見たまんまの脱衣所に入ってきたツクヨミは、少々物珍しいように辺りを散策した後、当初予定していた通り体を清めるための準備を開始する。
既にその顔に仮面は付けておらず、動きはここに来るまでのそれよりもゆったりとしたものへ変わっていた。その理由はここが普通の安宿と違い、個室の中に作られたものであるため、時間的制約や他人への配慮が必要ないためである。
そもそもの話だが宿の一室内にシャワールームがあるというのはこの世界では珍しい。脱衣所も基本的には扉の先に公共的な場所として設けられていることが多いのだ。
そのため、このように天井から吊り下げられた布で柔らかに空間を区切ること自体が、今泊っている宿──『七色亭』の風格の高さを表していると言えるだろう。……とはいえこれでも王国や帝国に存在する高級な宿と比べれば見劣りするらしく、共に案内されたマルセルが不服を言っていたのは庶民暮らしのツクヨミからすれば謎であった。
「この装備脱ぐのも久しぶりだなぁ」
ツクヨミのメイン防具である
ツクヨミは日本の和服ほどではないにしろ、ローブともドレスとも言えそうな複雑な構造であるこれを脱ぐと用意されていた籠には入れず、代わりにアイテムボックスの中に放り込む。手首飾りや靴も同様にだ。ただし、頭に着けている煌びやかな金の装飾は外すのも色々と面倒な細かさなのでそのままにしておく。
そうして最後に下着を畳んで籠の中へ置き、タオルを肩にかけた。一糸纏わぬ姿、というやつだがもう完全に慣れてしまったために何も思うことは無い。ただ、ちらりと目に入る真珠のような白く細い腕を見ていると、ここのどこからあれほどの力が出せるのかとは未だ疑問に思うことはある。
ツクヨミはこの世界の法則についてあれこれ考えながら、歩き出す。
シャワー室には簡素な鏡と風呂椅子、タオル掛け、それに木製の桶のような物が置いてあった。ツクヨミはタオルを用意された場所へセットし、さっと椅子に座る。そうすると一般人より遥かに長いツクヨミの後ろ髪は地面へと垂れてしまったため、それを膝上に持ち上げてからシャワーの栓を捻った。
恐らくここにも
「ひゃ!??」
恐ろしく情けない声を上げてしまうツクヨミ。先の水が冷えてしまっていたのか、文字通りシャワーから冷水を浴びせられてしまったのだ。
マルセルら陽光聖典が部屋の外、宿の廊下にて待機していたことは不幸中の幸いだったと言えるだろう。微かな悲鳴でも彼らなら駆け付けてくる可能性はある。あと、まぁ単純に恥ずかしいというのもなくはない。
程なくして水温は徐々に上昇し、お湯となって冷えた体を温め始めた。
「あぁ、やっぱ風呂はいいわ~……」
おっさんのような声を出しつつ頭の上からお湯を流す。久々に寛いではいるものの、それでも一応警戒を解いているということはない。
実はツクヨミの左手には今も装備を素早く切り替えるための課金アイテムが二つ握られている。プライベートな時間にこのような気を張りたくはないものだが、風呂や睡眠の間は最も無防備な時間だ。女王に会うまではひとまず備えておいた方がいい。
まぁ、それらを使用しても結局のところ登録装備以外のその他諸々(下着とか──)までカバーしてくれる訳ではないので来てくれるなというのが正直な気持ちであるが。
動きの止めた左手に意識を移し、そんなことを考えているとシャワーの水滴が指を流れ落ちていくのが目に入る。同時に麗しい光が一瞬だけ起こった。
(あ、そういえば他の指輪装備し忘れてた……)
人差し指。無課金でも指輪の装備が可能なその指には、助けに入る移動中に仮面のついでで取り出した探知系から身を隠す指輪が付けられている。
普段から見た目の都合で指輪を殆ど外した状態にしているツクヨミではあるが、それでも両手全ての課金指に、登録した指輪が存在する。
時間止め対策のもの、移動阻害に耐性を与えるものなど特定の状況下で力を発揮する指輪から、ビルド用に製作された指輪まで。
それらは中級者以上のプレイヤーならほとんどが強くなるために取り入れる要素であるため、これを外したままというような手抜きはしていられないのが現状だ。
ツクヨミはざーっと身体にお湯をかけ終えると、次に木製の桶の中からサラサラとした透明な液体を手で掬い、それを四肢へ塗っていく。それは植物の灰を
「古代の知恵ってやつだね。風呂場で使うのは初めてだけど」
安宿は基本水洗いのみなのであまり見かけないが、裕福な家庭などでは使われているらしいそれを、シャワーとの合わせ技で活用していく。
そうやって一通り体を流し終えたツクヨミは、最後にタオルで綺麗に身体を拭き上げた。
思っていた以上の長風呂になってしまったことに若干の焦りを感じつつも、脱衣所の籠へと手を伸ばし、先とは逆の流れで服を着ていく。
余談だが、ツクヨミはスカート状の衣類を身に着けた経験がリアルでも此方でも殆ど無かったため、脚の下の違和感がとてつもないことになっていた。丈は長いため、すーすーするという程ではないが何か形容しがたい感じだ。
そのため今はアイテムボックス内から探し出したグレーのタイツ装備を使用することにしている。
「コホン。他に何か準備することはあったかな……」
装備を到着時の状態へ戻したツクヨミは、濡れた髪を乾かしている間に指輪などを装着する。別に戦いに行くわけではないのだが、もしもの時の対策は必要だ。それに何かしていなければ落ち着かない、という気持ちもあった。
(あぁ──あと"あれ"も出しておくか)
ツクヨミはすぅと息を吸うと、慣れた手つきで中空の窓を開く。そうして腕をいつもより奥の方へと移動させ、それを掴んだ。
ゆっくりと爆弾でも取り出すような慎重さで手を引いていく。数秒後そこから姿を見せたのは『光の輪』と形容できそうなアイテムだった。
取り出してみるとそれなりに大きく、その輪の外側部分には白い翼が花開くよう浮いている。
その神々しいアイテムの名前は──
ユグドラシルに存在する全アイテムの頂点に位置するアイテム群である
それはユグドラシルをプレイしている者ならまず知っているくらいに有名な物であり、入手の難易度も極めて高い。ソロなどではまず手に入らない代物である。
にも拘わらずツクヨミが今これを保持しているのには幾つかの理由がある。まず一つ目の理由としてユグドラシルがサービス終了を迎えることになり、アイテムの価値が暴落したこと。
これは分かりやすく、終わりが近づくにつれ自分の装備以外のアイテムを投げ売りする者は多かった。それにこういったアイテムはギルド保持であることが主で、そのギルドマスターがギルドを爆破すると同時に放出されることは意外に多い。
二つ目の理由は競争率が低かったこと。これも前述したものと似ており、全盛期はとっくに過ぎていることもあって熱量の残っているプレイヤーが少なく、値段が低くても買い手が見つかるとは限らなかった。
そして最後に、この
そのためサービス開始から十二年、ついに使われることは無くその出番を終えた……はずだったのだが、今こうしてその眠りから醒めるように輝かしい光を周囲に放っている。
そんなこれでも所持していれば他の
いざ装備しようとすると光輪は自分からツクヨミの背中の方へ移動していく。ちょっとカッコいいな、等とツクヨミは内心で思った。
「じゃあ、そろそろ出掛けますかね」
扉の先ではマルセルが何やら誰かと会話をしているようで、ぼそぼそと話し声が漏れている。
まぁ小国とはいえ中央区まで移動するのだから移動にはそれなりに時間が掛かるだろう。まだ迎えは来ていなさそうだし、待っている間に昼食でも取れるだろうか。
そのようなことを頭に巡らせつつ、ツクヨミは手に持っていた奇妙な縦渦巻きの仮面を再び被ってから、そっと銀のドアノブを回した。
────
昼はあれだけ眩しかった太陽も、徐々にその光を弱め、遥か彼方の山に隠れようとしていた。
寒さの残る1月の黄昏前、明るい夕日に晒された竜王国首都の中心にある王城。階層にすれば高い位置にある窓の大きな一室にて竜王国の命運を握るであろう、そんな話し合いが始まろうとしていた。
「まずは遠路はるばる王城まで来てくれたことに感謝したい」
竜王国現女王であり、一応だが真なる竜王に分類されているドラクシス・オーリウクルスは普段より気持ちの入った声で、向かいに座る女性へと言葉をかけた。
「いえいえ、こちらこそお招き頂きありがとうございます。また本日はお忙しい中迎えにまで来てくださったこと、心より御礼申し上げます」
椅子に腰掛けたまま丁寧な態度で目の前の女性は返答する。
純白の豪奢な衣装に身を包み、神々しい光を背負う彼女の名はツクヨミ。一応今回の件の功労者であり、竜王国の危機を救った恩人という立場になる。……が、その背景は推し量るほど複雑なものとなる。
それはこの話し合いが謁見の間でなく、応接のための部屋で行われていることからも窺えるだろう。普通、一国の王がこうして誰かと向き合いながら話をすることはまず無い。それこそ同じ王族レベルの相手でなければ。
しかし見方によってはツクヨミはそれを超えているかもしれない存在。
いまいち距離感の掴み辛い状況、ドラクシスは自分の立ち位置も考えながら口を開く。
「いや、竜王国はツクヨミ殿のお陰で救われたのだ。その偉大さを考慮すればそれも当然のことだろう」
「そう言って頂けて幸いに存じます」
ツクヨミはそう言って行儀良く頭を下げる。美しい雪のような白い髪も僅かに揺れた。
ドラクシスはこうはしているものの心の内では少しほっとしていた。右後ろで静かに佇む宰相も大方同様の気持ちだろう。それは話に聞いていたのが、見たこともない衣装に仮面を被った存在で、しかもスレイン法国の祀る神……『ぷれいやー』であるというものだったからだ。
それこそ八欲王のような無法者であれば、命の危険もあっただろう。それほどの警戒心を持って臨んだのだ。
──ただ実際に現れたツクヨミは仮面を外していた。おそらく警戒を解いている訳ではないのだろうが、仮面を付けたままでは失礼に当たると思ったのか、それともこの場で意味がないと判断したのか。何はともあれその素顔を晒している。亜人やアンデットでもなく、同じ人間だ。
そして何よりその物腰も柔らかなものだった。多少警戒が揺らいでしまうというのも仕方がないだろう。
(しかし女の私が言うのもあれだが、とてつもない美しさだ)
凛とした目に紫の瞳。そして優しい表情と謙虚な姿勢。
完成され過ぎているその美に見惚れない男はいないだろうと思えるほどだ。実際自然と警戒心を解いてしまうような魔力がある。
ドラクシスは緩みそうになる気を一層引き締めると、少し間を置いてから話を切り出した。
「ではそろそろ本題に入らせて頂こうと思う。まず、ツクヨミ殿が食い止めてくれたビーストマンの侵攻だが……これは長い間苦しめられてきた問題だった。それ故に今回ツクヨミ殿が竜王国にもたらしてくれた恩恵は計り知れない。改めて、竜王国の代表として礼を言う」
感謝を表現するよう頭を下げる。そうしてツクヨミの様子を窺った後、言葉を続けた。
「言うまでもないが、既に国中にその偉業は広まっており、救国の英雄に皆が感謝している。これを機に竜王国は活力を取り戻していくだろう。ただ……そんな時だからこそツクヨミ殿にお願いがある。どうか今後も竜王国にその力を貸してくれないだろうか。この国には貴殿のような存在の助けが必要なのだ」
懇願するように問いかける。先にも言った通りビーストマンの被害はこれで終わる訳ではない。巨大な波は去ったが、それが次いつ来るかは分からないのだ。その時は無事か。そんな保証はどこにもない。だからこそ、このチャンスを棒に振るようなことは出来ないのだ。
「私個人と協力関係を結びたい、という認識でよろしいでしょうか」
「うむ。そういうことになる。あくまで法国との関係は切り離して考えたいと思っているがどうだろうか」
ツクヨミは少し考える素振りを見せてから話し始める。
「なるほど。まだ私は法国に住む一介の人間に過ぎませんが──その話し振りから察するに私が"神"であることを踏まえて……その力を借りたいということですかね」
言葉の真意を汲み取るような返答にドラクシスはただ一つ頷く。
法国という単語は今後絶対に出すことになるため、こういう流れになることは必然であった。
むしろ、城内まで着いて来ていたはずの陽光聖典をツクヨミが外で待機させていたことも考えると、彼女もこうなることは想定していた可能性がある。
ただ、それにしても頭の回転が早いようだ。話が早いのは助かるのだが、理を持っている相手にはそれ相応に頭を使わなければならないため疲労も大きい。
「その通りだ。ここに残ってくれとまでは言わない。ただ竜王国の民を守れるだけの力を、必要な時に貸して欲しいのだ。もちろんそれに見合うよう竜王国も出来る限りのことに協力する。……女王として誓おう」
「そうですか、話は分かりました。実を申しますと私も竜王国女王であらせられるドラクシス陛下へ望むものがあるのです。それをお受け頂けるのであれば協力しましょう」
来た、とドラクシスは心の内で漏らす。実のところ彼女が仮面を付けているという報告を受けた時にこの"報告の場"がツクヨミ本人にとっても重要な意味を持つことは薄っすらと察していた。なぜなら身元を隠している存在が、ただ国家のそれに手を突っ込んだからといって報告を迫られることはない。本気で隠れているだけなら逃げてもいいのだから。
そうしないということは、この謁見で何かを持ちかけたいと考えているからに他ならない。
つまりはここからの要求が本命であり、それさえこちらが受けられるのであれば"神"との協力関係を無事結ぶことができるということだ。
ドラクシスは緊張した面持ちでそれを尋ねる。ゴールはすぐそこなのだ。
「本当か! ……それで、望むものとは何だろうか。竜王国でできることなら良いのだが」
「それに関しては大丈夫だと思います。むしろ陛下にしか頼めないことかもしれません」
鼓動が早くなる。ドラクシスでなければ難しい、という言葉は嬉しいようで不安を感じさせるものだった。
それはさっと告げられる。
「私が今求めているのは──私と同じ神と呼ばれる者たちの情報……それと竜王に関する情報です」
「なっ!?」
声を上げたのは右後ろにいた宰相だった。がたりと僅かに体勢を崩したのが見なくても分かる。
ドラクシスも同様にその言葉を頭の中で反響させていた。ぷれいやーに関する内容が来るかもしれないことは想定していたが、まさか竜王に関することまで聞かれるとは思っていなかった。
しかし確かにぷれいやーの立場からすると、険悪な関係にある竜王の情報を聞いておきたいというのも分からなくはない──
「それはあまりにも!」
「よせ」
ドラクシスは興奮気味の宰相へ、抑えるよう片手で指示を出す。ただでさえぷれいやーへの警戒心が強いのだから、タブーに触れられればこうなってしまうのも無理はない。
取り乱している人間を見たからかほんの少しだけ落ち着きを取り戻したドラクシスは咳払いしてから返答する。
「ツクヨミ殿すまない。少しデリケートな問題なだけあってな。どうか、気にしないでくれ」
優し気、というより真剣な表情へ変わっているツクヨミの目を見ながら、すぅと心の中で息を吐いた。
「ただ一つだけ聞かせてくれ。それは具体的に何のために必要なのだ?」
「身を守るために必要な情報です。決して悪用しないことは約束しましょう」
「そうか……」
俯きながら考える。
ドラクシスは幼い頃から、国を建ててくれた竜王である祖父への感謝は続けてきた。そして八欲王の悪逆非道な行いも同時に教えられてきた。今でもぷれいやーを信じられない気持ちは大きい。
しかし、国民のことを考えれば間違いなく今は手を伸ばすべき時であろう。自分の気持ちなど今は何の価値も生まないし、今までの政治だって常に実を取り続けてきた。
こんな状況にも関わらず姿さえ見せてくれない竜王と、反してその力を貸してくれようとしているぷれいやー。
どちらを選ぶべきか、それが分からないほどドラクシスの頭は悪くはない。
そう、明白なはずだったのだ。
「ぷれいやーの情報は可能な限り渡そう。探索も必ず行う。ただ……本当にすまない。竜王の情報だけは漏らせない。それは祖国の裏切りになってしまうかもしれないから」
ドラクシスの口から紡がれた言葉は心で決めたそれとは全くの別のもので、恐らくツクヨミを失望させてしまうものだった。
自分でも混乱していたが、何とか状況を取り繕うべく言葉を発する。
「それ以外のことなら、何でもする。頭なら幾らでも下げよう! だから、どうか私を信じてくれないか」
息が上手くできていないのか、絶え絶えとなってしまう声が室内に響く。どう考えても無理な流れなのは傍から見ても分かるほどだった。
実際、竜王の情報こそがツクヨミの最も求めていたであろう点なので、それ以外に価値を見出してもらうのは厳しいと言わざるを得ない。彼女の背後には竜王国より遥かに大きな国であるスレイン法国もついているのだから、もとよりこちらが提供できるものは少ないのだ。
(女王失格だな……。これは)
ドラクシスは消沈したように前屈みとなってしまっていた体を起こす。暗い表情は決して見せないようにしているが、やはり気持ちは落ち込んでしまっている。
そもそも相手を危険に晒してしまうかもしれない選択なのだ。激昂されてもおかしくはない。
返答を聞くのは恐ろしかったが、対面からはすぐに驚くような内容が告げられた。
「……了解しました。では竜王国からはプレイヤーの情報を、こちらからは一先ずアイテムを提供するということで協力を始めましょう。無理を言ってしまったようで申し訳ありませんでした」
「ぇ、え? 本当にいいのか?」
「はい」
驚きのあまり聞き返してしまうドラクシスであったが、返ってくるのはYesの一言だった。おまけに目の前に座る彼女は『プレイヤーのことを知っていることには驚かされましたけどね』など言いながら、笑いを漏らしている。
どうやら緊張の糸が切れてしまったのはお互い様であったらしい。
「か、感謝する。ではツクヨミ殿、今後とも宜しく頼む。詳しい話は後ほどさせて頂こう」
「こちらこそ宜しくお願い致します。ドラクシス女王陛下」
窓から差す夕暮れを受けながら、二人は握手を交わすのだった──
会食も書きたかったのですが、カットされました。