若者の全て   作:白夏緑自

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もうよそうよ/セカンドオピニオン

つばささんに過去の話を聞き、早速月曜日に歩鳥先生からも話を聞こうと思えば、親戚の法要で休みだった。

 仕方なく、次の日。放課後にでも話を聞きに行こうかと思っていたら、向こうから持ちかけられた。と言っても、過去の話なんかではなく、生徒会の仕事だったけれど。歩鳥先生は生徒会の顧問も兼任──シェア部はまだ発足していないから正式に顧問をしているわけではないが──しているのだから、受け持ちクラスの生徒である俺に頼みやすいのだろう。

「体育祭のとき使う垂れ幕の寸法を測らなくちゃいけないのよ」

 何度か生徒会メンバーで集まって会議してきたけど、そんな仕事があるのは初耳だ。

 文月・章のこともある。二十五年経っているが、彼が飛び降りた場所を見られることは好都合だ。

 好都合はもう一つ。

「私もついていくから。生徒だけで屋上に上げちゃダメなことになっているのよ」

 理由は聞かなくてもわかる。かつて、生徒が自殺したからだ。でも、そのおかげで歩鳥先生に話を聴きやすくなった。

「日下部君は塚端さんと上手くやっているの?」

「え、ええ、まあ」

 選挙が終わってから俺と塚端の関係についてつついてくる人は多いが、教師陣からされるのは初めてだった。学園としては恋愛を公認していないから、当たり前といえば当たり前だが。「上手くやってるってなんですか?」ととぼけても、それはそれで深い関係であることを隠しているみたいで墓穴を掘ったことになりそうで。結局、俺がやったのは「友人としてですけどね」と釘を刺しておくことだけだった。

 自分でも俺たちの関係についてハッキリとしていないから、何と答えるのが正解なのかわからなくもいる。本当に、どちらも関係性について踏み込もうとしないから、友人関係のままだ。……俺がどうにかしろってことか……。

 実はね、と周囲に聞こえないよう、小さな声で歩鳥先生が口を開く。

「塚端さんがお母さんを亡くして、この学園に来るって知ったとき、心配だったの。ふさぎ込んでいたらどうしようって。会いに行こうかとも考えたけどどんな顔していいかわからなくて」

 先生の顔のほうに視線を向けると、どことなく正面以外の場所を見ているようだった。もちろん、俺のほうでもない。もしかしたら独り言だったのかもしれない。何か言おうかと思ったけど、そんな資格も持っていない気がして、先生の言葉をただ頭に仕舞っておくに留めた。ピン留めして、剥がれ落ちてどこかへ行ったりしないように。この独語は、とても大切になる気がした。

 

 

 ほとんど誰も屋上に登らないし、だからこそ掃除も十分にされていないのだろう。屋上へと続く階段は埃っぽくて、鈍重な雰囲気だった。

 歩鳥先生が鍵を回し、重たい扉を開く。

 開けた世界は、何もない屋上だった。

屋上のふちは何枚も連ねた長方形の金網フェンスで囲まれている。乗り越えようと思えば乗り越えられる高さだが、その労力を考えればもっと楽な死に方がありそうなものだ。 

「じゃあ、お願いね」

 スケールを受け取り、寸法を測っていく。歩鳥先生は扉の向こう側で待っているようだった。そのほうが俺にとっても好都合だ。話はこの仕事が終わった後でも聞けばいい。

 しかし、屋上から垂れ幕を流すといっても、校舎の高さは設計情報からわかるし、屋上の外縁を囲むほど垂れ幕が必要なわけでも無い。そんなわけで俺の仕事はフェンスのわずかな隙間から垂れ幕を流すので、その足と足の間を測るだけ、というものだった。しかも、全てのフェンスが同じ規格なので計るのも一つや、確認のための二つでいい。楽な仕事である。俺はとりあえず入り口から見て正面に設置されている、一番色の鮮やかなフェンスからスケールを伸ばしていく。

 ……マズい。終わってしまいそうだ……。そりゃあそうだ。だってこれ一つで十分なのだから。

 何かヒントを見つけなくては……。

 無駄にフェンスの高さを測ったりして時間を稼いでみるが、やはり何も見つからない。

 あるわけないのか……。二十五年も前のことだし……。

 その日から今日までに何リットルの雨が降り、何回風が吹いた。流され、吹き飛ばされ、今頃どこかの土の中か海へと溶け込んでいるのかもしれない。フェンスだって新しくされて……。

「…………」

 なんで、最初に測った物だけ新しいんだ……?

 いや、それも古いことに変わりはない。雨にぬれ、風に吹かれ、その年月を感じるだけの錆が見える。だけど、それはその程度だ。他の物に比べて目に見えて新しい。

 他のフェンス。その一枚を囲んでいるフェンスはどれも老朽化が激しい。かつて緑色であっただろう皮膚は茶色く変色し、指でなぞれば錆が作った凹凸が刺さる。

 ここだけ新しくした?たった一枚だけ?

 文月・章は屋上から落ちて死んだ。金網を切り、自ら命を絶って。事故ではない。だから、フェンスに欠陥はない。

 おかしいことは何もない。切られたフェンスだけ修理か新しくすればそれでいいだけ。

 じゃあ、この他と比べて新しいフェンスが文月・章の落ちた場所?

 そうだ、歩鳥先生。先生なら何か知っているかもしれない。

 スケールを収めて、扉の方へ戻る。

 先生は来た時から一歩も動かず待ってくれていた。

「お疲れ様。もういいの?」

「はい、その聞いてもいいですか?」

 俺はこの後、自分の無神経さを恨むことになる。

 文月・章の死について質問してから、薄い笑みが薄氷みたいに砕けて、それまでの表情が仮面だったことがわかる。その下に、絶望と悲愴を堪えた歩鳥先生が現れたのだ。

 声をわななせながら答えてくれる。

「そう……そうよ、文月君はそこのフェンスから落ちた……なんで、あの日に……」

 教えてくれたのはこれだけだった。

 他にも「ごめんね」とか「私が連れてきたのに」など何か言っていた気がするけど、耳に残ったのはこれだけ。泥水みたいに濁って聞こえなかった。いつもの歩鳥先生みたいに明るくて促しかけてくれる人はそこにいなかった。俺が壊したんだ。知っていたじゃないか、歩鳥先生も文月・章と同級生だって。事情聴取を受けていたって。それがどれだけのことか、俺は知りもせず、づかづかと。

 本当はもっと聞きたいことがあった。自分の無神経さに気づくことなく、踏み込んで、確かめるべきだったのかもしれないけど。それ以上は無理だった。俺は俺の中途半端な自分らしさで踏み出せぬまま、歩鳥先生からも逃げるようにその場を後にした。

 その日はシェア部にも顔を出す気が起きず、誰にも言わずに帰ってしまった。

 家には誰もいなかった。今は誰とも会話がしたくなかったからちょうどいい。最近、人と関わりすぎた。出会いすぎた。高校に入学して、当然周りは知らないやつばかりだからその分神経を擦り減らしすぎた。そして、初めて喋る人たちの悲しい顔をいっぱい見てきた。

 と、思ったらレア先輩みたいな引っ張り上げてくれる人もいたけど。あの人にやる気にさせられて戦ったときは疲れを感じなかったけど、よく考えてみれば、あれも僕の熱を燃料にして動いていたんだ。減っていたものはきっと必ずある。

 ブレザーに巻いたままの腕章がくしゃっと鳴る。こんな重たいものも背負って、その分また疲れるのだろうな。

 眠ることもできず、天上だけを見つめていた。夕焼けの端に紫色の夜が滲み出したころ、玄関のチャイムが鳴る。

 宅急便かな?それならエントランスのインターホンから鳴るはずだけど。どっちでもいいか。今日はもう無理だ。居留守しよう。親に何か言われるかもしれないけど、寝ていたことにすればいい。

 チャイムは一つで終わらなかった。

 俺が出ないとわかると何度も何度も連打され、一つのチャイムが終わる前に次の音が鳴り始め、しまいにはずっと最初の一音がやかましい鳥の鳴き声みたく家の中に響く。それだけならいいが、今度はドアまで叩かれ、俺はもう違う意味で出たくなくなった。イタズラというには悪質すぎる。これはもうヤバいやつだろ。

 あれだけ人と関わりたくないと思っていたくせに、おめでたい頭をした俺は警察を呼ぶためにスマホを開く。

 鬼のような着信履歴。

 塚端からだ。

 メッセージが次々に送られてくる。全部同じ文字だ。

『出ろ』

 出たらすぐに彼女の家に連れていかれた。ほとんど何も言わず。エレベーターで一言だけ「あのまま家にいたら警察に呼ばれそうだから逃げた」じゃあ叩くなよ。

 塚端は学校からそのまま俺の家に来たようで、家に入るなり荷物を廊下に投げ捨て、さっさと和室へ俺を引きずり込む。

 いつものように塚端は母親に線香をあげ、帰宅を告げる。いつもなら俺も手を合わせているけど、できなかった。ただ、目を瞑るだけ。それも、見たくないからだ。

「ねえ、なんで帰ったし」

「別に……」

 答えになっていない。

「今日、歩鳥先生に生徒会の仕事頼まれてたよね?何かあったの?」

「別に……何もないよ……」

「廊下で先生とすれ違ったとき凄く青い顔してた。資料倉庫のあんたよりも酷いぐらい。それで気になってあんたんとこ来てみれば、あんたも酷い顔してるし。何かあったんでしょ?」

「塚端には関係ない」

「関係ないことない」

 何を根拠に。俺たちだってまだ出会って二週間だろ。

「関係ないよ」

「だからそんな関係ないことない」

 もう平行線だ。

「だいたい関係ないってなんだし!同じシェア部じゃん!それにあんたは私と……」

 私と、なんだよ。まだ続きがあるのか。俺と塚端はクラスメイトで、たぶん友人と呼べる仲で。たまたま色々な事情を知っているから時々飯も一緒に食って。それだけだろ。

「俺にだって、あるよ……」

 隠したいことぐらい、ある。

「あるって何が?」

「それは、その……」

 ボキャブラリーの中から相応しい言葉を探そうとするけど、結局この言葉しか見つからなかった。

「悩み、とか……」

 日本語にはもっと相応しい言葉があるはずだ。何もかも投げ出して、まっさらな砂漠を無意味に歩きたくなっている感情を表現する言葉が。

 悩みって。俺は何に悩んでいるのだろ。

「いいじゃん、教えてよ」

「どう話せばいいかわからないんだ……」

 もう自分が情けなくって仕方なかった。

 いっそ煙みたいに消えることができたら、どれだけ楽だろう。

「だから言えない……」

 そのまま放っておいてくれたら消えるから。何もなかったように、忘れて。元に戻るだけだ。俺も、塚端も。たぶん、レア先輩と奈々先輩とも。これから俺たちは三年間同じ高校に通うんだ。また一からやり直せばいい。過ぎ去った過去は取り戻せなくても、もう一度積み上げることはできる。だったら、この二週間のことを失くすなんて簡単だろ。俺は誰もいない部屋ですぐに眠る生活をするだけ。それか、お互いに別の友達を見つけて、その人たちと過ごすだけ。

 でも、返ってきたのは雪解けの大地から顔を出した黄色い花みたいな声。

「よかった」

 安心したのか、塚端は正座を崩す。

「何も話したくないのかと思ってたよ」

「え……?」

「あんたは話したくないんじゃなくて、どう話せばいいかわからないだけでしょ?言葉をまだ覚えていない子どもみたいに」

「それは、」

 違うのかな?どうだろう……。子ども扱いされることは癪に障るけど。

 俯いたままの俺に暖かいものが被さる。

 やわらかい髪が耳に触れてくすぐったい。

 手のひらが俺の頭を彼女の肩に招いて、ぶつかる。

 身体に力が入らなかった。ただ、彼女の肩に全身を委ねて、力無く。

 頭と背中を同じタイミングでさすられる。

「お母さんがね。昔、私に嫌なことがあって泣いているとよくこうしてくれた」

「…………」

「何かあったの?って。昔の私も何かあったんだろうけど、何を言えばいいかわからなくて。子どもみたいでしょ」

「子どもだからでしょ……」

 そうかも、と彼女は笑う。同意しても離してくれないあたり、やっぱり子ども扱いだ。

「でもね、昔も今も変わらない気がする」

「何が?」

「嫌なことがあって、どうしていいかわからないこと」

 記憶の蓋を開いて、塚端が話し始める。なんでそんな風に思ったかと言うと、声に涙が滲み出したからだ。

「私もお母さんが病気になったとき何もできなくて、嫌だった。高校も諦めようかなって漏らしたら、お父さんがどうにかしてくれるから、大丈夫だって。それも嫌だった。今までお母さんに寂しい思いをさせてきたくせに、こんな時だけって。けど、それも私は何もできなかった、お母さんが少しでも元気になってくれたらと思って」

 嫌なことはまだあるよ。自嘲的に言う。

「お母さんが死んで、何もできなくて嫌だった。お葬式とか、お母さんが色々な人に好かれていたの知ってたから、やってあげたかったけど、どうしていいかわからなくて。何とか、火葬とお墓はどうにかできたけど、それも父親だって言う人のお金と、会社の人が手配してくれたからだし……」だから、この家、その人が務めている会社の物が多いんだよ、と商品名を言ってくれる。ほとんどが大宮製薬の健康食品だったし、確かにこの家でよく見かける物だった。父親に近づく大切な情報のはずなのに、今の俺にはどうでもよかった。そんな大事な情報、なんで今まで黙っていたんだよ。本当は両手を上げながらそう喜ぶべきなのに、近づいたところで何もしたくなかったから、聞かなかったことにもしていたかった。

 セミの抜け殻が潰れた音みたいな声でどうにか返事をして、やり過ごす。

 どれだけ、俺は塚端に顔を埋めていたのだろう。いつの間にか、撫でていた手は添えられているだけだった。動きを止めても暖かいことに変わりはなくて、俺も恐る恐る、塚端の背中に手を回す。

「……、結局、私はお母さんに何もできなかった」

 じゃあ、今こうしてくれているのは。

「俺はお母さんの代わり?」

 面倒くさい質問だな、と自分で思う。そんなこと関係なしに嬉しいなら喜べよ。

「どうだろ。だけど、あんたがいてくれてよかったと思ってる」

 前にも、塚端に救われたことがある。なんとか俺が形を保っていられたのも、塚端のおかげだ。たった二週間で何度も。

「あんたは私が父親を知ろうとして、何もできなかったとき、何とかしてくれた。ううん、それよりも前。何かしようとしてくれた。それだけで私はよかった」

「それは、」

 それは俺の興味本位だ。興味本位で首を突っ込んで、人を傷つけて、勝手に自分も傷ついている。

「嫌なことがあったんでしょ?」

 あった、と言っていいかわからない。だって、俺が目を反らして逃げてきて来たのは、歩鳥先生の青い顔を見たからだ。過去からの恐怖や悲しみが全身を毒のように巡って、蝕んでいく。その毒を盛ったのは俺。手に持っているのは毒だと考えればわかるはずなのに、知らぬふりして。だから、嫌なことがあったなんて言えない。それは、俺の責任だから。誰かに押し付けるような言葉にはできない。

「それも、私のために」

 違う。君の父親について調べると言ったとき同じだ。俺の興味本位でしかない。

「あんたは優しいから。きっと違うって言うと思う」

 なに見透かしたみたいに言うんだ。

 優しいのは塚端だ。

 塚端より俺のほうがずっと自分勝手で弱い。

 なんで、大事な母親を失って、どこかで生きているかもしれない──恨んでいるかもしれないが──と思っていた父親も死んでいたとわかったのに、そんなに他人に構うことができる。

 俺なんてもう、逃げ出してなかったことにしたいのに。

 何度も何度も。

 季節が変わるよりも早く挫折しかけて、バラバラになりかけて、その度にお前の言葉で繋ぎ止められる。つぎはぎだらけの隙間も満たしてくれる。だから、ここまでやって来られた。

 だけど、もういいだろ。ここが境界線の終着なんだ。フラフラと、ボーダーラインを綱渡りするのにはもう疲れた……。

「だから、もうやめてもいいよ」

「────」

 今まで、一番優しい声だった。この世の星を全てかき集めて淡い吐息に変換したみたいに、ずっと聞いていたい、眺めていたい、言っていてほしい。まさしく、俺が望んでいた光だった。「…………」ほんの三秒前までは。

 なぜだろう。全然喜べない。

 全身の力が全て抜ける。それ以上に、胸から何かがごっそりと抜け落ちていく。どろり、と心臓から、臓器が、熱が、虚空を生み出すかの如く。

 ダメだ。拾わないと。失えば死んでしまう。

 大事なものが、死んでいく。

 俺は死なない。虚空が生まれたとしても心臓は血液を送り続けていく。抜け落ちていく臓器を失っても俺はきっと問題なく飯を食えていく。熱を失っても平熱を下回らない。生きていくには困らない。

 だけど、今失おうとしている物を手放してしまえば、俺は死ぬことにも困らなくなる。だから、拾わなきゃいけない。

 絞りだせ。声を。手を伸ばす力を。

「やめない……」

「なんで?もうお父さんは関係ないよ?」

「うん、文月・章は塚端のお父さんじゃなかった」

「じゃあ、もう関係ないよね」

「関係ないことないんだ」

 さっきとは逆だ。心の中で少しだけ笑ってしまいそうになる。けど、それはもう少し後で、だ。言い訳しないとなあ……。

 一度は言ったことだから、否定とかまあ色々しないと。

「たとえ、文月・章がまこのお父さんじゃなくても、お母さんとは関係がある。ということは、まことも無関係とは言えないでしょ?」

 苦しい言い訳だし、辻褄合わせだ。だから何?と言われてしまえばおしまい。

「それはそうかもしれないけど。あんたと関係ないことに変わりないじゃん」

 それも、そうだよな。俺に関係ないことに変わりがない。結局、俺たちは他人なのだ。その通りだ。俺もさっきまでずっとそう思っていた。今でも思っている。どうしようもない事実だ。覆せない。

 だから、他人のままで、触れ合える距離まで近づこう。

 俺たちはもう近づいている。

 まこだって言ってたじゃないか。

「俺たちはシェア部でしょ。同じ目的を共有して助け合うって。だから、俺がまこの目的に手を出してもいいんだ。出させてよ。ここまで来ちゃったことだし。今さら降りることもできない」

「なにそれ……」

 言い切って、まこの瞳をやっと正面から見られる。ここまで逃げてきた。申し訳なさとか情けなさとかで視線を向けられず、違う方向ばかりを見ていたけど。ここで、やっと見ることができる。

 見て、応えられる。

 今にも泣きそうな瞳にかけるべく言葉を、俺は持ち合わせていなかった。頭の中の辞書をひっくり返しても目当てのページは見つからなくて、ただ録画していた映像だけが再生して、同じことをする。

「ズルいよ、本当にズルい……」

 つまり、俺はまこと同じことをした。

 背中に回していた右手を、まこの頭に乗せて。

 残った左手に力を込めて。

「ごめん……」

 やっと、出てきた言葉は謝罪の言葉。

 ここまで、迷惑をかけた。

 勝手に首を突っ込んで。

 勝手に傷ついて。

 勝手に止めたがって。

 勝手に逃げ出して。

 勝手に戻ってきた。

「もちろん、まこがもう関われるのが嫌だったらやめる」

 ここまでやっといて、最後に臆病風が吹く。

「……嫌じゃない。嫌ではない」

「なんか含みのある言い方だね」

「あんたがやってくれることは嬉しい。何のためにかわからないけど、勝手に私は私のためにだと思っとく」

 だけど、

「だけど、私はあんたがまたこうやって傷つくのを見たくない。私のためにってことは私のせいってことでしょ。こんな風になってるあんたをもう見たくない」

 わかったことがある。どうしたって、俺は傷つく。これからもずっと、何が理由でそうなるかわからないけど、まこほど強くはないから。簡単に挫けそうになる。

「ダメだってなりかけるたびに、こうしてくれたらそれでいい」

「あんたって本当にズルい……」

 それから俺たちは笑いあった。

 さっきまでの泥のように沈んだ俺はどこかへ流れて行ってしまったみたいだ。まこの涙が溢れたときに影もろとも姿を消して。

 バカみたいだな、と思うけど。たぶん、こんなことを繰り返していくのだろう。俺は何度も同じような失敗を繰り返して、転んで、その度に起き上がらせてもらって。その時に手を伸ばしてくれるのがまこだったら嬉しい。そうなるように、努力すべきなのかもしれない。

「ズルいと言えば!」

 夕食を終え、そろそろ帰るかというときにまこが大声を出して俺を睨んだ。

「な、なに?」

「いつの間に私のこと名前で呼んでるのよ!どさくさに紛れて!」

「あ、あれ?そうだった?」

 そう言われたらそうかも……。いちいち、塚端と呼ぶのも疲れてきて、短い方を無意識に選んでいたのかもしれない。

「学校では絶対やめてよ!勘違いされるから!」

「勘違い?何を?」

「あんたと私が、その、付き合ってるって思われること……」

「あー……わかった……」

 俺が恋愛禁止を事実上認めている手前、勘違いされるようなことするべきじゃないよな。

「わかってない!」

「いや、わかったって。これまで通り塚端って呼ぶよ」

「じゃあ、今呼んでみて」

「塚端」

「ほら、わかってない!」

「どういうことだよ!」

 苗字で呼べって言ったのお前じゃん。

「学校ではそう呼べって言ったんだし!だから、それは……」

 俺はこのときどんな顔をしていたのだろう。面倒くさそうな顔をしていたのか。たぶん、にやつく口角を必死に抑えるのに必死になっていて、めちゃくちゃ気持ちの悪い表情を浮かべていたと思う。まこも凄い顔をしていた。

 それはもう、一瞬自分の思いを否定しかけてやっぱり肯定して、その境界線を反復横飛びしているのが手に取るようにわかる。

 やがて溶けかけのスライムみたいな表情に定まって、

「家では呼んでいいから……。勘違いされることもないし」

「わかった……つか、」

 鬼の形相で睨まれた。

「わかった、まこ」

「それでよし!て言うか、だいたい!あんたが演説の時に面倒くさいこと言わなかったらこんなことにもならなかったんだから!」

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