最初に起こったのは沈黙だった。
当然だ。誰がそんな眉唾な内容を信じられるだろうか──
(…………)
──いや。……え?
先の件を受け、漆黒聖典のみならず、他の法国上層部さえ目前の神官長に目配せし、それから僅かに息を呑んでいる状況。しかしながら、報告を受けた当の本人が未だ黙り込んでいる状況であるため、その静寂を破ろうとする者は、良くも悪くも現れなかった。
それは揺ぎ無い信仰を持っているからこその行動だろう。
法国の中でも
……とはいえそれは"見えた"というよりも、"感じた"という程度の情報だったかもしれないが。
……
……
さて。
このように、先程からよく周りが見えている"風"のツクヨミではあったのだが……その内心──
内側とも人格とも言えるようなその部分では、これでもかというほどに狼狽えていた。
それはさながら、既に揺れていた水面に隕石が叩き込まれたかのようで。
そんな状態で試しに一度深く息を吸ってみると──少しずつではあるが──先ほど水の神官長より告げられた言葉が輪郭を帯びていき、今目前にしている現実に追いついてくる。途端に、これまでにないほどの不安感も胸の奥から込み上げてくるのを感じたが、ツクヨミは大神殿敷地内の通り道──緑を横断するように舗装されたその地面を踏みしめこらえると、先の言葉をもう一度思い起こす。
宣戦布告。
そう。宣戦布告だ。
水の神官長は確かに先ほど、法国が宣戦布告を受けたと報告し、それに前置きさえ行った。それが意味することは読んで字の如く『戦争を仕掛けられた』ということに他ならず、改めて──どう好意的に解釈してみたとしても──ポジティブな言葉の捉え方というのは出来ない。
(しかし、なぜ)
竜王国がスレイン法国に宣戦布告など……国政に疎いツクヨミであっても流石に違和感しか無いし、完全に予想の範疇外だったというのは確かだろう。逆に予想外すぎたからか、ツクヨミの中で今最も強い感情は困惑といってもいい。
無論、ショックが無い訳でもない。
ふぅ、と、今一度状況を整理すべく細く息をつく。
竜王国とは近年最も国としての関わりが深く、その関係は良好。外交を通して見える女王の性格も裏表を感じさせず、尊敬さえできるものだった。が、しかし──
目前で未だ緊迫した表情を張り付けた水の神官長を見るに、やはりツクヨミが想像した通りのことが起こったのは事実であり、それを今この瞬間に覆すことはきっと出来ない……というのが今のツクヨミの結論だ。
つまりどうしようもない。
反射的に頭を抱えそうになるのを我慢し、ツクヨミもようやっと覚悟を決める。
自分は彼らの神なのだ。だからこそ、こんな状況で不安な表情など見せるべきではない。
「それは本当ですか?」
数秒ののち、落ち着いた声色でツクヨミが応答すると、声を掛けられた側の水の神官長も冷静さを取り戻したように一礼してくれた。
「誠に残念ながら、事実に相違ございません。私も情報を得たのは昨日の夕刻にすぎませんが──この場に持ち込むにあたり、必要な裏取りは既に済ませております。本当は今朝の神官長会議にお持ちする予定でしたが……申し訳ございません。衛兵、私に書簡を」
「は……はっ!!」
それに対し壮年の衛兵。つい先ほど、こちらの姿を視認するなり表情を引き締めていた大神殿外周の警護を担う彼は、水の神官長へとその手持ちの封書を差し出した。
水の神官長の手に少し分厚く感じられる謎の手紙が移る。
見れば、それは格式高い装丁が施されたもので……封筒の色は黒と深紅。なんと二通に分けられていた。
「ツクヨミ様。こちらが竜王国の外交官から手渡された外交文書でございます。一つは実務都合、軍の総司令官である大元帥と共に目を通し、間違いなく宣戦通告によるものだと確認が取れております。そしてもう一つは……」
水の神官長が深紅に彩られた手紙を指さす。
「極秘で渡されたものとなります。曰く、ドラクシス陛下の伝言として、ツクヨミ様に直接御渡ししてほしいと」
ツクヨミはそのまま両方の手紙を受け取る。目線を落とせば、どちらも竜王国の紋章を象った──多少は見慣れた封がなされていた。ツクヨミはたったそれだけの情報で、現在の竜王国の状況というのをおおよそは理解できた気がした。
(ドラクシス陛下……)
そもそもこういった文書が二通に別れているというのも、あまりない気がするというか、やはりおかしいだろう。それに一国の女王が手紙で──それも──秘密裏にやり取りしなければいけない状況とはなんだろうか。
素人であるツクヨミに思いつくのは精々クーデターによる内乱からの暴発くらいしかなかったものの、少なくとも、ドラクシスにとってもまた緊急の事態が起こったのだろうことは容易に推察できる。
そして具体的にそれが何なのかは、
(そういえば先ほどの彼女の言葉、巨大な
ツクヨミは息を吐くと、真っ先に深紅の手紙を手に取った。
「確認いたします」
封を開け、中の便箋の内容を急いで確認する──
♦♦♦♦
──ツクヨミ殿。この書状を目にされている時点で、貴殿に対し、我が国より宣戦の意が通達されたことかと思う。掛かる非礼まことに心苦しく、深く謝意を表したい──
達筆で記された最初の文言はそれであり、要点と共に、彼女の遺した情景がそこには広がっていた。
──あれはそう。力強い日差しこそ無いものの、涼しく風の吹く春の日のことだ。
「陛下」
竜王国・王城執務室。宮廷舞踏会前の最も忙しない時期は脱したものの、まだまだそこには大量の書類と書物が積み上がり、周辺諸国の中でもくたびれランキングでは上位の位置にいるであろう女王が座っていた。
「そろそろ一度休憩されてはいかがでしょうか? もう御昼です」
お昼……という芳しい単語を部下より受け──
じろり。と女王、ドラクシス・オーリウクルスの視線が目前の男に移ったのを、この時よく覚えている。
宰相。その名の通り、竜王国の政務の多くを取りまとめている優秀で礼儀正しい部下の一人だ。
今も直立した体勢を崩さないこの男の特徴としては、この国の絶対的権力の象徴たる女王を前にしても、その自然な風体を絶対に崩さないというものがある。悠然としながら、まったく
(思えばこいつとも、随分と長い付き合いよな)
ドラクシスは軽く目を瞑り、ふんと笑う。
近年の思い出で言えば、宰相にはビーストマン被害を受けている時期……全く動こうとしない法国への愚痴を延々と聞いてもらったり、逆にビーストマンが一夜にして滅ぼされた時は一緒に椅子から転がり落ち、そして法国の神である
「陛下?」
「いいや。何でもない。そうだな、そろそろ休憩としよう、今日の昼食はなんだったか」
「皮付きの黒パンと根菜のスープ、それに軽い肉料理と香りの良い紅茶を用意しております」
「うむ、悪くないな。ただ、たまにはそう。王国の北西で獲れるような魚料理や、聖王国の海で釣れる珍味も食べてみたいものだ」
竜の血が流れていると言えど、自分も言ってしまえばただの人間だ。椅子から立ち上がり、身体を伸ばせば──途端に腹も減ってくる。
宰相は本を抱えたまま、ドラクシスの隣に回り込むように磨かれた窓を開けると、即座に部屋の換気を行いつつふっと笑う。
「竜王国の魚と言えば、よくて湖のものですからね……。いっそ、陛下も聖王国へ行かれますか?」
「逆に問うが、今の聖王国に私が行く! と言えば行けるのか?」
「無理ですね」
「じゃあ言うでないわ」
溜息を吐きつつ、横顔に風を受ける。窓辺に置かれた開かれっぱなしの本が、春の風を受けぱらぱらと音を立てる。
こうしていると長閑な風景が広がっているようにも見える。しかし、残念ながらこの部屋に溜まった書類の殆どが竜王国の諸問題だったり、今起こっている聖王国での不穏な状況──それに対する外交文書だったりで、ドラクシスの気が休まる時というのは中々ない。ドラクシスの目はいつも鋭く、半開きになったままだ。
ただ、それでも。
「悪くない日。そうだろ?」
そう思える日がたった"一日"でもあるのは、きっと……。いや、間違いなく
ドラクシスは女王として昼食に出向く前に一度、円形となっている王城執務室、その先にくっ付くように存在する矩形のバルコニーへと身を乗り出した。
それはなんとなくだったし、『たまには外の風を浴びないとな』といった、至極気まぐれな考えによるものだっただろう。
だからこそ、この時の自分は知らなかった。
今日はやけに、竜王国に吹く風が荒かったことを。
「……ん」
ドラクシスは外に出るなり、身にまとった黒のドレスをそっと体の中心へと引き寄せ、細めた目を宙に向けた。
常に身に着けているこの正装は、一流の職人が上から下まで仕立てたもので、生地こそ厚いが、見た目以上に軽やかな仕上がりになっている。
──だが、今のドラクシスにはその装いがいつになく重たく、動きづらく感じられた。風が思ったよりも、強い。
「はっ。どうされました?」
「気のせいかもしれんが、やけにこう……騒がしい感じがする。宰相、ちょっとこっちへ来い。聞こえないか──何か」
階層としては最上階に位置するこの部屋。だからこそ、外の景色も一望できるし、空の状況というのも一目で分かる。そしてそこに広がるのはいつもの竜王国であり、地を歩く兵士も、街を往来する馬車もいつも通りのように見える。
だが、なぜだろう。
ドラクシスの血が騒ぐ。それは長年の勘か、もしくはこの身体に四分の一流れる竜の血によるものだったか。見れば、同じように点々と空を見上げる者達の姿が近郊の道路にもあった。そう考えるとやはり、これは気のせいではなかったのだろう──
「陛下!! 空がっ」
「あれはっ」
──その時だ。
途轍もない突風が、辺りに吹き荒れる。
それは先ほど吹いていたそれとは比にならないほどの強さであり、いわば竜巻といったレベル感のもの。
周辺の木々からは木の葉が巻き上げられ、空に舞い散り、バルコニーには瞬く間に突風が叩きつけられ、咄嗟に顔を覆ったドラクシスたちの裾を容赦なく捲った。
空に浮いていた薄暗い雲たちが、切り裂かれていく──
「なんだっ」
そしてその後ろには、なんと巨大な虹が架かっていったのだ。
呆然とするドラクシスや、竜王国の民達。そして次に、その
「馬鹿な。なぜ」
そう──
それはこの国の祖である、真なる竜王。歴史でしか語られたことのない、伝説の存在。
────
「なぜ」
そんな珍事に直面し、最初にドラクシスの頭の中に過った感情はというと、『なぜ今更?』という、酷く冷めきったものだった。そこに歓喜の感情などは一切なく、伝説に謳われる国祖の姿を見られた感動などは微塵もなかった。それもそうだろう。
何故ならドラクシスは、生まれたその時から人間である母と二人きりでこの困窮する国をビーストマンの被害から守り、女王になってからも一人で容赦のない現実に抗ってきた。そこに竜の奇跡などは無かったし、血みどろの生活の中でようやく手を掴んでくれたのは、この国の本の中で決して褒め称えられるような存在ではなく、寧ろその逆だった。
だからこそ思う。今になって、何をしにきたのだと。
「嫌な予感がする……」
「陛下、部屋へ戻りましょう」
宰相が珍しくドラクシスの腕を掴んだ。だが、ドラクシスはそれを拒否する。
「よい。私なら大丈夫だ。それより上を見よ!」
天高く指を指す。そこには、先程より高度を落とした巨大な竜が、その体躯よりも更に巨大な翼を広げ、竜王国の中心を滑空する姿があった。それは次第に地面へと近づいていく。
(しかし……なんという……大きさだ……)
ドラクシスは息を呑む。ドラクシスとて、その知識から
だが、あれはなんだ。
虹色に輝く翼膜。あらゆる鉱石よりもずっと硬そうな青から赤色を含んだ鱗。刺々しくも神々しい頭部。
まだそれは地上から100m……いや数百mほどは離れた位置を飛んでいるのだろう。しかし、既にその爪一つ一つがビーストマンの全長よりも遥かに大きく、それが腕を薙げば、この城の大部分が軽々と弾けとぶだろうことは、誰の目から見ても明白だった。
恐ろしい。
ただただ、とてつもなく恐ろしい。
そしてなぜそんな風に感じたのかというと、それはドラクシス自身が──その魂が──既にこれを"敵"だと認識していたためだ。
『聞け! 我が国の民達よ』
それは当然、ドラクシスから発せられたものでも、隣にいる宰相から発せられたものでもない。天から降ってきているのだ。
『我は帰ってきた。この世界の危機に、再びその力を振るうために』
魂の奥底にまで響くその怒号のような声は、きっと……竜王国の首都全域に轟き渡っていたに違いない。そして残念なことに、それは誰にも止められない。
『今、その強大な……とても悍ましい力を我が物顔で振るい、日に日に世界を支配しようとしている者が在る。それはかつて八欲王と呼ばれた者であり、この世界に生きていた種の、半分を殺しつくした者である』
……
『我はその蛮行を許さない。同じ過ちは、決して繰り返さない。我は──いや私はこの世界の為にこそ──この力を振るうことを、
竜王国の民はそれに対し、どう思っただろうか。今のドラクシスには分からない。
ただ、その直後のこと。
「陛下っ!!」
「なんだあれはっ!!??」
宰相の声を受け、ドラクシスは咄嗟に目を半分瞑る。瞬間、それはまばゆい光を地上にレーザーのように発しながら、凄まじい速度で真下へと降りてくる。幸い、それに何らかのダメージを与えるような効果はなく、少しずつその大きさと光量は弱くなっていった。
だが、同時に違和感もあった。
何故なら、その光球の大きさは既に先ほどの数十分の一となっており、明らかに先ほどの巨体を覆い隠せるほどの大きさは無かった。つまり、先ほど何らかの魔法が上空で発動し、
ドラクシスが警戒した面持ちでそれを見上げていると、
「……!? その姿は」
「久しいな。いや、そうか。
祖母との間に子を作った時も、恐らくはこの姿だったのだろう。
「驚かせてすまなかったが、全ては先の通り。私はこれより"準備"に入るため、供は不要だ」
「ま、待て」
ドラクシスは手に汗が滴るのを感じながら、それを呼び止める。すると、ピタリ、と。不気味なほどに静かにそれが足を止める。対しドラクシスは一歩足を進め、その部屋へと舞い戻る。宰相の呑みこむ息がはっきりと聞こえるようだった。
「さきほど話していた内容。あれはいったい、なんなのだ」
「何……とは」
「世界を支配しようとする者、それに対抗するために、貴殿は現れた、と──」
「事実だ」
そう答える
そんな相手が、この場に現れるはずがない。
そう。目の前のこれはただ、自分達に興味がないだけなのだ。
ドラクシスは先ほどから感じる威圧感に呑まれそうになりつつも、それを上回るほどの──先ほどから心の奥にくすぶる火──怒りという感情が自分に宿るのを感じていた。
「事実だと? では当事者として言わせてもらおう。まったくの出鱈目という他ない。此度のかの人物は、八欲王とはまったく違う性質を持っている。少なくとも、今の竜王国の敵ではないと判断している。なので──申し訳ないのだが──この国の女王として貴殿にはお引き取り願いたい。ここから先は、我が国の外交の話だ」
「愚かな──」
これでもだいぶ、理路整然と話したつもりだった。──だが、その瞬間。
場の空気が一変する。
ドラクシスは、政務者として、それを確かに肌で感じ取る。
同時に、外で異変を察した兵士たちが執務室へと駆け寄り、扉を叩き始める。しかしながら、それに応じる余裕は、今の自分にはない。
「よもや我が子孫が、奴らに絆されたとは言うまいな。……そして先に言っておこう。私がこの場に立ったということは、それは為されるということだ」
氷のような言葉に再び沈黙が走り──
次の瞬間、背後の扉が激しく開かれ、数名の兵士たちが駆け込んでくる。
恐らく先ほどの
「つまり。"我が国"たる竜王国は、これより──かの者を囲うスレイン法国へと戦争を仕掛ける」
「……ふざけるな。それをこの場にいる者が許すと思うか」
「許す、許さないではない」
このふざけた祖父を、ドラクシスはこれほど殺したいと思ったことはないだろう。だが、それはその圧倒的な力量差によって、決して叶うことはない。
この国の敵である老人は途端にその右手を持ち上げると、七色の光を宙に発生させる。当然、それはドラクシスの知る魔法ではなく、彼がそのまま指を鳴らすと、そこには身長2mにも及ぶ二足歩行の光の竜が、たったそれだけの所作でなんと三体も出現したのだ。
(っ……!?)
ドラクシスは絶句する。それらは巨大な斧と槌を構えており、更には神々しい光さえ纏っている。到底太刀打ちできるような相手には見えない。
そんな中、
歯を食いしばるドラクシスへ、真なる国主はただ告げる──
「私は
「ふざけるな……。つまりお前は……いや貴様は、我が国や法国を、
最初から、ドラクシスが抱いていた疑問。この者が祖国の上空に現れた時から疑問だったのは、『なぜこれだけの力を持つ存在がわざわざ竜王国に現れ、あまつさえ敵であるはずのぷれいやーを最速で討ちにいかないのか』だった。
だが、今のドラクシスなら分かる。
つまり
そして次に、
ドラクシスの拳が血が滲むほどに強く握られる。
ドラクシスの知る彼女なら絶対に、その誘いを断ることはできないと知っていたから。
(一体彼女が……何をしたというのか)
そしてなぜこんな闖入者に、大切な人々の生き死にを搔きまわされるのか。
ぐちゃぐちゃとした感情が無限にドラクシスの中に沸き上がり、とうとう臨界点を超える。それはもう、限界という他なかった。
「っ!!!!!」
自信の拳を握りしめ、一歩地面を踏み抜く。が────
「陛下……!!!」
その時、宰相がドラクシスの後ろ手を猛烈な力で捕らえ、その背後から、これ以上ないほどに体重をかけてきた。当然、女であるドラクシスの力よりも宰相の力の方が強く、ドラクシスはその場で足を捻り、その場に倒れ込む。瞬間、轟音が鳴り響く。
「った……」
見れば捻った足首は赤くなり、気づけば自分は地面に伏せていた。しかし、驚くべきはその眼前だ。その"斧"は何の感情もなく振り下ろされており、地面を真っ二つに砕き割っていた。
「……申し訳ございません、ドラクシス様。私の処分は──のちほど如何様にも」
「馬鹿、者が……。足が痛いわっ」
ドラクシスは頭を下げる宰相の顔を上げされるように、よろよろと立ち上がる。宰相はそれを受け、困り眉になりながらも肩を貸してくれる。
「連れていけ」
がしゃん、と残りの光の竜──霊体のドラゴンニュートとでも言うべき存在だ──がこちらの足元に向けて魔法の斧を振り下ろす。それの意味するところは一つだ。
つまり二人は御役御免。はっきり言えば、
「触るでない。私とて、牢になぞ一人で歩いて行ける」
対してドラクシスはというと、一丁前にこちらのことを拘束しようとしてきた竜共を払いのけ、部屋を早々に退出する。無論、元女王に厄介ごとを起こされることを警戒しているのか、御付きの竜はどこまでも着いてきた。
「しかし、思ったよりもずっとしつこいな、こ奴ら。くそ……」
悔しさからあまり使わないような言葉が口から漏れ出てくるが、ドラクシスはなんとか頭を切り替える。
「宰相よ、単刀直入に聞かせてくれ。この状況から抜け出すのは不可能か?」
「無理……でしょうね。話は通じていないみたいですが、これ、相当やばいです」
宰相に身体を支えてもらいつつ歩いてはいるが、未だに捻った足がずきずきと痛んだ。
「そんなにか……」
「はい。先ほどの攻撃、注視していたものの全く見えませんでした。オルハルコンは当然ながら、アダマンタイトでも、あれほど早く斧を振れる者はおりませんよ」
「……」
いつもなら『あそこでの飛び出しはまぐれだったか』などと軽口を叩けただろう。だが、ドラクシス自身も相当この状況に堪えていたからか、残念ながらその言葉は胸中で消えてしまった。
「やはり我々を逃がす気はないようです。申し訳ございません」
「……よい。さて、牢はあっちだったか」
ドラクシスは、こんな自分に未だ頭を下げる宰相を、半ば置いていく風に階下へと颯爽と進んでいく。そうして女王が決して立ち入ることのないそこへと足を踏み入れ、石段の先にある牢へと自らその身を投じた。
はぁ、と。どっと疲れが押し寄せてくる中、ドラクシスは土埃の付いたドレスをはたき、牢の中に座りながら目の前で膝をつく宰相に小さく声を掛ける。
「ようやく行ったか。さて、宰相よ。早速だが一つ頼みたい」
「何なりと」
「まず、今後これを開ける手立てはあるか?」
「牢の鍵であれば、最上階の居室に同じ物が複数ございます」
ドラクシスはそれを聞き、よしと頷く。
言わずもがな、ここは自分達の城だ。
そして、当然ながらドラクシスも言われるがままにこんなところに入っておくのは御免だと思っていたため、ここに向かう最中にずっと考えていたのは、竜王国にいるオリハルコン冒険者の一つ──ガレットらほどに武闘派ではない盗賊職の冒険者──その一行に鍵開けを頼むというものだった。だが、別の鍵が城内にあるなら、その手間は省ける。
「ではそれを持ってきてほしい。合わせて、書くものと……可能であればツクヨミ殿から賜った──」
「あの杖ですね」
こくりとドラクシスは頷く。あれがあれば、多少の無理はしてでも出ることは出来るはずだ。
「私はこのあと、彼女に手紙を書く。そして、もしここを出られる時がくれば、今度は女王として……やるべきことをやるつもりだ」
「陛下。どうか。どうか無茶だけはしないよう、心よりお願い申し上げます」
檻を挟んだ宰相の声。それが何故か、何故だか今はとても心強く感じる気がした。彼は一度礼を行った後、上階へと駆けていった。
──ああ。ツクヨミ殿。
──そちらの天気はどうだろうか。どうか、どうか無事でいて欲しい。私の願いは。ただ、それだけだ。
♦♦♦♦
「本当にこれで良かったのかな?」
スレイン法国上空。高度300mほどのその地で一番最初に言葉を漏らしたのは、やはりというべきか、完全武装した番外席次・アリシアであった。
「良いも悪いもないでしょう。全ては、神がお決めになったことです」
対して、同じく上空を飛ぶ
それでも、もしアリシアがここから落ちれば無事では済まされないだろう。聞くところによると、落下によるダメージというのには際限がないという話もあるのだから。
とはいえ。
恐怖心があるかというとそうでもない。対し、今後に対するワクワク感や国外に初めて出られた嬉しさというのも、思ったほどのものではなかった。
「ツクちゃん、大丈夫かなぁ」
アリシアは心の底からそう呟く。既にこの状況で分かってはいると思うが、今回の聖王国の出立──
本来はツクヨミが率先して出るはずだったそれに、ツクヨミは出てこなかった。その理由は竜王国によりスレイン法国が宣戦布告を受けたためであり、更にはツクヨミが名指しで竜王国に赴くことを、敵側から強要されたためである。
そんな状況でツクヨミが聖王国に出てくることはまず無理だろう。それはアリシアとて理解できる。
だが……それでも。
(それでも私は──)
自分はきっと外に出てくること以上に、彼女と一緒に、戦いたかっただけなのだ。
あの日から、ツクヨミの背中を追うように。
「番外席次。ツクヨミ様を想う気持ちは我々とて同じ。ですが、今は目前のことに集中するのが我々の責務です。それが……神の盾ではなく剣でもあるというなのですから」
「はいはい……。それくらいは私もさ。分かってるつもりだよ。ツクちゃんが出られないなら、私達が代わりに出てこないといけないことくらい」
法国が危険な状態であるにせよ、陽光聖典さえ出ている聖王国を無視することは、人類の守護者としてやはりできない。さらに言えば、法国に守りを固めるのであれば──今ツクヨミが行っているように──神の眷属を法国に一挙に集める方が確実だと言えた。
ただ、だからこそむず痒いとも言えるのだ。そんなことをアリシアが思っていると、一瞬こちらを振り返った隊長が突然話しかけてくる。
「番外席次。今回の聖王国の相手、盟主は……人ではありません。恐らくはナイトリッチなどの、上位のアンデッドでしょう」
「……だから何?」
「簡単に言えば、我々全員でも苦戦する可能性があります。なのでもし、もしも私が前線で死んだ場合は、即時死体を回収し、絶対に撤退を優先してください」
いつも冷静な声色を崩さない隊長。だが、今はその声色に、少しだけ焦りの色があるようにも感じられた。
「……了解」
そしてその様子には、流石のアリシアとて素直に従うしかない。それもそうだろう。何故ならこれから行くのは、まごうことなき戦場なのだから。
緊張感を紛らわすように、小さく息を吐き、そして──最も大事なことにも確認を取っておく。
「その時はこれも、使っちゃっていいんだよね?」
アリシアは胸元から青白い水晶を取り出す。それは当然の如くツクヨミから貰ったものではなく、六大神が遺した秘宝。
魔封じの水晶だ。
隊長はそれを一瞥するなり、そっと頷く。
「そうですね。その時は躊躇わないでください」
少しずつ、聖王国の長大な城壁が近づいていき──
「では、行きましょう」
雨がぽつりぽつりと降り始める中、容赦のない突風が、一行を包み込むのだった。