分割できなかったため、長めです。
光を多く取り入れるよう設計された、通常のそれよりも遥かに巨大な縦長状の窓へと早朝特有の肌寒い風が叩きつけられる。
地上より随分と高い位置にある綺麗に磨かれたその窓は僅かな結露を発生させつつも、透明な朝の日差しを室内へと届けていた。
王城内の一角に作られた部屋の中には今、絢爛豪華な衣装を身に纏う一人の女性が腰を降ろしている。衣装と同様に、その頭部から流れ落ちる艶やかな髪は雪のような白色。
紫の瞳の上から覗くまつ毛は瞼ともに若干下がっており、若さを感じさせる凛としたその顔立ちに反して大人びた表情を形作っている。
まさに冬の中に佇む女神……という様相を醸している彼女の名はツクヨミ。スレイン法国の信仰対象である神であり、現在激動する世界の中心にいるであろう人物だ。──いや囲まれているという表現の方が正確かもしれない。
ツクヨミは豪華な部屋の中に設置されている小柄で柔らかな椅子の上で寛いでいる。靴はこちらの世界でも
その内容は近代の歴史とプレイヤーに関する伝承。上等な紙に綴られているそれは一般人ではまず読むことの許されないもので、王城にある書物の中でも鎖に繋がれて保管される類の代物だ。
紅茶片手に読むといった真似は流石に出来ない。
ツクヨミは要所以外はさらっと読み流す感じで読書を進めていき、そしてようやく"最後"の本を閉じたのだった。
「いやー疲れた……」
昨日の女王との話し合いから、書類での契約の後、軽い会食を挟んで客室へ案内されたツクヨミはシャワーを済ませてからそのままベッドへダイブ……はしなかった。
城内とはいえ、来てすぐの警戒心もあったし何より竜王国の宰相から関連の本の一部を渡して貰っていたため、その内容が気になってしまったのだ。
まぁその甲斐あって、夜中の間に多大な知識を得ることのできたツクヨミであったのだが、朝日が昇ってからというもの度々睡魔に襲われている。パチパチと音を鳴らす暖炉が部屋の内部の温度を丁度いいくらいに維持しているのも原因だ。
(ここで寝たら昼夜逆転は不可避だろうなぁ。しかし、
時々こんな時、馴染むのに長い時間が掛かるとはいえ、食事・睡眠が不要になるというアイテムの存在が頭を過ぎる。しかし、リアルでもエナジードリンク重ね飲みで一度体調を崩したことがあるツクヨミは、ぶんぶんと頭を振ってからアイテムボックスに伸ばしかけた手をそっと下ろす。
指輪が最適化されているとは限らないし、それに今付けたとて眠気が解消されることは決してない。ならば気合が一番確実だ。
ツクヨミは小さな欠伸をした後、立ち上がる。
「んんん」
めいっぱい背伸びをしてから、カーテンの開け放たれた窓へ歩み寄り、その先に見える広大な街並みに目を落とした。
しんと静まり返った街に人の気配は少なく、舗装された道の上を歩くのは老人と、それに連れられた犬くらいだ。
「私も散歩したいな……」
現に今回の行動で他プレイヤーに関する心配事は解消されつつあった。
百年周期の転移というのはやはり予想していた通りで、書物で話に出てきていたのも500年前の六大神、400年前の八欲王、200年前のプレイヤー、100年前の英雄やミノタウロスの発明家など現状の脅威となる存在ではなかった。
それを考えると前ほど臆病になる必要はない訳だが、それでも未知の世界の重圧は無限に続く夜闇のように足を動かすことを憚らせる。
(それでも、前に進まないと駄目だよね)
濡れた窓に反射している自分の姿はかつての沼地での記憶を想起させた。
ツクヨミは懐かしむように微笑すると窓から視線を外し、気持ちを切り替えるように部屋の入り口の重厚なドアを一瞥する。
客人という扱いであるとはいえ決して暇ではないので、朝の準備を開始するべく皺ひとつない天蓋付きベッドの横に移動する。
そうして揃えて置いておいた白のブーツを手に取り、ベッドに腰掛けた状態で履く。
身支度の流れで仮面も身に着ける。
未知の相手に顔バレするリスクを考えての事だったこれも、今となってはデメリットの方が大きいかもしれない。しかし素顔で動くことに些かの不安を残していたツクヨミは念には念をということでそのまま歩みを進めた。
ドアに近づき銀の取っ手を引くと、たちまち品格ある廊下と複数の人影が姿を見せた。
「神よ。本日もその光り輝く御姿を我らの前にあらわしてくださったこと、心より感謝いたします」
「皆さん。おはようございます」
張りきったように頭を下げ、朝らしからぬ堅苦しい挨拶をしているのはいつもの面々。陽光聖典隊員たちだ。
その人数が三名と少ないのは大人数での待機は逆に神の御座す領域への不遜とかいった謎の理由があるのと、そもそもマルセル含めて早朝から東の地区へ出払っているためだ。
聞いた話によると陽光聖典はビーストマンの件を放りっぱなしたまま随行の任務に移行していたため、現地での仕事がまだ数多く残っているらしい。明日辺りに本隊が到着するらしいのでその準備もあるのだろう。
そのように忙しなく働く彼らが、昨日も夜通し警護する気満々だったというのは狂気としか言いようがない。ツクヨミもそれは流石に止めたので、今は寝てから起きてきたのだと信じたいが。
「お早う御座います。神よりの御挨拶、身に余る光栄に存じます」
ややオーバーなリアクションに後退りしそうになるが、昨日部屋から出ていったときは嗚咽を上げられたことを考えると今日は大分ましな方である。
少しずつ対応にも慣れてきたツクヨミは廊下を歩きながら彼らに本日の予定を話す。
「さて、今日の朝はドラクシス陛下とお話する予定があるので少しバタバタするかもしれません。昼からは……私も東の方へ出掛けようかと思っています」
三人は出過ぎないようにか背筋をぴんと伸ばしたまま黙って着いて来ていたので、ツクヨミは振り向きながら言葉を続けた。
「あくまで私用ですから、お三方は残られても構いませんよ。どうしましょうか?」
「我々は神のしもべでございます。どうぞ御心のままに」
それ一番困るやつ……とツクヨミは内心思ったが、彼らの立場上それ以外の返答も難しいのだろう。
ツクヨミは咳払いするような仕草の後に口を開いた。
「それでは、ご同行願いますね」
陽光聖典の隊員はそれを聞くなり、体を震わせながら最敬礼を返した。普段からマスクを被っているため表情の読み取りにくい彼らであるが、これだけ感情を露わにされればそれも分かるというもの。
ツクヨミは複雑な気持ちを抱きながらも、再び歩みを進めた。
────
「やっぱり無理なんじゃない? 凄い偉い人みたいだったし……」
「うーむ」
竜王国の昼過ぎ、中央通りからやや逸れた住宅街を歩くのは冒険者然とした二人。一人は雄々しい顔立ちをしたガタイのいい茶髪の男。その顔は険しい表情により少しだけ老けて見えるもののまだ二十代後半といったところだろう。
背中には立派なグレートソードを背負っており、身に纏う銀の鎧に付いている無数の傷は、彼が歴戦の猛者であることを語っている。
そしてもう一人は灰のような色のマントで全身を覆う赤髪の女性。その手には彼女が
ややツンとしたその顔の造形は若く、二十手前くらいであることが窺える。
そんな彼らの胸にはオリハルコン冒険者であることを示す真鍮色のプレートが付いていた。それは二人がこの竜王国で最高位の冒険者チーム、
その知名度は当然ながら高く、道行く者は例外なく彼らに視線を送る。
しかし注目に慣れている様子の二人はそれを気に留めることなく颯爽と歩を進めていった。
「確かに王城の人に伝えてもらうのが確実ではあるが……。やはり直接お礼をしたいものだ」
ガレットはビーストマン侵攻での命の恩人である、銀髪の女性に会いに来ていた。
竜王国の都市は亜人侵攻の弊害によって生存圏を広げにくく、人口密度がリエスティーゼ王国などと比べるとかなり高くなっている。そのため周りを囲む主要都市からなら二、三時間ほど馬車に乗せてもらうことで中央の王城近辺まで辿り着くことが可能だ。
それもあって二人は昼過ぎには王城に到着していたのだが、どうやら入れ違いになってしまったらしく女性は王城内には居ないようだった。
門に立つ騎士も詳しくは知らないようで、朝から陽光聖典が現地へ出払っていたことくらいしか情報のないガレットたちはこうして途方に暮れている訳だ。
「それか、また日を改めて来るというのはどう? まぁ……いつまでいるのか分からないけれど」
王城から東まで、辿れそうなルートを急ぎで探索しながらかれこれ数十分が経過していた。この感じなら会える望みは薄いだろうとアンジェシカは考えているようだった。
確かに全く別方向に進んでいるのかもしれないし、屋内に居る可能性も少なくない。仮に会えたとしても話ができるかは微妙なところだ。
ガレットは諦めたように返事をする。
「そうだな。今日の所は一旦帰るか」
念を入れるなら、今から王城へ戻っていつまで女性が国内に滞在しているのか伺うのが確実ではあるのだが、流石にこれだけ歩いた後で戻るのは面倒だと思ったガレットは、ため息を吐きたくなる気持ちで帰り道へと足を向ける。
曲がり角を進みながら、薄っすらと子供の声の聞こえてくる小路へと足を踏み入れた──
「「あ」」
二人の声が重なる。目線の先に、一際目立つ豪奢な衣装の女性と陽光聖典隊員たちが現れたからだった。
(……こ、子供?)
女性は屈んでおり、手を軽く差し伸べた状態で固まっている。
先まで聞こえていた複数の足音は既に遠のいており、遅れたように一人の子供、耳が特徴的に尖がっている──が土で汚れている服を庇いながら、その場から離れているのが見えた。
何が起こっていたんだ? とガレットは頭に疑問符を浮かばせていたが、立ち上がり何事もなかったかのように再び歩き出そうとしている女性を見て、当初の予定を思い出す。
ガレットはアンジェシカと共に、異様な雰囲気を醸し出している四人組へと駆けよっていった。
「あっ! すみません!」
「え? あら、あなた方は」
ガレットが声をかけると女性はその奇妙な紋様をした仮面越しに言葉を発した。
改めて近くで見ると、その背中には神々しい光の環が浮いており、美しい白の羽が空中に漂っていた。
目に飛び込んでくるその煌びやかな装飾と装備は、冒険者の追い求める秘宝のイメージを更に神格化させたような代物で、高位の冒険者であるガレットでさえこんなものが世界に存在するのかと信じられない気持ちになる。
そんな彼女の姿から浮かぶ言葉は他の者たちが囁くように"神"そのもの。竜王国ではそれなりの地位を得ている
事実、話しかけたはいいもののガレットは委縮してしまっていた。女王陛下に謁見した時と同等か、それ以上かもしれない。
そんなガレットの様子を察したのかアンジェシカがフォローに入る。
「あ、その、私たちは竜王国の冒険者チーム、
「そうでしたか。わざわざありがとうございます!」
女性は行儀よく会釈する。対等に接してくれている彼女の行動にガレットは言わずもがなだが、周りにいる白ローブ姿の隊員もおろおろしていた。
流石にこのまま黙ったままでは失礼だと察したガレットは口を開く。
「神様は命の恩人ですから……こちらが出向くのは当然のことです。むしろお邪魔になっていなければ良いんですが」
とんでもないと、身振り手振りで伝えてくれる女性。
ガレットは精一杯の感謝を込めつつお礼を述べながら頭を下げたのだった──
「では、これにて失礼……。しようかと思っていたのですが、進む方向は同じなんですかね?」
「私たちは東の門近くまで行きますが……。お二人はどちらに?」
「あー同じ道だと思います。実はきた、っぐお」
ガレットはアンジェシカに横腹を肘で殴られてしまう。
「丁度東地区内に家がありますので、一度帰宅しようかと考えています」
「なるほど。では、もしよろしければご一緒に行きませんか? 竜王国に詳しいお二人の話も聞いてみたいですし」
当然断る理由は無いので、ガレットは首肯しながらその提案を受け入れる。
それから集団は歩き始め、近隣住民の姿も見え始めてくる。
先とは比べ物にならないくらいの視線の量。普段とは少し"感じ"の違うそれから気を紛らわすように、ガレットは先ほど気になっていた事柄を質問しようとする。
何か会話をしなければという思いもあっただろう。
「そういえば、これ聞いていいのか分からないのですが──先ほどは何が起きていたのでしょうか? 子供の姿を見かけたのですが」
聞いていいのか分からないなら聞くな、というアンジェシカの視線が痛い。しかし、冒険者は知的好奇心が身体の構成要素の大部分であるため仕方がないのだ。
女性は仮面越しに頬を掻くような挙動をしながら答えた。
「あー、実は集団で苛めをしていたようで……。助けに入るつもりが怯えられてしまったみたいです」
「そのようなことが……。お見苦しい所を見せてしまったようですね。一応良い国ではあるのですが」
非常に悲しいことだが、竜王国で差別的行為が行われるのはそれほど珍しいことでない。国柄として貧しさがあるため、心に余裕のない国民が多いのだ。
特にエルフやハーフエルフは法国で冷遇されている都合で竜王国へ流れてくることもあり、あまりよく思っていない人々の間で迫害が起きていたりする。
まぁこれも国外の人にするような話ではないだろう。
「ガレットが無神経な発言をしてしまい申し訳ないです。根は良いやつなんですけど、すぐ口に出してしまうといいますか」
「フォ、フォローが痛い……」
つい飾らぬ言葉が出てしまう。それを見ていた女性はそんな様子が可笑しかったのか、軽く笑いを堪えている様子だった。
「お二人は仲がよろしいのですね」
「い、いやそんなことないですよ。私はこいつが心配なだけで……」
アンジェシカはぶんぶんと杖を持った両手を振りながら否定していた。それは冗談半分のものだと分かる。
しかし確かに、師匠と弟子のような関係からいつの間にかガレットが支えられるような形にはなっているのは事実だった。
(アンジェシカは凄いからな。俺とは違ってアダマンタイトも夢じゃないだろう。その時、俺は──)
ガレットは遠くない未来のことを頭の片隅に仕舞いながら、帰路へとその足を進めるのだった。
~~~~
この時期の薄暮は早く、あれから3時間ほどが経過した現在、若干の曇り空を見せている竜王国はその隙間から覗く太陽によって灰色と黄色のコントラストを作っている。
そんな中、此処での用事を済ませた様子のツクヨミは随行していた陽光聖典の三名へと指示を出していた。
「20分ほど席を外しますので、それまでマルセルさんと合流し、本務を手伝ってあげて下さい。もしもの時は
「承知致しました」
白ローブの男たちはごく丁寧に敬礼を行う。付き従うことが本日の彼らの任務であり──使命であるが、遥か至高の存在であるツクヨミが命じたことであればそれを最優先するのは当たり前のことだった。
「時間が来れば門の方まで迎えへ行きます」
ツクヨミはそう言い残すと、舗装された道を一人で歩いて行った──。
ちなみに今回ツクヨミが
その私用とは弔い。
今回のビーストマン侵攻で亡くなった人の数は決して少ないものではない。遅れて来た法国の人間はまだしも、現地の兵士などは最前線で常に戦っていた訳なのでそれも当たり前の話だ。
アンデットの蔓延るこの世界での埋葬は早く、実のところ、葬儀自体は昨日の内に終わっている。そのため今回顔を出したのはツクヨミの個人的な思いの部分が大きい。
では、その用事を終えたはずのツクヨミはなぜ一人になったのか。
それは心を落ち着けるという意味もあっただろうが、本当の目的は"人払い"であった。
集団墓地のすぐ近く、国内では端に位置するこの場所の人通りは少ない。一応街灯もある、踏み鳴らされた道の横には狩り揃えられた草や木々も叢生している。
そんな場所のベンチの前へとツクヨミは立つ。隣には巨大な木が生えていた。
「何か御用があるのでしょうか」
ツクヨミが言葉を発すると、遅れて上空から声がした。
「……気付いていたのか」
葉を茂らせている巨木の上の太い枝には、額に朱の宝石の付いた仮面を被っている少女が座っている。深紅のローブを着た少女は墓地の方を見据えたまま言葉を続けた。
「後をつけるような形になってしまったのは謝る。中々出てこれるタイミングが無くてな」
少女はそう言うと、トスンという擬音が似合うような着地を行う。
そうしてベンチの真ん前に降りて来た少女は深紅のローブをはためかせながら、仮面の奥から口を開いた。
「まず初めに──私の名はイビルアイ。世界の揺り返しの調査をしている者だ」
「初めまして。ご存じかもしれませんがツクヨミと申します。……もうお一人いた気がしましたが、そちらの方は席を外されているのですか?」
ツクヨミは見渡すように軽く首を動かす。特段変わった点はなく、人らしき影は見当たらない。
「あぁ、仲間は少し離れた場所にいる。一対一の方が話しやすいだろう?」
「そうでしたか。お気遣いありがとうございます」
皮肉でも何でもなく感謝している様子のツクヨミに少しやり辛さを感じているのか、イビルアイは軽く咳払いを行う。
「まぁ私も馬鹿みたいに敵対する気はないからな。ただ、それでもこの世界で永く生きる者として聞いておきたいことはある」
正面に立つイビルアイは単刀直入に質問を始める。貴族のような、回りくどい会話は好きではないのだろう。
「実直に言おう。ツクヨミ──お前は何をするつもりで現れた?」
鋭く、厳然たる言葉。イビルアイが発するそれは抽象的であり、捉えどころのないように感じられる。が、確かに彼女らが抱く疑問の大部分を孕んでいた。
「何をするつもり、ですか。難しいですね。でも大切な人達を守るために来たのは確かです」
「ほう。大切な者を守るために姿を明かしたと?」
「それは……どうでしょう。確かに大きなきっかけではありました。しかし思えばそれだけではなかったように感じますね。竜王国の人達も、いえ」
頭を悩ませるように考え込んでいたツクヨミ。しかしイビルアイの言により、少しずつそれも氷解する。
周辺にはいつしか
ツクヨミは純白の衣の前に持ってきた閉じかけの手のひらに目を向けると、考えが纏まったようにイビルアイに視線を戻した。
「私は、世界にいる──遠い誰かの居場所を作るためにここまで来たんだと思います」
そう。きっとそれが全ての根底だったのだろう。
「なるほどな。その誰かというのは、人間のことか?」
イビルアイは地面を照らす光には目もくれず、すかさず言葉を返した。通常であれば言うまでもないようなことであるが──
「いえ、手を取り合えるのなら亜人も……魔獣も、異形もです。スレイン法国には怒られるかもしれませんけどね」
ツクヨミは誰かのことを思い出したのか遠い目の中で笑った。イビルアイはその答えに衝撃を受けたようで若干の間固まる。
夢物語のようで決してありえない。いや、誰もが放棄していた未来が語られたのだ。
「まぁでも、結局は私の我儘なのかもしれません。命を導くという思いで、世界を変えてしまうかもしれませんから」
「そうだな。その通りだ。……反発するやつも現れるだろう。それが正しいことなのかは、分からんな」
難しい表情を浮かべるツクヨミへイビルアイはそう述べると、この場を立ち去るように身を翻す。
背を向けたイビルアイはひとしきり遠くの景色を眺めてから、去り際に言葉を漏らす。
「しかし別に我儘でもいいんじゃないのか。世界はそうやって回るんだ。救われるやつの方が多いなら、それで十分だろ」
それだけはどことなく柔らかな口調だった。風でマントが揺らめく。
「もういいんですか?」
ツクヨミは仮面を被った顔を傾けている。もっと色々と聞かれると思ったのだろう。しかしイビルアイが足を止めることは無かった。
「あぁ、あまり時間もないんだろう? 何となくは分かったから大丈夫だ」
……
そうして一切の足音は鳴らさずに、イビルアイは街路の方へ戻っていく。すぐ近くには平気そうにしながらも、心配するよう佇む老婆が立っているからだ。
「どうじゃった?」
同行者である質の良い黒のローブを着た老婆、リグリットは壁の方からイビルアイへ近づいて行き、尋ねる。
「あー、うーむ。悪いやつではなさそうだったぞ」
「そうか……。一緒に旨い酒は飲めそうな感じじゃったか?」
「知らんが、そういうだる絡みは受けないんじゃないか」
プレイヤーの"力"よりも、寧ろ"人間性"を重視していたであろう二人は歩き出した。
かつて魔神戦争で共に戦った、気のいい仲間のことを思い出しながら。
「──なんというかな。ほんの僅かだが懐かしい匂いだった。信じてみるのも悪くはないかもな」
「もう百年前。あれから何も変わっとらんからな。新しい風も必要じゃろうて。わしらはわしらで、冒険者でも始めてみらんか?」
「どんな風の吹き回しだ。少なくともお前とは御免だぞ」
────
──
──
はぁ……はぁ。
一方その頃、イーヴォン・リット・ルーインは走っていた。かつてないほどの全速力で。
着ているのは軍の制服である灰色の衣服。私服に着替えることもしていないのは、今がまだ勤務時間中であるためだ。
それでもこうしてルーインが隊長から僅かな時間を貰い──仕事から抜け出しているのは先ほど偶然にも彼女の姿を見てしまったからだった。
侵略するビーストマンを一掃し、竜王国を救ったスレイン法国の神。
国の誰もが待ち望んだ存在。
しかしルーインは知っている。豪華絢爛な衣装を着ていようとも、仮面を被っていようとも、あれは確かによく知る友人の姿であると。
そんな背丈ほどある白の髪をした彼女は、十数分前に陽光聖典を連れて集団墓地へと消えていった。
そのためルーインはその場所に急いで向かったのだが、いざ着いてみても彼女の姿は確認できない──。
「どこにいるんだろう……」
ルーインは集団墓地周りを散策する。竜王国の街がどういった構造なのかは知らないため闇雲にであった。
体力は無限ではないため、消耗したルーインは額の汗を拭いながら腰を折り立ち止まる。
そして数秒の後に再び歩き出す。もう会うことさえできないかもしれないと思うと、諦めるという考えはあり得なかった。
ルーインは
曲がり角を曲がる。
人のいない小路地を走る。
墓地を抜け、西へと下ったそこに──
「いた……」
ルーインはようやくその人物を見つける。その華奢な身体には今も純白のローブを纏い、神の秘宝の数々を身に着け、仮面を被っていた。
名前も……その姿も同様の彼女がなぜ仮面を付けているかは分からないが、何か顔を隠す理由があるのかもしれない。
しかし、ルーインは仮面を付けた彼女がぽつんと一人でベンチに腰かけているのを見ると胸が締め付けられるようだった。
「ツクヨミさん」
……
「──え?」
動揺したようにツクヨミは俯いた顔を上げる。ルーインはそのままベンチに近づいていった。
まずは謝ろう、ルーインはそう考えていた。しかしあまりにあの日と違い過ぎる彼女に別の言葉が出てくる。
「あの、大丈夫ですか……?」
ツクヨミはどうしていいか戸惑っている様子だった。
もしかして不味いことをしてしまったのではないかと不安になるルーインだったが、それも数秒。
ツクヨミは心の準備を整えたのかその左手をそっと持ち上げた。
白い指が仮面の上に置かれ、下に動かされる。
仮面から現れたのは変わりない顔だった。
「久しぶりですね、ルーインさん。 私は大丈夫ですよ。少し寝不足ですけどね」
ツクヨミは穏やかな笑顔を見せる。
ひと月ぶりほどに見たその友人の姿に涙が出そうなほどの安心を覚えるルーインだったが、状況が状況であったのでその心中は複雑なものとなっていた。
この再会はもう変わってしまった上での再会なのだから。
「その、ツクヨミさん。……すみません。私たちが弱いばかりに」
死にかけたあの夜からルーインは不甲斐ない自分を許すことができずにいた。静かに暮らしていたはずの彼女が神という身分を背負うことになってしまった原因は、きっと自分たちにあると考えていたからだ。
それなのに──ツクヨミは怒るどころか再会を嬉しそうにしてくれている。
「謝らないでくださいよ。こうなったのは決して皆のせいではありませんから。それに、私がこの道を選んだんです。今も後悔はしていませんよ……?」
ツクヨミはそう言うと、隣にどうぞと言わんばかりに横へずれる。
ルーインは座っても良いものかと深憂したが、結局隣へ腰掛けた。
「ありがとうございます。私は、本当に良い友人を持ちました」
「こちらこそですよ。実は私の初めての友達はルーインさんでしたから。会いに来てくれて本当に嬉しかったです」
それから、木陰のベンチに座る二人はしんみりとした雰囲気で語り合った。たった数カ月の思い出をそうは感じさせないように。
……
「行く前に、一つだけお願いがあるんですがいいですか?」
そんなことをツクヨミが呟く。
「なんですか?」
「その……少しだけ肩を貸してもらいたいです」
いいですよ、とルーインが言う前にツクヨミは寄りかかってきていた。にしても体重掛け過ぎである。
「ちょっと重いです」
「あ、すみません。実はかなり眠くてですね。やばいんですよ」
「ちゃんと寝ないと駄目ですよ?」
心配するルーインを他所目にツクヨミはリラックスしたように目を瞑っていた。
そのまま1分くらいが経っただろうか。眠ってしまったんじゃないかと思っていたツクヨミがおもむろにその口を開く。
「あ、そういえば」
──王国も悪くない所でしたよ。
そんな約束の内容が紡がれていた。