二人がいる控室。
二人だけの控室。
座っている雫は、室内に置かれた白い丸机の上に、重ねて添えたそのしなやかな両手を、無表情でじっと見つめている。
一方で彼女の左隣。丸机に沿って座るのはリオで、力の抜けた両腕がだらんと垂れて、太ももの間に落ち着いている。さらに背中は背もたれに軽く寄りかかりながら、視線の先は正面の遠くの何の変哲もない控室の壁で、やはり意味もなさげに見つめている。
二人とも言葉を発さない。音もなく動きもなく写真のような一幕で、辺りをただ沈黙が包み込んでいた。
そうして数秒の時間が流れた後に。リオが不意に口を開いた。
「雫さんはアイドル嫌なんですよね・・・」
リオは雫に顔を向けないま独り言のように言った。確認というよりも、ただの呟きである。
これに対して雫はリオの言葉を聞くと、今まで表情の無かったその顔に初めて控えめな笑みを浮かべた。
「それは・・・過去の話ですよ」
雫もリオ同様に顔を動かさずに呟いた。
言葉に意味付けされることで雫の笑みは自虐的なものとなる。そのような考えは憐れなものとして彼女はそれを笑うのだ。リオはそれを直接見ずとも、言葉と共に吐き出された空気の揺れにその感情を感じ取った。
「・・・でもそれだったら、さっきみたいなことはしない・・・ですよね」
「・・・」
リオは別に責める気持ちがあるわけでもなく、ただ感じたことを口にしている。
雫は再び沈黙する。
さっきみたいな事。雫が血が出るほどに指の腹を噛んでいたこと。その時の視線は何かを睨みつけるような鋭さを持っていて、正面に人がいれば噛みつくことも有りうるかという程の凶暴性を放っていた。リオは、雫がリオへと振り返るまでの一瞬の間しかその姿を捉える事が出来なかったが、それでもその時の雫の表情は、リオの記憶に鮮明に残っていた。それほどまでに彼女にしては珍しく、陰の感情が表に現れていた。リオはその表情から彼女の思いは読み取れないまでも、アイドルアイドルする決定を好ましく思っていないことを推測した。
リオは自らの言葉に対する雫の反応を見たかったが、正面からは不躾かと思い、また、気まずさもあって視線だけちらりと横に動かし、横目に雫の顔を見た。すると雫も瞳を動かして視線だけをリオの方にやるので、リオはそれから逃げるようにまた視線を正面に戻した。
「あの・・・マネージャーさんと相談とかって・・・」
「それはしませんし、する必要もありません」
今度は雫はリオの方に顔を向けて、はっきりとそう言った。リオは視線を感じて次いで横目にリオを見つめる雫を見て、それならばと、とうとう雫に顔を向けた。
お互いに顔を見合わせて、リオは雫と目を合わせる。
真っ直ぐな雫の二つの眼が彼女の強い意思を映していた。
「これは仕事ですから、私の意思とかは関係がありません」
雫はリオの前でそう宣言した。”なぜならば”というよりも”そうあるべきだ”という声である。だから、リオは雫のその言葉を聞いたとき、、顔を歪めて酷く悲しい顔をしてしまった。
リオは彼女の言葉を嘆きのように解釈した。
リオはかつては会社勤めの身で(今だってそう変わらないが)、何ならそうでなくとも過去にしたバイトの経験からでも、彼女の言葉が仕事において時には必要な心構えであることを知っていた。だからリオは、抗う事のできない雫に憂いを感じたのだった。
しかしリオはすぐさま自分の表情に気づくと、雫から顔を逸らした。
”どこまでいっても他人事なのに、身勝手に共感するなんて図々しい”と不快に思わせたくなかった。
雫はそんなリオの仕草を見ると、その手に自らの手を伸ばし触れた。リオは一瞬身体を震わせて驚きながら逸らした顔を再び雫に向けた。
雫はにっこりと笑みを浮かべた。それから歯を食いしばると、ゆっくりと顔を下げて、最後にはぐっと俯いてしまった。
リオは雫を励ますことは出来なかった。そのような言葉は何も浮かばない。
”そもそも励ますというこの気持ちはふさわしくない”とリオは自分に言い聞かせながらも、励ます言葉を探していた。
その後リオは結局、雫とはそれ以上踏み込んだ話はせず、とりとめのない会話をした後解散して家路についた。
部屋着に着替えたリオは、疲れた体を癒すように仰向けでベッドの上に沈み込む。そうして天井を見つめながら一息ついて落ち着くと、帰る間、わざとずっと意識の端の方に寄せてあった雫のことについて考え始める。
リオは雫の立っている境遇について思った。
彼女はVtuberという存在に憧れ、そして生存する条件としてのアイドルを、状況がどうであれ受け入れた。
それに対してリオはどうか。好きにやっている。酒を飲み、何の身にもならないような有ること無い事面白い事を有象無象に垂れ流し、時にはゲームにいじめられながら盛り上がる。好きなことをして、たまたまそれが視聴者の興味の琴線に触れて、リオは自然体のまま生きることを許されたVtuberとなっている。
そんな風なことをリオは思い、自分は幸運なんだと思い、そしてそういう意味では雫は運が無いのだとも思った。
視聴者が楽しんでくれているという条件でくくれば、リオと同等どころかそれ以上である。しかしそれは彼女の本意の姿ではない。
偽物。まがい物。偶像。
彼女はアイドルという姿を演じる道を仮にも自分で選び、今や人気者となり、そして責任を負った。
途中で易々と降りることなどは許されない。それを選ぶには余りに多くの重りが、今や彼女の足元に繋がれている。
リオはしかし”それでも”と思うのだ。
Vtuberをやめるという選択肢だってありなんじゃないのかなっ・・・
と。可能である。いろいろ失えば。
リオは雫がこの先続けても辛いという感情がある限りは、いずれその足はどこかで止まると確信めいたことを思っていた。
事実、リオもそうして足を止め、逃げた先の今なのだから。
ただ、リオには雫の本当の気持ちなどは分かりはしないし、もう一つ。
”やめるのも有りじゃない”とは、何とも無責任な言葉でテキトーな言葉でお前何様な言葉だ。ともリオは思うのだ。
だから結局、リオがあれこれと考えたところで、雫には何の影響もない。
リオは気付けば眠っていた。
数日後、夢野雫が行方不明になった。