18.竜王の国(1)
「……み」
いつの間にか遠ざかっていた意識に微かな音が届く。それは唐突なもので、雑音とも少し違う。
深く静かな思考の海の中をゆらゆらと漂っていたツクヨミは、鉛白色の仮面の下でゆっくりとその瞼を開けた。
「か、神よ。どうかされましたか?」
思考を整えるより先に、後ろから性急に言葉が投げかけられる。それは低い男性のものだった。
ツクヨミは先ほどの音の発生源もきっと同様のものだったのだろうと直感的に理解すると、歩いていた足をそっと止め、一拍置いてから横を向くようにして振り返る。
「すみません。少し……考え事をしていました」
頭を摩るように手を軽く動かす。ぼんやりとした視界の端にいくつもの影が映り、そしてすぐさまそれは明瞭なものへと変わった。
ツクヨミは現実に戻るように、意識を目の前の──白い厚手の戦闘服を身に纏い、一人を除いてその頭全体を怪しげなフードで覆っている集団へと集中させる。
その奇怪とも言える集団の人数は二十数名。纏まって動くにはそれなりの人数であるものの、綺麗に隊列を組んで進んでいるからか、ごちゃごちゃした印象は感じられない。
聞いた話では、彼らは『陽光聖典』というスレイン法国所属の特殊部隊であるらしく、その姿は疎か、噂さえ耳にすることは少ない。法国で生活していたツクヨミでさえ、その単語を耳にするのは初めてだった。
そんな法国でのエリート中のエリートである彼らは、立場の観点から見れば軍の末端であるツクヨミよりもずっと上の存在なのだが──今は揃って片膝をつき、ツクヨミの言葉を一言一句も聞き漏らさないといった様子で深々と頭を下げている。
彼らは今の今まで後ろを黙って着いて来ていたのだが、ツクヨミが突然立ち止まったからか、心配になって声をかけてきたらしい。
ツクヨミが返事をして間もなく、隊の先頭で何故か小刻みに震えていた金髪の男──マルセルがばっと頭を上げ、話し始めた。
「何を仰られますか……! 神が我々ごときに謝られるようなことなど一つとしてございません。寧ろ、神の御思考を邪魔してしまった私が愚かだったのです。どうかお許しください」
「え、ええ。私は大丈夫ですので……どうか皆さん頭を上げてください」
ツクヨミはマルセルの他、一緒になって懺悔を始めた陽光聖典各員を宥めながら心の内でため息を吐く。彼らは事あるごとに、額を地面に擦り始めようとするのだ。天使で治療した時はもちろんのこと、近づくだけで平伏されることもしばしば。お世辞にも、居心地が良いとは言えないだろう。
ツクヨミも態度を改めさせるべきか度々考えてはいる。しかしながら、彼らが今人生を捧げるほどに待ち侘びていた存在を前にしているということを思うと、それを邪険にするような真似はどうしても躊躇ってしまう。彼らに悪気が無いことは、神、つまりプレイヤーへの信仰を傍から見続けてきたツクヨミも十分すぎるほどに理解しているからだ。
数秒後、陽光聖典の皆々は縮こまりつつもそっと頭を持ち上げる。どうやら持ち直してくれたらしい。
「コホン。そういえば……」
一呼吸置き、ツクヨミは背伸びするようにして陽光聖典後方の広大な荒れ地を概観する。そこはなだらかな地形が広がっており、橙色の葉をつけた樹木や枯れ木などが点々と生えている。そのためとても見晴らしは良いのだが、ツクヨミが現状最も気に留めていること、それは確認できなかった。
「私たちもそれなりに歩きましたが、まだ兵士や軍の方などの帰投準備は終わっていないのでしょうね。彼らが都市内に移動するまでどのくらいかかると思いますか?」
「はっ。神の御指示通り、速やかに帰投するようには言ってあるのですが、燃えてしまった前線基地に残る遺体や物資の回収などを考えると早くてあと三時間は必要だと思われます。それでも神の遣わされた天使様のおかげで負傷者がいない分、想定よりずっと早く終わる可能性も無くはないでしょう」
「なるほど」
やはりそれくらいはかかるものか。ツクヨミは片手を顎に当て、それを支えるように腕をお腹に回すと横を向いたまま現状のことを考える。正直な所、他プレイヤー等の危険を考えると任務を放り出してでも帰投して欲しいとツクヨミは思っている。しかし遺体を野ざらしにするとビーストマンは勿論のこと様々なモンスターを呼び寄せてしまうようで、治安の観点からも回収を怠ることは出来ないらしい。
(まぁ──流石に現地人がいきなり襲われるようなことはない、と信じたいが)
そもそも他プレイヤーといった存在がいるなら、その関心は同じプレイヤーに向けられている可能性が高い。それはつまり現状最も危険といえるのが兵士や冒険者ではなくツクヨミ本人であるということを意味している。それを考えると今この場に留まっている余裕がないのは明らかであり、楽観的になってでもこの場から離れるのが全員の安全の観点から見ても得策であるといえるだろう。
「ただ、そうなると……天使はもう少し離れさせてた方がいいかな」
独り言を漏らしつつ、神妙な顔つきで頭を上下に動かしていたツクヨミは、ふと陽光聖典の視線に気づき小さく咳ばらいする。そしてそのまま恥ずかしさを紛らわすように仮面に触れ、体を翻した。
「行かれるのですか?」
後ろからマルセルの声がかかる。
「ええ。あまりのんびりしている時間もないでしょうしね」
驚くことに正面へ向き直ったツクヨミの目線の先には、既に竜王国都市に続く立派な門が広がっていた。その距離は遠目で眺めた時よりずっと近く、門番である兵士もこちらを目視できる位置にいる。とはいっても人の大きさはまだ米粒ほどなので、彼らの視力ではこちらが誰かなど一切分からないだろう。
「竜王、国……か」
誰も聞き取れないような小声でツクヨミは呟く。
それはかつて
数ある国の中ではスレイン法国も同様に秘密の多そうな国ではあるのだが、やはり転移当初からの拠点というのは大きく、竜王国と比べるとその警戒心は低い。ある意味、最初から一つの暗雲が晴れた状態だったのは幸運だったと言えるだろう。
(王国は散々だったし、竜王国では何事もないと良いんだけど。欲を言えば観光──は無理でも街の様子は見てみたいし。でも絶対忙しいんだよね……)
正直、既に雲行きは怪しいと言わざるを得ない。それだけやったことが大きいのだし、あまり浮かれた気持ちではいられない。
しかし、しかしだ。確か体を洗ったのは二日ほど前であるので、せめて隙を見てシャワーの時間でも確保できないかとツクヨミは思案する。それは人と会うなら必要事項だろう……うん。
一応、ツクヨミがリアルで男性だった頃は、自分の体臭に気を遣うことなどそれ程なかった覚えはある。会社で寝ることはありふれており、水の出るシャワーが無かったことも関係しているかもしれない。しかし、それでも今のように『身体拭いてないな』だとか、人に近づく時『臭くないだろうか』と考えてしまうことはまず無かった。
それは環境の変化、そして長い馬車生活に狂わされたところもあるとは思うのだが、根源的には何だか身も心も女性になってしまったような──そんな実感を時折感じさせた。
……
……
「んん、じゃあ、そろそろ行くとしましょうか」
ツクヨミは雑念を振り払うように一歩、足を前へ進める。そうすると他の者達もすぐに、ツクヨミの後に続いていった──
♦♦♦♦
竜王国は首都を取り囲むように、密集して造られた複数の都市がある。
ここはそのうちの一つ、大陸中央に最も近い東に位置する都市だ。その立地の都合上、大陸中央で日々争いを繰り広げている亜人の残党が流れ込んでくることも少なくない。それゆえにこの場所には首都以上に多くの軍需が集められており、最終防衛線である門の周りは城塞と化している。
とはいっても、それは聖王国のものと比べればみすぼらしいもので、年々ビーストマンの攻撃によって消耗しつつある。
そんな門の中でも特に重要なのが、都市目前に位置する正門だろう。入り口前は石造の建築によって橋のように僅かに盛り上がっており、その周辺は舗装され、速やかな往来が可能になっている。
──
現在、都市防衛の要であるその場所には門衛となる中年の兵士含め、幾人もの兵士たちが集まっていた。彼らの人数は普段の検問に割かれるそれと比べると格段に多く、都市内と門を忙しなく行き来する者も数えれば百人を優に超えるだろう。
「止まれ! 止まれ! おい、ちょっと誰かこっちも手伝ってくれ」
門の後方で、通行を止めるように手を広げる兵士の一人が仲間に助けを求める。元々彼らは昨夜のビーストマン侵攻のため配置された兵であり、鉄製の剣や丈夫な弓と矢、革で出来た鎧など、武器・防具を万全に整えてこの場所にて待機していたのだった。
しかし意外にも、ビーストマンは日が昇ってからも攻勢の雰囲気を見せてはいなかった。
それ自体は彼らにとっても願ったり叶ったりだったのだが、そうなると次に浮かんでくるのは『ビーストマンはどうなったのか』という疑問であった。
それは兵士だけでなく、ビーストマン襲撃に夜通し震えていた住民たちも同様であったようで、危険が身近に無いことを知ってからは門の外から遠目に現場を見ようとする者──いわゆる野次馬が大量発生しているのである。
「それにしても何がどうなってるんだ? あいつらが止めてくれたのか? ……いや、でもな」
薄々ではあるが、兵士たちも竜王国がビーストマンに追い詰められていることは理解していた。そして今回の襲撃が今までにない大きな波であることも。下っ端である彼らに多くは語られないため、それは経験や兵全体の雰囲気から察せられるものだ。
無論、そこに確証的な何かがある訳ではないので、現在の状況から考えると仲間の兵士たちが善戦したと考えるのが普通だろう。しかし、門に立つ者の多くにはそれが事実でないと、そう思えるようなもう一つの疑念があった。
「違うと思うな。お前も見ただろ? あの光を。確かに何かが起こったんだよ。昨日、いや明け方の間に」
後ろからすたすたと歩いてきた別の兵士がお手上げ、といった様相を見せながら兵士たちの会話に混ざってくる。
──極光。
少しばかり前、十数キロは離れているであろう暗がりの大地、その地平線を切り裂くように白い光が発生したのだ。
流石に位置の関係上、目にした者は門衛や積み荷の準備をしていた行商人などに限られるものの、複数人の証言という信憑性の高さから、実際に目にしていない者もその規格外の現象が確かに起こったことなのだと信じていた。
もっとも、誇張などにより付加されていく胡散臭い情報含めてだ。
暫くの間、門の内外は様々な憶測や噂が渦巻いていた。それはドラゴンがビーストマンを焼き尽くしただの、竜王が帰還しただの、実に竜王国らしいというか"願望に寄っている"内容だ。ただ結局の所、これといった情報が無かったためか次第に事は収束し、騒がしかった人々も各自家に帰る流れへと変化する。
それはごく自然な流れだった。しかし──
「す、すみません!!」
門の上に位置する長方形の
「どうした? 敵襲か……?」
「い、いえ! どうやら陽光聖典の方々が戻ってきているようでして」
「なに、マルセル様たちが。そうとなればこうしてはいられん。早く気を引き締めないとな」
いくら上から見ているといってもその高さは3、4mといった所だ。角度的にも彼方の地平線が見える訳ではなく、望遠鏡の設置されていないここからではその存在の特定には時間を要する。つまり彼らはもうある程度の距離まで近づいてきているのだろう。
「そ、それともう一つ……」
「なんだ?」
急いでいるという雰囲気を醸している門衛に、兵士は緊張した面持ちで続けた。
「見たことの無い御方が──陽光聖典の先頭を歩いています」
────
先ほどまで熱を失いかけていた門周辺が、ざわりざわりとその騒がしさを取り戻していた。まだ昼前であるがその人気は通常より遥かに高い。
「お、おい。あの人達は誰なんだ?」
「凄い衣装だ……。王族の方だろうかね」
「スレイン法国に王族はいないんじゃなかったか」
怪しげなローブ姿の集団、陽光聖典はそもそもスレイン法国の神官長直轄の特殊工作部隊である。そのため任務を共にする竜王国兵士と顔を合わせ行動することはあっても、民衆の前などにはまずその姿を現すことはない。
それが今、正門に堂々と現れたのだ。混乱が起きるのも無理はないだろう。
──しかしそれ以上に場をざわつかせているのは、彼らの先頭を歩く謎の女性の存在だった。
綺麗に揃えられた艶やかな白色の前髪と、地面へ届きそうなほど長い、背丈ほどある後ろ髪。砂上に輝くそれに、人々の視線が集まったのは言うまでもないだろう。
女性の顔は奇妙な渦巻きの紋様の描かれた仮面で隠されているものの、真珠のように輝く白い肌が前髪の厚い触角から微かに覗いている。
また、その身体には金の刺繍の入った袖の大きい純白の衣を纏っていた。
スカート部分など、衣の端々に透明に近い灰色のレースも使われており、砂埃一つついていないそれは豪華ながらも軽やかな印象を受ける。
その風貌はお淑やかな姫のようで、もっと別の……神々しい何かを感じさせていた。
人々が呆気に取られている内に、一行は門の前に到着する。誰もが落ち着かない様子で声を発するのを憚っていたが、どうであれ仕事を遂行しなければならない中年の門衛は何とか落ち着いた表情で一歩前へと進んだ。
「マルセル様、無事お戻りになったようで何よりです」
「うむ。全ては神のおかげだ」
表情は固いが、班長であるマルセルの声は生き生きとしていた。とはいえ傍からすれば何が起きているのかまるで分からないので門衛は今最も疑問にあることを口にする。
「……そ、それで、皆さまがここにいるということはビーストマンは無事撃退されたということでしょうか?」
周りの者達も静かに会話へ耳を傾ける。
一瞬、マルセルは仮面の女性に目配せをしたかと思うと、小さく頷いた後にそのまま話し始めた。
「あぁ。先ほどビーストマンの群れは全て倒された。出ていた竜王国の兵士や冒険者の多くも無事だ。そう──それも全てこの御方、神であらせられるツクヨミ様が我らにそのお力を貸して下さったお陰なのだ」
「か、神……ですか?」
マルセルを含む陽光聖典の二十数名は言い終えると同時にツクヨミへ頭を下げた。とても冗談を言っている雰囲気ではない。
まるでそうするのが当たり前と言わんばかりで、『この人が神なんだ』と直感的に感じさせるほど、皆がその空気に一瞬にして呑まれていた。
門衛は息を飲む。目の前に立つツクヨミというこの御方に無礼でも働こうものなら、即座に首が飛ぶだろうということを理解したためだ。スレイン法国に恩のある兵士もある程度その辺は弁えている。しかし、皆が皆そうではない。
「神って……あの?」
「大罪を犯したってあれとは違う、よな」
後方から発されるごく小さな無数の声が残滓のように流れてくる。そう、ここはあくまで竜王国。
彼らにとって"神"とは周辺諸国に広まっている四大神よりも、神の力を持ち、生物を虐殺したという八欲王の方が印象に強い。
勿論、四大神を信仰する者や八欲王は神の力を奪った不届き者だと割り切っている者もいるが、そうでない者も一定数いる。
その根底にある"畏れ"は幼い頃から育まれたものだからだ。
住人たちが醸し出す空気は存外分かりやすいもので、当の本人であるツクヨミや陽光聖典各員も当然気が付いていた。
そんな彼らをマルセルが不愉快に思わないはずもなく、一転爆発しそうなほど不機嫌な様相へ変化した彼は、物申すように足を前へ運ぼうとする。
咄嗟のことに門衛も言葉に詰まっており、フォローは間に合わない──
「ツ、ツクヨミ様……」
その時、マルセルを御すように、軽く右横を向いていたツクヨミが片手を持ち上げた。主に窘められたマルセルははっとした表情でその身を引く。
緊迫した状況の中、雑念を振り払うように初めて仮面を通してくぐもった女性の声が響いた。
「遅れましたが……先ほどマルセル様が紹介してくださった通り、私はツクヨミと申します。神というのは大袈裟かもしれませんが、確かに今朝、状況の悪い前線に助けに入りました」
「それに関しては、本当に感謝の言葉もございません」
門衛はそれを聞くと精一杯に頭を下げる。降りかかる怒りを収める……といった思いもあっただろうが、何よりも竜王国を救ってくれた恩人に対する非礼に申し訳無さを感じていたのだろう。
「いえいえ、私も私情がありましたし……それにこのような唐突な訪問にもなってしまいましたから」
ツクヨミは立場上頭を下げることはしなかったが、それでも半分詫びるような態度で接した。
本来この世界において身分の差は明瞭であり、仮にも一国のトップといえるような人間と庶民とでは全く対等ではない。それは常識であったため、門衛はその寛大さに驚きを隠せなかった。
「とんでもございません! 兵士一同、国を救って頂いた方の来訪を歓迎せぬ者は居りません」
「ありがとうございます。ご迷惑でないかと考えていたのでそう言って頂けるのは有難い限りです。……さて、それで今回こちらへお邪魔させて頂いた理由なのですが」
ツクヨミは一拍置いた後、仮面をちょんと触り、続ける。
「まぁ内容は単純なもので、今回のビーストマン騒動──それに介入した身として上の方と一度お話する必要があると思ったのです。こうして大事にもなってしまいましたからね」
「なるほど。確かに……そうですね。ではこちらから報告ということで上に掛け合ってみましょうか?」
門衛は静かに息を呑みながらも、先の失敗の挽回を図るように親身に話を進めていく。その間も決して突っ込みすぎるような真似はしない。
「そうして頂けると幸いです。このような
「は、はい! すぐに準備します。少々時間がかかると思いますので、その間そこにいる兵士に兵舎……いや近くの宿へ案内させましょう」
通常こういう場合は門に備え付けられている小部屋か、兵舎辺りに連れていくのが一般的だが流石にそれは不味いと思ったのだろう。突然指名された兵士も忙しなく案内を始める。
慣れない手つきで門を激しく往来する彼らにツクヨミも若干の後ろめたさを感じている様子だったが、右後方にいるマルセルは主の真意とは裏腹にお構いなしであった。
「金なら私が幾らでも負担する。良いか? ツクヨミ様に相応しい宿を用意するのだ」