催眠おじさんVS美少女勇者:地球最大の決戦!RtA 作:ルシエド
ふと部屋で一人でいる時、おじさんは思い出す。
―――御主人様ー! ワテ頑張ったで! お高いチョコが欲しい!
「そういやヒュプ……」
思い出して、"どんなチョコがいいんだ"と言いかけた言葉を止め、もういないことを思い出す。
「ああ。そうか。もういなかったな」
おじさんは小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「チョコ買わなくて済んで良くなったか。
あいつが死んでせいせいするなァ。
いっつもいっつも食い物要求しやがって、いい気味だ。ハッ」
あまりにも痛ましく、虚勢しかなく、本音が何一つとしてない言葉が漏れる。
誰も聞いていないのに、おじさんは心にもないことを言い始める。
自分しか聞いていないのに。
自分に言い聞かせるように、言っていく。
「最近夜は毎晩電話かけて来てたからな。
ったく。どんだけ寂しがり屋なんだ。
毎晩付き合わされる身にもなれ。
夜が来る度に長電話かけてきやがって、このアホが」
―――ほんでなー、銀ちゃんがワテのこと褒めてくれたんや! ごっつ嬉しい!
―――良かったな。お前に友達が出来て、小生もまあ、良かったとは、思うぞ
―――ツンデレ
―――殺すぞ
「はっ、なんだこの関西人のお笑いDVDの数!
ありえねー! 全部売ってこねえと。ヒュプノしか見ねーだろこんなよォ!」
―――うはははは! ん? 御主人様お笑い聞かないんか?
―――ん? 聞いてるぞ。楽しんでる
―――お笑いでわろてるワテの声を聞いて楽しんでるとかそんなん?
―――お前本当に原辰徳
「なんだこのメッセージカード!
あ、園子の誕生日が八月末だったな!
小生が代筆したんだったか!
あと一ヶ月かそこらで生まれて初めて友達の誕生日祝えたのにな!
友達の誕生日祝えること楽しみにしてたなヒュプノ!
でもバーテックスじゃしょうがねえか! 人間みたいに生きられず死んでも!」
―――そのっちは推せる
―――いきなり何意味分かんねえこと言ってんだテメー
―――そのっちのスカートになりたいんや
―――い、意味分からん
―――あの子がサドっ気見せた時に愛のあるいじめをされたい! 尻に踏まれたい!
―――やめろ! あの子をそういう目で見るな! 穢すな!
「あー、これは海の観光本だ!
買った意味無かったなー、ヒュプノ!
銀と海行ってみたい、とか言ってたな!
バーテックス海のある世界とか見たことないもんな!
結界の外は燃え尽きてる!
結界の中では樹海しか見られない!
バーテックスは海を見ないまま皆死ぬ!
あんなに海は綺麗なのに!
かわいそうになあ!
あ、ヒュプノも見ないまま死んだんだっけか!
お前は銀と仲が良かったから海が見たかったんだろうけど見れなかったな! バーカ!」
―――知ってるかヒュプノ。天国では皆、海の話をするんだぜ
―――ほへー、ほんま? 誰が教えてくれたんや?
―――Knockin' on heaven's doorってドイツの映画で出て来た話さ
―――海の話かぁ。海見たことないんやワテ
―――見りゃいいだろその内。不安なら本買ってくるから待ってろ
―――おーきに! 須美ちゃんの水着が見たいですねぐへへ
―――こいつ……ったく
―――海泳いでみたいなぁ。銀ちゃんに泳ぎとか教わりたいねん!
―――海は綺麗だぞ
―――そんなに?
―――だから天国では皆海の話をするのさ。海の話ができないと仲間外れなんだ
―――あー、それは見るまで死ねん! 見るまで死ねんやつー!
おじさんは笑って、笑って、笑って、糸を引いて張り詰めさせるように、笑って。
「ああ」
ぶつっ、と。糸が切れるように、笑いが消えた。
「小生は、寂しいのか……」
彼がこの世界に来るまでの人生と、この世界に来てからの人生は、まるで違う。
まるで違うその二つの人生が、その人生を構成するあらゆる要素が、今ここに一つの点を結ぼうとしていた。
「寂しいよ……だから……戻ってこいよ……」
彼は、催眠がかかっていない人間を絶対に信用できなかった。
人形にしていないと信頼できない人間だった。
幼少期に仕込まれた精神性から、30年近く生きてもなお抜け出せていなかった。
だから彼は、自分と周りの人間との繋がりを、『お人形遊び』と思うことしかできなかった。
―――インチキおじさんは、どうして人が信じられないのかな
―――催眠をかけてお人形さん遊びにしないと、他人を大切にできないのはなんでなのかな
園子の指摘は、実に正しかったと言える。
彼は、根底の部分が変われなかった。
成長しても変われない。
他人が変えてくれても変われない。
光の中に居るのに、へばりつく過去が彼に変化を許さなかった。
一族が、両親が、死してなお彼に変化を許さなかった。
そんな彼に、付き合いも短く、おじさんの精神的な急所に触れてもいなかったヒュプノが影響を与えられた理由は一つ。
『人間じゃなかった』からだ。
人間を信じるな、と両親は言った。
じゃあ人間じゃない存在は?
人間の心への不信を、両親は植え付け続けた。
じゃあ人間の心じゃないなら?
人間とはお人形遊びしかできない。
なら怪物とは?
―――おっかしいな……こいつも催眠の強制微妙に外れかけてんのなんでだ……?
おじさんは、ヒュプノの催眠が外れかけていたことを大して気にしていなかった。
と、いうか。
ヒュプノが完全に催眠の支配を脱していることに、本当は気付いていた。
気付いていたが実は、おじさんはそれを大したことでもないと自然に思い、無意識下でスルーしていたのである。
元々敵であるのなら、僅かに催眠が緩んだだけでも、死ぬほど警戒するのが当たり前だ。
ヒュプノが裏切って後ろから撃ってきたら、その時点で全滅なのだから。
須美達の催眠が緩む疑惑があっただけでも催眠をかけ直し、園子の記憶齟齬を見て即座に頭の中を調べるおじさんが、ここまで無警戒なのは、明らかにおかしなことだった。
おじさんはヒュプノを信じていた。
お人形遊びだなんて、微塵も思わないほどに。
おじさんはヒュプノに対し、ある意味、須美達以上に心を開いていた。
死ね死ねと気安く言うし、頼まれればコンビニで酒も買ってくるし、普段扱いが雑なくせに、いざ死ぬとなれば誰よりもうろたえていた。
友達だった。
友達だったのだ。
両親の教育でおじさんが壊れる前、素直な気持ちで作っていた、何の壁も無い友達と同じ感覚で付き合える―――友達だったのだ。
だからもう、両親が彼の中に作った歪みは、取り払われていた。
ヒュプノは人間ではないが、その心はもう人間のそれだった。
人らしく生き、人らしく死んだ。
その最後が、彼を変えたのだ。
『あなたはもう催眠の無い人とも絆を紡げる』―――命をかけて、ヒュプノはそれを彼に伝え、彼の心を最後に少しだけ救っていった。
須美達にほとんど救われていた彼の心の、最後の部分を、救っていった。
彼がどうしても越えられなかった最後の一線を、ヒュプノが越えさせていた。
ぽつりと、おじさんが呟く。
「『戻ってこいよ』」
対象がいない催眠が、不発に終わる。
言葉はどこにも届かない。
ヒュプノはもうどこにもいない。
知っている。
他の誰でもなく、おじさんが一番良く知っている。
自分は神ではないから、催眠では死んだ人は蘇らないから、もう何も意味はないのだと。
おじさんは部屋の隅の、山のように積み上げられたストロングゼロに手を伸ばす。
ヒュプノが飲みたがっていたものだった。
ヒュプノの巨体を酔わせるには大量の酒が必要だな、と思って、各地のコンビニを一人で回ってあくせく買い集めたものだった。
酒を並べられた時のヒュプノの顔を想像して、買い集めていた時のおじさんは、心底楽しそうに笑っていた。
―――ヒュプノのやつ、こんだけ持っていったらびっくりするだろうな。ケケケ
なんであの時の小生は笑ってこんな酒を買ってたんだろう、と思いながら、おじさんは酒を飲んでいく。
一本、二本、やがて五本、十本と飲み干していく。
「はっはっは! 楽しい! 楽しい気持ちだなヒュプノ!」
おじさんは笑う。
とても楽しそうに笑う。
「小生もお前と同じだぞ! 人生楽しんでるぞ! 人生楽しいなオイ! ひゃはは!」
笑う。
笑う。
笑う。
笑う。
笑う。
笑えない。
「ひゃは、は……」
兄の言葉が、彼の心に蘇る。
―――希望を持つな。
―――期待するな。
―――信じるな。
―――諦めろ。
―――そうすれば自分の想いに殺されない。
―――諦めれば……この薄汚い遺伝子の中に生きる小生らでも、多少はマシに生きられる
弟をよく知る兄の言葉は、どうしようもないくらい、今の彼に刺さっていた。
「何も守れないなら……生まれて来なかった方が、よかったんだよな」
ヒュプノは自分の命と引き換えに、主の命と心を救った。
それは間違いなく、この上ないほどの大偉業だった。
けれど、それでも―――友が死んでしまったことは、胸が張り裂けそうなほどに、悲しかった。
鷲座、という星座がある。
鷲の翼を成す星と、『鷲の尾』を成す星で構成される星座だ。
ギリシャでは古来より、この鷲がゼウスの雷の矢を運んでくると考えていた。
星座の鷲は、弓持つ者の相棒である。
この鷲座と隣り合うのが、射手座。
ヒュプノの源流である、空に輝く星座である。
黄道十二星座と呼ばれるものの中で、射手座は最も古いものと考えられており、人類最古の文献ギルガメッシュ叙事詩に既に原型があるという。
人間が残した文献の古さで言えば、天の神のそれより遥かに古い。
かつて『パビルサグ』と呼ばれたその射手座の男は、神に従う人馬の射手ではなく、人と人が生きる街を守る弓の達人であった……と、記録されている。
また、バーテックスは一部占星術に準じた能力を持つ。
バーテックスの分析には占星術を使うのが最速だ。
占星術において、射手座12度は『鷲は夜明けを告げる』の意を持つ。
夜は終わる。いつか必ず夜明けは来る。
『鷲』は、『射手』となることで、黄道の十二星座に並ぶ存在となる。
そして、人を守る射手となり、夜明けをもたらすのだ。
『天に弓引く青き勇者』となって。
天の神―――太陽は、この世界において、人の敵だ。
されど空に煌く星全てが人の敵ではない。
暗闇の中、輝く星は、人を導く。
鷲尾の家で、窓の外を眺めながら――本当は何も見ないで――たそがれる美森を、須美は真剣な表情で見つめていた。
「須美ちゃん」
「はい。なんでしょうか」
「私、あなたが羨ましいわ」
「? どういうことでしょうか?」
「おじさまは私を、大人になったって褒めてくれるけど……
今の私にはもう、できないことがいっぱいある。
あなたを見てるとそれが分かるの。
変化するということは、何かを得て、何かを失う繰り返しだから」
美森に「変身してみて」と言われて、須美は素直に勇者の姿へ変わり、美森も同様に変身し、須美は弓を肩に寄りかからせ、東郷は狙撃銃を壁に立て掛けた。
「須美ちゃん。あなたは『鏑矢』なのよ。おじさまの知識の外側にいるの」
「鏑矢……魔祓いの神事で使う矢のことでしょうか」
「ええ。そして、あなたの武器は、神樹様が鍛え上げた『梓弓』」
『鏑矢』。
かき鳴らす音で魔を祓うという、退魔の矢。
されどこの世界では、別の意味も持ち、『勇者と対等の魔を討つ者』という意味と、『人の魔を討つ者』という意味があった。
この世界の外野であるおじさんは、この世界における鏑矢の立ち位置を知らない。
神世紀72年に"鏑矢"と呼ばれた少女達が世界を守ったことを知らない。
おじさんのような『人類の敵である人間』と戦う少女達であったことを知らない。
"鏑矢"の名にそういう運命があることを知らない。
『弓と矢』を与えられた須美に、大赦がどれだけの期待を寄せていたかを、知らない。
『梓弓』。
須美の武器は、梓弓をベースにしたものであり、彼女の弓撃はそれそのものが神事である。
弓を引き、放つだけで、彼女の弓は魔を祓う。
だからここには、大赦の卑屈な思想が見て取れた。
天の神は神だから祓われない。
バーテックスは魔物扱いして、それを祓う。
天の神には媚び、バーテックスは打ち倒す、そんな卑屈な二律背反。
ゆえに、神道などの研究者から見れば上から下まで『魔祓いの弓』である須美は、決定的な特攻を発揮することなく、大した有利もなく、神の僕と戦い続けるしかなかったのである。
神に、魔祓いは刺さらない。
けれど、催眠おじさんという魔の系譜に対しては、この上ないほどに特攻だった。
須美の弓に風が当たる音を聞くだけで、銀や園子は催眠が解けていった。
須美が弓を放つ度に、共闘していたヒュプノは自由になっていった。
須美の弓の弦が鳴る度に、美森は消された記憶を取り戻していった。
鏑矢。
梓弓。
須美が扱う二つのそれは共に、弓が鳴らす音に魔祓いの力があると言われている。
周囲に響くその音だけで、須美はおじさんの催眠を解除してしまうという、完成すれば全宇宙に並ぶ者がないレベルの"催眠術師の天敵"と成り得る者だった。
あの日、『美森からのメール』を受け取った須美は、美森が持っていた情報を断片的に取得し、弓を『魔祓いの弓』として正しく使う訓練を始めた。
毎日毎日それを続け、無意識下でも弓に力を集め、そう使う癖を付けた。
催眠状態でも体に染み付かせた動きがそのまま出るのは、おじさんと戦った時の三人勇者や、マリオネットを使った時のおじさんを見ればよく分かる。
須美は体に魔祓いを習慣付けた。
よってもう、催眠にガチガチに拘束されても、それを無意識の動きで解除できる。
たとえばおじさんが「小生が来週死ぬまで何もするな」と催眠をかけても、須美の弓は毎日少しずつ、少しずつ、催眠を解除し、必ずやおじさんの命を救うだろう。
須美がそう在ったことで、周囲の催眠はずっと緩み続けていた。
だからこそ今、おじさんと催眠抜きで向き合ってくれる人間が、何人も居た。
鷲尾須美は巫女にして勇者。
この世で唯一のハイブリッド。
神樹の世界の『救世主』―――あらゆる魔から、世を救う者。
けれど須美はトンチンカンな方に全力疾走し、世界から魔を救ってしまった。
残酷な世界から魔のおじさんを救ってしまい、光の側に引き戻してしまった。
見守っていた神樹の中の地の神々の内数体は、そんな須美を見て笑い転げていた。
催眠にかけられるのとそれを自力で緩めるのを繰り返したことで、須美は催眠を跳ね除ける意思を鍛え上げ、催眠にクソザコな体質のまま、催眠を跳ね除ける心を手に入れた。
恐るべきことである。
病気の抗体と同じだ。
病気にかかればかかるほど、人体はそれに対抗する力を身に付ける。
誰よりも催眠にかかりやすく、誰よりも催眠を打ち消す力を持っていた須美は、その心に恐るべき力を身に着けていた。
須美は失敗しない生き方ではなく、大失敗した後にやり直す生き方をしている。
転ばない生き方ではなく、転んでも立ち上がりまた走る生き方をしている。
催眠で操られないのではなく、操られてからそれを最善に導く生き方をしている。
鷲尾須美の生き方は、ずっと一貫していた。
東郷美森は自分の力を戦闘に最適化し、武装も銃に持ち替えてしまったため、須美と同じ力はもう持っていない。
おじさんを守るため、より強い力を求めたことを、美森は後悔していない。
後悔してないが―――もう自分は須美にはなれないと、実感もしていた。
この世界で唯一人、鷲尾須美だけが、おじさんが本気で世界を滅ぼそうとした時、それを打ち倒すことができる。
おじさんが催眠の力で己の死を選んだ時、それを止めることができる。
親の教育で全ての他人を自分の下に置くことしかできなかったおじさんに対し、彼女だけが、唯一対等な目線で向き合う資格を持っていた。
鷲尾で、継いだ射手座で、鏑矢で、梓弓を持つ、花の勇者。
彼女という存在は、運命の結実点に居る。
輝ける希望の中にいる。
「天の神。見たでしょう? 私は二度目だったけど」
「はい」
「私はあれが憎かったの。
おじさまを殺したあれが。
―――この手で殺してやりたいほど、憎かった」
「……!」
だが美森は、この時代に来る前からずっと、心に闇を抱えていた。
拭い去れない絶望と憎悪を、ずっと捨てきれずにいた。
「おじさまと相討ちになったから、もうその時には消滅していて……
仇討ちもできなくて……
悔しくて、憎くて、許せなくて……!
過去に行ったら、絶対にこの手で殺してやりたいと、心底思ってて―――」
「……東郷さん」
「でも」
美森は泣きそうな顔で、おじさんを守れなかった負け犬として、本音を吐露する。
今まで一度も見たことのない美森の表情なのに、須美は鏡を見ているような気分だった。
「私は間違っていたんだわ。私はおじさまに笑っていてほしかった。
だから死んでほしくなかった。
だから泣いてほしくなかった。
私はずっとおじさまのヘタクソな微笑みを見ていたかったの。
もう二度と、あんな風に泣くおじさまを見たくないって、そう思っていたのに……」
「……」
「戦いの最中、天の神を見た時からずっと、憎かった。
ずっと天の神を視界のどこかで見ていた。
冷静になりきれてなかったかもしれない。
私の世界にプーさんなんていなかった、なんて言い訳にならないわ。
その死を、予想しておくべきだった。
そうすれば……おじさまが涙を流すことも……なかったかもしれないのに……」
須美にしか理解できない、責任感が強すぎる美森の後悔。
なればこそ、美森にまた前を向かせることができるのは、おじさんか、須美しかいない。
「私はあなた。
あなたは私です。
だから"そんなことないです"なんて言えません。
安易な励ましはしません。
同じ立場なら、私も絶対にそう思うって、分かりますから」
「須美ちゃん……」
「戦いを終わらせましょう。
私とあなたで。
鷲尾須美と、東郷美森と、三ノ輪銀と、乃木園子と、おじさまで。
……もうこれ以上、知っている人が死んでしまうのは、見たくないんです」
須美が無言で弓を掲げる。
無言でその意を汲んだ美森が、自分の頬を叩いて、掲げられた弓に己の銃を打ち付ける。
戦うための『彼女』の武器と、魔を打ち払う『彼女』の武器が、鈴が鳴るような音を部屋の中に響かせた。
「ええ、戦いましょう。私にも、約束があるから」
「約束……私にもなんとなく想像がつきますね」
「ふふっ。秘密よ。だってあれは、私だけの、私の人生を決めた思い出だから」
美森を美森足らしめているのは、記憶。共に過ごし、共に闘った記憶。
「忘れられない記憶があるの。
何があっても絶対に忘れない記憶。
私達は忘れることで変わったんじゃないわ。
忘れられない記憶があるから、こうなって、そうしたいと願った……」
須美/美森は、何も忘れない。
全てを抱えたまま進んでいく。
何も忘れず、過去の記憶の全てを力に変えることが、他のどんな勇者にもない、彼女だけが持つ強さだった。
酒の缶と瓶がそこら中に転がっている部屋の奥に、その男は居た。
瞳は虚ろで、視線はどこを見ているか分からず、部屋に充満した甘ったるいアルコール臭の中、男は浅い呼吸だけを繰り返していた。
「おじさま」
須美の声に男は敏感に反応し、けれどいつものように優しく微笑みかけることはなく、男は鋭い目つきで須美を睨みつけた。
須美は何故か変身後の姿で、その手に弓を持っている。
「出ていけ、須美」
「出ていけません」
「小生の言うことが聞けないのか」
「聞けません」
「『出ていけ』! 『小生を一人にしろ』! 『もうずっと孤独が良い』!」
「っ」
おじさんの破れかぶれの催眠が、須美を飲み込む。
須美は強靭な意思と、美森のメールにあった催眠抵抗術を駆使して耐え、弓の弦を鳴らす。
何度も、何度も、何度も、何度も。
催眠が緩和されるが、催眠の効果は止まらない。
須美の足が一歩、また一歩と、後ろに下がっていく。
世界を支配するほどの催眠おじさんの催眠は、須美でなければここまで食い下がることすらできず、須美であっても力負けしてしまう。
「それなら!」
だから須美は、自分の足に矢を刺した。
『鏑矢』の概念と、走る痛みが、催眠に操られ動いていた足を停止させる。
「!?」
催眠の支配で動きが悪くなってきた足を無理矢理に動かし、強い意思で前に進む。
鏑矢と梓弓で、催眠という魔を祓う。
一歩、一歩、少しずつでも、確実に前へ。
そうして須美は、部屋の奥で酒浸りになっているおじさんに近付いていく。
「そんな命令は聞けません。私は、あなたを一人にしません」
「……」
「私は、あなただけのみー子ですから」
「―――」
須美を冷たい目で見ていたおじさんが、苦虫を噛み潰したような表情になる。
須美はおじさんの手を握ろうと、おじさんに歩み寄っていく。
擦り切れた雰囲気のおじさんの前に須美が辿り着いた時、ことは起こった。
「―――!?」
おじさんが須美を引き寄せ、抱き締め、二人の唇が触れた。
おじさんの右手が須美の頭を、左が胴を抱え込んで、須美は抜け出そうにも抜け出せない。
「―――!」
おじさんの胸を押して、腕をどけようとして、おじさんを怪我させないようにドンドンと叩いてなお逃げられず、時間が流れる。
須美にとっては一時間にも、二時間にも感じられる時間だった。
一分経ち、二分経ち、三分経ってようやく、須美はおじさんを突き飛ばすことができた。
「な、な、何を」
須美は顔を赤くして、視線はまともにおじさんの顔を見られず、人差し指が『今の感触』を確かめるように、唇をなぞっていた。
「傷付いたか。嫌いになったか」
「……え?」
「小生はもう周りを傷付けて、不幸にすることしかできない」
おじさんが須美を自分から傷付けるという異常事態が今の彼の状態を須美に教え、俯いた姿が今の彼が罪悪感の塊であること、声の弱々しさが彼の追い詰められ度合いを教えてくれる。
「どっか行け。小生に関わるな。明日、この家も出ていく。一人で戦う」
乙女のファーストキスを奪っておいて、この態度。
男としてかなり最低で、事実、彼は最低と思われたくてこんなことをしていた。
自分の意思で催眠を突破することもできるようになった須美が、嫌悪と怒りで催眠を打ち破り、自分を心底嫌ってみせてくれることを願っていた。
彼女が自分を見捨ててくれるよう、祈っていた。
そんな愚かな催眠おじさんが、美少女勇者に勝てるわけがないというのに。
「プーさんが、言ってたんです。
最後に話した時、言ってたんです。
『須美ちゃんと御主人様は同じくらい不器用やねん』
って。……そんなことないですよね。おじさまの方が、笑っちゃうくらい不器用です」
須美にかかった催眠は消えていない。
全てある程度緩和され、須美の意思に力負けしているが、須美が少しでも気を抜けば催眠の奴隷になってしまいそうなくらいには、たくさんの催眠が未だかかっていた。
たとえるなら鎖だ。
須美の体に無数の鎖が巻き付いている。
須美は重たい鎖に引っ張られ、なんの負けるかと引き返し、力強く前に進み、手を伸ばす。
伸ばした手で、その人を救うために。
今、彼女が伸ばす手の先には、彼が居る。
「あなたが付けてくれた傷ならいいです。喜んで受けます」
傷付けて遠のけようとしたおじさんと、かつて中庭で傷付くことを恐れないと語った少女が、真っ向向き合う。
彼が付けた傷すら受け入れられてしまった時点で、彼はもう完璧に負けていた。
「あなたがくれた傷も、あなた自身も、大切にします。ずっとずっと。だから」
須美はおじさんの催眠全てと戦いながら、おじさんの手を取り、握る。
「一人で泣かないでください」
「―――」
握った手の中、愛が伝わる。
手と手の間、温度が伝わる。
おじさんの手を握る須美の手は、暖かった。
彼が感じたその暖かさは、かつて須美が不安だった時、須美の手を握ってくれた彼の手から伝わった、須美を笑顔にした暖かさと同じもの。
かつておじさんの手から須美に伝わったものが、須美の手からおじさんの手に伝わっていく。
愛し合えるなら、救い合える。それが、世界の不動の真理。
「……ああ」
この先、彼がどんな人生を送ったとしても。
この先、彼がどれだけ幸福になっても、どれだけ不幸になっても。
この瞬間を超える人生の転換点はない。そう言い切れる、"決定的な瞬間"が訪れる。
誰も信じるな、と悪に育てられてきた子供が。
「『催眠全解除』」
"人を信じる"という、人の最も尊い美徳を選んだ瞬間が、訪れる。
鷲尾須美に絡みついていた催眠の全てが消滅し、おじさんは催眠をかけ直すことはせず、ただじっと、須美の言葉を待った。
真剣な面持ちの須美が、口を開く。
「おじさまに、嫌いなところがいくつかあります」
「ああ」
「おじさまの大好きなところが、たくさんあります」
「……ああ」
「だから、一緒に居てください。これからもずっと」
「―――ああ。ずっと一緒に居るよ。君が望む限り、君の傍に居て、君を守る」
須美の真面目な表情が崩れて、心底嬉しそうな年相応の表情が浮かんで、須美がおじさんに飛びつくようにして抱きついた。
「……嬉しいですっ!」
おじさんはヘタクソな微笑みを浮かべて、須美を優しく抱き止める。
そんな二人を、部屋の外からこっそり、美森が見守っていた。
見覚えがあるような光景だった。
見覚えのない光景だった。
美森が来たことで歴史は変わり、彼女が知る出来事は起こらず、天の神の襲来は三年早まり、須美とおじさんの会話とその内容も随分と違っていた。
繋いだ絆の形は、変わらなかった。
美森はそう信じたかった。
信じたいけど、そんな自分を否定したかった。
否定できなければ、あまりにも心がみじめだったから。
「すごいわ、須美ちゃん。……私は、おじさまが死ぬまで、解除してもらえなかったんだから」
悲哀があった。
後悔があった。
嫉妬があった。
納得があった。
喜びがあった。
『鷲尾須美/東郷美森では彼を救えない』なんてことはないのだと、須美が証明してくれた気がして、美森は一人、静かに微笑む。
おじさんが幸せそうにしているだけで、美森はなんだか満足だった。
胸の奥に湧いた負の感情が、一つ残らず出ていってしまう。
「でもキスは私もしてもらったことなかったから……これもジェラってるって言うのかしら?」
彼と自分の物語を、本当の意味で今始めた少女と。
その物語が、もう終わってしまった少女が居た。
神世紀298年7月24日。
雨天だったのと、勇者の体調を考慮し、二週間ほど延期されていた神樹館の遠足が行われた。
「寂しかったら電話かけていいですからね」は須美。
「お土産いっぱい買ってきます!」は銀。
「一番楽しんでくるね~」は園子。
三人を送り出した美森とおじさんは、二人で帰路についていた。
「たまには、朝ごはんどこかで食べていきましょうか」
「美森」
「はい、なんでしょうか」
「『催眠全解除』」
驚く美森の、頭の中の靄が晴れる。
須美のおかげで六割がた解除されていた脳の催眠が、全て消え失せる。
驚いた美森が何か言う前に、おじさんは深々と頭を下げた。
「まずは謝る。
心を、想いを、踏み躙ってごめん。
その上で頼む。
死にたくない。
生きていたい。
子供達の生きていく先を見ていたい。
だから……助けてくれ。お願いします」
催眠のかかってない東郷美森を信じ、頼り、頭を下げて、助けを求める。
それは、美森が見たこともないような、おじさんが一人の弱い人間として自分に向き合ってくる姿で、美森の胸の奥に、沸き立つような気持ちがあった。
美森は思わず、彼が下げた頭を、思いっきり抱きしめていた。
「喜んで」
そしておじさんが美森の腕を叩いてタップする。
余裕でバスト90以上はあろうかという胸の高波に飲み込まれ溺れ死ぬという人生最大の危機(二回目)を脱したおじさんは、青い顔で呼吸を整えていた。
「あっ、ご、ごめんなさい」
「巨乳の波浪警報出せっつったろうが……学習してないのか……!?」
「あ、ああは……あ、あのレストラン開いてるみたいですよ! 席取ってきます!」
ごまかすようにして、美森がレストランの中に逃げ込んでいく。
「ったく」
おじさんが呆れていると、レストランの向かいの文房具屋の店頭に、売れ残った古いキーホルダーがあるのが目に入る。
「これください」
「はいよー。税込み300円ね」
「ありがとうございます」
「こちらこそお買い上げありがとねー」
そのキーホルダーは、そこそこヒュプノと似ていた。
そこそこである。
「まあお前ならそこそこでいいだろ?」とおじさんはつぶやき、思い出の中のヒュプノが、「ワテっぽくてもっと高いの買えやー!」と声を上げていた。
キーホルダーを指に引っ掛けて、くるくる回して、おじさんは街を見渡す。
今日も平和な世界があった。
おじさんの第二の故郷があった。
守るべき日々の幸せがあった。
―――うはは……故郷のないバーテックスが故郷云々って言うのもなんかあれやと思いますけどな
ヒュプノの言葉を思い出し、おじさんは今更になって、それを否定する。
「お前は小生だ。"これを守るためなら死んでもいい"って思えてしまった、小生の鏡だ」
東郷美森を庇って死んだ自分の気持ちが、彼には分かる。
仲間を庇って死んだヒュプノの気持ちが、彼には分かる。
かつての彼には本当の意味では分かっていなかった。
彼に教えてくれた人達が、彼を変えてくれた人達が居た。
「お前に故郷が無いなんて嘘だ、ヒュプノ・バーテックス」
バーテックスに心を与えた男が、その心の死を悼み、今は亡きその心を想う。
「お前の故郷は小生が―――『俺』が守る」
ぎゅっとキーホルダーを握り締めると、近場の小学校の開け放たれた窓から、この世界の小学生が毎朝皆やっている朝礼が始まる。
「起立、礼!」
「「「 神樹様のおかげで、今日も私達があります 」」」
「神棚に礼!」
ああいうの須美達もやってんだよ、と思ったおじさんが、ふと思いつきでヒュプノ風キーホルダーを掲げ、悪戯っぽい笑い方をして、キーホルダーを拝んだ。
「ヒュプノ君のおかげで、今日も私達があります。サンキュー、ダチ公」
クックックッ、とおじさんは笑う。
胸の痛みは消えていない。死の悲しみは残っている。
けれども、気丈に振る舞う小さな子供達を放っておいて、自分だけ笑っていないのは、何か違うと、彼は思っている。
「笑うことを許してくれ。
大人は笑わなくちゃいけねえんだ。
大人は子供の未来の姿だから。
大人が皆辛い顔してると、子供が未来に希望を持てねえんだ。
だから笑う。笑わなきゃなんねえ。大人は楽しいぞ、って子供に教えるために」
ヒュプノっぽいキーホルダーを、おじさんは雑にポケットに押し込む。
「待ってろ。あの世で海の話に困ってたら、天国でも地獄でも、必ず教えに行ってやるから」
おじさんは美森が待つレストランへと、歩いていった。
この世界で生まれ、この地を故郷とする少女達が居た。
少女の名は、鷲尾須美。乃木園子。三ノ輪銀。
彼女らには最初から、『守りたい世界』があった。
意識せずとも、得ようとせずとも、守りたい世界を
後から得るまでもなく、守りたい世界を持つ者達が居た。
少女らは、勇者であり、その仲間は勇者ではなかった。
立ち向かう勇気を持ち、受け入れる優しさを持ち、許す強さを持ち続ける者。
生まれた瞬間から、人類の敵として攻撃され、無残に死に行く運命だった男。
生まれた瞬間から、人類の敵として攻撃され、無残に死に行く運命だった怪物。
外の世界で生まれ、この地を故郷とする者達が居た。
男の名は■■■。
怪物の名はヒュプノ・バーテックス。
彼らには守りたい世界など、最初からなかった。
守りたい世界を得ることができたという幸福があった。
後から得たからこそ、守りたいもの、守りたい世界、守りたい人の価値を、誰よりも強く深く理解していた。
「おじさま! ただいま戻りました! 聞いてください、遠足で銀が―――」
「たっだいまー! わしおじさんわしおじさん、お土産どれが欲しい!?」
「うへへへ、見て見て、カブトムシ百匹捕まえてきたよ~。それでね―――」
「小生は聖徳太子か?」
大切な人を得て。
大切なものを得て。
大切な居場所を得て。
ゆえに、命を懸けて、この世界を守ろうと思える。
―――これは、『守りたい世界』を"得た"者の物語。
・ろうたける想い
臈長ける。
女性限定の美しさや気品の表現。
時間と経験を積み、成長して立派になった女性の表現にも使われる。
鷲尾須美の勇者衣装の花言葉。
美しく成長した少女の想い。
これにて最終回です。
お付き合いいただきありがとうございます。
主人公の視点から見た『鷲尾須美という主役の物語』は終わりです。
この後からは、『全員が主人公』の物語が始まります。多分。
ここまでが第一部で、第二部はまあ企画終わってから考えると思います。
でも多分やります。伏線の一部はあっちでやる予定だったので。
読者の側からゆゆゆ杯に参加していただいた皆様、本当にありがとうございました!