第三話過去話の広津さん視点です。
いつも通りの仕事――の、筈だった。
敵対する闇組織の重役をその名ごと滅し去る等よくある事だ。女子供に至るまで、標的に関わった者を血祭りにあげる簡単な仕事。
広津が属するポートマフィアに比すれば、武装も何もあったものではない。弱者であるにも拘らず強者に喧嘩を売った愚者は表裏の世界で消える宿業であった。屋敷に入り、最初に発見したメイドから順に見つけ次第射殺していく。自身の異能を使う迄も無い。何の手応えも無い儘標的の男とその妻、二人の子供を追い詰めることが出来た。調べによればあと一人子供が居た筈だが、逃げたにしても見つかるのは時間の問題だろう。
一先ず最優先で片づける物を片付けることにしよう、と指示を出そうとした時だった。ノブを回す音が背後からして、標的に目もくれず振り返ってしまった。何せ気配らしい気配を察知できなかったからだ。もし扉の向こうの相手が殺意を持ち、尚且つ重火器の類を持っていれば形勢が一気に傾いても可笑しくは無かったのである。
入ってきたのは、あまりにもこの家にそぐわない、みすぼらしい襤褸に身を包んだ子供だった。孤児が紛れ込んだと言われても違和感が無い程、背後の標的たちとその子供の身なりは隔たっていた。後ろで男が「 」と呟いたのが嫌に大きく聞こえるほどの沈黙で室内は満たされている。大人ですらたじろぐ静謐の中、子供は視線をこちらから別の扉へ向けるとそちらへ一直線に歩き出した。何も見ていないとでも言うように。
部下の一人が拳銃を子供の蟀谷に当て、止まるようドスの利いた声で警告を促す。すると数瞬動きを止めていたが、またも聞こえていなかったように足を動かしだした。耳が聞こえていないわけではないのだろう。肝が据わっているのか、将又状況が理解できていないのか。
兎も角も、子供とはいえ、部下の言葉を無視したことには変わりなかった。従って、気の長い方ではない部下が私の確認を取る前に発砲することも、そのせいで子供が泣き喚くか最悪死ぬことも容易に想像できた。果して部下は発砲した。しかしその先は予想通りとはいかなかった。子供の脚に向かって放たれた弾丸はその薄い肉を抉り取ることなく床に跡を残した。一
部下に命じて下がらせ、子供を見降ろす。小汚いが至って平凡な、
「そうまでして何に縋っているというのかね」
或いは問であり、或いは呟きであった。子供の方は何か言おうとしているようだったが、言葉にならない声を発するだけで真面に会話できる様子ではなかった。其れが生来のものか後天的なものか彼には判断がつかない。
私的な感傷を振り払った広津は、自身の任務について反芻していた。つまり、処分すべきものは何かと。最優先は敵組織の幹部格である男、次点でその後継、そして妻と女児だ。そして
そうか。この子供は彼らの掃溜めであったのだと。
人は他人を見ることで自身というものを識る。比較することで自身を理解する。そして人は欲深い生き物だ。人より優位でありたい、勝者でありたいと際限無く思ってしまう。其れが悪だとか論ずる資格を広津は有していない。しかしこれ程幼い子供に其れを求め、卑下し、何も与えず、唯己等の自己満足の為だけに生かされていた子供に対し何も思う所が無いとは言えなかった。
「ならばこうしよう。そこな貴様の家族と貴様の命、どちらかだけ見逃すとしたらどうするか。家族の命を取るならば私の右手を、自身の命を取るなら左手を取りなさい」
ふと思い立ってそんな事を口走った。
考えれば、この子供の存在は貴重だ。戦後間もないこの時期、有用な人材はいくらあっても足りない。ポートマフィアに於いて銃弾を全て躱す事のできる異能となれば重宝されるだろう。その結果今より地獄を見ることになるかもしれないが、其れを判断することが出来るのは子供以外に有り得ない。
右手を――家族を即座に取るようなら、子供も殺さねばならなかった。少なくとも父親は確実に仕留めなければならないのであるから、下手に恨みでも持たれて敵組織に行かれると厄介だ。とはいえ左手を――自身の命を最優先にすれば、多少なりとも家族への罪悪感をその心に刻むことになるだろう。我ながら残忍な事をする、と広津は自嘲気味に笑った。
白い手袋を嵌めた手を差し出す。
子供は呆然と広津の手袋を眺めていた。先程自分の言葉に反応を示していたから、言葉が分からないというわけではないのだろう。いや、どうだろうか。究極とも言える二者択一を迫られた時も、子供の瞳は凪いでいた。一切の動揺も無く、閑に広津を覗き込んでいた。幼いとはいえ、命令も通らぬ者はポートマフィアが受け付けない。後五年、いや二年もあれば結果は違っていたかもしれないと広津が目を細め、手を引こうとした時だった。背後が俄かに騒がしくなった。後ろで子供の家族たちが喚きだしたのだ。何をしている、右手を取れと。今まで育ててやった恩を忘れたかと。
――――そんなもの忘れてしまえ。
広津は子供の視線――家族の方へ向いている――を遮る様に両手を翳した。その瞳は純粋であるが故に真実だけを反射する。彼らの醜さを、卑しさを、愚かさを、一秒たりともその網膜に映させたくはなかった。どうせ奪う命であるが、せめてそれくらいの救いはあっても良いだろう。
不意に子供がこちらを見つめ返した。双眸に、思わず息を呑む。其処には広津自身が映っていた。当然の事だ。当然の事ではあるがしかし、子供の眼球が、瞼が、眉が、口元が、人形よりも魂の無い表情でこちらに向いていたのだ。曲面の大きい硝子を覗き込んでいるような様相だった。
ポーカーフェイスなのではない。心を殺しているのでもない。親から死ねと言われたことに対する悲哀も、死への恐怖も、存在への義憤も無い。全ての思考、選択、希望――つまり人間としての尊厳――から降りた気配がした。
子供の右手が、広津の右手に伸びる。腕や手首、指先が異様に細い。碌に食事もとらず、外にも出ず、居ないように扱われ、尚もそんな者達の願いを聞くというのか。
手を取るな、と広津は願った。こんなものを見るくらいなら問など発さず諸共処理してしまえば良かったと悔いた。それでも広津は動けなかった。食い入るように子供の指先を追った。
指先の筋肉が痙攣すれば触れてしまえるほど二人の手が接近する。だが、終ぞその手は届かなかった。子供の手が広津の手の下方に逸れ、ほぼ同時に小さな体が前のめりに倒れこむ。思わずしゃがみ込んで細い体を受け止めると、どうやら子供は気を失っているらしい。酷く消耗した様子だ。自身も若い頃、異能の乱用で似たような状況になったことを思い出す。ほうと溜息を吐いた広津は、骨董の花瓶でも扱うように丁寧な仕草で子供を抱えた。花瓶の方が重いのではと思えるほど軽く、頼りない身体つきだった。
「……始め給え」
広津の一声で室内が昼間の様に明るくなった。機関銃の零す鮮烈な光が幾度も幾度も燈される。それは宛ら線香花火の第三段階、松葉のようだった。広津のモノクルが橙色に染まる。子守歌にしては荒々しく醜悪な音――火薬が爆ぜ、肉が飛び散り、骨が砕け、体液が撒き散らされる音――が辺りを包んでいたが、広津の腕の中の子供は寝息も立てず泥の様に眠っていた。
但し、この子供ならば意識があっても眼前の光景に顔色一つ変えなかっただろうと、密かに広津は思った。明確な理由は無い。ただ、今の広津のような表情は決してしないという事だけは火を見るより明らかだった。
薄暗い路地の先に其処はある。二階建ての古びた建物の戸を潜ると、独特な臭いが鼻を突いた。いつもここには血と消毒液と死の臭いが立ち込めている。理由は単純で、此処が医者の診療所だからだ。但し非合法の、所謂闇医者という奴で、腕が良いし口も堅いので様々な――表沙汰には出来ない怪我人を抱えている――組織がその医者を頼っていた。建物の奥へ奥へ進み、深緑色の扉の前で彼は立ち止まる。続いてノックを三回。名乗ると、「はあい、どうぞそのままお入りください」と気の抜けたいつもの調子で返答があった。
再度声を掛けて取手を捻り入室すると、あの日連れ帰った子供が半裸の状態で寝台の前に立たされ、件の医者があちこちを触診しているところであった。掛ける言葉に困っていると、医者の方がにこやかに振り返るなり口を開く。
「お早うございます、広津さん。時間丁度ですね」
「朝早くに申し訳ない、森
一昨日夕暮れ時に森先生こと森鴎外の診療所へ広津は足を運んだ。拾い物である子供を診察してもらうためである。時間が時間だったため子供を預けたはいいが、翌日になっても目を覚まさなかった事には多少焦燥した。疲労が溜まればそんな事もあると朗らかに言った森を信じ今朝、何事もなかったように起き上がっていたことにそっと胸を撫で下ろす。当の子供はと言うと、入室してきた広津にも身体中を触る森にも焦点を合わせず、ぼんやりと虚空を見遣っていた。
「多少の栄養失調とクル病気味ですが、きちんと栄養を取って外で日光を浴び、運動すれば問題有りませんな。声は声帯が長く使われていないせいで美味く言葉にならないだけですから、時間を掛ければ不自由なく話せるようになります」
「そうですか。……ありがとうございます」
「いえいえ、これが仕事ですから。しかし広津さん、この子を如何する御積りで? 真逆、紫の上にでもなさるのですかな」
「御冗談を」
互いにクツクツと笑んで、ふうと息を吐いた。深く追求しないが、森も分かっているのだろう。今診た子供が――それも少女が、何処までも深く暗い闇の中へ足を踏み入れようとしていることに。
生きるために手を汚し続けてきた二人には、その少女は余りに純粋だった。清濁の区別もつかない少女が闇に染まるのにそう時間を要しないことが分かるだけに、広津の表情も浮かない。
重くなる空気を払拭するように森が「そうだ」と思い出したように両手を打った。くるりと首だけを回して少女を見、それ程トーンを落とさぬまま言葉を繋ぐ。
「彼女はどうやら、他人に心を表現する術を忘れているようです」
心当たりはあった。出会って此の方、少女が感情を揺らすところを見た事が無かった。訓練されたわけでもないのに終始眉一つ動かさない様は、驚嘆よりも不気味さを感じさせた。
「これは時間薬でもどうなるかは分かりません。完全に心を失ってしまっているのか、蓋をしてしまっているだけなのかは判断しかねます。兎にも角にも積極的に接してあげて下さい」
例えば、と森は一拍区切って、内心を悟らせぬ笑みを広津に向けた。
――名前を呼ぶなど良いでしょうな。
言われてみてハタと気付いた。そういえば少女の名を森に告げていなかった。診察に支障はなかっただろうが、少なくない時間面倒を見てもらったのだ。森に名を教えるのが道理というものだろう。書類上は疾うに死んだ者の名だ。知ったところで森がどうこうするとも思えない。
しかし広津には、その名を口にするのが憚られた。“あの”両親が付け、呼び、殺した忌み名。少女がどう思うのか。……きっとどうとも思わないだろう。それでも。
虚空を見つめる少女の側に片膝を突いた。
「貴様の家族は皆死んだ。故に貴様を縛るものはもう存在しない。新たな名を名乗り、新たな人生を生きるのだ。何か好きな名は在るかね」
否、と彼女は首を振る。
「では新たに――」
再び否、と。
「その名が良いのかね。貴様を捨てた者達が付けた名だ」
応と初めて少女は首肯した。彼女が意思を見せた最初の瞬間であった。
「…………そうか。ならば花。これからの話をしよう」
広津はそっと
人形のように白く透けた花の肌の上を、一筋の雫が彩った。
無色でありながら、それはきらきらと陽光を孕んで輝いていた。