはいられない。怒られた側はそれ程強く想われているという事だ。故に安吾に向けた期待に、冗談は半分だけだった。
「でしたら、何か大きな失敗でもしてみては如何ですか」
「おや、珍しく失言だねえ安吾。私はミスすると身内が死んでしまうから無理だよ」
「時機を択んでに決まっているでしょう!」
「わはは、怒られたー!」
「これは所謂突っ込みという奴です」と安吾はずり落ちかけた眼鏡を持ち上げて云った。そんなの人に解釈させておけばいいのに、安吾は生真面目だ。だから太宰にいつも遊ばれるのだという台詞は喉までで留めておいた。
いや、若しかしたら其れを云う事で――と思った時、目的地の入り口に到達していた。二人で地下へと階段を降っていく。ジャズに交じって友人二人が会話している声が聞こえた。太宰の莫迦と紙一重な天才的発明に、織田作が関心しているところの様だ。
「織田作さん……今のそれ、突っ込むところですよ」
安吾がいつもの調子で口を開く。
二人が振り返った。
今日は四人で、いつもの夜を過ごせるらしい。
安吾が出張で草臥れた事。
織田作の仕事がデパアトに陳列できるような愉快さだった事。
私が撮った織田作の写真を太宰が言い値で買うと云った事。(新しいポラロイドカメラを買うのに十分な金額さえ払いかねなかった)
織田作の仕事を太宰がしたいとごねた事。
色々な事を、取り留めもなく私たちは話した。
「太宰君、他人の仕事に頸を突っ込む前に、何か趣味を持ったらどうです? 自殺未遂よりもう少し健康的な奴を」
安吾が云う。私も嬉々として首肯した。
「手始めに写真はどうだ? 先達として色々教えてやるぞ!」
「ええ~? 中花の映写機の話は長いから嫌だよ」
「なっ……太宰お前! そんな事無いだろう、織田作、安吾⁉」
「八百屋のおばあさんより短い」
「織田作さんが云うならそうなのでしょうね」
「ちょっと待ちたまえそれどういう意味だい⁉」
掴み掛らんばかりの勢いで捲し立てる私に、話題の渦中に居た筈の太宰が我存ぜぬという風に呑気な声を上げる。
「写真と云えばさあ、中花、一寸写真撮らない? 記念にさ、四人揃って。タイマーセットできたよね」
「煽てかい? 残念ながら今日は持ってきてないんだ。フィルムカメラの気分じゃなくてね」
「それなら僕持ってますよ。仕事用ですが」
「何の記念だ?」
織田作の問いに、太宰はニコニコして答えた。
「四人がここに集まった記念。あるいは安吾の出張完了祝いか、不発弾処理祝い、一日遅れだけど中花の十人長就任祝い。その他何でも」
「幹部殿の仰せの儘に」
安吾は肩を竦めて映写機を取り出した。古いが丁寧に整備されていて、良い写真を撮ってくれる“顔”をしていた。幾つか写真を手で撮った後、安吾は自身のグラスに映写機を置いて時間差で撮る設定をした。
私はそわそわと安吾の袖を引いた。落ち着かないのは写真を取られ慣れていないからではない。
「グラスに映写機を置くのは止めないか? 見てて怖いよ。傷つくぞ」
「確かに、お店の備品に傷をつける危険があるのはいけませんね」
「そうじゃない。グラスから映写機が落ちて傷なぞ付いた日には、ひと月夢枕に立って悪夢を見せてくるんだ。映写機とはそういうものだぞ。三脚は持ってきているから使ってくれ」
鞄から取り出した小型の三脚を渡すと、安吾は何とも言えない表情で数度言葉を飲み込んでから映写機の方に向かった。
そんな私たちの隣で、織田作は首を傾げて太宰に問う。
「太宰、何故急に写真なんだ。花がいつも撮っているだろう」
「中花は撮ってばかりであまり写っていないみたいだからね。今撮っておかないと、我々がこうやって集まっていたという事実を残すものが何もなくなるような気がしたんだよ。何となくね」
「――これでいいでしょう。皆さん、視線をこちらに!」
安吾がシャッター
然程距離の無い席まで大股でせかせかと戻ってきた彼は、私たちと同じ方に視線を向けた。
シャッターが切れる。
私達は誰からともなく笑みを零し、カウンターに行儀悪く肘を突いたり腕を乗せたりして再び取り留めもない話に花を咲かせようとした。
呼び出し音が鳴る。
ピタリと動きを止めた私は、直ぐに動きを取り戻すと、視線で太宰たちとマスターに詫びてから一度店を出た。周囲の気配を探ってから最短の時間で携帯電話を耳に宛がう。
それは、薄氷が割れる音に似ていた。
カメラはにわかです。(すみません)
ポラロイドカメラというのは所謂チェキという奴です。
猫可愛い……
ダチョウだけは本当に許さん。(情緒不安定)
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。