これは秋原雪花がいつかの過去に体験した出来事だ。
「おーい! あきはらー!」
冬の北海道、旭川市。元より寒さの厳しい地域であるが、長くこの地に住まう道産子でさえも今日の寒さは特別に厳しいと白いタメ息を吐き捨てる平日の朝に幼い声が響く。
「うわ、朝からげんきじゃん。どしたの?」
名を呼ばれた少女、幼き日の雪花が呼び声に振り向く。その先にいたのは大して仲が良い訳ではないが知らない仲でもない近所に住むクラスメイトの男子、除雪された歩道ではなく雪が降り積もって足場の悪い公園から雪花に向かって大きく手を振っていた。
「やべぇ!」
「なにが?」
「なまら*1やべぇ!」
「いや、なにが?」
極寒の空気に脳ミソまでしばれた*2かな? と、会話の噛み合わない男子を哀れむ雪花。その視線は吐息が白く凍る気温よりは僅差でぬくもりがあった。
「見ればわかる! ちょっとこれ見て!」
「ええ~~……」
こっちに来てこれをみろ。そう言う男子は雪花の腰近くまで積もった雪を掻き分けて進まねばならない先、女子小学生相応の体格と体力しかない雪花にとって男子のいる場所まで赴くにはかなりの体力を消費する事になるだろう。雪国に産まれ育った雪花はこれまで生きた中の経験によって辿り着いた頃には軽く汗を掻いてるだろうと推測する。
「ほら、はやく! 消えちゃうかも!」
「……仕方ないにゃぁ」
汗をかけば濡れる、濡れればその水分がすぐに気温に冷やされて体温を奪う、雪国に生きる者には当たり前過ぎる常識。残る通学路を今よりも寒さに震える事になるのだろうと覚悟しつつ雪を掻き分けて進み出す雪花、年相応の好奇心には勝てなかったのだ。
「あんなにはっちゃきこいて*3……何を見付けたのやら」
強く誘われたから渋々、そんな雰囲気を醸し出しつつも内心はワクワク。重い雪の中を進む事に体力を消耗して少しだけ荒くなった吐息、雪花の気管が冷たく乾燥した空気に刺激されて僅かに痛んだ。
寒さ対策でモコモコに着膨れた雪花がフワフワモコモコに見せかけて実はぎっしりと重たい雪中を進む。進む途中、近くに寄った男子の鼻水を垂らしている間抜けな顔がよく見えてしまった。
「ふぅ……疲れた」
「ほら! これ!」
辿り着いた雪花が息をつく暇も無い内に男子がこれを見ろと雪の上に鎮座する物に手袋に包まれた指をさす。
「……えぇ」
「なまらわや*4だろ!」
意気揚々と見せられた物に絶句する雪花、少年は雪花のドン引きに気付いてないのかどうだと言わんばかりに胸を張る。
「……えんこ*5じゃん…………」
雪花が見せられたのは誰がどう見てもうんこだと断言するほどに見事なうんこ。朝日に照らされて白く輝く雪を陵辱する色の濃いうんこ、湯気を放つそれは明らかに捻り出されたばかりの新鮮さをこれでもかと雪花の眼に主張していた。
「よく見て、ただのえんこじゃないんだ!」
「えぇぇ、えんこはえんこじゃん……」
このうんこはただのうんこではないと主張する男子が眼を輝かせる。だが、雪花にとってはうんこはどこまで行ってもただのうんこだ、男子という生き物はうんこ一つでこんなにもはしゃぐ物なのかと性差による文化の違いさえ感じていた。
「こんな物を見せるために呼んだの?」
うんこ、言い方を変えれば大便や糞、大阪の方言ではばば、福島の方言ではあっぽ、博多の方言ではあぽ、山形の方言ではばっこ、沖縄県の方言ではくすまい、京都の方言ではうんこさん。
こんな物を見るために自分は汗までかいていたのかと後悔する雪花。もしも、一度だけ時を巻き戻せる権利を与えられたのならば今すぐに数分前に戻ってこんな寄り道せずにまっすぐ登校するために権利を行使するだろう。
「こんなすっげぇえんこなのにわからないの?」
雪花に向けられる純粋な眼差し、雪花が返すのは虚無の眼差し。
「このえんこ、光ってるじゃん」
「は?」
光るうんこ。雪花は正しく言葉を聞き取り、しかし、その意味を把握しきれずに間抜けな。脳内に『うんこ!』と『光る』の単語が交互に浮かんでは消えてを繰り返す。
「よく見てよ、しっかり見ればわかるから!」
うんこを見ろ。言葉の意味を理解しようと思考にのめり込み過ぎていた雪花が男子の言葉にボンヤリと従ってしまい湯気を放つうんこへと目を向ける。ただ視線をうんこに向けているだけだが第三者からみればうんこを見詰めている女子小学生秋原雪花、遠くない未来に勇者の力に覚醒して人類の希望を担うとは思えない残念な姿。
ふと、雪花は何故うんこを見詰めなければならないのかと我に帰る。そして、気付いてしまった。
「え、あれ? ホントに光ってるし……」
「な! すっげぇべ?」
輝くうんこ。間違いなくうんこは光輝いていた。まるでおとぎ話の妖精が風に踊るかの如くうんこを中心に煌めく光の粒子達。うんこそのもの光ると表現するよりはうんこが光を纏って輝いていると表現するべきかも解らない光景。
虚無感から驚愕と混乱に跳ね上がる雪花の心理状態。まさかこんな事がありえるのか、ありえていいはずがない、だってうんこじゃん、うんこは光らないはず、だから、この光って臭いのはうんこでは無いのでは? 確認せざるを得ない雪花は公園の植え込みに生える木から枯れ枝を失敬してうんこ(疑惑)を突く。
ねちょ。と、枯れ枝越しに雪花の手に伝わるうんこの感触。間違いなくこれはうんこだった。つまり、うんこは輝いているのだ。
木の枝にこべりつくうんこ。いずれ多くの人間の命と期待を背負う事になる未来の勇者秋原雪花にうんこを木の棒でつついていたという人生の汚点もこべりつく。
「そのえんこついたぼっこ*6どうすんの?」
「どうもしないよ」
男子の純粋な眼差しによって我に帰り、とたんに羞恥をおぼえた雪花がうんこ枝を白い雪に埋めて隠す。それはまるで恥を隠すために行われた行為だが、雪花がうんこをつついた事実は消えない。雪に埋もれたうんこ棒はいずれ雪融けの時期にうんこを雪融け水に流されるだろうが、過ちは決して洗い流せないのである。
「で、なんでこのえんこ光ってるの?」
「……さぁ?」
これがうんこなのは認めよう、でも何故光っているのだろうと首を傾ける雪花。男子も光る理由が気になるのも解らないのも同様で同じように首を傾ける。うんこを前に真面目な顔で首を傾ける小学生男女、雪花の人生の過ちはとぐろを巻くうんこのように積み重なっていく。
「そもそもこれ、なんのえんこ?」
犬や猫のうんこではないだろう、犬や猫のうんこは光らない。小学生相応の知識量しかない雪花では光るうんこをする生き物に心辺りが無く、それ故に年相応に豊かな想像力によって自分が知らないだけで光るうんこをする生き物がいるのではと頭の悪い夢物語のような結論を導き出す。
光るうんこ生物がここにうんこをした、もしかしたら、まだこの辺り光るうんこ生物がいるかもしれない、もしかしたら雪男やチュパカブラのようなUMAかもしれない、ちょっと捜してみよう。と、周囲に視線を巡らせる雪花。だが、光るうんこ生物どころか手掛かりになりうる物はなにも見付ける事はできなかった。
足跡さえも、見つからない。
見つけたのはられたのは雪花自身が今しがた歩いてきた轍のような足跡と、雪花が公園に入ってきた位置とは違う位置から荒っぽく雪を踏んで進んだであろう男子のものらしき足跡だけ。この場二人の足跡しか見つけられなかったのだ。
「まさか……」
犬や猫の足跡すら見つけられないという事は、この湯気を放つほどに新鮮なうんこをここに産み落とした何かは雪を踏まずに此処に現れてうんこを置いていったという事で、もしかしたら光るうんこ生物は鳥のように空中を移動できるのかもしれないと推理し、どうかこの推理が正解であって欲しいと願う雪花。
UMAが存在して欲しいと願うロマンの心でそう願う訳ではない、自分の推理が正しいのだと賢ぶりたい訳でもない。この推理が正解ではないのならば、これはなんのうんこなのかと疑問を口にした瞬間から無言で目を逸らして視線を合わせる事をしなくなった目の前の男子がここで尻を丸出しにして野糞をしたとしか推理できなくなるからだ。
目の前にいる男子が光るうんこ生物というUMAかもしれない状況に眩暈がしそうになる雪花。未知との遭遇という非日常は平日の朝に登校する日常から始まるのだ。
「なんのえんこだろうなー」
「ッ!」
目を逸らしながらも棒読みの発音で雪花と同じ疑問を口にする男子。あからさまな態度で知らばっくれる男子だが、それに追及するよりも衝撃的な事実に気付いて息を飲む雪花。
輝く光属性のうんこが有る、しかし、コレが人型の生き物がここに産み出した物だとして、ケツを拭いた紙が無いのだ。どこを見ても雪、雪、雪……雪しかない景色、紙であろうと布であろうとケツを拭いたのならば残るはずであろう残骸がどこにもない。
仮に目の前の男子が光るうんこ生物だとするならば、この男子はうんこしてからケツを拭かずにパンツを履き直している事になる。つまり、今現在ケツにうんこを挟んだ状態である疑惑が浮上するのだ。その考えに至ってしまった雪花の心がドン引きに染まり、闇に堕ちて闇属性の雪花となる。
光があるならば影には闇がある、これは世界の真理だ。光のうんこと闇の雪花、ここに世界の真理の縮図があった。うんこと雪花は対なる存在なのである。
「……ま、マジかー」
ドン引きしてはいるが男子にケツでうんこ挟んでるだろとは追及しない雪花、闇に堕ちていてもいたずらに相手を辱しめないだけの情けがあった。これこそが、いずれ勇者として覚醒する少女の無垢さと寛容さと器の大きさなのだ。
そんな雪花の優しさを知ってか知らずか、数秒間の挙動不審を経てから男子が口を開く。
「あ! そういえば忘れ物してたんだ、取りに帰らなきゃ!」
唐突で脈絡の無さすぎる発言、そのまま男子が踵を返して自分の足跡を辿って荒々しくも素早く雪を掻き分けていく。
「あっ、ちょっ──」
そんなに激しく動いたら挟んでるうんこがケツから落ちてパンツにつくんじゃないの。と、言い掛けて口を閉じる雪花。察してしまったのだ、男子のパンツは既に手遅れで、着替えに帰ろうとしているのだろうと。
自分は何も気付いていない。そう自分に言い聞かせながら男子を見送る雪花。何も明かさずに去ろうとしているという事は知られたくないのだろう、まだ事実を隠せてると思っているのだろうと、雪花は雪に冷やされて温度を失ったうんこよりはぬくもりを感じさせる眼差しで男子を見送る。
うんこたれ男子のちっぽけなプライドを刺激しないでおくのはやはり、雪花なりの情けであった。
「バレたくないなら見せなければよかったのに」
豆粒のように小さな後ろ姿に呟く雪花。いずれ勇者となる少女はこの日、知らんぷりという行為は悪意ある無視だけではなく、大人の対応という優しさから行われる事もあると知った。
大人になるという事は汚れを知るという事でもある、光るうんこをきっかけに少しだけ大人になった雪花がその過程でうんこをつついたという人生の汚点を得てしまったのはある種の必然だったのかもしれない。
雪花はうんこで大人になったのだ。
ダイヤモンドダストという自然現象が存在する。特定条件下において、空気中の水分が氷結して散り、その無数の結晶が光を浴びて輝く現象だ。雪花がこの現象を知った時に思ったのはあの時の光るうんこはうんこの放つ湯気が原因でこの現象が発生していたかもしれないという推測だ。まとめ役達が集まった話し合いの場でこの現象の存在を知ったきっかけは何のテレビ番組だったかと雪花の思考が明後日の方向に逸れたのは、かつての光るうんこ生物もこの話し合いに参加していたからだ。
かつての鼻タレ面とは違う端正な顔が口を動かす。
「───って事で、いつも魚を捕りに行ってる川周辺に熊がウロウロしてるから猟師さん達にどうにかして欲しいっスね」
雪花と歳が変わらない元光るうんこ生物改め、一般的なうんこたれ。この年若いうんこたれは異様な程に野山での食糧確保が上手く、その手腕によって流通の破壊された旭川市周辺の食糧事情を支えるのに大きく貢献している事から多くの人に頼られている。
皆こいつを一目置いてるけどうんこたれだよ、大丈夫なの? と、雪花は不思議な気持ちになっていた。
「あ」
不思議な気持ちでうんこたれを見ていた雪花がとある事に気付いて小さく声を漏らす。自らに力を与えるカムイの一柱であり、狐の姿をしているコシンプ*7がいつの間にかうんこたれの頭に乗っていたのだ。
「どうかいたしましたか?」
「いえ、なんでもないです」
え、なに? そいつ気に入ったの? うんこたれだよ? と、カムイが自分以外になんらかの反応を示すのは珍しい事なのでつい反応してしまった雪花。それに対して隣に座る男が怪訝そうに雪花に訊ねてくるが、自分以外に見えてない存在の説明をするのも面倒なので誤魔化した。そんなやり取りをよそに話し合いは続く。
「うーむ、そろそろシャケ*8も遡上してくるし熊がいると冬の備蓄に影響が出てしまうな」
「熊は一ヶ所にとどまり続ける訳じゃない、周辺での茸や山菜の収穫にも影響がでる」
「畑も家畜も荒らされる、牛一頭持ってかれるだけで何十人前の食い物が無くなる事か。雌牛をやられたら牛乳も無くなるし仔っこ*9も増えなくなるぞ」
うんこたれによる熊が出没したという報告に空気が硬質を帯びる。怪物によって滅びかけの人類であるが、人類が戦う相手は怪物だけではない。人類は有史以前から飢えや病と戦い、生存域を賭けて獣とも争ってきたのだ。たかが獣の一頭、されど熊、冬には雪に閉ざされて食糧の確保がままならなくなるこの地では肉食獣一頭が原因で残された人類が滅びかねない。人を喰う怪物、人を襲って食糧を荒らす熊、道産子にとってどちらも滅びの原因となる怪獣だった。
「一応痕跡を軽く探してみたんスけど、足跡は微妙に小さいから若いってのと、狩りが上手い個体かもしれないから普段よりももっと慎重に対応しないと人死にがでるかもしんないスね」
うんこたれの下手糞な丁寧語による報告の追加によって更に空気が硬くなる。なんでそこまで解るんだろ? っていうかほぼ全員疑いもしないんだ。と、雪花はうんこたれの得ている信頼の強さに感心する。
「なぜそこまで解るんだい?」
集まったまとめ役のほとんどが眉間にシワを寄せている中で一人のまとめ役がうんこたれに問い掛ける。話し合い場に居合わせてはいるが、政事に疎いのに下手に発言力が強くなっているのを自覚しているので面倒を避けるために発言するつもりは無かった雪花は同じ疑問を抱えていたので渡りに船の気持ちで耳を傾ける。
「あ、あー、うん……」
ややためらいがちな雰囲気で言い淀み、ほんの一瞬だけうんこたれの困ったような目が雪花に向けられた後に意を決したのか堂々と発言した。
「えんこッス」
うんこか、ここでうんこなのか。多少なりとも男前な面構えになってもお前はやっぱりうんこなのか。と、戸惑うしかない雪花。
「なるほど、えんこか~」
「いやいやいや、えんこって……」
うんうんと頷いて納得する質問者。うんこで何が通じたのか、周りを見ても誰もが疑問を抱いてそうな顔をしてない状況に雪花が激しく困惑する。なんなんだ、男って生き物はうんこで通じ合うのか、うんことは万能言語なのか。
「おや? どうやら勇者様にとっては少し説明が足りなかったようですね。説明してやりなさい」
「オイさん……了解ッス」
雪花の困惑に目敏く気付いたまとめ役達を更にまとめる指導者的立場である及川がうんこたれに説明を促し、またも少しだけ困ったような顔を一瞬だけ見せたうんこたれが体育会系の滲み出る返事を返して雪花に向き直る。雪花は今、うんこたれからうんこの説明をされようとしていた。
「熊ってのはえんこ見たら何を食べたのか簡単にわかるんスよ」
「へー」
多くの大人が見守る中でうんこたれより施されるうんこ講義、雪花は羞恥心を刺激されながらも自分のために時間を割かせてしまっているのだからと真面目に講義に耳を傾ける。
「んで、複数箇所で見付けたえんこはどれも肉ばかりを食べた後に出されるえんこで、それはつまり安定して肉を食えるだけの狩りの上手さが推測できる訳っスね」
「へー!」
講義の内容よりも短くまとめながら要点をおさえた解りやすい説明ができるうんこたれに感心する雪花。話してる内容はうんこだけど真面目にしてたらやっぱりそれなり程度に男前じゃん。と、更に感心する。
「そーいやここ最近食糧の調達に行ってそれっきり帰ってこなくなった調達班が何人もいるよな~」
「……やっぱり、そういう事なんスかねぇ」
のんびりとした軽い口調で重たい言葉を投下する男に苦虫を噛み潰したような顔をするうんこたれ。
「定期的に肉を食べてる熊、定期的に消える人間、人が減って動物の領域が増えたはずなのにそれでも人里付近に降りてきた熊、拡がった熊の領域に踏み込んでる人間」
「人の味を知ったんだろぉなぁ、鈍足だから狩りやすくてそれなりに量がある肉……その内人里全部が熊にとってのレストランになるな」
山にひそむ熊は通常ならば生涯人の味を知らずに寿命を迎える。しかし、何かのはずみで人と遭遇し、好奇心や防衛本能などで人を殺害した後に血の匂いに食欲を刺激されて人を貪る事がある。そうなってしまえば熊にとって二本脚で歩くよく分からない貧相何かはノロマでロクな反撃もしてこない二本脚の生肉になり、熊にとって餌の確保が難しそうな山の外にある石ばかりの場所が生肉いっぱいの餌場となる。
「……至急、その熊を狩らねばなりませんな」
重い息を吐きながら満場一致の意見を改めて告げる及川。旭川市周辺の人々は今、人喰い怪物のみならず人喰いの獣の脅威にも脅かされているのだ。
「人間様をを大した事のない存在だと知った熊は狡猾に襲ってくるぞぉ、何人か返り討ちされて喰われるかもわからん」
「手練れの猟師さん達を招集しましょう、鹿を追って食糧をかき集めてる場合ではない」
「はっはっは! 手練れは皆去年の内に死ぬか身体壊すかして使いもんにならんよ、最初の食糧不足に無理をさせたツケだなぁ」
またも軽い調子で重い事実をのたまう男にだれもが閉口する。怪物達が人を襲い出してから最初の冬、混乱冷めやらぬ中でのその時期は食糧不足に全ての人間が喘いでいた、それをどうにかしようと行われたのは猟師頼みによる肉の確保で、狩猟の心得のある者達もそれに応えようと多くが山に籠り続けて獣を人里に供給し続けていたのだ。だが、その中で少なくない人数が人知れず怪物に襲われたり遭難して帰らぬ者となり、帰った者も多くは無理が祟って身体を壊している。
多くの人のために奮闘し続けた真面目で腕の立つ者達のほとんどは最初の冬を越えれなかった、残ったのは不真面目な者か力足らず山深くに長く籠れない者ばかりだった。
「今鹿を追わせてるような鉄砲持たせたばかりの若い奴等を集めても足手まといだなぁ、アイツらは一方的に鹿を撃つ事ができても狡猾な熊との殺し殺されはできんよ。そういう臆病になるように俺が仕込んだからなぁ」
「ぬぅ……」
最初の冬を不真面目故に乗り越えた腕の立つ猟師がせせら笑い、及川が何も言えずに唸る。それを見ていた雪花は自分が思ってたよりもこの一帯の状況が芳しくないという事を察した。
「かといって俺一人で事にあたっても狩れる確証は無いしいつまで掛かるかもわからんなぁ」
「どうしたものか……」
重く硬い空気の中、雪花がとある事に思い至る。この話し合いの流れは仕込みで、一般人には対処が大変であろう熊を私に対処させるために、自主的に『私がやりますよ』と言わせるための流れなのではないかと。
普段はまとめ役達の話し合いに呼ばれる事はなかったのに今回だけは呼ばれて同席する事になったのは、頼み難い事をやらせるための芝居なのかもしれない。と、勇者となってから人の裏側を少しだけ知るようになった雪花が推測する。
「えーと、私が倒してきましょうか?」。
「なりません勇者様、獣相手とはいえどその手を血に汚すのはよろしくない」
「勇者様はカムイより力を授かっている身です、血や殺生に汚れるのはどんな影響があるか……」
「勇者様が狩るべきは畜生じゃなくて怪物でございます。それ以外に対してはなるべく関わらずに御身を休めるべきですよ」
一変した先は慌ただしい空気、そして、満場一致な反対。え、そういう流れじゃなかったんだ。と、雪花は意外に思いながらも戸惑う。
「手強い相手とはいえ勇者様の力が必要なほどの相手ではありませんなぁ。人手貰えるんなら欲しいのはそこにいる及川さんがめんこ*10にしてるぼんず*11が欲しいなぁ」
「え、俺っスか?」
雪花のみならず、この場全ての戸惑いの目が不真面目な猟師とうんこたれに向けられる。
「鉄砲の使い方教えちゃるからぼんずが熊を撃ちなぁ」
「なにを、まだ子供ですよ!」
「ぼんずと同い年の勇者様だって子供だぁ、めんこが心配なのは解るが使えそうなのがいるならさっさと使えるように育てた方が後々のためになると思うがねぇ」
不真面目な猟師に声を大きくする及川だが、言われる方は暖簾に腕押しな態度で受け流す。
「前の冬にぼんずの働きは見た。山で危険な獣に逢わず、茸や山菜の群生地をいくつも見付け、罠を仕掛けりゃ魚も兎も必ず捕まえる。ぼんずは勇者様とは違う形でカムイの加護を得ているんじゃねぇかな、んなら上手くいくだろうよ」
そんな不真面目な猟師の言葉に、うんこたれの頭上で沈黙を保っていたコシンプが一度だけ大きく尻尾を振った。それを唯一見れる雪花のみならず、子供と言える年齢ながらもまとめ役の話し合いに参加するようになるほどの功績を知っているほぼ全てのまとめ役が奇妙なほどの説得力を感じとる。
「そうは言いますがね、勇者様のようにしっかりと加護を得ていると解る訳でもなし、そんなあやふやな事を頼りにする訳には──」
「加護が無いならそれこそぼんずの実力さぁ、実際にぼんずは熊の痕跡を見付けたら深追いしない程度に周囲を探索して重要な情報を持って帰ってこれる判断力と行動力を見せてる。及川さんも男ならそれを否定しなさんなよ」
「ぬぅ……」
唯一納得を示さない及川が尚も反論するも、更なる言葉に反論が止まる。
「オイさん、俺やってみるっス。今はなんだってやってみなきゃいけない状況っスから」
「……そうか、わかった。無理の無い範疇でやってみなさい」
危険に晒される本人からもやるべきだと言われ、やや沈黙に考え込んで遂に折れる及川。うんこたれの前向きな姿勢に雪花を含めた及川以外の人間が感心し、その直後にうんこたれの頭から少し離れたコシンプが片足を上げてうんこたれの頭に小便をひっかける姿を見た雪花は激しく不安になった。
「ご指導、よろしくお願いするっス」
「おう、任しときなぁ」
体育会系な熱血っぽいノリで猟師に頭を下げるうんこたれ。しかし、その頭には雪花にしかわからない無色無臭の小便がかかっている。
うんこたれの小便マン。と、雪花は心中で呟いた。
「へー、カムイに好かれやすい性質ねぇ……そういうの本当にあるんだ」
雪花がカムイの音無き声を聞きながら夜空を跳躍して移動する。雪花がカムイに聞いていたのは昼の話し合いの場で疑問に思った事で、カムイに聞けば解るかもと思った事だ。
「明確に声を聞けるシャーマン的な才は無いけどカムイに好かれるから感覚にカムイが何かを伝えて導かれる、んで、無自覚に導かれた先が安全だったり食べ物がたくさんあったりする訳だ。なるほどにゃあ……」
普段は自分以外に大した反応を示さないのにわざわざ頭にまで乗っかって尻尾を振っていたのはその性質に惹かれたからなのかと納得する雪花。そして、続けざまに浮かんだ疑問をコシンプに問う。
「なんで気に入った相手に尿をひっかけてたの?」
先程は犬が縄張りを主張するために電柱へと小便をかけるかのような気軽さでうんこたれの頭に小便をかけていたのは何故か、カムイにとって小便が親愛の表現なのだろうかと雪花は疑問を抱えていたのだ。
問い掛けに、音無き声が返る。
「悪いカムイにも好かれて連れていかれるかもしれないから、悪いカムイが寄ってこないように気配をつけておいた……と」
連れていかれるって、どこに? まぁ、悪いカムイっていうくらいだしコシンプが阻止しようとしてる位だから連れて行かれて嬉しくない場所なんだろうな。と、新しく浮かんだ疑問に仮説を立てつつ質問を切り上げる雪花。着地した先で口を閉じ、物陰に身を隠してとある民家の中の様子を勇者の強化された聴力で探る。
雪花は今、夜の見回りついでに動向の怪しい者が何を企んでいるのかを探っていた。今探っている対象はまとめ役達の一人で、雪花が勇者として活動を始めた直後から様々な図書施設や神社仏閣から資料を強引にかき集めてカムイについて調べている男だ。
「カムイが寵愛を与える対象の多くは無垢である事……無垢とはなんだ、年齢や処女性以外の条件は……勇者は増やせないのか……男は、大人は勇者になれないのか」
雪花の優れた聴力が拾うのは話し合いの場にもいた男が呟きながら幾度も紙を捲って摩れる音。雪花は今までに掴んだ情報でこの男は自身が勇者になるか、身内を勇者にするかをしようとしていた。この男の鬼気迫る調査の姿勢に、いずれ人の道から外れるような事をしでかすのではないかと案じている。
「贄、贄か……」
「おばんですー*12、お願いしてた調べ物できてるっスか?」
男が嫌な予感を感じさせる言葉を呟いた直後、雪花が眉をしかめたのと同じタイミングで男の家を訪ねてきた男の声が響く。
「おぉっ、君か! もちろんできてるとも、説明もしておきたいから上がってお茶でも飲んでいきなさい」
「あざっス、お邪魔します」
訪ねてきたのは先程話し合いの場にて熊を撃つ事が決まったうんこたれ。迎えた男は歓迎の意を態度全てで表して資料との睨めっこを中断した。
あのうんこたれ、このいかにも怪しげな男とそんなに親密な仲だったのか。と、雪花は意外に思いながらも更に耳をそばだてる。
「昼の報告には驚いたよ、まさか熊が出没していたとは……。勇者様に我々一般人も人々を守るために色々とやっていると知って安心して頂くために招いたのだが、余計に心労を掛けさせてしまったかもしれん」
「報告のタイミングをズラした方が良かったっスかね?」
「いや、熊は急いで解決すべき問題だ。君は間違っていない。我々大人が格好つけようとして失敗しただけだ」
お茶の用意をしているらしき男が陶器の擦れる音を鳴らしながら語った言葉にすっかり忘れていた疑問へ答えを時間差で得て納得する雪花。
「さて、どこから説明すべきか……、この日本の八百万信仰、つまりはアニミズム的考えは北海道に古くからいたアイヌ達も似た思想を持っていて全ての物は天から降りたカムイがその姿をしてると──」
「巻きでお願いするっス」
「そうか……生け贄の文化は間違いなくアイヌにもあった、イヨマンテ*13なんて学校で習わなかったかい?」
「地域学習で習ったっスね」
なにやら始まってしまったお勉強の時間に平和だった小学生の頃を思い出してほっこりする雪花、直後に光るうんこ事件も思い出してしまって微妙な気分にもなる。
「何かをして欲しいから自分も何かをする、ギブアンドテイク、人同士だって持ちつ持たれつで対価を払うのに神に対しては祈りだけで加護を求めるのは虫が良すぎる……なるほど、目から鱗の気分だったよ」
「秋原、あ、いや、勇者様はカムイから力を貰ってる、つまりカムイは絶対にいる。なら後は祈りの捧げ方次第で祈りは届くんじゃないかって思うんスよね」
「そして、それを私は調べた。この地に古くから根差していた儀式、神ではなくてカムイへの祈り、今では廃れてしまったそれらを復活させて勇者様への更なる加護を祈れば勇者の力になるかもしれない。纏めた資料は明日にでも及川さんに提出してみるよ」
お勉強の時間かと思えば突如出てきた自分の名前に雪花は息を飲み、陰ながら自分への一助に奮闘してくれていた存在を知って喜びの気持ちが湧いてくる。同時に、そんな奮闘をしてくれていた人に対して少しでも疑いの目を向けていたことを後ろめたく思った。
「もしもこれが上手くいったのならば、人の祈りは今まで想定していたよりももっと直接的にカムイに届くとい事の証明にもなる。もしかしたら、勇者様……秋原様以外の勇者を増員して欲しいという祈りも届くかもしれない」
これ以上盗み聞きしてても何も出ないだろう。そう判断して場を離れようとした雪花だが、更に気になる話題になってしまったので収まりが悪い思いをしながらも耳をそばだて続ける。
「調査を始めた頃はちっぽけなヒーロー願望で私が勇者になってやると思ってたし、無垢でなければ勇者になれないと知ってからは娘を勇者に仕立てようと思ってたのだがね……きっとどちらも無理だろう」
「急なカミングアウトっスね」
「もし勇者を増やせるのならば、勇者になるべきは君だ」
え? と、屋内のうんこたれと屋外の雪花の声が重なった。
「あの不良猟師も言っていたが、君が人ならざる存在、カムイに導かれていると信じている者は多い、私もその一人だ」
まだまだ幼いと言える年齢の頃から大人でも過酷なはずの山歩きを平気でこなし、どれだけ深く山に入っても迷わず、予め知ってたかのように食糧の多くある場所に辿り着いては多くの人を餓えから救い、時には誰もが帰還を諦めていた遭難者を見付けて連れ帰る。偶然と言うには出来すぎた幸運の持ち主。その他にも根拠として色々な事例を上げて語る男。
そのうんこたれ、そんなに凄いのか。うんこたれなのに。と、雪花はただ驚くばかりだった。
「カント オロワ ヤク サク ノ アランケプ シネプ カ イサム」
「なんスか、それ」
「アイヌの人達に根差す考え方の一つで、天から役目なしに降ろされた物はひとつもない。という意味を持つ」
生憎と書籍で知った言葉だから発音は適当だが。と、捕捉しつつ男は続ける。
「私のような普通の男には普通の役目を、特別な存在の秋原様には勇者という特別な役目を……きっと、誰もが特別だと感じている君にも何か特別な役目があるのかもしれない」
「それが、勇者っスか?」
「勇者じゃなくても、特別な何かが君にはあると私は思っている」
「自分で自分が特別だと感じた事なんて無いんスけどねぇ……」
期待を込めているであろう熱を帯びた口調の男に反し、うんこたれの反応は微妙だった。うんこたれは普通ではないよね。と、雪花は絶妙に納得していた。
「君が特別かどうかは今までの君自身が証明している、きっとこれからも証明するだろう。例えば熊の討伐、悪いカムイを倒してみせるだろうね」
「悪いカムイ?」
悪いカムイ。つい先程に良いカムイ筆頭であろうコシンプから聞いたばかりの単語が出てきた事により、そろそろ撤収しようと考えていた雪花の興味をひいて脚を縫い止める。
万物に神が宿るのではなく、万物が神その物であるとしているアイヌ達。もちろん生きた動物も神であり、その中でも人を殺した動物を悪い神として扱っていたと男は語り、それならば既に人を殺しているであろう件の熊は悪いカムイになっている事になると言い切る男。ほへぇ。と、うんこたれが間抜けなため息で応えた。
「神殺しをしろってんスか? なんだか熊一頭で漫画みたいな話になってるっスね」
「訳の解らない怪物が人を滅ぼそうとし、それを勇者という少女が抗っているこの現状が既に漫画みたいだと思うが?」
「たしかに!」
男二人が声を揃えて面白そうに笑う。しかし、世界まるごと笑ってる場合じゃないんだよにゃぁ……。と、雪花は陰で苦笑し、そのまま今度こそ撤収しようと試みる。
「あー、そういや誰にも言った事無いっスけど良いのか悪いのかよく解んないカムイなら見た事あるかもしんないっスね」
「なんだと!?」
試みたが、またも強く興味をひかれる話題になってしまったせいでその場にとどまる雪花。盗み聞きを辞めるに辞めれない出歯亀勇者の姿がそこにはあった。
「たぶんっスけど、あれはえんこのカムイっスね」
「なん……だと……?」
驚愕の声から瞬時に戸惑いの声に変貌した男の声。雪花の内心も同じようにうつろう。
困惑ながらも話の先を促す男にしたがってうんこたれが語る。
「小学校にあがってから最初の冬にすっごい寒い日があったんスけど、腹が冷えたのか登校中にえんこ我慢できなくなって野糞したんスよ」
おい、待て。ほぼ確信してたけどやっぱりあれはお前のうんこだったのか、別の何かのうんこだったっていう僅かに残っていた可能性を自分で潰すのか。と、雪花が呆れに似た感情を胸中で叫ぶ。
「そしたらなんかえんこ光ってたっス」
「えんこが……?」
あー、うんこたれにとってアレは神様だったのかー、うんこはともかく光ってる感じはなんかキラキラしてたもんねー。と、珍獣を見守るような不思議な気持ちが湧いてくる雪花は無自覚の内に菩薩の表情に至る。
「見間違いとかじゃ……?」
「いや、勇者様……その時はまだ勇者じゃなかったっスけど見せたら勇者様も光ってるのが見えてたんで見間違いじゃないっスね」
「自分の野糞を女の子に見せた……だと……?」
なんて事だ、とんでもない勇者だ。と、男が呟く。
なんて事だ、うんこを見せつけられた人生の汚点が第三者に知られた。と、雪花が嘆く。
「しかし、うぅむ……特別な存在であろう二人が一緒にカムイを目撃したのか。二人とえんこには何か関連があるのだろうか」
信じちゃうのかー、考察しちゃうのかー、与太話として流して欲しかったなー。と、更に嘆く雪花。
「はっ! まさか!?」
「なんか解ったんスか?」
「もしや、勇者様に力を与えているのはえんこのカムイなのではないだろうか」
やめろ馬鹿、ふざけるな。つまり私はうんこの勇者だってか。と、屋内に乗り込んで胸ぐら掴みながら一言文句を言ってやりたい衝動に駆られるも、盗み聞きしていた現状を思い出してなんとか踏みとどまる雪花。気付けばすぐそばに浮いていたコシンプが不服そうに尻尾をピンと立てていた。
「私達はえんこを崇めるべきなのだろうか?」
「えぇ~~~……、なんかそれは嫌っスね」
思考の迷走を始めた男と苦い声のうんこたれ。雪花はこれ以上盗み聞きしてても何も無いだろうと今度こそ夜空へと跳躍した。