薄雪の咲く頃に   作:みーごれん

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時間軸が前後します。
分かりにくいと意見があったら訂正を入れる予定です。

主人公の異能について詳しいことは次回以降です。


第三話 広津さん

 普段から陽の光の届きにくい路地裏は、夜ともなれば人ならざる者が徘徊していても何ら不思議の無い程、闇が深く、そして独特の雰囲気を漂わせている。長距離走を終えたマラソン選手に氷水を掛けたような、熱いような寒いような心臓に良くない其処は、一般人がまず避ける場所。逆に言えば、其処にこんな時間徘徊しているのは、浅深あるが闇の世界に触れたものだという事だった。

 飲み屋前にある狸の信楽焼宜しく路地に馴染んだ廃材や塵箱を擦り抜けながら、私は足音も立てずに銃を構えて走っていた。目の前に“標的”が現れた時、即座に反応できるよう神経を研ぎ澄ます。

 何かを蹴り飛ばした音、続いて銃声。

 其方に進行方向を変える。

 音が近づいてきた事で、私は私がすべきことを理解した。

 標的が飛び出す。

 私は安全装置を即座に解除し、右手の銃で二発撃った。

 標的の腿に着弾。前のめりに倒れたそいつの背を踏みつけ、後頭部を銃の銃把(グリップ)で思い切り殴った。沈黙。

 私は標的を踏みつけた儘、トランシーバの発信用スイッチを押した。

 

「捕まえた。三丁目の古本屋裏手だ。人手を頼む」

 

 星の見えない、静かな夜だった。

 

 

 

 

 

 住宅街からほど遠い此処は、様々な企業向けの貸倉庫だ。直接人が出入りすることは殆ど無い、置いておくだけのものが多く、数年来引き取られていない内容物などがある灰色の地帯。

 その一角の、会議室ほどもある広いスペースに私は居た。中心には先程殴って昏倒させた男を椅子に縛り付けてある。

 私の他にも数名、見知った顔が立っているが、座って休んだり近況を報告して談笑するような雰囲気ではなかった。皆一様に、仙人掌のように棘々した空気で空間に直立している。

 乾いた靴音が響いた。一瞬間身を固くした私たちは、その普段より足早の、しかし聞き慣れた歩き方に緊張の仕方を切り替える。

 

「…………広津さん。お疲れ様です」

 

 彼の姿を見て、一斉に頭を下げる。

 背広に黒外套を着こなし、モノクルを掛けて白手袋を嵌めた老紳士然とした男性。私の直属の上司である、遊撃部隊百人長の広津柳浪だ。丁寧に整えられた白髪は心なしか乱れており、普段から好んで吸っている葉巻はその手に無い。

 

「皆、楽にし給え。状況報告を」

「はい。やはり連絡通り、奴は麻薬に手を出していたようです。仲介人との取引を押さえようとしたところ、発砲。仲介人が死亡しました。捕縛の際抵抗されましたので脚を撃って昏倒させ、此処まで連れてきました。捕縛は田中が」

 

 私の隣の同僚が報告した。ちらと広津さんの視線が私に向いたので、小さく会釈する。

 

「幸い、大きな組織との繋がりはありませんでした。遺体の処理だけで事態を収められるかと」

 

 広津さんはゆっくりと瞬きし、淡々と云った。

 

「死体を一つ処理するよう掃除屋を呼べ。それから口の堅い医者に連絡を」

「――お言葉ですが」

 

 私は彼の指示に食い気味に言葉を乗せた。彼は私が何を言おうとしているかを理解した顔で、それでも何も言わず私を待った。

 

「掃除屋への連絡は二つで、医者への連絡は不要でしょう、広津さん」

 

 視線を彼に向けた儘、意識を椅子に縛られた元同僚に向ける。

 ポートマフィアは裏組織の中でも主に暴力を金にする組織だ。縄張り内の用心棒代に始まり、密輸入武器の売買、臓器売買と云った市場の統制などもそうだ。

 しかし、組織の暗黙の規約として手を出してはならない収入源が幾つかある。その一つが麻薬だ。理由は単純。ハイリスクだから。合理性を追求する現首領よりずっと以前から、その危うさ故に禁忌とされてきた。唯でさえ組織犯罪を軍警に、異能組織として異能特務化に目を付けられているのに加え、麻薬取り締まりに引っ掛かったと知られれば、政府は色めき立ってポートマフィアを潰しにかかるだろう。幾ら暴力を得意とするポートマフィアと云えど、国を相手にしては勝ち目がない。

 其れと分かって手を出したなら、椅子に縛ったものも処分してしまうべきだ。一度甘美な蜜を嘗めた者はその味を忘れはしない。本人もまた薬物中毒となれば猶更だ。

 

「――命令に変更はない」

 

 硬い声で彼は答えた。同僚が電話を操作し、私は判りましたとだけ云って只立っていた。

 広津さんが縛られた男の方へ向かう。私もそれに続いた。

 男は、意識を取り戻しつつあるようだった。時々びくりと体を跳ねさせては何事か呻き、閑になることを繰り返す。その間隔がもう殆ど無くなったと思った時だった。いきなり男は、縛り付けられた椅子ごと倒れこんだ。腹に響く音と共に、聞き慣れた軽い金属音がした。それにその場の全員が表情を固めて注視し、戦闘態勢に移る。

 よく見ずとも、男が転がった先に拳銃が一丁転がっているのが分かる。奇声を上げる男が身体を僅かに捻ればこの場の半数が射程圏内の状態だ。

 銃口が広津さんに向く。私は咄嗟に彼の前に出て銃を構え、頭を狙った。

 

 発砲音。

 

 私の銃弾は、広津さんが銃身を片手で押さえたことで銃口が下がり、あらぬ方向へ跳弾した。

 男の銃弾は広津さんの手に当たると真反対に動き、自身を発射した銃を弾いた。

 周りの全員が緊張した面持ちで各々の銃を構えているが、撃てなかった。男のすぐそばに広津さんと私が居たからだ。

 本来痛いほどの沈黙が満たす其処には、麻薬中毒の男の奇声が耳障りに木霊していた。

 男の拳銃を拾い上げた広津さんは、ハンドサインで部下たちに警戒態勢を解かせ、真っ直ぐに私を見た。

 

「もう一度武装が無いか確認しろ。必要とあらば拘束具を使用しても構わん。田中君は私と来なさい。以上だ」

 

 

 

 

 

 

 ルパンを一時退出して取った電話は、同僚の不始末を知らせるものだった。本部はおろか、遊撃隊の他部隊に知られるわけにはいかない極秘裏の内容。

 ――あの男を捕まえろ。

 そう聞いた時、私は広津さんが何を意図したかを理解した。

 理解したうえで、私は……

 

 慌しく流し込んだ蜜柑果汁の甘さは疾うに口から消えていた。代わりに喉の奥から苦いような辛いような味がする気がした。

 私を連れ立って歩いていた広津さんが立ち止まる。彼は周囲に人が居ないことを確認すると、私の方へ振り返った。表情は何処か硬い。

 

「何か私に言うことがあるな」

「申し訳ありません」

「何に対しての謝罪かね」

()()()()()()()。以降は広津さんに御迷惑の掛からぬよう努めます」

 

 逃走した男を捕まえたのは私。拘束したのも私。運んだのは人手を借りたけれど、連れて行くよう指示を出したのも私。

 当然、何をしでかすか分からない状態の男を武装解除しておくのは私の役割だ。だが、男は銃を隠し持っていた。隠しナイフや、どこぞのスパイが持つような葉巻型小銃(シガレット・ガン)を持っていたならまだしも、男が手に取ることが出来たものは私たちが普段から使用する拳銃だった。()()()()()()()()()()()()()見逃しようがない大きさだ。

 広津さんの指示は確保。処刑ではない。それは組織の方針に反するもので、露見すれば広津さんまで危険な立場になりかねない。彼の気持ちも解かる。部下を大切にする人で、だからこそ部下からも慕われる人望の篤い人なのだ。けれどあの男はその思いを無下にした。その為に人を殺め、仲間を危険に晒した。そんなもの、放置できるわけはない。

 男が発砲しようとしたため已む無く射殺となれば広津さんの罪悪感も軽くなるだろうと思ったが、早計だった。私程度の考えはお見通しだ。

 

「……否、私が気を遣わせてしまったのだな」

「いいえ……いいえ、それは違います! 私が独断で命令違反したに過ぎません。処罰は何なりとお申し付けください」

「これは非公式下の作戦だ。故に処罰など元々ありはしない。……怪我がなくて良かった」

 

 広津さんは表情を柔らめてそっと手を伸ばした。数瞬私の頭を撫でようと彷徨った後、肩を二三叩くのみに留まる。

 

「十人長、か。あの時の子供が立派になったものだ」

太宰(同期)と比べると些かのんびりした出世でしょうか」

「ふ、比べる相手を間違えているな」

 

 ――ほらね、安吾。

 

 後の指揮の為、戻りながら私は広津さんの背を視線で追う。

 私と一番長く時を過ごした人は、私を骨董時計や硝子細工のように扱う。

 私を拾った日から、彼は――広津さんはきっと、私との距離を測りかねているのだ。

 私も、きっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 “其れ”は比較的裕福な家に生まれた。

 五体満足で健康な、裕福な両親と、才気溢れた兄姉と、其れがその家の住人であった。父は長男を後継ぎとして頻繁に連れ出し、徹底的な教育を施し、何不自由無く育てた。母は長女をその家の淑女として厳しく、しかし気品を損なわぬよう躾けた。子供たちは愛されていた。

 其れは唯其処に在った。両親とは確かに血が繋がっていた。しかし彼らはそれを認めなかった。自分達の子がこんな平凡な、見目容、頭脳、才である筈がないと信じて疑わなかったのである。長男長女たちの絞り粕である其れは、その家に在って無い存在として扱われた。子を捨てたという醜聞だけを畏れて其れは家に置かれていた。それでも、貧民街では浮浪者が闊歩し孤児院に子供が溢れ返る外界に放り出されるよりは幾分か幸福だと言えたのかもしれない。名も呼ばれず、気にも掛けられず、視界にすら入れられない家で、其れは日々を過ごしていた。

 

 深海の底の様に何もない日々が終わったのは唐突だった。

 ある日、家のメイドの一人が悲鳴を上げた。玄関の方だった。直後、台風の日に雨粒が窓を打つような軽い音がバラバラと聞こえ、先程のメイドが此れでもかという程けたたましい声で叫び、狂ったかのように何事か言った後静かになった。

 其れは家の捨て置かれた本が並ぶ部屋で音を聴いていた。しかし、家の者が其れに無関心だったように其れもまたメイドに起きたことに無関心であった。或いは何事か想う所は在ったのかもしれない。しかしいつもの通り其れが動く事は無かった。動く意味が無いからだ。自分が出向いても、自分は他の者にとって其処には居ない。だから無為。

 悲鳴で顔を僅かに上げていた其れは手元に視線を戻した。抱えていた本を読み進める為である。とはいえ初等教育の序盤で両親はそれの教育に見切りをつけてしまっていたから、平仮名と幾つかの漢字を目で追って、挿絵を見るという行為で読書としていた。そうする以外の方法を其れは知らず、故に苦痛や悔しさと言ったものは無かった。

 幾分か経った。相も変わらずパラパラとした音と悲鳴が定期的に響いていたが、其れが読書を止めたのはそう言った音が集中を切ったからではなかった。もっと単純で、生理的な欲求に駆り立てられたからだ。其れの腹部が蟾蜍(ひきがえる)のように低い音を立てた。詰まる所、空腹になったのである。

 戸を開き、食堂へ向かう。とはいえ其れは食堂で食べるわけではなく、その奥に在る厨房で何か手近にある物を拾って口に入れることで日々を凌いでいた。決まった時間に用意が為されているわけではないが、人間の身体とは不思議なもので、時間に拘束されなければされない程規則的に体が欲求を満たそうとするものなのである。従って其れは全くいつも通りの時間に食堂の戸を開いた。

 大勢の人間が中に居た。通常なら両親や兄姉が食事をする為に長机があり、その上にテーブルクロスや、燭台や、食器があって、花瓶に花が生けられている。いかにも上流階級らしい洗練された光景は、その日見る影もなかった。無事な皿や花瓶を探す方が難しい程、食堂は荒らされ、乱され、破壊されている。敷かれた絨毯に幾つも染みが出来ており、広い部屋の中央に両親と兄姉が居て、周りをぐるりと見知らぬ黒服が取り囲んでいる。彼らをメインディッシュのようにして、その周りに散る野菜の如くメイドや執事、使用人たちが転がっていた。

 彼らは其れが戸を開いた瞬間に視線を向けてきたが、何年もこの家で過ごしてきた弊害か、其れは全く彼らの視線を気にも留めず厨房の方へトタトタと歩き出した。自身が誰かの気を留める事があるという発想すら無かった為だ。従って黒服の一人が其れの頭に固いものを当てて何事か言った時、理解できず数瞬黒服を見、また動き出した。何か言っているなと、その程度の認識しかできなかったからだ。

 而して其れは脚を撃たれた。制止の声を無視した相手を素通りさせるほど温い相手ではなかった。痛くて熱くて、信じられない衝撃で脳が溶け出てしまうのではないかと思った。其れは家族に無視されこそすれ、暴力の類は受けたことが無かった。刺激というものから縁の遠い所にふわふわと浮かんでいたのだ。そんな其れに銃弾の痛みは地獄と評するのさえ生温い苦痛であった。其れの情動が初めて大きく振り切れた瞬間であり、同時に内なる力が蠢きだした瞬間でもあった。

 其れは脚の痛みが消えたのに気付いて動きを止めた。呆然と愕然と漫然と頭が状況を処理しながらほっと息を吐いたのも束の間、再度同じ個所を撃ち抜かれる。

 当時の其れが知る由もないが、発現した異能によって苦痛が生じる前まで無自覚に時間を遡っていた為だ。其れは同じように苦痛から逃れることを願い、解決できぬまま同じことを繰り返した。当人が何度繰り返したか分からぬ程――それこそ諦めて素直に怪我をした方が余程楽だったと言える回数――其れは何時間にも思える苦痛を受け続けた。脳が痛覚に痺れ、普段使う事の少なかった知能と運動能力に力を割きだしたことで状況が変わる。

 心算(つまり)初めて未来を変えることに成功する。当然とはいえ狂ったように同じ個所へ銃弾を撃ち続けていた黒服の弾線上から足を除くと、痛みが訪れることは無くなった。

 そして、其れの瞳は再び銃口が自分に向くのを捉えた。腕から血飛沫が舞う。しかしここまで来た段階で、其れは自身の内包するナニカの使い方を直感的に理解していた。だから、その弾丸は、もう()()()()()

 当たらない、当たらない、当たらない。

 ここに来て漸く黒服は異変に気付いたらしかった。偶然ではないのだと。黒服の狙いが悪いわけでは無かったのだと。正確に言うならば、黒服の上司である男が其れの持つ力を知っていたのである。何故ならば彼もまた、同種にして異質の異能力を有する男であったからだ。

 男は部下を止め、其れに近づいて鷹揚に問いを発した。生きたいかというようなことを問われたと思う。しかし其れは生きたかったわけではなかった。かといって死にたいわけでもなかった。苦痛さえ無ければそれで良かった。しかし其れは思ったことを伝える手段を持ち合わせていなかった。数年来会話すら真面にしなかった其れの喉は完全に退化しており、声すら真面に出すことが叶わない躰であったからだ。声ならぬ声で何事か言おうとした其れを見降ろしていた男は、フムと一息ついて其れの前に両手を差し出し、云った。

 

『ならばこうしよう。そこな貴様の家族と貴様の命、どちらかだけ見逃すとしたらどうするか。家族の命を取るならば私の右手を、自身の命を取るなら左手を取りなさい』

 

 黒服が自分に向けていた銃口が、向こうに居る両親たちに向けられている。ちらと視線を向けると、其れに向かって何事か喚き散らしているらしかった。自分に向かって物を云う彼らは本当に久しぶりで、懐かしいと其れは思った。

 視線を遮るように、男の手が翳される。白く清潔な手袋を嵌めた、自分なぞが触るのを憚られるものである。そうか問の途中であったと其れは呆ッと思い出した。男は其れの瞳を真っ直ぐに見つめていた。目は口程に物を言うとはよく云ったものだ。男は其れに興味はあっても情など無い。だから其れは男に対する興味を失った。何方に耳を傾けても意味はない。何方でも良かった。生死は其れの識るところではなかった。従って、父親が云う通り男の右手を取ろうと手を伸ばしたのも、年に似合わぬ諦観に他ならなかった。

 手は伸ばした。しかし其れが男の手を取ることは終ぞ無かった。其れの精神は度重なる異能力の行使で疲弊しきっており、空腹もあって、意識を保つ事すら儘ならなかったのだ。暗転した視界の隅で、黒服たちが銃を構え直すのが見えた――――

 

 

 

 

 

 目を覚ました時、其れは瞠目した。見知った景色が一つも無かったからだ。家から出ることも無くその日まで過ごしてきた其れにとって其処は、破壊され、死体が転がる自身の家にいるより余程足の竦む場所であった。景色だけではない。識らない匂い、識らない音、識らない物――今まで認識すらした事の無いもの達を理解し表現することは其れにはできなかった。辛うじて自分が白く清潔な寝台に寝かされていた事だけは分かった。ただ、それだけだった。

 どれ程時間が経った頃だったか。部屋の奥の扉が開いた。大きく肩を跳ねさせた其れはシーツに包ることも隠れることも悲鳴を上げることも出来ずに全身を硬直させた。人形のように微動だにしないそれを一目見た男――とはいえ気を失う前のとは違ってもっとひょろひょろしている――は人当たりのよさそうな、それでいて腹の底を探らせないような微笑を以って其れに向き合った。

 

今日(こんにち)は。先ずは腹ごしらえといこうか』

 

 そういえば疾うに食事の時間を過ぎている。されど其れの腹はうんともすんとも云わなかった。倒れる前はあれ程空腹で痛いくらいだったのに不思議な事だ。

 首を傾げていた其れの頭上から、先程の男が声を掛けた。同時にふわりと鼻腔を突く匂いで、思い出したように其れの腹が喚きだした。何が面白いのか男はクスクス笑うと、皿に入った料理を差し出した。其れにとってそんな事は本当に久しぶりだった。料理が自分に出されるという事。温かいものが自分の為に取り分けられるということ。そして何より、他人が自分を認識している事。

 驚いて、頷いて、皿に手を伸ばした。途端腕を掴まれて困惑する其れに、男もまた多少の困惑を顔に湛えて「成程、先は長そうだねえ」と呟いていた。其れに対して話したわけではなかったのだろう。硬直する其れの手をそっと戻させると、皿に付属した杓で皿の中身を掬って、彼の吐息で幾度か吹いてから其れの口元へ運んだ。

 粥というその料理は、とても美味しかった。

 

 

 

 

 食事を終えると、男は其れの体を触ったり見たり、時々可否で応えられる質問をしたりした。

 それは呆然と室内を見ながら為されるがままになっていた。

 暫くして、部屋の戸が開く。現れたのは、昨日の白髪交じりの男だ。二人は幾つか会話をして、其れの方へ視線を向けた。

 白髪の男は其れの前で膝を突き、態々目線を合わせた。

 そんな事をされたのは初めてで、其れは少し、身体を後ろにそらす。

 男が口を開く。

 

「貴様の家族は皆死んだ。故に貴様を縛るものはもう存在しない。新たな名を名乗り、新たな人生を生きるのだ。何か好きな名は在るかね」

 

 目が覚めてから余った時間で其れはある程度現状を予想していた。其れにとってあの家でできた事は生きることと本を読むことであったから、想像すると云う一点において其れは人並み以上に聡かったのだ。故に其れは、まあそういうものだろうと実にあっさり現実を受け入れ、また、言葉に何か思い入れがあるわけでも無かったから男の問いに首を横に振って応えた。

 

「では新たに――」

 

 首を再び横に振る。

 反射といっても差し支えの無い反応だった。

 

「その名が良いのかね。貴様を捨てた者達が付けた名だ」

 

 男が念押しする。其れにとって、“名”と呼べるものは一つしかなかった。長らく呼ばれていなかったその言葉は、もう呼ぶものが居なくとも其れにとって唯一懐かしいと云えるものだった。他の言葉を其れとして認識できるか、其れには自信が無かった。

 応と初めて其れは首肯した。

 

「…………そうか。ならば花。これからの話をしよう」

 

 その時の衝撃が解るだろうか。

 

 その瞬間に、其れは私になった。

 

 彼は自らを広津と名乗った。

 私は彼に、人間にしてもらった。

 唯其処に在る何かではなく、田中花という一人の存在として、生まれて初めて認めてもらったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 星の無い夜だ。

 こうも空が暗いと、星々が地上に落ちてきたのではないかとさえ思える。

 頬を仄かな風が撫でていた。そのお陰か、隣で広津さんの吸う葉巻の匂いが届かない。

 煙草は苦手だ。けれど、私が大切だと思う人たちは好んでその円筒に火を燈す。

 

「ありがとうございました」

 

 不意に私は云った。

 広津さんは頬張っていた煙を吐き出し、葉巻を指で挟んだ。立ち昇る煙がふわふわと踊っている。

 

「突然、あんな高価なもの……凄く、嬉しいです」

「田中君は中々甘え下手だ。偶には大人に頼るのも良かろう」

 

 彼は二人きりの時、私を子供扱いする。其れが私にはこそばゆくて顔を伏せた。

 

 ――――…………

 織田作と別れてから、私はぶらぶらと午後を歩き潰していた。矢張りこういう時手元に映写機(カメラ)が無いのが妙に頼りなく思えて、結局足が勝手に映写機の陳列棚に向いた。昨日と同じ店の出窓には、昨日と同じ機種の、昨日と同じものが陽光に照らされている。値段を横目で見て、嘆息する。

 ――とてもとても、買える値段ではない。

 それでも既に持っている映写機よりずっと価格は控えめなのだが、昨日の今日で購入する様なものではなかった。ここは、意匠と機能が三番目に気に入ったものを買う事にした方が良さそうだ。

 ここで一旦帰宅してフィルムカメラを取ってくるという選択肢を排除してしまう位には、ポラロイドカメラという存在がいまだ私にとって未練の残るものであったという事だった。

 

「――これが欲しいのかね?」

「はい。でも手持ちが無いから仕方ありません」

「ならば少し待っていなさい」

「…………え?」

 

 話しかけられていたことに数秒してから気が付いた。それほど私は眼前に気を取られていたのだ。

 

「…………え、ええ⁉ ちょっと、待って」

 

 店の戸が閉まる。客の来店を鐘の音が教えていた。私も続いて入ろうとして、足が動かないことに気付く。はッと思い出す。親よりもよく聴いた声の主。彼に待てと云われたのだと。益々待っていられなくなった私は、必死の思いで戸を開いた。果して彼は其処に居た。

 

「広津さん⁉ 何故此処に? いえ、それより私、別の映写機を買いますから!」

「だが此れが良いのだろう?」

「でも! あの、後でお金を」

 

 広津さんがぴんと人差し指を立てて口元に当てる。片目を閉じて薄い笑みを浮かべる老紳士は、新旧様々な商品を取り揃えるこの店で纏う空気が違っていた。

 確かに冷静さを欠いて騒ぐのは良くなかった。しかし、幾らなんでも個人の道楽にお金を出してもらうのは気が引けた。

 かといって厚意でしてくださったことをこれ以上跳ねのけるのは失礼だ。

 私は口を噤むと、子供のように所在無さげに立っていた。

 

「代わりと云っては何だが、田中君。私の写真を其れで撮っては呉れないかね」

 

 簡易包装に包まれた映写機を差し出しながら彼は云った。「人物写真が得意だと聞いた」と微笑んで。誰からどのように聞いたのだろうか。本当にこれは趣味で、自己満足に過ぎないのだけれど。

 しどろもどろしながら、けれど最早慣れた手順で準備を終え、私はシャッターを切った。

 すぐさま吐き出された写真に広津さんは感心し、微笑んだ。懐に写真を仕舞うと、代わりに懐中時計を取り出す。仕事の時間だと彼は肩を竦めた。

 

「良い休日を」

 

 片手を上げて去っていく広津さんに、私は返事をすることしかできなかった。全てがあっという間の出来事で、暫くしてから感謝の言葉を伝えていないことに気が付いたのだった。

 …………――――

 

 鞄の中には、ポラロイドカメラが入ったままだ。タイマー機能が無いためルパンでは出せなかった。

 

「君は昔からあまり物を欲さない性質だとばかり思っていた」

「ある意味その通りですよ。私は人から貰うなら自分で手に入れておく方です」

「何故かね?」

 

 私は答を躊躇った。

 決して贈答品の類を嫌悪しているわけではない。面映いが素直に好ましいと思う。けれど、貰うならば食料などと云った形の残らないものの方が気が楽だった。

 貰い物は使い辛いとか捨てにくいといった心情に似ていた。

 

「……私が死んだとき、貰ったものが誰か別の人に使われたり捨てられたりするのは嫌なので。だから広津さん」

 

 私は広津さんから視線を外した。目の端で彼の葉巻の灰が落ちるのが見えた。

 

「――私に何かあったら、どうかこの映写機も同じところで処理してくださいね」

 

 広津さんは、善処するとだけ答えた。遺体の処理に関して、私たち構成員が決められることは殆ど無い。状況に応じてお上から事故死や行方不明などに見せかけたり、死そのものを隠蔽したりという指示が降り、それに応じて粛々と対応するしかない。そして身元やマフィアとの繋がりを示すものは徹底的に取り除かれるのが基本だ。それ故に映写機というのは、ポラロイドとは云え非常に微妙な物品なのだった。

 私は今度こそきちんと感謝して、持ち場へ向かった。

 今日は例の同僚の為、交代で監禁部屋と周囲の警戒を行わねばならない。睡眠はまだ先の話になりそうだった。

 

 

 

 

 




広津さんみたいなカッコいい大人になりたい。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました!
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