黙々と、ただ黙々とグラスを磨く。
何も見えない、何も考えない、何も知らない。
ただ、薄暗いバーの中ではたまに嫌~な感じがあるんですよ。
時刻も日付が変わり、皆が寝静まり辺りも闇に染まって行く。
そんな中、嫌だな~怖いな~何て思っていると…
「比企谷君は一体何を考えているのかなぁ~?」
いる!
「稲川淳二です」
誰だよこの人にこの店を教えたのは…幽霊の方がマシだよ…ドラクエ5でも最初のボスは幽霊なのに、どうして魔王が来ちゃうの?ひとしこのみ揃えても仲間がいないと意味無いから!
「ふ~ん…ま、いいんだけどね」
こえーよ!稲川淳二でも真っ青だよ!
「それで、今日はどうしたんすか…?」
「ここ、バーだよ?君、大丈夫?」
「いや…そういう事じゃ…」
「あっはは!ごめんごめん、ただからかっただけ~」
チッ…この人本当にやりにいくいんだよな…
「ただ、私もうすぐ結婚するんだよね~だからそういう一杯が飲みたいかな」
チラっと左右の手を確認するが指輪は無い。
結婚…ねぇ…
「本当っすか?なら一杯ご馳走しますよ」
「お、比企谷君気が利くね~ならお願いしようかな」
結婚祝いの一杯…シャンパンベースだと辺り前すぎるか…
「んじゃ…ブランデーを1/3クレームド・カカオ1/3生クリーム1/3最後にナツメグを少々…」
「どうぞ…アレキサンダーです」
コトっと雪ノ下さんにグラスを差し出すと同時にどうして?と言う視線の言葉を投げてくる。
「アレキサンダーは1863年、英国のエドワード7世とアレキサンドラ王女の結婚式に献上されたカクテルと言われてます」
「そっか…だから結婚祝いのカクテル…甘くて飲みやすく優しい味わい…」
カクテルに口をつけ、そうつぶやいた雪ノ下さんはどこか愁い顔を一瞬浮かべたような気がした。
「にしても結婚なんて急ですね」
「女は望まれて嫁ぐのが一番ってね」
「失礼かもしれないですけど…相手は誰なんすか?」
「ん?秘密!」
と、ウインクを投げてくる。
本当に見た目は完璧だよな、雪ノ下とはどこでこうも差がついてしまったのかと豊かな胸元に目を運ぶ。
「あっやらしいな~お姉さんのどこを見てるのかな?」
「い、いやどこも見てないでしゅ…よ?」
こ、これが姉妹の差…か、雪ノ下、残念だがお前じゃこの胸…もとい姉には勝てないぞ。
「それにしても比企谷君がバーテンダーなんて意外だったな~雪乃ちゃんに養って貰うんじゃなかったの?」
「いや、アイツとはそういうんじゃ…」
「へぇ…そっか、うんうん雪乃ちゃんにもちゃんと選ぶ権利はあるしね!」
ぐぎぎ…どうしてこの姉妹は…ん?選ぶ?
そうか、選ぶ…か
「でもいい腕だよね。アレキサンダーって作るの難しそうだけど」
「生クリームを使ったカクテルは少し強めにシェイクする必要はあるんすけど、プロなら難しい事はないですね。それよりも難しいのは飲み方…ですかね」
「飲み方?」
「アレキサンダーには有名なエピソードがひとつあるんすよ。映画『酒とバラの日々』の中で主人公ジャック・レモンが酒の飲めない妻のために勧めるのが甘くて飲みやすいアレキサンダー、しかしそのアレキサンダー一杯をきっかけに妻はアルコール依存症に陥り家族は崩壊していく…」
「飲みやすいのが逆に仇となったのね」
「大昔、こういう甘口の強いカクテルを女殺しなんて言ったそうです。少し飲み過ぎると潰れてしま…」
「それで、そんなカクテル私に飲ませて比企谷君はどうしようって言うの?」
最後まで話させて!お願いだから!
「いや、別にそんなつもりじゃ…でも、折角なんでもう一杯ご馳走させてください」
「そ…ありがとう」
急に興味なさそうに呟く。浮いたり沈んだり捉えどころの無いのは相変わらずなのか、それとも…
「このカクテルはフランス語でビジュー、宝石といいます。」
下からベルモット、シャルトリューズ、ジンの順番でプースカフェスタイルで注ぐ。プースカフェスタイルとは比重の違いを利用し、お互いの液体が混ざらない様に注いで綺麗な層になるモノだ。
「ジンの白がダイヤ、シャルトリューズのグリーンがエメラルド、ベルモットの赤がルビー」
「へぇ…結婚祝いに世界一高価な宝石達かぁ…洒落てるね」
「少し時間を置くともっと層がハッキリ分かれて宝石のように見えますよ」
そう言うと雪ノ下さんはグラスを黙って見つめる。
「比企谷君…女はね、宝石が欲しいんじゃないの…それが愛の証だから欲しいんだよ…」
雪ノ下さんに差し出す様に作ったグラスをふっと持ち上げる。
一体何を?と言う顔の雪ノ下さんの前で先程作ったカクテルを別のグラスに流し込み軽くステアしながら口を開く。
「宝石のようなこのカクテルにももうひとつの名前があるんすよ…その名前がアンバー・ドリーム『琥珀の夢』」
「琥珀はただの松ヤニの化石ですけど宝石のような華やかな輝きはない。でも数万年の時間を経て宝石と違う美しさを得る。その美しさって何だと思います?」
暫しの沈黙が場を支配する。
「ここには時間が詰まっている。夢のように長い時間が…大事なのは同じ時間を生きる事なのかも知れませんね…」
「同じ時間を生きる…か」
「話してみたらいいじゃないですか…雪ノ下に、自分の気持ちと本当はどうしたいのかを、結婚…本当はしたくないんじゃないんすか?」
そう言うとピリリと電話の着信音がなり響く。
どうぞ、と電話に出るよう雪ノ下さんに促す。
「もしもし、お母さん?うん、うん…分かってる。ただ…一杯のカクテルを飲む時間を頂戴。私にとって結婚より大事な一杯なの」
電話を切った雪ノ下さんにグラス差し出す。
「美味しいね、これ」
「さっきのアレキサンダーもそうですけど…甘さと苦さ、喜劇と悲劇、幸福と不幸…どんなものにも2の顔があるってことですかね」
「2つの顔…本当はね、私も迷ってるんだ。家の事情で結婚する事。でも、私が断れば次は雪乃ちゃんがそうなるんじゃ無いかって…そんな理由で結婚しちゃダメだって分かってるんだけど…姉の顔と家の顔…私ちょっと疲れちゃった…」
俯き呟いた彼女から他人にけして見せることのないであろう涙がこぼれ落ちた。
「ごめんね…急に泣いちゃったりして…」
「雪ノ下さん、どうしてバーの照明が暗いか知ってますか?」
「えっ」
「それは涙を隠すため…なんて臭いっすかね」
呆けた顔。これでようやく一本とれたかと思い布団に潜り込んで叫びたい気持ちを抱え込む。
「あっはっはっは!比企谷君もう最っ高!あっはっはっは!」
今度はお腹を抱えながら涙を拭う。
「それで、何処で気付いたの?」
「バーテンダーってのは観察力が大事です。普段より急に饒舌になる。目に落ち着きがなく、声や動作が大きくなる。これは嘘をついてるサインなんて言われてますけど…まぁ外面を完璧に固めてる雪ノ下さんがいつもと違うなってくらいの勘…ですかね」
「自分が眠ってると気づいた人はその瞬間、すでに半分目が覚めている。誰でも本当は自分がどうしたいのか気づいてるのかもね…」
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「比企谷君~次はまだなの~?」
この人また来たと思ったら一体いくら酒飲むんだよ…
もう10杯位は飲んでるんじゃないか?姉妹揃って飲み潰れちゃうんじゃないの?
「雪ノ下さん…そろそろ飲み過ぎっすよ。それに結婚するんじゃないんっすか?怒られちゃいますよ」
「結婚?誰が?」
「え?雪ノ下さんが」
「あぁあれね、やめたよ。私の相手は私が決める。雪乃ちゃんも代わりなんかにさせないってお母さんにキッパリ言ってやったの」
そうか……良かった…のか…?
「それにお姉さん今日はメチャクチャ酔いたい気分なんだよね~仮に酔い潰れても誰かさんがおぶって帰ってくれるらしいしね」
ドキィッ!?
「へ、へぇ~そんなサービスあるんすね。便利っすね。」
グギギィ…と首を回しながら目をそらす。
これはヤバいこれはヤバいこれはヤバい。
「比企谷君は…雪乃ちゃんには勿体ない子かもね…」
「な、何か言いました?」
「んーん、何でもないよ」
そう言って笑った雪ノ下さんはいつもの笑顔より綺麗な、そう、宝石のような笑顔で笑っていた。