鼻腔を突くのは、無機質な薬品の臭いと、微かに混じるオゾンの香り。
病室の室温、点滴が滴下するリズム、そして――すぐ傍にある、一定の呼吸音。
「……ッ、が……あ……」
上体を起こそうとして、
左頬から顎にかけて、神経を逆なでするような熱い痛みが走る。上条当麻のあの「右拳」。幻想を殺し、異能を無へと帰すあの拳が、どれほど重い「想い」で叩きつけられたのか。肉体が負った損傷が、それを如実に物語っていた。
視線を落とすと、ベッドの横に置かれたパイプ椅子に、一人の少女がいた。
軍用ゴーグルを額に上げ、茶髪のボブカットを膝に埋めるようにして、彼女――ミサカ19090号は微かな寝息を立てていた。
「……生きて、やがるな」
脳内にある「第一位」の冷徹な計算機は、あの一瞬、生存確率を極めて低いと弾き出していた。だが、彼はその計算結果を無視して、自分の「意思」という不確定要素を数式にねじ込んだのだ。喉が、焼けるように渇いている。
彼は少女を起こさないよう、慎重に布団を退けた。自身の移動に伴う空気の振動、床への圧力――それらすべての「量」を能力で相殺し、音も立てずに病室を抜け出した。
深夜、二時を回った病院の廊下は、死のような静寂に包まれている。
談話室へ向かう道すがら、窓の外を見れば、学園都市の夜景が冷たく輝いていた。
あの中で、絹旗たちはまだ平和な夢の中にいるのだろうか。蝉脇栞という女が仕掛けた「爆弾」は、果たして解除されたのか。談話室の自動販売機。小銭を投入し、冷えた缶コーヒーのボタンを押す。
ガコン、という音が不自然に大きく響いた。
「……チッ、こんな時間にガキがチョロチョロしてンじゃねェよ。さっさと寝床に帰れ」
背後から突き刺さったのは、不遜で、どこか倦怠感を孕んだ声だった。
反射的に身構える。だが、同時に脳内の演算パターンが、その声の「主」を即座に特定し、強制的に思考を停止させた。ゆっくりと振り返る。そこには、自分と同じ「白」を纏い、杖を突きながら、深い闇を湛えた緋色の瞳でこちらを見据える少年がいた。
学園都市第一位――
「……
「あァ? テメェ……あァ、あの時の『紛い物』か。まだ生きてやがったのかよォ」
その隣。彼に寄り添うようにして、パジャマの上にシーツを羽織った幼い少女が、クリクリとした瞳で進入禁止を凝視している。
「あ、この人! さっき
「アンタが、どうしてここに」
「あン? テメェに教える義理はねェよ。……まァ、俺のツラと能力を使ってコソコソ動くゴミが不愉快だったんでねェ。少しばかり教育して、あのクソったれな計画ごと灰にしてやっただけだァ」
自分が命がけで崩そうとした計画を、本物はたった一晩で、根底から物理的に「解体」してみせたのだ。
「結果がどうなったかは、テメェのその足りねェ脳みそで勝手に考えとけ。……二度と俺の視界に入るなよォ。次に見つけたら、テメェごと消してやるからなァ」
「待ってよ
「
「……やめろ。善意を俺に向けんじゃねェ」
「
嘘偽りのない、純粋な感謝の言葉。
悪党を演じ、泥を被り、誰にも理解されないまま「偽物」として消える。それが自分に相応しい末路だと信じていた
「感謝されるような行動心理は、俺じゃなくてテメェの思考パターンに入ってただけだ」
彼は顔を背け、乱暴に白髪を掻き揚げた。
だが、その指先は僅かに震えていた。
その様子を背中で感じ取ったのか、
「……フン。紛い物なら、偽物らしく泥水の中で足掻きやがれ。……だがな、死にたくなった時は思い出せ。テメェが守った『価値』ってのは、どんな演算よりも重いかもしれねェぞォ」
それだけ言い残し、怪物は少女を連れて夜の静寂へと消えていった。
二人の気配が消えた後、
苦い味が、やけに鮮明に感じられた。
自分が
「――
背後から、聞き慣れた、だが今までよりもずっと透明な声がした。
いつの間にか目を覚ましていたミサカ19090号が、点滴のスタンドを引きずりながら談話室の入り口に立っていた。
「……お前、起きたのかよ」
「ミサカは、アナタの悲しい表情の意味を、もう一度確認しなければならないと判断しました、とミサカは自分自身の意思を表明します」
彼女は一歩、また一歩と
その軍用ゴーグルに映る自分の顔を、
「……あの時、ミサカは死を演算していました。でも、アナタの掌が触れた瞬間に流れてきたのは、破壊の量ではなく、必死に命を繋ぎ止めようとする不器用な熱でした」
彼女は彼の目の前で立ち止まり、深々と頭を下げた。
「ミサカは、アナタによって救われました。この命は、もう誰かの実験材料ではなく、アナタが守ってくれた私のものです。……ありがとうございました、とミサカは心からの感謝を伝えます」
夜明け。
偽物の「
「……ケッ。……テメェの為じゃねェ、これは俺の一人善がりみてェなモンだ」
彼は小さく呟き、一口、冷えたコーヒーを飲み込んだ。
その横顔には、もう「第一位の影」はなかった。