「耳障り、だ」
黒染めの和装の青年が、高台からとある宿の露天風呂を見下ろしながらごちる。
青年の眼下には、なるほど確かに、彼の言うように聞くに耐えぬ獣の断末魔にも聞こえる慟哭が鳴り響く。
そこはそもそも、小さな集落だった。
土地が痩せていて野菜もとれぬ米も育たぬ川も海も遠い地であり、しかし、たまたま街道と街道が交差する中継地だったが故に駐屯所のような関所や簡易な宿が江戸の末期にまでには数件建ちそこが集落としての原型だったとかだが、明治になりて話が一変する。
米国が皮斬りとなり英国仏国蘭国と黒船来襲以来に明治維新になるにつれ『文明開化』が叫ばれるなか、最も力を入れていた事は当時は紡績と蒸気機関…
そしてどちらにも必要なのは、施設のガワに必要な鉄とそれらを動かす燃料の石炭。
後者は特に各国こぞって植民地も自領も問わず自前で掘りに掘っていた時代だ、もともと日本は炭鉱の鉱床が広く眠っていたから尚更である。
『そこ』もまた鉱床が眠る山が近くにあると言う炭鉱で、町興しをし始めるに持ってこいなのだろう。
そうして資源があれば金が集まり、金が集まるなら人は集まる。
今はもう明治の35年、20世紀も始まった。
その時代にもなれば、なるほど人は爆発的に増えているのは道理だろう。
古き人は言った、藤の花が咲かぬ街には鬼が出る、と。
それは事実だ。
古来より…千年はいにしえの時代より、藤の花が咲かぬ街には何時か鬼が出て人が喰われる、そういう現象の悲劇はこの世には起こりうるのだ。
藤の香炉は魔除けになる、夜に一人で出歩いたり逆に不用意に人が集まれば皆殺しになる…そんな伝説を嘲笑うモノはこの世界で長生きできない。それが現実だ。
しかし明治になり文明や科学を人が理解するにつれ、人々が急速に『夜の怖さ』を喪うからこそ、人が喰われるリスクは飛躍的に延びたのだろう。
『これ』は、その結果だ。
「…血と遺体の手足の数を察するに、被害者はおおよそ14、か。
『成り立て』にしては今日だけでもえらく喰ったな」
高台から見える範囲で、或いは間取りや血肉の破片の数から青年が推理するのは端的に言えば『宿の被害』だ。
青年は事前に連絡を受けていた、とある炭鉱で発展している街に人喰い鬼が出た、と。
彼の上司、産屋敷の命令を受けた鎹烏、つまり連絡用の使い魔のようなカラスの指令と状況報告を聞き付けてたまたま近くにいた青年が駆けつけ、そして、『助け』が間に合わなかった。
もしも青年がもう半日早くついたのならば、もしかしたら犠牲者は半数以下に済んでいたかも知れないだろう。
避難誘導だって、救命措置だって出来たのかも知れないだろう。
だが、半日遅れただけでこのザマだ。
犠牲者の遺体を見たところ女中か給仕だっただろう若い女も居た、まだ10歳にも満たないような少年の宿泊客も無残に殺され壁のシミになっている。
鬼…文字通りの人喰い鬼と化した番台だったろう角と牙を生やした初老の血走った目をした男の犠牲者にさせられていたのだ。
ーーー『鬼』は、やはり赦せない生き物だ。
チャリと、青年の拳の中で、握った刀の金属製の鍔が闇夜に鳴り響く。
鬼を野放しにしたら、同じようなやりくちで倍々ゲームのように人は犠牲になっていくと、青年は身を以て知っている以上、その怒りの炎が刃を照らす。
弱いものから鬼は踏みつけていく、守りたいものから鬼は人から奪っていく。
強い鬼も弱い鬼もそこは変わらない。
そもそもが、この鬼のこの集落での諸行に限定するにしても鎹烏から連絡を受けた際にはとある寄宿舎の詰所の風呂場で惨殺死体が上がったと言う事情を事前に聞かされていた。
そして今回も、恐らく番台に化けて雨宿りならぬ日宿りを兼ねた餌場の確保をして似たような惨殺死体現場を作り上げている。
と言う事は『この鬼』は最初の人喰いで覚えたのだろう、ごく単純に人は風呂場では無防備になり油断しやすい、と。
つまりはほっとくと風呂場に居る人間はコイツを滅ぼすまで安心すら出来やしない、こういう事になる。
そして、鬼は人を喰えば食うほど強くなる。
それは強くなるにつれて
グォオオオ!!と、獣ががなりたてるような叫びと共に、番台に化けていた件の鬼は腕が二本に分裂し爪からは怪しい煙と共に見るからに毒々しい緑色の液体が溢れ出ている戦闘体型へと一気に変化する。
「それが、貴様の『血鬼術』か」
青年がごちるが…すぐに思い直す、あれはまだ『もどき』でしかない、と。
血鬼術、それは人を喰らいに喰らった鬼がたどり着く境地、外道の到達点。
鬼自身の血肉を転化させて、例えば氷を操ったり分身を何体も産み出したり人を金魚に変えたり、或いは時空を歪めたりする鬼すら居ると言う。
それに比べたらいかにもチャチな変身だ、少なくとも『それ自体』が血鬼術ではない。
ただの戦闘態勢なのだろう、鬼の血自体は大なり小なり有害な毒のような体液として体を巡らせているのだから、まあそういうもの、なのだろう。
或いはやはりこれ自体が血鬼術で腕や足や血液の様な体の一部を増やす…そういう血鬼術だったとしても、見た目が派手なだけで
所詮は『成り立て』だ、血鬼術か単なるフィジカルか、どちらにせよ力に振り回されている事は青年は経験でわかっている。
…と、取り留めもない事を考えて居たらバシュウッ!と言う勢いの良い発射音と共に、いきなり湯気立ち上る水の塊が青年へと目掛けて飛んできて、そしてそれがはぜる。
一発と言わず、二発三発…四連発。
ダイナマイトが爆発したような勢いの轟音鳴り響き、間欠泉の様な水柱が四本立ち上るなり、たちまち青年が居た場所は崖ごと粉々になり跡形も残らない。
それを見た鬼は、まるで子供が新しいオモチャをもらったかのように狂った様に喜び笑い出す。
「…なるほど、『湯を圧縮して固めて目標物まで投げつける』…弾数は貴様の腕の数だけ、か。
もっと人を喰うならば、或いはやっかいなヤツになったのかもな」
トン、と言う足音と共に…いつの間にか青年は鬼の背後に立ち、そしてそれに追随するかのようにその鬼はバラバラの紙吹雪の様に体が維持できなくなっていく。
「嵐の呼吸、壱の型…名を『轟雷』」
その鬼は、最期にそんな青年の言葉を聞き、青年の背中の滅の一文字の羽織を睨み付けながら…この世から消え去ってしまう。
そんな鬼の最期を一瞥しながら、ふぅと言うか溜め息を吐きつつこうごちるのだ。
彼奴には、まだ遠い…と。