主人公の事が地の文で田中と書いてあったら太宰か敦視点です。
”一度目”
四年半後のヨコハマ
それは、いつもの店で包帯の補充が完了した頃合いだった。
機械音が
「やァ、もしもし国木~田君? こんな休日に君が電話など珍しいねぇ。どうしたのかな?」
“たった一日会わないだけで私が恋しくなったかい?”とでも揶揄えば、受話器を耳から数十
『久しいね、太宰』
女の声だった。
「……国木田君の声真似は達人級だね」
冗談めかして返したが、何とか声に感情を出さずに済んだ。電話越しの声には覚えがあった。忘れたくても忘れられない、過去を掘り返す様な。顔を思い出しそうになって頭を振る。彼女の顔を思い出すと、あの時の事を思い出すからだ。断じて思い出したくないというわけじゃない。それが今じゃないというだけで。
冷や汗が頬を伝う。もし、彼女が。彼女が此の電話を使っている理由が――
受話器から笑みが聞こえる。失笑という奴だ。過去、彼女はよくこんな笑い方をした。基本ポーカーフェイスで表情を崩さず、笑う時は出来るだけ抑えて。それでも籠れた笑みが弾ける様に音となった。
「…………中花、なのか」
『やァ、覚えていてくれたのか。とうに忘れたものかと思っていたよ』
「…………」
『置いて行かれて寂しかったよ、太宰』
「それは」
『電話越しなんて無粋な事は止めようじゃないか。
「待っ――――」
電子音が規則的に鳴り、通話が終了された事を知る。鼓動が響く。抱えていた包帯を放り出し、太宰は探偵社の方へ駆け出した。
生来人並みそこそこの身体能力しかない太宰は、それ程足が速くないし息も続かない。それでも走らねばならぬことを彼は知っていた。
田中花。電話越しに語らった女性。古い同僚であり、彼女に関して言えば完全に自分が裏切った、そして恨みを自分に抱えているだろう人物。何より、百戦錬磨の武装探偵社員を一瞬で無力化、いや蹂躙することのできる腕利きだ。そんな彼女が、国木田の電話を使って自分に接触してきた。それがどういう意味を持つのか。
揺れる視界の中で携帯を操作する。国木田の電話は田中の手中。他の者は?
縋るような思いで繋がった電話。
『太宰さん!』
新入社員の中島敦が、いつも通りの元気な声で応答する。
「敦君! 今何処に居る⁉」
『え、と、探偵社です』
「そこに中花がっ、いや、田中という女は居るかいッ⁉」
『居ますよ。太宰さんにい』
不自然な位置で切れた電話。
何があったのか。
不穏な想像に駆り立てられた太宰は、らしくも無く、走る速度を上げた。
「皆、無事かッ⁉」
“武装探偵社”と表札を掲げたビルの一室の戸を開け放つ。社内を見舞わそうと顔を上げ――
パシャッ
シャッターを切るような音と共に視界が光に包まれる。思わず腕で目を庇うが、焦燥の儘すぐに腕を引いた。
「ふふ」
「!」
其処にはカメラから目を離し、クツクツ肩を揺らす田中花と、無傷の探偵社員たちがこちらを覗いていた。
十数分前――――
「どーも、初めましてこんにちは田中花です。武装探偵社というのは此方で間違いないだろうか」
のんびりとしながらもはきはきとした調子で一人の女性が戸を開いた。その飄々とした調子は何処かの誰かと重なったのだが、丁度部屋に居合わせた中島敦がそうと認識する前。彼の先輩である国木田独歩が彼女を声高に出迎える。
「その通りです。ご依頼ですか」
「うん。此処に太宰治君という人物が居るだろう? 彼に話を通してほしいのだが」
依頼人からの思わぬ言葉に、見たわけではないけれど国木田が驚いているのが分かる。
此処は武装探偵社。異能力者が、正規の探偵や警察に頼れない灰色の案件を請け負い解決するための組織。その性質上、社員やその能力に関しては秘匿されていることが多い。従って通常、依頼人は依頼のみを伝え、実行役を誰にするかは探偵社側で決めるものなのだ。故に指名というのは中々無い事だった。常連客ならいざ知らず、一見であることは明確。そして幸か不幸か、指名された太宰は本日非番であった。
「失礼ですが、もう一度お名前を伺っても?」
「良いとも。私の名は――」
彼女が朗らかに笑んで答えようとした時だった。入口の方から、何人か人物が近づいてくる話し声がし始める。ビルの一室に構えた事務所に向かうには階段を通る必要があり、そして階段というものは音を伝えやすいのだ。あっという間に部屋に辿り着いた声の主たちは、のんびり「ただいま」と戸を開く。
「良かったですね乱歩さん。目当ての駄菓子がすぐに見つかって!」
「あそこは実に素晴らしい! 僕の眼鏡に適うのなどいつぶりかな」
朗らかに会話する宮沢賢治と江戸川乱歩。保護者役の与謝野晶子は敦たちに手を挙げて帰ってきたことを示した。その後ろからもう一つ、小さな影が顔を出す。
「只今帰りました」
「お帰り。鏡花ちゃん!」
深紅の振袖に蒲公英色の帯を纏い、低めのツインテールで髪を整えた少女――泉鏡花だ。思わず敦の顔が緩んだのは、彼女が両手いっぱいの菓子を抱えて幸せそうな雰囲気を醸し出していたからだった。元来表情をあまり動かさない性質なのか、彼女の満面の笑みというのを殆ど見た事が無い。それでも、入社当初の様に思い詰めた、悲哀を宿したような瞳はもう無い。それが堪らなく嬉しくて、良かったねと呟いた。何か云ったのが聞こえたのか、首を傾げる様子がまた愛らしい。
「どうしたの」
「何でもない。何を買ったのか向こうで教えてくれる?」
「向こうで?」
「うん。今は依頼人がいらっしゃってるからね」
何気ない動作で鏡花の瞳が依頼人の方を向いた直後、彼女の身体が凍りつく。不意に全身が総毛立つ感覚がして鏡花の方を見ると、虎の眼を持つ敦をしてやっと捉えられる速度で鏡花が懐刀を抜いたのが分かった。止めようとするも虚しく足に力を込めた鏡花が突進する。
「《夜叉白雪》‼」
全員が状況を把握できていない中、依頼人に白刃が閃く。正しく青天の霹靂であるその一閃が依頼人の喉に届くと誰しもが思った。尋常ではない殺意の乗ったソレは、自分でも防ぐことは出来ないだろう。暗殺者として人生の大半を過ごしてきた彼女にとって、こと不意打ち・暗殺は得意中の得意。故に探偵社の面々は眼前に広がるだろう惨事を覚悟した。
のだが。
「鏡花じゃないか! 裏切ったというのは本当だったのだな」
存外ゆったりとした声音で依頼人の女性が口を開く。一斉に注目が集まった彼女は、夜叉白雪の刀を持つ手を左手で抑え、鏡花が持つ懐刀の進行方向に逸らして二刃を回避している。白刃と懐刀がキリキリと音を立てた。
「田中花! 何しに来た⁉」
「ふふ、君が怒声とは珍しいね。夜叉白雪の動きも以前とは比べ物にならない。強くなったな、鏡花」
田中と呼ばれた女性が破顔する。対する鏡花はと言うと、怯えと殺意、焦燥をを綯交ぜにしたような顔で彼女を睨めつける。
「質問に答えて!」
「此処は探偵の事務所だよ? 依頼に来たに決まっているじゃあないか」
「嘘!」
「嘘じゃないさ」
話ながら夜叉白雪の刃を床に突き刺して動きを止めた田中は、即座に鏡花の懐刀の背を掴んで回転させ、鏡花からするりとそれを奪ってみせる。柄を持ち直した田中は野球の球でも投げる様な気軽さで敦にそれを放った。抜身の刀に右往左往しながらもなんとか受け取る。
「疑うのなら、世界最高峰の名探偵にお伺いを立てればいい」
「彼女は間違いなく依頼人らよ」
間発入れずに乱歩が言った。マイペースに足を生やしたような彼は既に二つ目となる菓子の封を切ったところらしい。もごもごと口が動いている。
「ポーロマフィアのじゃなく個人的なのだろ。
会話から察していたポートマフィアという言葉。幾度となく衝突を繰り返してきた組織の名を聞いて空気がピりつくが、乱歩の指示通り鏡花は恐る恐る夜叉白雪を引いた。彼の喉が鳴る。
「ふう。悪趣味な事考えるね、君。まあ、太宰の奴にはいい薬だろ。いいよ、協力しよう」
「噂に違わぬ恐ろしい御仁だ。腹の底の底までお見通しと」
「名探偵に不可能は無い。――国木田、太宰に通話状態にして田中くんに渡せ」
「は、はい!」
呼び出し音が鳴る中、敦はそろそろと乱歩に近づいた。
曰く、大丈夫なのかと。
「あの田中って人、ポートマフィアなんでしょう? 放っておいていいんですか」
「放っておくも何も、彼女がその気に為ったら今の面子じゃ瞬殺さ。谷崎か社長が居たら違ってたけど、そうでないって事はそういう事だよ」
乱歩の言葉に瞠目した敦はしかし、いとも容易く鏡花の刃を防いだ田中を思い出し唾を飲んだ。攻撃力単体で言うなら探偵社最高峰である夜叉白雪を、赤子の手を捻るが如く。国木田の方を覗くと、通話が終了したのかクスクスと肩を揺らす彼女が目に入った。子供が悪戯を企んでいるような、或る種の残酷さと狂気が垣間見える。薄気味悪い、と眉を顰めた敦は、意外の音と振動で大きく肩を揺らした。懐の携帯電話が鳴った音だった。
画面を見ると、太宰からだ。
「太宰さん!」
『敦君! 今何処に居る⁉』
「え、と、探偵社です」
『そこに中花がっ、いや、田中という女は居るかいッ⁉』
「居ますよ。太宰さんに依」
依頼が、と言おうとしたところで通話が切られた。自分に覆い被さった影の主を目で辿ると、田中だ。ニコニコと口元に笑みを浮かべているが、その瞳は別の色を宿していた。
「これは意外だったな。太宰は君を余程気に入っていると見える。芥川が荒れるわけだ」
「芥川が……何だって」
「中島敦、君の脚を捥ぎ、肉を削ぎ、刺し、穿ち、襤褸のように扱った芥川龍之介は間接的に私の部下なのだよ。謝って済むものでないのは先刻承知しているが、アレも憐れな生い立ちでね。恨み辛みは太宰に付けておいてくれ給え」
変わらずゆったりとした口調の田中であったが、どこか有無を言わせぬ調子であった。答えられずにいた敦に気を害した様子も無く、彼女は軽い足取りで入口の方へ向かった。
――そして、現在。
「これは、どういう……」
「ふふ、あはははは! もう駄目だ、我慢ならない! 太宰、お前そんな顔できたのだね! くくく、これは愉快だ」
鈴を転がす様な声が震える。口元を押さえて身をくの字に曲げる彼女が笑っているのを、太宰の混乱に目もくれず探偵社の面々は見つめていた。目を奪われていた。決して彼女は見目容が突出して優れているわけではない。学校に一人は居る溌剌な、そしてどこか華のある女生徒とでも言えばわかるだろうか。若しくは、何という事は無い会話をしているだけで次第に周りの者を巻き込んで、大きな輪を作っていくタイプの人間だ。嗚呼、カリスマというのはこういう事を言うのだなと敦はぼんやりと思った。
一頻腹を抱え終えた田中に、苦虫を食んだような顔で太宰が再び同じ問いを発した。冷静沈着、泰然自若の彼には珍しく、雷のような荒々しさが在った。
「依頼だよ、太宰。お前を指名したい」
「嘘だ」
数分前の鏡花と全く同じ言葉を発した太宰は、二月の薄氷の様に冷たく澄んだ瞳を田中に向けていた。
「“幹部就任おめでとう”。君ほどの人材が今更だが、そんな地位の人間が敵対組織の本拠地に足を踏み入れて依頼? 冗談にもなっていないよ」
「おや、耳が早いね太宰。素直にありがとうと言っておこう。けれど、依頼は本当だよ。冷静になったらどうだ、君らしくも無い。嗚呼、お前が焦燥に駆られているところを撮った事を怒っているのか? ふふ、それくらい容赦してほしいものだな」
数メートルの距離を一息に詰めた田中は、太宰が常に付けている紐タイを握って自身の方へ強引に引いた。太宰の低い悲鳴が聞こえる。首が締まりかかっているのだろう。苦しみのせいか、はたまた別の要因からか。顔を歪めた太宰の耳元で田中がぼそりと呟いた。耳打ちなのだから本来は太宰にしか聞こえないよう音量を調整していたのだろうが、異能力の性質上五感が敏感な敦は耳聡くそれを聞きつけた。
「私とお前の仲じゃないか」
彼女の声音は、今にも太宰を絞め殺しそうなほど黒々とした感触を感じさせた。
水溜まりのような静けさの中で、二人がソファに座り机を挟んで向かい合っている。緊張した面持ちの敦がそろそろと盆に乗った茶を運んできた。薫りを嗅いだ田中は花の咲いたような笑みを漏らす。
「緑茶か。馨しいな。実に懐かしい。何せ米国では手に入らないものだからね。ありがとう、中島君」
屈託の無い笑みを向けられしどろもどろした敦だったが、最終的に適当に頭を下げて太宰の隣に座った。適当というのは失礼の無い方の意味だ。新人とはいえ武装探偵社の一員として恥じぬ振舞いを、というのが身に沁みついているのだろう。田中は感心しながら茶を啜った。
つい先日、ポートマフィアの幹部の席が一つ空いた。其れを受けて、海外にて武器の取引や現地でのやり取りを引き受けていた彼女が呼び戻されたらしい。立場上常に暗殺に警戒していなければならないのであるが、そんな事は全く感じさせぬ動きで胃に茶を流し込む。吐いた息からは芳香が漂っていた。
「自殺癖は相変わらずかい、太宰?」
「……余計なお世話だよ」
「そうだな。お前に生きろなどというのは酷というものだ。私は
「その話は」
「悪いがその話をしに来たんだよ。もう四年になるか。早いものだ」
普段は国木田を巻き込んでやりたい放題騒ぎたい放題している太宰が、今は沈痛そうに黙り込んでいる。顔色が普段より確実に白い。蒼いとすらいえる程血の気が引いていた。くるくるとよく回る瞳は実に静かで深く、暗い。見つめていたら悪夢に魘されそうな、そんな瞳だった。そんな太宰を前に、田中は口角を僅かに上げて涼しい顔。改めて彼女が唯者ではないのだと敦は再認識した。
「それで、依頼というのは?」
「――――太宰、お前暗号は得意だろう」
「暗号解読なら乱歩さんに依頼しなよ。私じゃない」
「いいや、お前でなくてはいけない。お前が作り、お前が解くんだ」
田中の言葉を呑み込むのに、敦は数秒を擁した。太宰でさえ数瞬眉を顰めて動きを止めていた。暗号とは本来、作成者が別の誰か――それも、暗号を解く知恵と知識のある者――に解かせるために作るものだ。作成者自身で解くことは想定されていない。そんな事をする必要が無いからだ。答えを作者は知っているのだから。
田中の言葉を字面だけは理解した敦はしかし首を傾げた。彼の動きに呼応するかのように太宰が続きを促すと、田中はそっと腰を上げて太宰の方へ屈みこんだ。口元を左手で覆い、敦から口元を隠している。何を太宰が訊いたかは分からない。しかし数言田中の言葉を聞いた太宰は瞠目し、数度瞼を瞬いて田中の方へ視線を向けた。
「私一人では駄目だ」
背筋を伸ばし、無造作に左手を下げた田中が独白する。
「オダサクを救うには、お前が必要なんだ。太宰、力を貸してくれ」
彼女は左腕で、既に失われた右腕を掴む様に長い袖のシャツごと体を抱えた。そこに先程までの溌剌とした様子は形を潜め、真冬の凍える様な緊張が彼らを支配していた。
依頼人の意向である太宰に加えて敦が話を聴いていたのは、太宰たっての希望からだった。
元来探偵業務は二人一組で行うが、其れだけが理由ではないことを敦は察していた。そしてその理由を言葉にしてはいけないという事もどこかで理解していた。
「――――敦君。矢張り外で待っていては呉れないかい。中花とは二人で話すよ」
「あ…………」
「いいや、中島君。君も此処に居て呉れ給え。要らぬ誤解を生まないために。そして、太宰が私を殺さぬように」
淡々と、二人から真逆の指示。そして田中がさらりとした最後の言葉に、敦はどっと冷や汗を流した。彼女は仮面のように表情を動かさぬまま席に座り直す。
「米国出張は非常に有意義だったよ。二つ欠点があるとすれば、和食を食べられる店が殆ど無い事と、私の探し物が見つからなかったことくらいだ。さて、探偵中島敦君、私の探し物は何だったと思う?」
彼女は茶を飲み干したコップの淵を指でなぞった。敦は急に名指しされた質問に視線を彷徨わせて暫く考え、知恵熱で思考を止めた。
「わ、わかりません…………」
「あはは! すまない。ヒントがあまりにも少ないね。まあ云ってしまうと、死者蘇生の異能者を探していたんだ」
死者蘇生――つい最近、敦はその単語を耳にした。
横浜を地獄へと変え、焦土にせんと暗躍していた異能犯罪組織・
思わず警戒度合いを一気に引き上げた敦に、田中は朗らかな笑みを浮かべた。
「そうそう、そうなのだよねえ。まさか米国の一大異能組織の方が、同じ目的で横浜に来るとはねえ。青い鳥の実体験という奴だ。まあ安心し給え。私は君にもその白紙の小説とやらにも興味はない。だからこそ君にこの話をしたのだし」
「如何いう意味ですか」
「そんなものに手を出したら横浜中が敵になる。そんな事をして仮にあの人を蘇らせても、あの人は喜ばない。絶対にね。私は、あの人に生きていて欲しいのではなくて幸せでいて欲しいのだから、同時に進めていたもう一つの方式を採る事にしたんだ」
敦は固唾を呑んで次の言葉を待った。
「私の友人は、死を“永遠の静けさを手に入れることだ”と云ったよ。実に文学的で、的を射た言葉だ。彼らは沈黙の内に居るから我々は干渉できない。なら、沈黙をそもそもさせなければいいのだ。過去であの人が死ななければ、彼は死者ではなくなる。そうだろ、太宰」
弾かれるように敦は太宰の方を向いた。
そして眼前に飛び込んだ太宰の瞳に、彼は心臓が止まるかと思った。
こんなに暗く、深く、恐ろしいものが。生命の根源的な恐怖を呼び起こす様なものが、太宰から滲みだしている。不意に手に温かいものが触れ、敦はハッと硬直を解いた。知らぬ間に田中が敦の手を取っていたのだ。彼女は申し訳なさそうに微笑んで、同席はここまでで構わないと云った。……と思う。
気付いたら彼は部屋の外で放心状態で、二人は其処から滔々と、時に訥々と、会話をしていたようだ。
敦を含め探偵社の面々は、恐る恐るその部屋の方へ視線を向けて見守る事しかできなかった。
大人気ない事だと私は苦笑した。
詳しくはないが、先程部屋を出した少年――中島敦は、太宰が拾ってきた社員だそうじゃないか。彼からしたら太宰は、自殺趣味やら軽薄そうな立ち居振る舞いのせいでやや影ってはいても尊敬すべき先輩の筈。それがこれ程不機嫌に殺気を放っていたら、それはショックを受けるだろうさ。とはいえ再会を茶化した私にも責任が無いとは言えないから、今は黙って太宰が何か喋り出すのを待っていた。
太宰の方も私が何か云うのを待っていたのか暫し沈黙し、私が話す気が無いのを察して腕を組んでソファに深く腰掛け直した。
「それで、本当の目的は何だい」
「本当の? 先刻から、織田作を死なせないため過去で協力者になってほしいと云っているだろう」
「は。正直に云って御覧よ。そう云えば私がポートマフィアに戻ってくるとでも森さんに唆されたのだろう?」
…………絶句した。
四年半越しに再開した友人――少なくとも私はそう思っている――に掛けられた言葉が、私を抉った気がした。私は太宰に、そんな奴だと思われていたというのか。去って行った友人のいない寂しさに、亡き友を出汁にするような人間だと思われていたのか。
――――莫迦にするな。
握りしめた拳が震えた。
――――何も、知らない癖に。
皆いなくなって、私が何も思わなかったと思うのか?
苦しかったのが太宰だけだったと思うか?
今迄何のために私が生きてきたか――
「太宰。私ね、もう二十二になったんだよ」
声が震えた。震えずにはいられなかった。
「“とっておき”じゃなくたっていい。私は只、もう一度、四人で乾杯したいだけなんだ」
太宰の表情が揺らいだ気がした。私も興奮していたから、気のせいだったのかもしれない。しかし、太宰が認識を改めてくれただろうというのは、都合のいい妄想ではないと思う。
私の異能が写真でも通用する事、一人では未来を変えるに足りなかった事、六秒以内にメモ出来て太宰にだけ通用し、且つ織田作を救助してほしい旨を出来るだけ伝える暗号を依頼したい事を伝えた。
写真鞄を肩に掛けた田中が応接室から現れた。仕事をする振りをしつつ部屋の様子を窺っていた武装探偵社の面々は、各々胸中に想う所は在りつつも一瞥をくれる程度で済ませている。
「また来るよ」と田中は言った。どうやら話は纏まらなかったらしい。戸まで送り出そうと国木田が席を立ったのも束の間、田中の懐で携帯電話が喧しく鳴る。
「はい、こt」
『オイコラ田中ァ! 迎えに行くから待ってろっつったろうが‼ 今何処だこのタコ‼』
「わはは、相も変わらず元気そうで何よりだよ中也。蛸かあ。タコワサ食べたくなってきたなあ。ねえ良い居酒屋識らない? 帰ってきたら色んな所が様変わりしていたのだよねえ」
『手前ェそんな所行っても酒飲まねえだろうが。そもそも俺は洋酒が――って違ェよ! 何で其処で居酒屋に話が飛ぶんだボケ!』
「律儀なノリ突っ込み……矢張り日本は良い……ねえ中也知ってる? 米国ではこういう時ね、ず」
『だーーーーッ⁉ もう何でもいいから場所云え、場所!』
「中也は心配性だなあ。別に本部位一人で行けるよ。――あ、其れじゃあ皆さん、お騒がせしてすみません。失礼しま~す」
『“皆さん”だァ⁉ オイまさか田中そk』
扉が閉まる。
嵐のように場を荒らして去って行った彼女の方を見ながら、その場の全員が思った。
――また、来るのか……
ズレにズレた本日の予定を手帳で確認した国木田が、フッと意識を飛ばした。
探偵社は本日も通常運転である。
マスターから紫煙にまで再会を言祝いでから、いつぶりかの蜜柑果汁を口に含む。こんなに酸味が強かっただろうか。私の舌が馬鹿になったのか、果汁の取引先が変わったのか。
いつか太宰がしていたように、氷を人差し指で突いて沈めてみる。浮き上がってくる氷は、溶けきる迄何度でもそれを繰り返すのだ。私は其れが可笑しくなって微笑んだ。
「…………“お子ちゃまで悪かったな”」
そう云って指の液体を弾きながら、私は階段から降りてくる人影に視線を向けた。
体の包帯と蓬髪。
あの人と同じ砂色のコート。
「よう、色男。お先にやっているよ」
太宰は答えなかった。黙したまま、私と一席――織田作がいつもそこに居た――を空けて座った。
「首領に、無断で探偵社へ行くことを禁止されてしまったよ。もう少し私の持つ影響力を考えろと。あれは相当御冠だったね。太宰とこうして会ったと知れたら今度こそ軟禁かなあ」
「中花の異能が本当に年単位で有効なら、情報戦に於いて勝ったも同然だからね。森さんも神経質になるよ」
彼はそう云って出されたグラスを傾けた。
「本当だとも。けれど、有効期限がある。精一杯頑張って、後二回という所だ」
私は四年半しか遡れない。刻々と時間制限が迫っている。
後に迫る抗争やらなにやらの事なんて知った事じゃない、なんて、昔の私に云ったら正気を疑われるだろう。命の恩人である広津さんと森医師の為に生きていた頃なら猶更だ。
しかし私は、もう一人にも恩を返さなくてはならない。それが彼らの意向に反することだとしても。
「太宰……何で織田作は不殺を誓っていたのだろうな。私には分からないよ。極限状態でも貫きたい意志なんて……織田作は大莫迦者だ。死んでしまっては元も子もないじゃないか……」
私達は暫く、言葉を忘れたみたいに口を閉ざした。店内にはシャンソンが流れている。歌詞は頭に入って来ず、バンドのサックスが嫌によく耳に聞こえた。
背景音楽と効果音に支配されていた空間を破ったのは太宰だった。マスターに蟹缶を頼んだのだ。懐かしくなって、思わず笑みが零れる。
「今日は幾つ食べるつもり?」
「中花こそ、そんな苦い果汁を何杯飲むのだい? ゆっくりして大丈夫?」
「帰国直後の今日はそっとしておいてくれるさ。にしても太宰、お前これ飲んだことあったのだね。知らなかったよ」
「嘗めただけさ。中花に初めて会った日だ」
私は少し驚きながら、太宰にグラスを渡したなんてことがあったろうかと記憶を探った。確かあの日、私は織田作に連れられて太宰と安吾に此処で会ったのだった。そして――
「ふふ、あれは被ったというんだ。私は絶対に謝らないからな」
蜜柑滴るイイ男となった太宰を思い出し、苦笑しながら頬杖を突く。
アレも写真に収めたかった。当時は写真趣味が芽生えて間もなかったから、映写機を
持ち歩いていなかったのだ。
鞄からそっと取り出した今の映写機をカウンターに置く。今持っているのはこのディジタルカメラだけだ。残りは全て織田作が育てていた子供たちに供えた。生前、彼らに殆ど触らせなかったことを、今は迚後悔している。フィルムカメラは難しかろうが、ポラロイドカメラなら操作が簡単だから、彼らでも使えるだろう。
「何だい、コレ? ……数式?」
其処には分数の掛け算が掛かれていた。ざっと見ただけで概算するのを諦める程大きな数が分母と分子に来るのが解かる。
「それなら、六秒以内に書き写せるでしょう。覚え易い様に素因数分解しておいたよ」
六秒以内。
書き写す。
――まさか、これが。
「私の依頼かい?」
「其れを見せれば過去の私に伝わるよ。最初から説明することは出来ない状況なのだろう」
「うん。しかし、これ、何が書いてあるんだ?」
「ヒミツ。ああ、例え乱歩さんでも其れは読めないから安心して良いよ」
太宰曰く、暗号には大別して二つ種類がある。
一つは、暗号を解きさえすれば誰でも読めるもの。
もう一つは、暗号が解けても鍵が無ければ読めないもの。
前者は暗号自体が難しいか、そもそも見つかりにくいよう隠されている。
対する後者は、暗号はオープンだが、其処からもう一段階翻訳を経ねばならない。その為の符丁を知るものしか読めないと云う訳だ。
「これは勿論後者だ。当時戯れで作ったものが、こんな形で役立つとは思わなかったよ」
太宰は力無く笑って蟹を摘まんだ。
「ねえ、中花。君、映写機は今もよく使っているのかい」
「勿論」
「君のに限らず、映写機って右にシャッターボタンが付いているじゃないか。左腕だけで操作できるの」
尤もな質問だ。そもそも私は、武器は両利きになるよう仕込まれたが、元来右利きだ。腕を落としてしまってからは矯正したが、世には右利き用のものばかりで苦労する。利き手が変わってからの方が器用になった。
それは兎も角、映写機の話だ。最近は技術の発展が目覚ましい。お陰で苦労は大分緩和されているのだ。レリーズと呼ばれるアクセサリがある。これは映写機のシャッターを遠隔操作するための部品で、ものによっては掌に収まる大きさのものもある。左手でレリーズを握りながら映写機を構えれば、欲しい所でシャッターを切れる。とはいえ腕力にも限界があるから、三脚にお世話になりっぱなしだ。
映写機に繋いだレリーズを太宰に渡し、映写機自体は太宰の方に向けて構える。彼が釦を押すと、きちんとシャッターが切れ、関心顔の太宰の写真がモニタに映し出された。
「中花はさ」
太宰は私にレリーズを返しながら、意を決したという風に云った。
「写真家になろうとは思わないのかい」
写真は好きだ。
しかし、これはあくまで趣味で、自己満足で、他人様に金を払わせるようなモノではない。実際、写真集などで見る職業写真家たちの作品は、紙一枚の隔たりすら感じさせない程彼らが何を伝えたいのかを理解させてくる。私がそう云った才に恵まれていないのは理解していた。志したところで食ってはいけないだろう。
だが、太宰が云いたいのはそういう事ではないのだと思う。これは、慎重に言葉を択ばなければならない質問だ。
「……写真は、撮影者を映す。同じ被写体を撮っても、撮影者が変われば写り方が全く変わるんだ。被写体が違えば猶の事。私は、人しか撮らない。私にとって彼らは、私が私だという事を――心があって、感情があって、思考があるんだという事を確認させてくれるものだからだ。私にとって写真を撮るというのは、一種の自己肯定の為のモノでもある。だから私は映写機を手放せないし、これは仕事にすることじゃないんだ。写真は、私が生きていくために既に必要なものだから。大切に……したいんだ」
云い乍ら、何を云っているか解らなくなってきてしまった。
断じて、私は職業写真家を否定しているわけではない。彼らは本当に偉大だと思っているし、尊敬もしている。ただ、もし才能があったとして、ポートマフィアを抜けて迄其れを目指したいかと問われると、正直なところ解かりかねた。私の居場所と護りたいものは既に此処に在ったから。
「――――『小説家になりたかった』」
太宰の言葉に驚いて、私は彼に視線を向けた。主語が無かったが、太宰の瞳が静かに揺れたのを見て、私は黙って続きを聴いた。
「『任務でも人を殺したら、その資格が無くなると思った。だから一人も殺さなかった』…………私が知っているのは、其れだけ」
太宰はそう云って席を発った。
私は追わなかった。
声も掛けず、黙してグラスの氷が解けていく様を見つめていた。
サックスの音色は、もう聞こえない。
探偵社での太宰の”森さんに云われたんだろ”発言は本気じゃないです。
ルビは”ちょっと落ち着きたいから黙っててくれないかな”と読ませます。
わからんよ。
以下おまけ
・幕外の茶番
田中「にしても鏡花、いきなり襲ってくるとか酷くないかい? あんなに可愛がってたのになあ(子供、それも女子だからちゃんと優しくしてたし)」
敦 「可愛がる……字面が怖いです」
太宰「私と芥川君みたいな? ならそうなるよねえ」
鏡花「…………(お菓子美味しい)」
敦 「(鏡花ちゃんが黙ってる……きっと辛いことがあったんだ……)もう鏡花ちゃんに近づかないでください!」
田中「解せぬ」
↑みーごれんの、”個人的には鏡花ちゃんをべろんべろんに甘やかす(当社比)のは紅葉姐さんだけであってほしい”という話。
・細かすぎて伝わらない伏線選手権
日常生活において右利きにも拘らず右手に腕時計した(第一話参照)のは、未来で右腕が無いせいで左手の方がナイフの扱いに自信があったからです。咄嗟の事なので本人もやってから気付いた模様。
こんな細かいところ描写するならもっと設定を詰めろよという話です。ごめんなさい。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。