1.プロローグ
鬱蒼とした暗き森の中、草木を掻き分けながら先へ進む一つの人影があった。
背の高い深緑の木々が密集するこの場所では陽の光の一筋さえも確認できず、当然立ち寄る人間は殆どいない。
そんな辺鄙な地を今まさに踏んでいるその者は、この場の雰囲気には余りにも似つかわしくない純白色の衣を身に纏っていた。
頭頂から足元まで、様々な巧緻を極めた装飾品の数々を身に付けているその姿は繊細にして美しく、本来汚れが目立ちそうな金の飾りも今は外界から遮断されているように曇りの無い輝きを放っている。
そしてもう一つ、その頭部から伸びるのは白銀色の長い髪。それは女性特有の華奢な体を伝うように伸びており、その体躯、そして整った容貌からもその人物が丁度二十歳ほどの女性であることが見受けられた。
……先の通り、この辺りは大陸中央からも離れた場所に位置している。
この地域は大量の樹木のみならず、その全体をジメジメとした沼地で囲まれており、常時夜だと錯覚させるような厚く黒い雲が空に浮かんでいる。
加えて生息している生物の多くはカエルや軟体動物。
まさにお手本とも言えるような湿地帯であり、通常の女性であれば間違いなく顔を
しかし、風に吹かれ白い髪をなびかせている彼女の表情は人形のような無表情であった。それもそのはず、何せ比喩でもなんでもなく彼女はゲームの中の
まずはこのゲームについて端的に紹介しよう。
──
それは2126年に日本のメーカーが満を持して発売したDMMO-RPG……平たく言うとバーチャルオンラインゲームだ。
ユグドラシルは当時の他のDMMO-RPGと比べても自由度が異様なほど高いゲームであり、RPGの肝とも言える職業の数の多さは言わずもがな、キャラの
戦闘や冒険に関しても作り込まれており、世界観も良好。無限に続くのではないか──そう思わせるような広大な世界が、電子空間上に多数存在する。
そんな極めて高いクオリティを誇るゲームが流行らない訳も無く、ユグドラシルは多くの人間を虜にし、一世を風靡する。
それは後に『DMMO-RPGと言えばユグドラシル』と言わしめるほどだった。
しかし……それほどの人気、覇権も、もはや一昔前のことである。
────
2138年、発売から十二年が経過した現在。当時の熱心なプレイヤーの一人であった
サービス終了時刻は0:00丁度。
仕事を終え、何とか駆け付けて来た若月だったが、そんな日であってもプレイの内容はいつものそれと何ら変わりはない。
各所の探索をする。アイテム欄を眺める──。
アクティブモンスターのノンアクティブ化が実施されている時期だとはいえ、時間を潰すことはこのユグドラシル内では特に難しいことではない。……しかしログインしてから二時間も経たない頃、サービス終了を目前にした若月はまるでゲームの遊び方を忘れてしまったかのようにその手を止めていた。
それもそのはず。何せ今日という日においてはそんな日課的なプレイもその殆どの意味を失っている。もうじき何もかもが消え去るというのだから、ゲームに対する気力がなくなるのも当然のことだろう。
そのため、若月はただ空しく時が過ぎるのを待っていた。
拠点であるヘルヘイムと呼ばれる湿地帯、その辺境にあるやたら暗い森をゲーム内のアバターの姿で彷徨い歩きながら。
その姿は傍から見ればまるで亡霊のようであろう。
「はぁ……。しかし、まさかサービス終了まで一人で過ごすことになるとは思わなかったな」
人影はおろか話し声の一つさえ存在しない森の中。
若月は一人、心の内にあった不満をどうしようもなく零していた。
サービス終了日であるとはいえ、元々は社会現象にもなったゲームだ。街などの人が集まる地域には、まだそれなりのプレイヤーがユグドラシルの終わりを見届けるべくログインしていることだろう。
それでも若月がこうして一人このような辺鄙な場所を歩いているのは、街やギルド間の集まりを知らないからではない。
単に他のプレイヤーと交流のないソロプレイヤーであったためだ。
(昔のフレンドも……流石にログインはしてないか)
数少ない文字列が記されたそれを見ても、いつも通り灰色になったそれは変化していない。
初のオンラインゲーム。人付き合いに不慣れだったこともあったが、
というのも、DMMO-RPGであるユグドラシルは
その環境で女性キャラを被った初心の男が
地声を晒すことはせず、かといってテキストチャットやバーチャルコンソールで流暢に会話する技術もない。そうして無言とソロを貫き続けた結果が、この状況である。
現実と遜色ない高解像の森の景色を眺めていると、不意に力のない声が漏れる。
「あぁ。本当に、これで終わっちゃうのか」
明日はもしかしたらと何度も言い訳していたが、その時は最後まで来なかった。
誰かと一緒にもっと遊びたかった。肩を並べたかった。
そういった悔恨が今更浮かび上がった。
(もっと色々行動していればな)
まぁ勿論、今更言っても仕方がないことである。
観念するように若月は息を吐くと、その場から逃げ出すように中空へと手を伸ばした。
「流石にもうログアウトしよう」
もうじき日付が変わるとはいえ、若月は社会人であり朝も早い。この時間にどれだけの価値があるかというと、もはや惰性でしかないのが現状だった。
スッと伸ばした手が一定の距離まで動くと、すぐに若月の目線の先に透明色であるメニュー画面が音を立てて広がった。そうして画面を手際よく操作していき、ついにログアウトのボタンへと指が差し掛かる。
これを押せば、もう二度とユグドラシルをプレイすることはない──
そう思うと、流石に後ろ髪を引かれるような気分に襲われる。
しかし、それもきっと一過性のものだろう。
(……)
そう──自分に無理やり言い聞かせ、指を動かしていた時だった。
「……ん」
ゲーム内で突風が吹く。
それは木の葉を舞い上げ、若月の着ている服を大きく揺らした。
そしてその時に──偶然ともいうべきタイミングで──足元の大きな水溜まりに若月の視線が移る。移ったその先に、なぜか目が留まってしまった。
ヘルヘイムの沼とは違い、雨水から出来たであろうそれは現実よりもくっきりと自身の姿を鏡のように反射しており、それがあまりにも今の自分自身を映し出しているようで──つい操作の指が止まってしまった。
この終わり際、何もかもが無くなるその最期に、今も白銀に光り輝いていた彼女は──
「ツクヨミ」
若月は微かな驚きを湛えてその名前を呼んでいた。それは有名な神話から取ってきた大層な名前であるが、キャラ作成の時から思い入れのあるものだった。
水面に今映っているのは綺麗に揃えられた艶やかな白色の前髪と、背丈ほどもある真っすぐに伸びた後ろ髪。少し幼さの残る端麗な顔立ちに表情はなく、真珠のように輝く白い肌と、凛とした目から覗く深い紫色の瞳が印象的だ。
その体格はやや痩せ気味であり、一般的な身長であるが胸は控えめと言える。
また身体には金の刺繍の入った純白の聖衣を纏っていた。袖は大きめで、スカート状の一部分などには透明に近い灰色のレースも使われている。これは
他の装備や装飾品は
そうして丹精込めて作り上げてきたツクヨミの姿が水の揺れに伴い、微かに寂しそうに見えた。
「この期に及んで何を考えてんだか……。とはいえ、確かに──思えば長いような短いような──そんな七年だったな」
若月は思い出と共にこみ上げてくる気持ちをしんみりとした声で呟く。ログインできない忙しい時期もあったとはいえ、それだけの時間を費やし、共に過ごしてきたのだ。
ただのデータ。ただの
(そう、それなのに)
率直に言えば、かなり淡白な終わり方を自ら決め込んでいた。
若月はその事実にもう一度眉を落とし、考え込むような姿勢で静止を続けた。
たかがゲームと切り捨て、ここの全てを投げ捨てることに問題があるかというと、別にそんなことはないだろう。
けれど、それでも胸に募るのは有終の美への憧憬にも似た焦がれだった。
「はぁ……。じゃあ、そうだ。ログアウト前に拠点だけは行って終わるかな」
だからこの時――そんな決断をした。
眠気はピークだ。
最後までこのゲームに居座っている自分に呆れる気持ちもある。
それでも深く息を吸った後に、開いていたログアウトメニューを片手で別の方向へと振り、時刻を確認する。そこには機械的な白文字で23:50と記されていた。
「残り10分。それなら、まだギリギリ何とかなるか」
長い時間ではなかった。
もはや嘆いている暇さえない。
その事実を前にしてようやく、若月は意を決したようにぬかるんだ地面から足を離すとその体を勢いよく前へと進めた。
当初の目的地として、ログイン時に頭の片隅にあった、多数の思い出眠る地。
その場所まで踏みしめ、再び駆けて行くために──。
◆◆◆◆
「ふぅ」
水音を立てながら木々を抜けていくと開けた場所に出た。
急いだ甲斐があり、
その一帯には今までのような無数の青々とした木々は生えておらず、地面には背の低い翠色の草が生え、中央に円形の澄んだ湖と1本の大樹が生えているのみだった。
湖の中からちらちらと映る小さな紺の影は、モンスターではなく動物に分類されるただの魚であり、アイテムとしての価値も薄いそれは雰囲気作りのオブジェクトとされる。
元々は鼠型ワールドエネミーの出現場所だったこの場所は、当初は状態異常モンスターの温床でありグレンデラ沼地の奥地と並ぶほど嫌われていた。しかしワールドエネミーが討伐されてからはヘルヘイムの良心とも言える美しいスポットとなっている。それは『これが真の姿ではないか』そう思わせるような迫力さえあった。
とはいえ、ワールドエネミーが討伐されている以上、価値のあるアイテム類はもう残っていないに等しいため、足を運ぶ人はまずいない。
それはワールドエネミー討伐を達成し、ヘルヘイム全域にその名を轟かせた当時のトップギルド:
「最近はギルド長のモモンガさんがずっと独りで活動してたみたいだけど、彼も報われてると良いな」
アインズ・ウール・ゴウンにも今やその影は無く、巷の噂ではもうモモンガ以外誰も残っていないとまで言われている。
モモンガと若月──いやツクヨミは境遇こそ違えど、最終的に置かれていた状況に関しては大差無く、似た者同士であったと言えるかもしれない。
若月は小さく咳払いし、メニューを開く。
23:58:46。
もう終わりが迫っているようだった。若月は急ぎ足で湖の方へ移動し、辺りを確認する。
何度も訪れた拠点とも言える場所には予想していた通り誰も居ないが、サービス終了の時を静かに迎えるには奇しくも悪くない雰囲気を醸していた。
「何はともあれ……最後にここに来られて良かった」
若月はゆっくりと歩を進め、湖に浮かぶ大樹の前へとその腰を下ろす。
後ろに手を突きながら暗い紫色の空を見上げると、まるで走馬灯のように今までの情景が思い起こされていった。
初めてユグドラシルに降り立った日のこと、装備集めに勤しんだ日のこと、ゲーム内イベントで他プレイヤーと交流した日のこと。想起されるのはそのような楽しげな思い出の数々であり、悪いことばかりでは決してなかったことを最後に確信付けた。
ゆっくりと霧が晴れ──
「今までありがとう。……さようなら、ツクヨミ」
23:59:48
…… 49
…… 50
目を閉じた。
23:59:58
…… 59
00:00:00
…… 01
…… 02
……
若月は心の中でサービス終了の時刻が過ぎたことを確かめると閉じていた目を開け、反射的に頭からマシンを取り外そうと手を伸ばす。
ユグドラシルという夢の時間から
……ただ、どれだけ経っても"手がマシンに触れること"は無かった。
「ん?」
当然外したはずは無い。しかし若月の手に伝わる感触は間違いなく髪の毛のさらさらとした感触。くしゃくしゃと動かしてもそれが変わることは無い。
そして異変はもう一つあった。
「ど、
視界に飛び込んできたのは見慣れた自室ではなく、今まで一度も見たことの無い、深い霧に覆われた荒野だった。