帰りのホームルームが終わり、配られた三者面談についてのプリントを鞄に押し込み、まこはどうするのかそれとなく訊いてみると「歩鳥先生も事情は知っているし一人で受けるよ」とのことだった。入学時の書類に書いているから、それもそうか。
一度、暫定シェア部に赴き、レア先輩、奈々先輩、まこ。そこに昨日、美術部に退部届を出してきた沢辺が集まり、お互いの健闘を祈った。
「それじゃあ、頑張ってね章後輩。真実を確かめてくれ」
「レア先輩も」
短い言葉をいくつか交わして、沢辺以外の俺たちは部室をあとにする。
奈々先輩とレア先輩は学園長室へ。
俺とまこは屋上へ登っていく。
鍵も許可も、職員室へは取りに行かない。すでにお願いはしていて、待ち合わせもしている。埃っぽい階段を上って、重たい扉を開くと風が俺たちの顔を強く撫でていく。最初にシェア部部室へ入ったときもこんなふうに風に歓迎されていたな。もうだいぶ昔のようだ。今から、さらに昔。俺たちが生まれる前の過去を掘り起こしに行く。
待ち合わせた人物はドアを開けて正面、一枚だけ新しいフェンスの前に佇んでいた。
「歩鳥先生」
「どうしたの、こんなところに呼び出して。ダメよ、日下部君には塚端さんがいるんだから」
口調はいつもの調子だが、一緒に来た日の最後のように青く血の気が引いている色だ。俺はもう一度、この人に毒を盛る。今度はまこの目の前で、二人に。
「歩鳥先生、これから話すことは全部俺の予想でしかないです。だから、違ったら違うって言ってください」
前置きは要らない。歩鳥先生だって、ここに呼ばれた時点でわかっているはずだ。俺が今から何を喋るのか。
文月・章の死についてだ。
なぜ、文月・章はここから落ちたのか。
「文月・章は自殺ではありません」
「そう、なんだ……」
歩鳥先生は自分の腕を抱いて、俺の言葉の続きを待つ。その姿は必至に震えを抑えているようだった。そんなに怖がることはない。今から喋るのは誰にとっての罪でもないんだから。
「ただの事故なんですよ。老朽か不備かで外れやすくなったフェンスにもたれかかって、落ちてしまったんだと思います。これはもう、たった一つの怠惰か不正が起こした、どうしようもない事故です」
「ねえ、どういうこと?」
歩鳥先生よりかは血色のいい顔色のまこが俺の袖を掴んで問いかける。
「今、歩鳥先生の後ろにあるフェンス。その一枚だけ、新しいですよね」
「ええ……、文月君が落ちて、取り換えられたから……」
「不思議だったんです。なんでその一枚だけだったのか」
だからそれは、そこだけしか必要が無かったからでしょ、とまこは無言で訂正する。俺も最初は考えた。そうだとしても、不思議じゃなかった。
「この学園の事務は優秀です。与えられた予算をキッチリ使い切る。もちろん超えることもないです」
資料室で漁って見つけた事実はいくつかあって、これもそのうちの一つだ。
「そんな優秀な事務が、二十五年前、一度だけ予算オーバーをした。恐らく、フェンスの代金でしょう」
文月・章が亡くなったのは年末に近い時期だった。突然の出費に予算を編成し直すことだってできたはずだが、そうすることなく単純な赤字として処理されている。さらに、
「その翌年、翌々年、二十五年経つ今年まで、一度も予算を越えたことはない。ちゃんと使い切られている。だけど、生徒が転落死した屋上については一切の予算を使われていない。例えば、転落防止のネットを張るとか、もっと頑丈なフェンスに変えるとか、やれることはあるはずです」
「でもそれは、日下部君の言う通り事故だとしたら、でしょ。やっぱり自殺だったから、故意的なものだからいくらやっても無駄だって」
そう、自殺ならそれでよかった。自らの意志で文字通りフェンスを切り開いて落ちたのだとしたら、金をかける意味がない。
「その通りです。だから、自殺のほうが都合の良い人たちがいた」
「……?」
「当時、この学園の誰かがお金を使いすぎていて、だけど突然、どうしてもフェンスを伸長するために必要になった。振れる袖は残っていなかったから、どうにかして工面して、だけど帳簿に書かないわけにはいかず。その結果、予算オーバーの数字が出来上がった」大昔のことだ。もう、その人は学園にいないかもしれない。
「そうまでして、」
「そうまでしても、自殺ということにしておきたかった事実があったのでしょう。それを今、レア先輩たちが確かめに行っています」
このとき、学園長室では奈々先輩とレア先輩が学園長と交渉を行っている。きっと、ここで掘り起こしている真実を、あの二人も別角度から掘っているはずだ。俺たちの探しているものが出てくるかどうかはわからないけど。違ったら違ったときだと思うことにする。
「仮にそんなことがあったとしても、文月君が飛び降りていない説明にはならない。だって、そうでしょ。わざわざ外れやすそうなフェンスにもたれかかる?」
歩鳥先生のは可能性の話でしかない。もたれかかっていなかった事実と、姿勢を楽にするためにもたれかかった真実の可能性は、同時に存在できないが両方ありえない話ではない。両方、信じられる。だけど、俺は少しだけ後者に傾ける事実を知っている。
「文月・章──文月さんの癖って覚えています?」
「それって」とまこはつばささんとの会話を思い出したのだろう。俺たちはシェア部三代目部長であり、レア先輩の母親のつばささんから聞いた。運動したあとや、激しくツッコミをしたあと、つまり大きく肺をうごかしたあとに行っていた。
「胸を撫でていた、あれ?」
やはり、捉え方は人それぞれ違うようだ。
俺とまこ、それにつばささんは胸を拭っているように見えた。
歩鳥先生には撫でているように。
でも、一番正しいのはまこのお母さんだ。つばささん曰く、
「塚端のお母さんだけは違う動作に捉えていたようです。胸を押さえていた、と。これが一番正しい」
資料倉庫には色々な記録が残されている。卒業アルバム、出納長、それに健康診断の結果。
文月・章の癖はその程度のものだろうと気にも留めていなかった。だけど、フェンスにもたれかかり、さらには外れかけても身を剥がさずそのまま一緒に落ちていった理由を考えたとき、同時に、剥がせなかったのではないかとも行き着いた。
発見当時、文月・章は仰向けであり、フェンスが覆いかぶさるようになっていたと二十五年前の新聞記事には書いてあった。
もし、先に彼が落ちて仰向けに倒れていたとして、その上にフェンスが墜落したとすれば。軽くないフェンスは彼の身体を無残な姿にしてしまうだろう。だけど、新聞にそのようなことは記されていなかった。恐らく、文月・章と、彼がしがみついたフェンスは一緒に落ちた。
彼は、現実的なものとして、何かにすがらなくてはいけない状況に陥った。
「文月さんは心臓に爆弾を抱えていたんだと思います」
俺は資料倉庫で見つけた、二十五年前の健康診断結果をスマホの画面に表示させる。
「だいたいの数値はおおむね正常です。俺も調べましたが気になるところはありませんでした」
ただ一点を除いて。
「一カ所だけ、再検査の部分がありました。脈の部分です。この結果から詳しいことはわかりません。けど、元から心臓が弱くなっていた。これは事実です」
「じゃあ、文月君がよくやっていたあれは」
「ええ、心臓に違和を感じていたんだと思います。だけど、心配されたくなくて誤魔化すような動作をしていた。だから、皆捉え方が違っていた」
第一に、再検査を受け、実際に健全な心臓ではなかったとしても、日常生活に支障をきたすレベルまで異常であることはままない。文月・章もその一人だったのだろう。体育には問題なく出ていたようだし、学園にも普通に登校している。だから、誰もが見逃してきた。
「心室期外収縮、という心臓の病態があるそうです」
それは、
「心臓の下にある二つの部屋──心室で異常な電気刺激によって、正常な拍動の前に余分な拍動が起きる、ことらしいです。単発的に発生するかぎりでは危険なものでもないそうです。でも、文月さんはそう言う訳にもいかなかった。軽い、問題視をしなくていい段を飛び越えて、突然、ほとんど倒れ込むに近しいほどの苦しみが襲った」
そうして、なんとか立とうと手すりに選んだフェンスは不幸にも死へ招き込んだ。
「そうだとしたら、なんで、どうして……。どうして、あの日に……こんなところで」
この言葉を以前、歩鳥先生と屋上に来た時に聞いた。事件の日を調べても、なんら特別な日ではなかった。塚端のお母さんの誕生日でもなければ、学校行事があったわけじゃない。俺が調べられる範囲では、なんてことのないただの日常の一日だ。
でも、歩鳥先生は文月・章が死んだ日のことを気にして、重要視していた。
「この病気はほとんど高齢者に起きるそうです。発作の原因も寝不足やアルコールやカフェインの取りすぎ。それに、ストレス」
歩鳥先生の目が大きく開き、俺の顔をその瞳に移す。驚きと、何かを悟った絶望の表情だ。
「先生。先生はその日、何があったのか知っているんじゃないですか」これが、俺の用意していた毒。俺が歩鳥先生に呑ませるのではなく、飲んでもらうように目の前に置く。自分から話してもらうように。
さっき、歩鳥先生は事件の日だけじゃなくて、場所までも気にしていた。
なぜ、文月・章はあの日、屋上にいたのか。それをたぶん、歩鳥先生は知っている。
「教えてください。これまでは全部俺の想像です。フェンスの話も、自殺じゃない可能性の話も、ぜんぶ紙の上の記録をつぎはぎして作った想像に過ぎません。それでも、想像できないことがあった。文月さんが屋上にやってきた理由です。彼はここで発作を起こした。ストレスを感じた」
今、俺がやろうとしているのは想像で人を傷つける最低な行為だ。俺も、その下衆な行いを浴びたことがある。自分たちにとって面白い真実のほうに当事者を巻き込み、好き勝手述べる。それが真に正しい事象なのかどうかは関係ない。面白ければいいのだ。
俺が行っているのはそれと同等の行為。面白がっているかいないかの違いでしかない。いや、これだって俺の興味本位だ。どこまで突き詰めても、正当性なんて無いのかもしれない。傍から見れば同じ泥を被って、不確定な真実で人を傷つけようとしている。それでも、俺は確かめる。どうしても、訊きたいことがあったから。
「どうして、歩鳥先生は俺たちに文月さんのことを調べさせたんですか?」
最初に思い出せるのは、歩鳥先生に生徒会の仕事を頼まれたことだ。
「あのとき、先生は生徒だけで屋上へ行けないと付いてきてくれました。でも、そんなルールは無いのだと、別の先生に教えてもらいました」
あのとき、先生は俺から何かを訊いてもらうつもりだったのだろう。だから、わざわざ屋上へ付いてきて、俺の仕事が終わるのを待っていた。──過去のトラウマを押し殺して。いざ、質問に答えようとすれば、それは襲い掛かってきて。
「まだあります。その前は資料倉庫への片づけです。あの仕事も、先生は生徒会の例年のものだと言っていましたけど、レア先輩は知らないと言っていました。そもそも、生徒会の仕事なのに俺と塚端に声がかけられた時点で気にかけるべきだった」
あのとき、他の生徒会メンバーは全員用事があると説明された。だけど、本当にそうなのか?生徒会長と俺以外、全員部活に入っている。学園に残っているのが普通だ。
「あのとき、俺たちに文月さんが亡くなった時期に気づかせようとしていたんですよね」
どうして、俺たちが文月・章について調べていたと知っていたのか。ハマらないパズルのピースはあと二つ。
「レア先輩に俺たちを紹介したのも先生ですよね」
最初にビラを貰ったとき、レア先輩は他の新入生には目もくれず、俺たちが受け取ればすぐに教室へと帰っていった。あれは、俺たちを待っていたからじゃないのか。レア先輩と奈々先輩との会話で、ほかの新入生にも勧誘はしていたことは知っている。あのビラが最後の一枚だったのかもしれない。それなら、なんで最後の一枚を俺たちに取って置いていた?あのとき、前を歩く新入生はいた。だったら、その人たちに渡してもいいはずだ。でも、レア先輩は明らかに俺たちを待っていた。
初めて部室に入ったときも、レア先輩は俺たちのことを断片的ながら知っているようだった。歩鳥先生から聞いていたんじゃないのか。まこが二十五年前に亡くなった文月・章の恋人であった塚端みこの娘であり、よく一緒にいる人間が何の因果が同じ名前の章であることを。
先生は、俺たちが文月・章の死の真相に近づくよう導いてきた。どうしてそんなことをしたのか。
そして、最後のピースだ。
「これが、最後の疑問です。どうして、先生は塚端のお母さんが亡くなっていることを知っていたんですか?」
かつて、同じ部活の仲間であったつばささんですら、お母さんが亡くなっていたことを知らなかった。葬儀は取り行われていないし、娘であるまこが全部の知り合いに喪中のはがきを出すことも不可能に近い。ましてや、高校生時代の仲間であるつばささんとは長い間交流が無かったのに、どうして知ることができた。
「けど、それはだって私が書類にお母さんの名前を書かなかったからで」
「確かに、保護者の名前で苗字の違う人の名前を書けば、察することはできるかもしれない」
だけど、
「うん、日下部君の言いたいことの通りだよ。私は塚端さんが亡くなったことを、書類が届く前より知っていた」
どこから話そうかな、と歩鳥先生は少し迷いながら、ジャケットのポケットから指輪を取りだし、左手の薬指に嵌めた。
「私が結婚しているって知ってる?」
「噂としてなら……」
まこも頷く。たぶん、この手の話はまこの方が詳しい。
「じゃあ、この前私、親戚の法要があるってお休みしたよね?」
「ええ……」
「それね、夫の四十九日なの」
俺たちが何も言えないでいると、いつの間にか歩鳥先生はまこへと語りかけていた。
「ごめんね。これを言ったら、もう今までみたいに先生じゃいられなくなっちゃう。ううん、塚端さんが私のこと先生として見られなくなっちゃうのかな?」
空気に涙が混じっていく。罪と罰と、贖罪の涙だ。悲しみよりも重たくて、受け止めるのには覚悟の要る、百リットルの血よりも重たい涙。
「あなたのお父さんが、私の夫。大宮雅彦。って言ってもわからないか。あの人、名前は言わなかったみたいだし」
大宮雅彦。
聞き覚えのある名前だ。
それこそ一カ月近く前……。この学園に入学する前……。
「バス事故で亡くなった。私が引っ越してきた日に……」
そうだ、一か月前。引っ越し業者とエレベーターで鉢合わせするのが面倒で引きこもって観ていたテレビに入ってきた速報と、その後のワイドショーで知った名前だ。
大手製薬会社の若き社長。
「憶えてくれてありがとう。あの人も喜ぶと思うわ」
「なんで、なんでそんな人がお母さんと」
歩鳥先生は首を横に振る。
「ごめんなさい。私も詳しいことは知らないの……。聞けなかったから……」
それは聞くタイミングを逃してきたというよりも、大宮・雅彦に訊こうとしてこなかったことを謝罪しているようだった。
「塚端さんが御病気になって、初めてあなたがいることを教えられた」
歩鳥先生はどんなことを思ったのだろう。愛する人に子どもがいて、しかもそれが、かつての級友との間によって誕生していたとしたら。
「それで、なんで私があなたたちに文月君のことを調べてもらったかだよね」
「はい……」
「特別な理由はないの。強いて言うなら気づいて欲しかったから、かな?」
「自殺じゃないことにですか?」
「ううん、私もずっと文月君は自分から命を絶ったのだと思っていた。……そっか、ストレスか」
沈黙が俺たちを包み、校庭から聞こえる金属バットの音と掛け声は別次元からのささやきに聞こえる。
「どっちみち私が殺したようなものよね……」
唇に塗られた薄い紅が血に見えてゾッとする。
「あの日ね、私が文月君を屋上に呼んだの」
やっぱり知っていた。あの日に何があったのか。ほとんどの人にとっては特別な日なんかじゃなかった。歩鳥先生と文月・章を除いて。
「告白したんだ。恥ずかしいな。塚端さんとお付き合いしていたのも知っていた。だけど、どうしようもなかった。どうなってもいいから伝えたかった。そうしなきゃどうにかなりそうだった。本当にバカよね」
その告白の場に、ここを選んだ。
「伝えるだけ伝えて、私は先に……」
歩鳥先生が返事を待たず先に屋上をあとにして、その後文月・章は発作を起こした。
「文月くんは優しいから。きっと私に優しい断り方を考えてくれたんだよね」そう思うのは、期待のしすぎかな、と先生は自嘲する。
そんなことはない。歩鳥先生の言う通り不器用なほどに優しすぎるから心臓に負荷かかかって、まさに胸を締め付けられて苦しんだ。たまたま、苦しみが引き連れた先が死だっただけだ。
「ねえ、」と、歩鳥先生は何度も口にする。言うべき言葉を探して、喉でつっかえて、飲みこんで、そのどれも俺たちには届かない。今日は少し風の強い日だった。俺は揺れる前髪が目元を隠すたび、払いあげる。視界から歩鳥先生を消してはダメだ。
「ねえ、私は塚端さんにどうやって謝ったらいいと思う?」
吹奏楽部の練習が二曲目に移りはじめたころ。歩鳥先生は空を見上げて言った。
どっちなんだろう。まこに対してか。塚端のお母さんになのか。もしかしたらその両方かもしれない。
「私が文月君に告白したこと、怖くて誰にも言えなかった。バカだよね、言っちゃいけないことは言ったのに。挙句の果てに殺しちゃったのに。言わなきゃダメなことは何も言えなかった」本来なら、文月・章と最後に一緒にいた人物として名乗りでなくてはならなかった。隠匿した罪は確実に存在する。
慰める言葉もすぐに見つかった。そんなことないですよ。仕方ないですよ。もう、今日まで苦しんできたのだから、罰は受けています。こんな風に自信を貶める歩鳥先生を否定すればいい。俺にはその資格はない。あるのは塚端・みこの娘、塚端・まこだけだ。
「謝らなくて、いいと思います」
横から、何者にも消されないハッキリとした声が聞こえた。
耳を傾ける。
俺ができることは残っていない。
用意してきた毒は全て出し尽して、歩鳥先生は呑んだ。そして吐き出した真実は、今度はまこを蝕む毒となって回り始める。
俺だけが無傷だ。
「そんなの許されるはずないじゃない!」
二十五年の間溜め込まれていた暴流が解き放たれる。
「私が文月君を殺した!気づかないふりして黙ってきた!挙句の果てには塚端さんから、あなたから雅彦を奪った!」
わかってる?とまこに冬の小川のように問いかける。
「私はあなたから何もかもを奪ったの。お母さんの幸せも、あなたのお父さんも、あなたの幸せを全部!そんな私が謝らなくていい⁉無理よそんなの!」
己の罪を認めながら、何も罰を受けずにいられるほど人は強くない。歩鳥先生もそうだった。二十五年分の自戒をやっと表にできるのに、その機会を奪われようとしている。
「勝手なこと言わないでください!」
先生の言葉が冬の小川だとしたら、まこの主張はどんな風に形容すべきだろう。正反対、でもなかったから熱いマグマのようだったとも言えない。今、まこは荒っぽく包み込もうとする。
「私が不幸だったみたいな言い方しないでください!」
俺がダメになりかけたときはもっと丁寧にフォローしてくれている。場違いながらその特別感に喜んでしまいそうになる。
「雅彦さん──お父さんがいなくたって私は幸せでした!お母さんと二人だけでも、めちゃくちゃ裕福だって言えなくても幸せだった!それに、お母さんも私もお父さんを奪われたとは思っていません」
だって、
「だって、お母さんはずっと私に内緒で文月さんの名前を呼んでいました!大宮雅彦なんて人は眼中になかった!」
それもまた、残酷な真実だ。まこは自分で、自身が愛のもとに生まれていない人間だと意義付けたのだ。母親の塚端・みこと父親の大宮・雅彦に永遠の愛が無かったとしても、一瞬はあったのだと、俺は思う。少なくとも、まこへの愛は二人とも長い間、死ぬまで、あるいは死んでからも持ち合わせているはずだ。そうじゃなきゃ、まこの生活を工面したりしない。死んでからも続いているということは、きっと自分の身に何かあったときも不都合がないように準備していたのだろう。
口を挟む場面じゃないから黙っておくけど、いつか伝えられたらとも思う。
「もう、大丈夫です。完璧にこれまで通り、は無理かもしれないけど。歩鳥先生は私の担任で、部活の顧問で頼りになる先生です」
これがまこの、いくつかの真実を受け止めて作りだした答えだった。母の寂しさと苦しみの由来。自身の出自。そこに入り込んできた父親と自分の担任との関係。もつれて一本の直線として受け止めきれないとしても、まこはこれまで通りを望んだ。もつれたものはもつれたまま生きていくことを。
「でも、」
と、その先の言葉を聞くことはできなかった。
突風が、俺たちの身体を殴りつけ、そして──。
「──っ⁉」
よろめいてヒールでバランスを崩した歩鳥先生は背後のフェンスに倒れ込み、みしみしと風音に紛れ込んだ死神の足音と共に、その身を宙に投げ出された。
ここからは情けない話である。
この状況で一番早く動いたのは俺ではなくまこだった。
歩鳥先生の姿が屋上から姿を消すよりも早く駆け出し、その手を掴んで引っ張り上げた。下からフェンスが地面と衝突し、物々しい散乱音と短い悲鳴があがる。上を見上げる騒ぎが広がり始めて、もうすぐここにも誰かやってくるだろう。
そんなことも気にせず、まこと、追いついた俺によって引き上げられた歩鳥先生は息をつくが早いかまこを抱きしめて、大粒の涙を流し始めた。
ほとんどが嗚咽と階段を駆け上ってくる先生方の足音でほとんど聞こえなかったけれど、きっと風が吹く前に言いかけていた続きを話していたのだと思う。
その言葉を歩鳥先生と一緒に引っ張り上げたまこも数度頷いて、同じように泣き始めた。二十五年間、蜃気楼と霞と、歩鳥先生の胸の中に隠れていた真実が姿を見せ、誰かと誰かが傷ついた一日はこうして幕を閉じた。
俺と、俺以外の日々はここから少しずつ変わり始めていく。