一輪のエリカ
病室の窓から流れる湿った空気が肌を撫でる。蒸暑いとは違う雨が降りそうなジメジメした空気。
どんよりとした灰色の空を見つめ、ふと自身の両足に目を向けた。それを見る度、言葉に言い表せない感情が脳裏を過ぎる。
交通事故。私には全くの記憶が無く、それどころか何故か一年間の記憶を失ってしまった。外傷は無いにも関わらず、原因が分からず動かなくなった両足。
気付いた時には病室のベッドの上と言う、何がなんなのかよく分からない状態だったのがつい二日前。梅雨でも無いはずなのにずっと曇り続ける空を背景に、私の心は荒んでいく。
どうしたらいいのかとか、分からない事が多過ぎる。誰に聞いても分からないと返答され、きっと良くなるよと有難くもない言葉をかけられる。
嫌気がさす。本当に嫌気がさす。じわじわと込み上げてくる怒りが抑えきれなくなりそうだ。
母親は私が目を覚ました時にいの一番で駆けつけてくれた。でも、それっきり来てはくれない。まだ二日だが、もう二日なのだ。病室に足を運んでくれる人は朝昼晩の食事を運んできてくれる時とお花摘みでナースコールをして来てくれるナースさん達だけ。騒がしいのはあまり好きでは無いが、心に来るものがある。寂しいとか、辛いとか。誰かと会話をしたいと思えてしまう程に、私の心は熱を欲していた。
そんな複雑な気持ちを抱きながら、私は今日も外を眺める。
面白くもない空。読みたい本も全て読んでしまった。足のリハビリもまだ精神が不安定だからとやらせて貰えない。不安定なのは仕方ないとは思わないのだろうか。誰かにそう言いたいが、誰も会話してくれる人はいない。
そして今日も、ただ無駄な一日が終わってしまった。
誰かが叫ぶ声が聞こえた。
赤いナニカが霧のように舞っていた。
鋭い冷たさが身体を貫いた。
どうしても思い出せない記憶の中に、それだけは必ず見えていた。
一体これがなんなのか分からない。分からないが、これが自分と関係しているという事だけは理解出来た。
それを思い出すだけでも吐き気をもよおす。
寝苦しさに私は目を覚まし、酸素を求める肺を満たす為にひたすら呼吸を繰り返す。過呼吸が起きているような激しい息切れ。全身びっしょりとかいた寝汗。零れ落ちる涙。
苦しいの一言だ。苦しくて苦しくて堪らない。思い出したいはずなのに、記憶を見ようとすると拒否反応が起きる。しかし見たくないと思っていても、絶対悪夢として出てくる。結果的に気分が悪くなって寝付けなくなる。
何故こうなってしまうのか。不安で仕方ない。
今日もこのまま起きているのだと思うと、途方もない自分の境遇を恨むのだった。
変わらない時間が過ぎた。あのまま朝迄寝付けず、何をすることなくただじっと虚ろな目で窓の外を見ていた私。
ふと、窓際に1匹の鳥がとまった。青色の毛並みに光に照らされて輝く頭の上からぴょこんと生えた1本の長い毛。鳥にはそこまで詳しくないが、あの鳥は私の目で見ても珍しいと思える種の鳥だ。クリクリっとした目が愛らしい。
その鳥は嘴を使って毛づくろいをした後、誰かを待つように空を見上げて動かなくなった。
その鳥からは焦燥と誰かを思う悲しい感情が伝わる。待ち望み、恋焦がれているかのようだ。
私はその鳥を何故か自分の姿と照らし合わせた。深い気持ちは無かった。ただ、何故かあの鳥の後ろ姿から読み取れる感情は私の今の心情と一致している部分が多い。言うなれば同族を見つけたようなものだろうか。同じように誰かを待ち望み、誰が私の元に来てくれると淡い気持ちを抱いている所とか。
滑稽な様だが、今の私は誰かに頼らなければならないという現実がある。心が今すぐにでもポキンと折れそうなのにこれ以上の負荷等と、考えたくもない。
じっと微動だにしない青い鳥は、何分何十分とそこにいる。
いつの間にか私はその鳥をずっと眺めていた。ただの暇つぶしに、鳥がどうなるのか結末が見たかった。私のようにずっと待つのか、途中で挫折するのか。単なる興味本位だ。私はただじっと動かぬ鳥を眺める。
ふと、甲高い囀り音と共に一羽の灰色の毛並みをした鳥が窓際にとまる。ピクッと何時ぶりかの反応を見せた青い鳥は、ぴょんぴょんと跳ねながらその鳥に近づいて行き、毛繕いするように灰色の鳥の体毛を優しくつつく。
互いに身体を擦りつけ合いながら、やがて同時に飛び立って行く。
どうやら、待ち焦がれていた相手は見つかったらしい。
私はやるせない気持ちになる。鳥に嫉妬した所で仕方無いのかもしれないが、待ち焦がれていた相手がやってきた事に怒りを抱いてしまった。私ですらまだやって来ないのに。
グツグツと煮え滾る感情を抑えつつ、もう何度目か分からないため息を吐き、曇った瞳を窓の外に向けるのだった。
私の待ち人は、いつ現れるのだろう………。
今日初めて病室から出ていいと許可が降りた。内心嬉しんだが、すぐにその気は失せる事となる。
誰も、私を外に連れ出してくれないのだ。
母親は仕事だそうで途中抜け出せず、あまりこの部屋に近付かない看護婦さん達。母親は仕方が無いとして、看護婦さんが職務怠慢なのはどうなのかと思うかもしれないが、看護婦さん達側にも言い分は少なからずある。私のこの容姿は、会う人会う人を不快にさせてしまうという事だ。おわかりいただけただろうか。つまり、こんな醜い顔に近付こうとする人等居ないということだ。
だから今日も私は病室で1人。何をすることも無く、なんの面白みも無い空を眺めるだけだった。
だけだった、筈なのに………。
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───コンコンコンッ
扉を叩く音が私の耳に届いた。
来客か看護婦か。扉越しでは分からないが、看護婦なら一言二言叩いた後に言ってくる筈だ。となると来客となるが、母親はノックせずに入ってくるから、初めての来客だろうか。
どうぞと一声了承の言葉をかける。
引き戸が動き、ゆっくりとした動きで1人の男性が入ってきた。
「………だ、男性の、方?」
思わず身体を硬直させてしまった。男性が少ないこの御時世、滅多に出会う事ない筈の男性が目の前にいるのだ。取り乱してしまうのは至極当然な反応である。
「………そんなに緊張しなくていい、と言っても無理な話か。話したい事があるから、少し落ち着いて貰える?」
「……は、はい」
流石に失礼かと思った私は、すぐに息を整え上がった心拍数を落ち着かせていく。
だが、目の前の男性を見て落ち着いていられる筈は無い。普通、男性は肥満体が多い。女性は男性の体型には拘らないとよく言われるが、目の前の男性を見てそれを言えるだろうか。高い身長、腕を見て分かる引き締まった身体。清潔感のある短い髪とシンプルな白いTシャツとズボン。男性として何処か抜きん出たモノを纏っている目の前の男性は、見ていて安心するような笑みを私に向けた。
「んじゃ、落ち着いた所で自己紹介といきましょうか。……初めまして
「……あ、兄……っ!?ど、どういう───」
思わず身を乗り出してしまった。しかし足が完全に動かすことが出来ないため、踏ん張ることが出来ずベッドの上から落ちそうになる。
「───危ないっ」
一瞬の間に落ちそうになった私を受け止めてくれた男性───力哉と名乗った男性は、間に合った事に安堵すると私をゆっくりとベッドに寝かせてくれた。
彼の表情を見るに、本当に私の事を心配してくれていたようだ。なんだか胸の奥がむず痒い。
「……大丈夫か?何日も体を動かしてないんだ、すぐに動こうとするのは危険だぞ」
「……あ、ありがとう…ございます」
カッと熱を帯びた顔を隠し、表情を悟らせまいと毛布をかぶり込む。これが逆に恥ずかしがっている事を彼に伝えている様なものだということを、私はこの時気付かなかった。
「それでだ。美森ちゃんは明日から日常生活で少しでも苦労が減るようにリハビリを始める。期間は1週間と聞いてるけど、例え期間が過ぎてもこの病院から退院しなければならないからね」
「……何故、えっと、……お、お兄さん?がそれを私に伝えるのでしょうか?」
「…ん?……あ、あ〜、そういう事ね。うん、実は看護婦さん達に聞いたらそう言っててね。後で看護婦さん達からも言われると思うよ」
何やら少し引っかかる様な言い方だが、私はその返答に成程と相槌を打つ。
「と、伝えたい事は伝えたから、後は雑談でもしてようか。質問とか、あるんじゃない?」
質問。無い訳では無いが、何から聞いてみようかと選択に困る。とりあえず一番疑問に思っている事を聞いてみる事にした。
と、そんな事を考えていた私はいつもの鬱な気分から抜け出している事にこの時気付いていなかった。
「……えっと、お兄さん?は私の兄妹なのでしょうか?私が覚えている限りでは、私に兄は居ないと思ったのですが……」
「……まぁ、あんまり思い出して貰うのも辛いと思うけど。俺は一応養子っていう立ち位置だ。去年君の家にやって来た」
去年。私の記憶が無い時と同じだ。覚えてないのは仕方ない……仕方ないのだが。
「……心配しなくてもいい。例え忘れてしまっても、これから思い出して行けばいいんだ。いつでも俺を頼ってくれよ」
「……はい、ありがとうございます。ですが、私は───」
「大丈夫。大丈夫だから……」
ポロポロと涙が止まらなかった。
大切な何かを忘れてしまったとは思っていた。それを自覚した時、こんなにも辛いものだとは思わなかった。
忘れてしまってごめんなさいと罪悪感が。
なんで私がこんな目に合わなきゃ行けなかったのかと憎悪が。
震える両手を広げ、掌に落ちる涙が慰めも寂しく散っていく。傷付いた自身の体を抱き締め、漏れる声を必死に抑える。
私は限界だ。思えば意識を取り戻してからずっと、私は限界を迎えていたんだ。誰かに会う度積み上がってきた限界を超えた苦しみは、彼について尋ねた時崩落した。
きっと、私にとって彼の存在はとても大きかったのかもしれない。覚えてはいない。しかし、彼を見る度に胸が苦しくなっていく。理由は分からないが、彼の事を忘れてしまった事に心の底から絶望している。
彼は大丈夫だと言った。でも私にとってはきっと大きな事だ。
どうしようもない涙が、私の心を写すかのように流れ続ける。毛布を被っているから彼に表情は見えないだろうが、私の今の状態なのかは知られているだろう。そして彼がどんな表情をしているのかは、私には分からない。
だから、毛布を取られギュッと彼に包み込まれるとは思わなかった。
「……っ!?お、おにいさ………っ」
「大丈夫。忘れてしまった事に美森ちゃんが悲しんでいる事はよく分かった。母さんも仕事が忙しくてお見舞いに行けなくて悔やんでた。俺も少し遅れてしまって美森ちゃんに寂しい思いをさせてしまった事、凄く申し訳ないと思っている。ごめんな、本当にごめん。だから今は、思う存分吐き出してくれ……」
もう、抑えきれなかった。
「……ごめん、なさい……っ。きっと……っ、きっと……私にとって、凄く大切なものだったのに……っ。忘れたくないってっ、大切だって思ってた筈なのに……っ。ごめんなさいっ、本当に……、ごめんなさい……」
思いの丈を吐き出す私に、彼はずっと背中を撫でて優しく抱き締めてくれていた。
何処までも安心する彼の温もり。全身を預けてしまう包容力。いつの間にかそれに安心し、私は泣き疲れて眠ってしまった。彼に抱き締めてもらいながらみた夢心地は何処までも安らぐものだった。
それから私はリハビリを1週間行い、退院する事となった。未だ慣れない身体だが、
お兄様との間にあった思い出は無くなってしまったが、私はこれから少しずつ新しい思い出を増やして行こうと前向きに思えるのだった。
ん〜もっとイチャラブ(修羅場)させていきたい……
あと、なんだがあべこべ要素が薄いと作者的に思います。いきなりあべこべ要素を濃くしても多分感想で叩かれそうなのでゆっくり増やしていきます。