不意に、木ノ葉が立ち止まる。
「……ここ、綺麗だよね……」
「……ああ……本当だ」
木ノ葉が見つめていたのは、先ほど窓から見えていた噴水。
気づかないうちに、もう目の前まで歩いてきていたようだ。
この噴水は規模が大きいわけではないが、薄い青色の光に照らされて絶えず流れる水は見るものに風流を感じさせ、心を落ち着けてくれる。
木ノ葉はここを目的として歩いていたようで、俺たちはその縁に腰かけて話を始めた。
口火を切ったのは、木ノ葉だ。
「お兄ちゃん……お兄ちゃんがこの間言ってくれたこと、覚えてる……?」
小さく、呟くように紡がれた、今にも消えてしまいそうに儚い声。
彼女が人間関係について心のうちを曝け出すときはいつだってか細く、すてられた子犬のように怯え、震えた声を出していた。
「ああ……もちろん。学校に忘れ物を取りに帰ったときのことだろ? 忘れるわけがない」
しかし、今日の彼女はそれだけじゃないみたいだ。
身体こそ小さく震えてはいるものの、それは武者震いというのだろうか。
決意に満ちた表情としっかりと据わった瞳は、今までにない凛々しさを見せている。
「あのとき言ってくれたこと、木ノ葉、試したんだ。……すっごく勇気が必要だったけど、クラスの子たちに言ったの。この学校にいて、みんなといて楽しいって」
言いながら、口元を抑えて幸せそうに微笑む彼女。
「そしたらね――みんな、すっごく喜んでくれて」
心底、嬉しかったのだろう。
最初は消え入りそうだった声が段々と大きくなっていることからも、彼女の喜びを察するには十分だ。
「こんなの、はじめてだったんだあ……木ノ葉のこと、みんなが受け入れてくれた感じがしてさ……。もちろん文芸部のみんなは好きだけど、同級生でこんなことって、なかったから」
昔から木ノ葉をよく知っている俺としては――これまでの虐げられてきた彼女の人生を知っている俺からすれば、よく分かる。
運動会に出れば運動音痴な彼女は周囲から糾弾され。
あるいは日常生活でただ存在しているだけであろうと、自分を表現したり他人とコミュニケーションをとったりすることが苦手な彼女は、周りの人間から疎ましがられてきた。
そして一度逃げる決意をして、引きこもりになってからも同じだ。
他人からの直接な非難こそ受けずとも、引きこもりであるということは自分を責める要因となり、自己嫌悪の癖がある木ノ葉は長い間自分を自分で苦しめてきた。
本当は明るい子で、楽しいことが大好きないいやつなのに。
コミュニケーションが苦手だというだけで、地獄のような日々を過ごしてきたのだ。
それが……今回、高校に入って自分の素直な気持ちを告白することで、克服された。
楽しい日々を、自分の手で切り開くことができた。
それは彼女の自信となる出来事であり、初めての赦し、解放でもあったのだろう。
俺は、彼女の第一歩が成功したことに、心の底からの祝福をしてやりたかった。
「それでね、お兄ちゃん……」
木ノ葉には、俺の気持ちが伝わっているのかいないのか。
それは分からないが、さっきよりも決意を孕んだような強い瞳で、彼女が見つめてくる。
そのブラックホールのように純粋でまっすぐな瞳に飲み込まれてしまいそうになるも、なんとか耐えて、俺は「どうした?」と軽く返してみる。
すると、木ノ葉は自分を鼓舞するように拳をぎゅっと握ってから、俺にこう切り出してきた。
「…………ご褒美が、欲しいの」
「よっしゃ、望むものを何でも買ってやろうじゃないか!」
木ノ葉の要求に、噴水の音も聞こえないくらいの音量で即答する俺。
木ノ葉がついに地獄を乗り越えたんだ。空母だろうが国家だろうがなんだって買ってやるさ。
俺は、安心させるように木ノ葉に向けてガッツポーズをする。
しかし、木ノ葉はなぜかまだこちらに決意の瞳を向けていて――
「……そうじゃなくて……キス、して欲しいの……」
――なんて、以前の彼女とは見違えるくらいに強い意志で、キスをねだってきたのであった。