レア先輩から指定されたのは、俺らが住む街とは比べ物にならない、真っ白な壁の一軒家が建ち並ぶ高級住宅街。そこに構える【灰色柳】という古めかしい門を構えた一軒のカフェだった。
意を決し、質量以上に重く感じる扉を開けば、その人はすぐに見つかった。
上品な話声と笑い声が満ちた店内で小柄な女性が一人でカップを傾けている。入り込む日差しがその人の髪を稲穂のように輝かせている。やっぱり俺やそこでお茶をしている一般的な日本人より色素が薄いけれど、レア先輩の金色の絨毯とも違う。
その人から溢れる雰囲気もレア先輩とは違う。レア先輩は得物を狙う鷲のような人だけど、稲穂色の髪の女性は見る人を惹き付けて、そのくせ意に介さない、白鳥のような人だ。真っ黒な服がより一層落ち着いた印象を見せる。
塚端や奈々先輩には観れば見るほど母娘らしさがあるけど、レア先輩とその人は見れば見るほど赤の他人のようだった。
そう、その人とは、レア先輩の母親。
写真に対し片目を隠してポーズを決めていた人物。
旧姓、黒瀬・つばさ。
かつてのシェア部の創立メンバーの一人で、三代目でありそして、最後の部長だ。
「──っ」
俺たちの容姿について既に聞いていたのか、レア先輩のお母さん──便宜上、ここからはつばささんと記していく──は店に入ってきたところを見つけると手を小さく振って迎えてくれた。
その動作ですら優雅な印象を与えてくれる。どうしたってこんな人から、パイプ椅子の上で、胡坐姿で紅茶を飲む娘が産まれたのだろうか。
「日下部・章君に、塚端・まこさんですね。娘から聞いています。今日はよろしくお願いします」
渡してくれたメニューを見て俺たちは驚愕する。コーヒー一杯の値段が、ファーストフード店で豪遊できる金額だ。
聞いたことも無い(おそらく)コーヒーの種類から、とりあえず馴染みの文字のブレンドを二つ注文する。
つばささんは俺達の注文のあとにケーキを三つ──今度は馴染みのあるショートケーキ──をお願いした。
すぐに全ての注文が揃い、真っ黒の水面に砂糖やらミルクやらを注ぐ俺たちにまず持ちかけられた話題はレア先輩のことだった。
「学校でのアストレアはどうですか?その、お二人に迷惑とか……」
ええ、まあ、と俺は苦笑してしまう。
「学園征服がどうとか正義のためだとか、突拍子もないことを言いますけど、基本的にはいい先輩ですよ。この前も勉強を教えてくれましたし」
基本的な成績が良いらしく、教え方も上手い。ただ、歴史のことになると「私ならもっとこうした」とレア先輩目線の政策を聞かされるので話がゴタゴタに混ざってしまうことが玉に瑕だけど。
「そうですか……。征服……。正義……ふふっ」
手で口元を隠して小さく笑う。
俺は本来の目的を忘れて、質問をしてみることにした。
「あの、レア先輩の名前、アストレアってどう言う意味なんですか?」
「それはですね」
と、つばささんは俺たちが来る前から飲んでいたカップが空になったのか追加でおかわりを注文し、目つきが鋭くなる。レア先輩と同じ猛禽類の目だ。征服やら正義やらを語るときの。もしかして、長くなる?
俺の予想は当たり、そこから一時間ギリシア神話かローマ神話かの登場人物たちが次々に登場したと思ったら、リュカオンが狼にとかナルキッソスが水仙になったとか聞いたことがあるような無いようなやつらが変身していった話を聞かされ。そうだと思ったら急に人間男性である翻訳家を臣下にしたと同時に恋に落ちた魔王と人間男性の馴れ初めを運命論で語られ、そうして現代ファンタジーと神話が現実のエッセンスを加えて魔女のスープみたいにかき混ざった段階に至って、
「そして、魔王である私が子どもを身籠ったことを知った日。私は思い出した、あの夜、二人で見た星はてんびん座であったことを。人間を愛し、俗世に落ちた魔王に神は新しい時代の正義を教えろと言うのだろう、と。このお腹の中に宿ったのは女神の生まれ変わりだとその時から私は確信していた。神々が血と罪に濡れながら人類を見捨ててなお、最後まで地上で正義を説いていた女神、アストレアを育てる使命を私はあたえられたのだと」
ここまで語り終え、つばささんはカップを口に運ぶ。昇っていた湯気はとっくにいなくなっていた。
塚端は途中から聞いていないらしく、相槌よりもケーキを口に運ぶ回数のほうが多くなっていた。
俺も話の半分は理解できなかったがオチ的に、
「もしかして魔王って……」
「そう、私のことだ」
疑うな。信じろ。真実は目の前にあると言わんばかりの表情。なるほど、レア先輩とこの人は間違いなく母娘だ。自分の言動に自信しかない。
「と言うのは半分ぐらい冗談です」突然魔王が抜け落ち、優雅な主婦の口調と顔に戻る。
俺は思い出せるだけ内容を思い出す。確か神話の話から始まって、魔王がいて……暗黒世界と光明世界との戦いがあって……世界を暗黒の炎で焼き尽くすヘルフレイム(ヘルヘイムの聞き違えではない)作戦を遂行し成功間近のとこでオデュッセウスの裏切りに作戦は頓挫。戦争にも敗れて……二千年の眠りについていたがその間も肉体は朽ちぬまま魂だけヴァルハラへと昇り、そこでブリュンヒルデが指揮する歴戦の神話兵士たちと死闘を繰り広げ、そこからゲイボルグやらトゥールハンマーやらを手に入れるが目覚めたら一般家庭の女子高生に生まれ変わっていたので仕方なく学校で世界征服部を組織し、そこから紆余曲折合って大学を卒業しドイツ人の血を半分受け継いだ翻訳家の男性と出会い、結婚。身籠ったきっかけになった日はてんびん座が輝いて見えたので、これは正義の女神の生まれ変わりを育てると言う魔王である自分に神から授けられた使命だと思い、その子どもにその女神の名である明日翔麗亜──アストレア──と名付けた……。
「半分どころか七割ぐらい冗談ですよね?」
「失礼な。あなたが冗談だと思っているうちの二割は本当です」
「具体的にどこが?」
「世界征服部をシェア部内に作ったところ」
やっぱり母娘だこの人たち。まさかレア先輩のほうがスケールダウンしているとは思わなかった。
「それじゃあ、アストレアって正義の女神って意味なんですか?」
ケーキを食べ終えた塚端が確認する。一応は聞いていたみたいだ。まあ、現実部分に帰ってきた段階から聞いとけばいいしな……。俺も真面目に全部聞くんじゃなかった。
「そうです。何事にも公正であれ、とか色々な意味を込めていますがね」
「じゃあ漢字は?」
「漢字は夫の要求です。日本で暮らしていくなら漢字は必要だろう、と。まったく私は必要ない、むしろアストレアに漢字なんてつけたらイジメられると言ったのですが聞く耳を持たないで……。どうもドイツで暮らしていたせいか漢字文化に憧れがあるみたいで……。だったら最初から日本人らしい名前を付けるべきなのに……」
こっから俺たちはブレンドをおかわりし、また一時間つばささんの話に付き合うことになった。今度は苦い現実を会話の鍋に次々にぶち込んだと思ったらいきなり甘ったるい惚気話と言う現実を混ぜ込み、最後は一家団欒のエッセンスをまぶして。
「って、ごめんなさい私、つい話過ぎてしまって……」
最初からそれを自覚してくれたら、と思うが、これを許す権利は俺には無い。つばささんも、話が長くなったことを主に謝ったのではないのだろうし。内容のほうだ。
おそらく、レア先輩から塚端の事情についてはある程度聞いているだろうし、かつて塚端のかお母さんとシェア部の仲間だったのならその辺の事情を知っていてもおかしくはない。
「大丈夫ですよ。気になさらないでください!」
これは本心だろうな、と思う。塚端は自身の両親の件に関して心の深いところまで気にしていても、重くは受け止めていない。
「本当ですか?みこ先輩もあんなことがあってからも変わらずに接してくれていましたけど……」
みこ先輩……。そう言えば、名前を聞いたのは初めてかもしれない。アルバムで目にしたかもしれないが、意識していなかった。
「そうです、私たち、昔の母と、文月・章って人についてお話がしたくて……」
「まこさんはみこ先輩から何も聞かされていないのですか?」
「はい、何も……。時々、私が寝ている時とか章って名前を呼ぶだけで」
「そうですか……」
つばささんは昔を思い出すためか、カップを覗き込み、沈黙を作り始める。
俺たちはただ待つことしかできない。
この席に座ったときは暖かく照らしてくれていた陽光もすっかり位置を変えている。饒舌に語っていた時間のほうが長いのに、沈黙の間のほうが息苦しかった。実際は三十秒も経っていないのに、出せることなら沈黙から首を出し、息継ぎがしたい。
思いつめた表情と声を隠さず、つばささんが口を開く。
「どこからお話ししましょうか……。そうですね、あれは私が一年生の二学期。秋の頃。文化祭が終わって、先輩たちがシェア部を実質的に引退した時期ですね。
ちょうどその時期から、先輩たちはお付き合いを始めていました。
部室にも時々顔を出してくれて、先輩たちが卒業した後のシェア部のことも考えてくれたり……」
「その、何か悩みがあったりしませんでした?お母さんと、上手くいってなかったり……」
つばささんが首を横に振る。
「私たちには何も。みこ先輩ともいつも楽しそうでしたし、二人から喧嘩したなんてことも聞いたことないです」
「そう……ですか……」
じゃあ、なんで塚端のお母さんは謝っていたのだろう。文月・章から悩み聞いていたないし気づいていて、それでも何もできずに自殺へ追い込んでしまったから?
そもそも、なぜ文月・章は自殺したのだろう。何に絶望して学校の屋上から命を捨てたのか。
「誰も、元部長、文月さんが命を絶った理由をわかりませんでした。遺書も遺されておりませんでしたし、それらしき話どころか態度も何一つ遺していかなかった」
ここで、つばささんが息を吐く。過ぎ去った二十五年前の憤りが息を吹き返す。
「一番可哀想なのはみこ先輩です。元部長に近しい人はみんな取り調べを受けました。ご家族はもちろん、詩奈先輩、瞳先輩、私、それにクラスメイトの歩鳥先輩も」
そうか。塚端のお母さんたちと歩鳥先生も同級生だったんだ。近いうちに話を聞くべきかもしれない。
「でも、やっぱり当時お付き合いしていたみこ先輩には一番取り調べが多かったみたいで……。周りも、噂にしていました……」
人々は真偽かどうかを気にせず、とにかく面白い情報に飛びつく。つい最近、俺も体験したじゃないか。塚端と同棲しているのがどうとか、くだらないやつが。あれもちょっと調べれば、それこそ本人に確認すれば嘘だとわかる情報だが、確定次項のように広まっていた。
特に学生は人の色恋沙汰に飛びつく。彼氏が自殺した彼女なんて恰好の得物だ。
「当然、私たちは励ましました。何か理由があるはずだと。みこ先輩にも言えない何かがあるんだって。結局自殺の理由は受験勉強とシェア部の両立によるストレスと片付かれましたが……。それでも、先輩は耳を貸してくれても、納得はしてくれませんでした……。私は章が胸を抑えているところを見た。あれは悩んでいるからだって」
「胸を抑える?」
「はい」
しかし、それは話の筋に大きく関わるものではないようで「癖みたいなものです。私たちも一緒にいるときよく目にしていましたから。なんでも、緊張とかキレのあるツッコミができたりするとやってしまうみたいで」
なんだそれ、と思うがつばささんが見せてくれた仕草は抑える、と言うよりもシャツで胸を拭うような仕草だった。つばささんもこの表現がしっくり来ているみたいだし。どちらにせよ確かに、癖、というのが正しいのかもしれない。何でも悪く捉えてしまう精神状態なら悩んでいる仕草に見えなくもないが……。
「結局、私たちは完全に励ますことができないまま卒業されて……」
「それからお母さんとは……」
「一度もお会いしていません……。結婚式などにもお呼びしましたがお祝いの言葉とお祝儀だけいただいてしまって……。そうだ、娘さんが、まこさんが生まれていたことですら私たちは知らなかったんですよ」
つばささんが塚端の顔を見つめ、塚端がそれに応える。
二人は今、見つめ合うだけでどんな意思疎通をしているのだろう。もしかしたら一方通行かもしれない。お互いがお互いの表情から、相手の言葉を作り、受け止めているだけかも。欲しい言葉を見繕っているだけの、寂しい会話だ。
つばささんの目は砕けてしまいそうなガラス玉みたいに潤んでいて、塚端は真っ直ぐとその目を見ている。
結局、外が暗がり始めるまで俺たちは沈黙の池から抜け出すことはできなかった。時々、水面に顔を出してもまた潜り始めるのみ。
でも、息苦しいと思っていたのは俺だけなのかもしれない。塚端もつばささんも、最後には引きずるものがありながらも晴々とした表情を浮かべていたのだから。
帰り際。会計が終わり、お互いの帰路に着こうという時、
「あ、そうだ。最後に二つお伝えしなければなりません。
シェア部の廃部理由。私が最後の部長だったので直接学園側から聞かされましたが、やはり元部長の自殺です。実質色々な部活動を纏めることになるシェア部は学生に負担が大きすぎる、と。でも、それだとおかしいのです。わかりますよね?」
まるで、レア先輩みたいな喋り方だ。本当に、この人はあの人の母親なのだ。
「元部長が自殺したのはシェア部を引退した後です。それに当時のシェア部部員は元部長を除いて四人だけ。忙しさを感じるはずがない」
つばささんの言葉はどこか祈りのように聞こえた。
「だからきっと、もう少し別の理由があるはずです」
俺は頷く。そうだ、そこまでは気づいている。歴史の当事者であるつばささんから言われて、やっと予想が確証になった。
「そして、二つ目。これは私も詳しくは知らないですが、どうやらシェア部が廃部になってから勢力を伸ばした部活があるそうです。そのころには私はもう卒業してしまって詳しい状況は分かりませんが、かつての後輩たちからそのような話を聞きました」
それじゃあ、会えてよかったです。また会いましょう。今度はこんな暗い話を抜きにして。はい、お母さんにも会いに来てください。待ってますから。みこ先輩、私たちに何も言わずにこんな可愛い子どもがいたなんて……。昔の部員たちみんなで怒りに行きますね。
二人はそんな会話を交わし、近いうちに会う約束をする。これが本当に最後だと、別れ際、塚端に何かを握らせ、つばささんは去っていった。稲穂色の髪が揺れる後ろ姿は魔王と言うよりも妖精みたいだった。
「最後、何渡されたの?」
塚端の手元を見れば、白と黒の水引で結ばれた香典袋だ。
「亡くなったことを知らなかったとはいえ遅くなってしまってごめんなさいだってさ。いくら入ってるんだろ」
その袋自体に思い入れ的価値を見出していないようで、すぐさま袋からお金を取りだす。つばささんに見られていないといいけど。なんかすごいやらしいし。
「三万円も……。先輩とは言え、学校の親御さんからお金貰うのってなんだか申し訳ないね」
どうやらそれぐらいの抵抗はあるらしく、彼女自身お金に困っていないことからシェア部のために使うことに決めたようだ。
「そうすればレア先輩から回り回って先輩のお母さんのためにお返しできたことになるでしょ?」
香典返しはできないしね、と申し訳なさそうに二枚だけ袋に戻す。……二枚だけ?
「ま、今日はありがたく使わせていただきましょ!日下部は何が食べたい?」
「あー……」
と、俺は少し考える。明日は日曜日で学校が休みだ。ゆっくりしたい気持ちもある。どうせ、ゆっくりするなら落ち着ける場所がいい。あまり人がいる場所は得意じゃないし。
「塚端の料理かな……ていうのは?最近、二人で食べれてないし」
二の腕を思いっきり叩かれた。顔をゆでだこみたいに赤くしながら、もっと具体的な料理名を言えとのことだった。何でも美味しいから考えてもなかったと言い訳すれば今度は腹にグーパンチを貰った。初めてのパターンだった。