無限回廊に囚われし哀れな子羊の覚書 作:非対称ジメチルヒドラジン
空の飛び方を知りたい者はまず立ちあがり、歩き、走り、登り、踊ることを学ばなければならない。
その過程を飛ばして飛ぶことはできないのだ。
蝋燭の炎に照らされる中、祭壇を再び調べる。
あの階段を降りるためには奴を倒さなくてはならない。
俺は気がつけばまたあの悪魔的儀式の行われたであろう部屋へと引き戻されていた。
これが夢ならば、もし良い夢であるならば、俺はあの怪物を倒す、あるいは無慈悲な重砲爆撃で吹き飛ばす事は容易だっただろう。
だが現実としてそのような事は起こらない。俺は禄な戦闘能力も持ち合わせていないし、かと言って機関銃など優秀な兵器を持ち合わせている訳でもない。
祭壇の構造物を引き剥がして即席の打撃武器を作ろうとしてみたものの、残念な事にその企みは上手く行かない。何か強い力で守られているような、いや、この空間自体が破壊不可能なある種の絶対的存在なのかも知れない。
このまま進むと、再びあの階段に戻れて、例の地下鉄構内に行き着くことも不思議と感覚でわかる。理由は検討もつかないが。
自らのポケットを探る。自分はいわゆる私服を着ていた。
前ここに来たとき、鍵を左のポケットに突っ込んだはずだった。
ポケットを探り、例の物の存在を確認した。
表面は若干ザラザラしている。錆びの影響だ。鍵が鍵としての役割を果たせるかどうか怪しいところだが、しかし。
祭壇をくまなく調べた結果見つかった、この鍵穴とは少なくとも型が合いそうだった。合う気がした。
真鍮製の古めかしい鍵。その半分以上は錆によって侵食されており、とても使用に耐えるようには思えなかった。だがやってみる価値はある。
戸棚に埋め込まれた鍵穴に、古びたカギを差し込んだ。
鍵穴からの返答。感触は確かにあった。
キーをひねると、ガチャっという音と共に何かが外れる音がした。解錠に成功した!そう確信した俺は戸棚を引く。
恐る恐る開けると、中からは白銀の刃が顔をのぞかせた。
短刀だ。美しい山を描く刃紋。
見る者を虜にする前衛的な形状。
その切れ味たるや筆舌に尽くし難い程であろう。
特にその刃からは妖艶な雰囲気が漂う。
只者ではない。急ぎ30センチ程の妖刀を鞘に収める。
直視出来ない。
見ると何かを斬りたいという衝動に襲われる。
呑み込まれそうな程白い鞘を両手で持ち、唱える。
意識が混ざるようなこの感覚。もう慣れた。
階段に戻ろう。奴を刺してこの鬱憤を晴らしてやる。
早く刺したい。
リノリウムの階段に引き戻される意識。
永遠に続くかのようにすら思えるこの階段。
見渡す限り緑一色のこの空間に、奴は居なかった。
先程はいたのにも関わらずだ。
何故だろう、何処へ行った?
背後からの悪寒に動じることなく階段を駆け足で降りる。
階段に目印など無い。何処の優秀な業者が作ったのか存じないが、階段はどこを見ても同じで、左右対称、傷無しゴミなし汚れ無し、オマケに階層の表記なしと来た。
全く、タチの悪い夢だ。
いくら進んでも地下鉄は見えて来ない。
さっさと奴を刺殺したい。衝動が収まらない。
妖艶な刃は鞘に収めてもなお訴えかける。
刺したい。刺したい。何でもいいから早く刺したい。
想いは届かず意識が飛ばされる。
まあ良い。次に飛んだところで心行くまで刺してやる。
何処だ、何処でもいいから早くやらせろ。
視界が戻る。地下鉄構内に引き戻された。
やっとだ。やっと戻って来た!
奴を殺せ!夢なら罪になど問われまい!
構内の微かな光も、女を視認するには十分な程だった。
なぜだろう、いつもより夜目が効いている。
狂ったように鞘を抜き捨て、転売ヤーの居た場所へと猛進しながら、訳のわからないことを喚き散らす。響く靴音も喚き声で打ち消された。
普段では考えられない程のスピードで地を駆けた。
まるで翼が生えているような、そんな気すらした。
「らーーーーっ!!!」
両手で刀を握りしめ、転売ヤーに斬りかかる!
青ざめる転売ヤー。
座り込んでいたのですぐには動けまい。
転売ヤーは両手で必死に静止しようとした。
だがその望みは、砕かれる。
この妖艶な刃によって。
ブスリ。
まるでキウイをフォークで刺したような感触だ。
転売ヤーの腹に、深々と白銀の刃が突き刺さった。
白銀の刃は無慈悲にも、心の臓を貫いた。
溢れ出す黒光りする液体。女の悲鳴が木霊する。
女の絶叫。五月蝿いので再度突き刺す。
刃を引き抜くと衣服に急速に血が染み出始めた。
即座に二度目の刺突。狙っても無い首元を刃が襲う。
鮮血が吹き上げ、転売ヤーの糸が切れる。
訪れる静寂。
"刺したい"という欲求は不思議と消え去った。
残ったのは後悔と懺悔心。
夢とはいいこのような事をするのは如何なものか。
"道徳心"からの激しい攻撃が下される。手が震える。
返り血で汚れた手を見つめて正気に戻った。
何と言う事をやってしまったのか。
生温く、妙にリアルな血の感覚を疑問に思いつつも、落とした短刀を拾い上げる。
こんなに血を触って、肝炎とか大丈夫かしら?
急に現実的な恐怖に襲われる。
幾ら清潔とは言えど、血は触るべきではないのだ。
肝炎やエイズでも喰らったらどうするつもりだ。
自分自身を叱咤しながら、事に及んだ短刀を見つめる。
不思議な事に、刃に血液は一切付着していなかった。
それどころか、前よりも切れ味が上がったのではないか?
そんな予感をよそに、捨てた鞘を拾い上げ、刃を収める。
白の鞘は血に汚されることなく存在した。
非常に美しい、惚れ惚れする見た目だ。
服にこびりついた返り血を気にしながらも、俺は更に駅構内を探索してみる事にした。