催眠おじさんVS美少女勇者:地球最大の決戦!RtA   作:ルシエド

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思い出2倍

 しずくの人生の転機は、いつだっただろうか。

 それは本人にも言い切れない。

 ただ、ひと繋がりのいくつかの出来事であったということは、本人もよく自覚している。

 

 『彼』の一度目は優しさだった。二度目は身代わりだった。三度目は救済だった。

 

 銀との出会いで、しずくは初めて、"こうしたい"という感情を得た。

 それはささやかな『あの人と友達になりたい』という願いであり、『あの人みたいな人と話したい』という欲だった。

 幼稚園児のような、小さく、可愛らしく、ささやかな欲しがり。

 この歳になってそのくらいの願いを初めて得たというのが、既に悲劇だった。

 

 かくしてしずくは、鷲尾須美の誕生日パーティーに参加する。

 参加基準は鷲尾須美の友人に限定しているというわけでもなくガバガバで、神樹館の生徒であることさえ証明できれば、誰でも入ることができた。

 須美の友人は0に近いと思い、須美の友人を増やそうとした者の意向ゆえだろう。

 だがしずくは、迷ってしまう。

 

「ここ、どこ」

 

『あーもう』

 

 鷲尾家の庭は相当に広く、しかも人が大勢居たので、しずくは今自分がどこに居るのか、話がしたい銀達がどこに居るのかも分からなくなってしまった。

 

 小学六年生現在、しずくの身長は147cm。

 大人がただ立っているだけで、彼女の視界の多くを塞ぐ大きな壁になってしまう。

 身長が低い子供であるということは、それだけ人の密集地帯で周りが見えなくなってしまうということなのだ。

 しっかりしている子供でもデパートなどですぐ迷子になってしまうことがあるが、その理由がまさにこれである。

 

 周りを見回しても目印はなく、かといって足を止めて周囲をキョロキョロ見ていたら、周りの大人に不審に思われてしまう。

 それは、しずくにとっては不味いことだった。

 とにもかくにも動き回って、大人の目に留まらないようにして、そのせいで余計に迷っていってしまう。

 

『分かってるよな、しずく。あのクソ親にバレたら終わりだ』

 

「うん」

 

『堂々としてろ。どうも来てるガキ全員、親子連れみたいだからな』

 

 歩いているだけで、しずくは苦しさを感じていた。

 右を見ても仲の良い親子。

 左を見ても仲の良い親子。

 どっちを見ても仲の良い親子連ればかりで、仲の悪い親子が居ない。

 見れば見るほど、しずくの気分は悪くなっていく。

 

 仲の良い親子も。子に無償の愛を注ぐ親も。親に無邪気に甘える子供も。

 それら全てが、山伏しずくにとっての猛毒だった。

 

「っ」

 

『おいしずく、大丈夫か? ストレスがこっちにまで伝わって来てる。そろそろ代わるぞ』

 

「だい、じょぶ」

 

 しずくに、現実の牙が突き立てられる。

 自分が普通じゃないこと。

 まともな家庭じゃないこと。

 出来損ないの子供なこと。

 親に愛されていないこと。

 親を愛せないこと。

 家族の団欒なんて知らないこと。

 明日に希望なんてないこと。

 自分がこんな風に愛されることなんてないこと。

 皆に愛されて誕生日を祝われている鷲尾須美と、誰にも愛されていない自分が、あまりにも遠いこと。

 

「誰も」

 

 

 

 誰も―――誰も、山伏しずくの誕生日を祝ってくれることなんて、ないこと。

 

 

 

「……誰も」

 

『おいしずく、しっかりしろ。おい!』

 

「誰も」

 

『足元見えてるか、しずく、おい!』

 

 しずくはシズクの警告も耳に入らず、躓き、転んだ。

 そして塀にぶつかってしまう。

 痛かった。体も、心も。しずくに対するトドメのような衝突だった。

 生きていたくないくらい、痛かった。

 普段痛いことや苦しいことをシズクに引き受けてもらっているしずくの瞳から、じわりと涙がこぼれそうになって、しずくは反射的にそれをこらえてしまう。

 泣きそうになるたびに、"泣くな"と殴られてきた。

 だから泣いて助けを求めていいのに、反射的に涙をこらえてしまう。

 しずくの両親は、涙を流す権利すら、娘から奪い取っていた。

 

 パーティーの中心の須美を皆が見ていて、誰も見ていない庭の隅っこで、しずくは心と体の痛みに耐えながら、土を握る。

 

「誰も、私を見てない」

 

『しずく! おい、代われ! なんで我慢してんだ! いつもは衝動的に代わるだろ!』

 

「誰も……」

 

『しずっ……クソッ、おい、誰か居ないのかよ、誰か……!』

 

「っ……」

 

『しずくは路傍の石ころでも雑草でもねえんだ!

 親がクソだっただけだ! 何も悪いことなんてしてない!

 それ以外何も悪いとこなんてねえ! だから、だから……!』

 

 勇者という少女を、花に例えるならば、山伏しずくは雑草だった。

 花は持て囃され、手折られ、神に捧げられ、散る。そういう運命にある。

 だが雑草は摘み取られることすらない。

 ただ踏まれ、踏み折られ、死ぬ。

 価値すら認められず。

 そこにあったことすら覚えてもらえないままに折れる。

 車輪の下敷きになった雑草や小石を気にかける者は、誰もいない。

 

 だからきっと、そんな彼女に声をかけるのは、路傍の石も気にかけるような性情を生まれ持っていた、そんな人間しかいなかった。

 

「大丈夫か?」

 

 人の輪から外れて、30歳ほどのその男は、転んだしずくの方に一直線に駆けて来た。

 

 誰もしずくのことを見ていないなんてことはない、と証明するように。

 誰もしずくのことを助けないなんてことはない、と証明するように。

 駆け寄り、心配そうな顔で、男はしずくに手を差し伸べる。

 

 だがしずくは、何も言えない。喋るのが下手で、ここまで押し潰されそうな負の感情を押し込まれて、今"手を差し伸べられた喜び"まで押し込まれて、胸の内がパンク寸前だった。

 

「うっ、うう……」

 

「痛いのか?」

 

『シズク、落ち着け、こいつは普通に心配してるだけだ。助けてもらえ』

 

「いたい……」

 

「お父さんは? お母さんは?」

 

『あっやべっごまかせごまかせ!』

 

「うう……!」

 

「頑張れ、痛みに負けるな。痛いところはどこだ?」

 

「っ……!」

 

『……今時、このくらいの歳でこんなに懸命に他人の心配するおっさんも珍しいな』

 

 大人に本気で心配されたことなんて初めてで、しずくはどんどんわけが分からなくなって、親に話が行かないようにしないといけなくて、傷も痛くて、もうてんやわんやだった。

 

 そんなしずくに、彼は"魔法をかける"。

 

「『痛い痛いの、飛んでけ』」

 

「……あれ?」

 

「次は転ばないようにな。走る時は足元に気を付けてな」

 

 魔法をかけて、なんてこともないように、男は去っていく。

 言った彼本人は、きっとその声色に自覚はない。

 山伏しずくの人生で、過去に一度も無かったくらいに、優しい声だった。

 

「……痛くない」

 

『は? マジか?』

 

「うん」

 

『どうなってんだ……?』

 

「魔法」

 

『ンなもんあるわけねえだろ!』

 

「でも」

 

『絵本を現実に重ねんな。あんまよくねえぞ』

 

「……」

 

 一度だけ。

 一度だけ、親が知り合いに貰ってきたという絵本を、しずくは読んだことがある。

 次の日には癇癪を起こした親に絵本は破り捨てられてしまったが、その晩に何度も何度も読み返して、その物語を頭に刻みつけた。

 

 かわいそうな女の子。

 家族に毎日いじめられ、幸せになんてなれそうにもない。

 家族は皆お城の舞踏会に行ってしまって、女の子は一人泣く。

 そんな女の子の前に魔法使いが現れて、女の子に魔法をかけて、女の子を救ってくれる。

 そして、12時までの奇跡の果てに、女の子は幸せになる。

 そんな絵本だった。

 

 しずくは魔法使いが好きだった。

 女の子とくっつく王子様より、女の子が一番苦しい時に助けに来てくれて、女の子を幸せにしてくれた魔法使いが好きだった。

 女の子を幸せにしたのは、王子との出会いではなく魔法使いの出会いだと思っていた。

 だから、その男に痛みを消された時、たいそう驚いたのだ。

 痛みがなくなる魔法をかけてくれた彼を、しずくは魔法使いだと思った。

 

『期待すんな。裏切られる。

 だけど、しずくが幸せになれないとは思ってねえぞ?

 俺が代わりに期待してっからよ、お前はぼんやり希望を持っとけ、しずく。

 俺が代わりに期待する。

 俺が代わりに期待を裏切られる。

 お前が幸せになるチャンスは俺が見逃さねえ。だから、将来の痛みも俺に任せろ』

 

「……うん」

 

 本当に分かってんのかね、とシズクはしずくの内で心の溜め息を吐いた。

 

 しずくはとても嬉しそうにしていたから。

 

 痛みが消えたしずくが顔を上げると、鷲尾邸に入るための門が見えた。

 

「帰ろう」

 

『いいのか? ……なんて聞くまでもないか。来てよかったな』

 

「うん」

 

 しずくはとてとてと駆け出して、それをシズクが見守る。

 

『悪くねえ。しずくをいじめる奴がいたらぶっ殺してやろうと思ってたが……悪くねえ』

 

 今日はいい日になるかもな、とシズクは思った。

 

 そうはならなかった。家に帰ったしずくを、親はまた殴ったから。

 

 "魔法が切れた"しずくの痛みを肩代わりするため、しずくはシズクに代わり―――シズクはその夜も無言で、血の流れるしずくの体を手入れしていた。

 車輪の下敷きになる雑草のような毎日だった。

 

 

 

 

 

 しずくは銀達と話したいという気持ちを持ちながら、この日助けてもらった男にも興味を持ち、その男のことを調べようとした。

 だが、調査は難航した。

 しずくがそもそも、死ぬほど会話が苦手だったからである。

 他人の千倍くらいの時間をかけて、すぐ分かるようなことをとてつもなく時間をかけて、彼女はなんとか調べ上げていた。

 

「ああ、アレ。鷲尾さんの叔父さんだよ」

 

 そうしてしずくが聞き出せた――聞き出したとは言うが実際は友達グループに思い切って聞いてその後はその友達グループの会話を黙って聞いていた――あの男の正体は、勇者・鷲尾須美の叔父というものだった。

 

「変な人だよねえ」

「ねー」

「大人っぽくないよね」

「違うよ。先生とは大人っぽく話してたから子供の前だと合わせてるんだよ」

「えー、そうなのかな」

 

 子供達の間に、ある程度の知名度はあるようだった。

 

「ドブの中にね、キーホルダー落としたらね、ズボンまくって中に入って探してくれたー」

「学校のスズメバチの巣一人でどっかやってたけどどうやったんだろう」

「下ギリギリのボール球をストライクに見せるキャッチャーの技を教えてくれたぞ」

「クソガキが! ってよく言うんだよね。悪い大人ー」

「笑い方が変」

「メスガキってなんだろ」

「笑うのが下手」

「鷲尾さんと似てないよね。全然真面目じゃなくて」

「あの人が近くに居ると近寄り辛いイメージだった鷲尾さんが普通に可愛い女の子に見えるね」

「ねー」

 

 なるほど、鷲尾家に行けば会えるんだ、と、無言で会話の輪から消えるしずく。

 無言のまましずくが消えたことに誰も気付かない。

 下手すれば、しずくが訊いてきたことすら忘れて、子供達は会話を続けていた。

 しずくは他人との会話に使う体力ゲージがもう尽きてしまったので、職員室に忍び込んでこっそり住所録を確認し、後日鷲尾家に向かった。

 

『お前こういう行動力はあるんだよな……』

 

「ダメ?」

 

『いや、いいことだ。やりたいことができたってのはいいことだぜ?

 あの親のせいでしずくが本格的に何もできなくなる前に早くしないとな……』

 

 こそこそ動いて、鷲尾の家の叔父さんが山に向かったという話を聞いて、山を登る。

 

 しずくはスポーツの能力はそんなでもない。

 身体能力も特筆して高くはない。

 生来体格に恵まれていない、といった話ではない。

 虐待家庭の子供の多くがそうであるように、しずくもまた、栄養状態がやや悪く、栄養が偏った生活を繰り返してしまっているからだ。

 小学校に通っていて、給食をしずくが摂取できていることが、不幸中の幸いと言えた。

 

 総合的に見れば間違いなく、同年代の中でも下層だろう。

 栄養問題が解決してなお平均以下といったところだろうか。

 山を登るだけで、しずくの息は切れる。

 

「ふぅ、ふぅ、はぁ、はぁ……」

 

『無理すんじゃねえ。休み休み行きな』

 

「だいじょ、ぶ。……追いつけ。ないと。困るから……」

 

『ったく』

 

 だが、しずくは家庭環境を鑑みれば、かなり驚嘆に値する山登りを見せていた。

 体に筋肉なんてついてないのに、身体能力も同年代の中ではドベクラスなのに、何故かするすると山を登っていった。

 "体を動かす才能"がある。

 それは筋肉や関節、心肺や体の各所に指示を出す脳と神経などが持つ、総合的な才能。

 先天的な適性によるものだった。

 もしもしずくの体を動かす者が、スポーツの苦手なしずくでなければ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、ともすれば勇者三人よりも"上手く動ける"のではないかという、天性の才覚の芽がそこにはあった。

 

 山を登っていたしずくが振り返り、街を眺める。

 広い世界が広がっている。

 けれど、しずくにはそう見えない。

 "自分の世界の周りに広がっている街"くらいにしか見えない。

 しずくの世界は広がらない。

 虚無の思考を浮かべていたしずくはその時。妙な何かを感じた。

 

「……?」

 

『どうした?』

 

 空気が揺れた。

 

 世界の時間が止まり、また動き出した。

 

 そして、山が崩れた。

 

「―――」

 

 命の危機が、しずくをシズクに変えるが、間に合わない。

 シズクは超人的な動きで回避に動くが、間に合わない。

 "樹海の破壊"による大自然の大破壊は、しずくもシズクも諸共に飲み込む。

 

「駄目だ、クソ、間に合わ―――」

 

 そこに、飛び込んできた男が居た。

 

「馬鹿野郎!」

 

 男はしずくが魔法使いと呼んだ男だった。

 男は迷わずしずくの小さな身体を後方に投げ飛ばし、反動で山崩れがかわせないようなところにまで転んで入ってしまう。

 しずくとシズクは安全圏に。

 男はもう助からない危険域に。

 

「……あークソ何やってんだ小生は」

 

 青い何かが流星のように飛び込んだのが見えた気がしたが、もうそんなものは目に入らなくて、山崩れに飲まれる男が鮮烈に、シズクの視界に刻み込まれる。

 

 シズクは守るために生まれてきた。

 しずくを守るために生まれてきた。

 しずくの痛みと傷を引き受けるために生まれてきた。

 自分の身を犠牲にして、しずくを守るために生まれてきた。

 誰も助けてくれなかった。しずくのことも、シズクのことも。

 しずくはシズクが守ってきた。けれどシズクのことは誰も守ってくれなかった。

 だから、シズクにとって初めてのことだった。

 

「え」

 

 しずくを命懸けで守ろうとしてくれた大人も。

 自分のことを誰かが守ってくれたのも。

 そんな人に対し、"死んだ"と思ったのも。

 何もかもが初めてで、心がパンクしそうになる。

 

「あああああああああああああ!!」

 

 しずくが一度も聞いたこともない絶叫を上げ、シズクは獣のように目を見開き、吠えた。

 

 

 

 

 

 そして少し経った後、無傷のオッサンを神樹館前で見かけて、心底びっくりさせられた。

 

 しずくもシズクも心底ぎょっとして、しずくは日曜朝のヒーローを見る目でおじさんを見初め、シズクは日曜朝の怪人を見る目でおじさんを見始めた。

 

「なんで!?」

 

『化物かよこいつ……』

 

「おお、あの時の子。無事で良かった。傷も無いみたいだな」

 

 おじさんが心底ほっとした様子でそんなことを言うものだから、シズクはしずくが心配されていたことを嬉しく感じ、自分が心配されていたことも嬉しく感じ、二倍嬉しく感じてしまった。

 

『無事で良かったはこっちのセリフだ』

 

 粗暴で攻撃的なシズクがこんなにも柔らかく嬉しそうな言葉を心の中で発するのは、しずくが知る限り、この時が初めてだった。

 

「あの……怪我」

 

「怪我か? 催眠おじさんがあんなことで死ぬわけないだろ……死ぬような雑魚は死んでろ」

 

「ええ……」

 

『無茶苦茶すぎんだろコイツ』

 

 おじさんはヘタクソに微笑んで、しずくの無事を喜ぶ。

 

 その顔を見て、"この人も子供の頃に普通に笑えなかったんだろうな"と―――しずくとシズクだからこそ分かる理解が、少女の胸の奥に生まれていた。

 

「自分の目で傷一つ無いと改めて確かめられて良かった。

 ま、運が悪かったな! 山崩れにあったのは!

 お前が無事で良かった。お前に傷があったら気に病むやつが居たからな……ありがとう」

 

 なんで感謝するんだよ、と、シズクがしずくの内側で戸惑っている。

 

「無事でよかった。無事で居てくれてありがとう。こんだけだな言いたかったのは。うはは!」

 

 笑うのが下手な人だな、としずくは思った。

 だけど印象に残る笑い声だよな、とシズクは思った。

 この笑い声を聞いた誰かが真似しそうな笑い声だと、二人は思った。

 

 おじさんが去った後も、二人の心には、不思議な暖かさが残っていた。

 

『……変なオッサン』

 

「そうだね」

 

『本当に無事で良かったな……ああ、本当に、あのオッサン、死んでなくて、よかったぁ……』

 

 この暖かさがあれば明日も生きていけるような、そんな気がした。

 

 

 

 

 

 たとえ、昨日も、今日も、明日も、虐待があるとしても。

 その暖かさがあれば生きていける気がした。

 目を閉じれば、自分が無事だったことに安心する男の笑顔が浮かぶ。

 それだけで、しずくは今日も、明日も、明後日も、ずっと耐えていける気がした。

 

『やめろ、やめろ、このバカ親!

 あああああああああああああっ!!

 しずく、早く俺に代われ、早く、早くっ……!』

 

 今日も、しずくは親に殴られていた。

 シズクはそれを見ていることしかできなかった。

 しずくのストレスがパンクするか、命の危機を感じるかしてようやく、シズクはしずくの代わりに痛めつけられることができる。

 それでも代わりになるのが精一杯で、救うこともできやしない。

 彼がかけた魔法も、もうとっくに解けている。

 

「っ……」

 

 お腹が痛い、としずくは他人事のように思っていた。

 親にお腹を蹴られたからだ。

 吐き気はなかった。

 何も食べていなかったからだ。

 腹に痕が残るかという心配もなかった。

 もっと強く蹴られて痕が残らなかったことがあったから。

 ただ、強く蹴られすぎて、ちょっと息ができなくて、そこだけは困ったことだった。

 

「う……」

 

 声も出ない苦しみの中、しずくは(アリ)を見つけた。

 山伏家の中に迷い込んでしまったらしい。

 しずくはアリを見て、何かを思って、アリを己の手の指に乗せて、掃き出し窓の僅かに開いた隙間から、アリを外に逃した。

 息も上手くできない苦しみの中、しずくが少しだけ微笑む。

 苦しい時ですら微笑むことができる自分が、少しだけあのヘタクソな微笑みの男に近付けたみたいで、しずくはほんの少しだけ、幸せな気持ちになれた。

 

 だが、両親は激昂した。

 些細なことで怒り、しずくを痛めつけるのがこの両親だと分かっていたはずなのに。

 それでもしずくは、アリがこの家の中で踏み潰される前に、逃してやりたかったのだ。

 

「あんた……何やってるの! 虫なんかと遊び始めて!」

 

「出来の悪い娘にしつけをしてやってるのにこれか……今までが生温すぎたんだろうな」

 

 そのせいで、もっと痛めつけられると分かっていても。

 

 まるで入れ子構造だった。

 無限に広がる多次元宇宙があった。

 その中の一つでしかない広大な宇宙があった。

 広大な宇宙の一角に、太陽の神が掌握できる太陽系があった。

 太陽系の中の小さな星、地球を、天の神が支配していた。

 天の神が支配している地球のほんの僅かな一部を、地の神が支配していた。

 地の神が支配する四国を、神の下で支配する大赦。

 大赦が支配する社会の中に、家庭を支配する親。

 そして、親に支配される子供がいる。

 

 支配の下に支配、その下に支配、その下にも支配。

 支配の連鎖を、しずくはささやかに断ち切ろうとしていた。

 アリを憂さ晴らしに叩き潰す選択肢と、アリが巻き込まれないように逃がす選択肢が彼女の前にはあって、しずくは迷わず後者を選んだ。

 痛みを知るから、誰にも痛みを与えない選択ができる。

 そんなしずくを救えない無力感に、シズクは生まれた時からずっと苛まれている。

 

『……バカだよお前、アリ一匹だぞ、虫けらなんだぞ……』

 

「かわいそうだよ」

 

『……お前は優しいよな。本当に』

 

「そうでも。ないよ」

 

『お前が幸せになれないことが……俺には許せねえんだよ……!』

 

 親がしずくに押し付けるタバコを見て、シズクの心は怒りと絶望に震える。

 

『頼む、頼む、頼む、俺じゃ駄目なんだ、俺だけじゃ駄目なんだ、誰か!』

 

「……シズクは、いい子、だよ。シズクのおかげで……今日まで私は……ありが……」

 

『全部壊してくれ! 全部0にしてくれ! 俺ならなんだってするから! だから!』

 

 救ってほしかった。

 救ってほしいという願いは、しずくよりシズクの方が大きかった。

 シズクは、しずくの救済だけをひたすらに願っていた。

 無力だから、願うしかなかった。

 

『しずくを助けて……!』

 

 自分も救われたいという気持ちがあるくせに、しずくがあまりにも惨めだから、しずくがあまりにも救われていないから、シズクはしずくの救いしか望んでいない。

 だから、自分が救われたいという気持ちに気付いてもいない。

 シズクは自分の気持ちなんてどうでもよくて、自分の痛みなんてどうでもよくて、自分の幸せなんてどうでもよくて、しずくが救われていればそれでよかった。

 しずくは、痛くない日が続けばそれだけでよかった。

 けれど。

 しずくのささやかな願いも、シズクのささやかな願いも、叶ったことなどない。

 願いはいつも、虚無に消える。

 

 だから。

 

「泣いてる子が居たら、私が代わりになってでも、守ってあげないと―――痛っ」

 

 その日、その時、その場所で起きたことは、奇跡だった。

 

 しずくとシズクが、一生忘れようもない奇跡だった。

 

 少女がしずくを庇い、駆け込んできた男が親を体当たりで跳ね飛ばし、しずくと向き合う。

 

 魔法使いは、来てくれた。王子様よりずっと先に、"かわいそうな女の子"を救うために。

 

 

 

「助けてほしいか」

 

 

 

 とても印象的な問いかけだった。

 しずくにではなく、自分自身に問いかけるような。

 その目に"お前を救いに来た"という力強さはなく、"どうか救われてくれ"という懇願するような弱さがあった。

 その目を見ていると、しずくは胸の奥がきゅぅっと締め付けられる気がした。

 

 魔法使いは言葉の裏で少女に問う。

 ここを抜け出したいのかと。

 "ここではないどこか"に行きたいのかと。

 今の苦しみしかない生活から、救ってほしいのかと。

 かつて読んだ本のように、少女の答えを待っている。

 

 ごく自然と、これまで一度も口にしたことがないような言葉が、しずくの口をついて出た。

 二人分の心が、言葉になって外に出た。

 

 

 

「『 ―――助けて 』」

 

 

 

 しずくが、この世に生まれて初めて。

 シズクが、しずくを守るために生まれて初めて。

 "自分を助けてほしい"という願いを口にした―――そんな、瞬間だった。

 

 その瞬間の男の顔が、とても印象的で、しずくはその顔を忘れられない気がした。

 助けてと言ったのは少女の方だったのに。

 助けようとしたのは男の側だったのに。

 何故か男の方が、ずっとずっと、救われたような顔をしていた。

 "救いを求めることは間違いなんかじゃないんだ"と、何かを知った男が、心底しずくに救われたような顔をしたことが、本当に印象的だった。

 

 山崩れの時も。そして今も。

 男は、"救われてくれてありがとう"と、心底しずくに思っていた。

 前も今も、しずくが救われることで、彼もまた救われていた。

 

「な、なんだお前達、人の家に勝手に……!」

 

「おう。ほんじゃま小生らは、もっと勝手にやらせてもらう」

 

「は?」

 

「しっかり覚えろ。そして忘れろ。世界一勝手な正義の押しつけ集団、ご登場だッ!」

 

 かくして。

 

 しずくとシズクの、地獄のような日々は、終わりを告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しずくは大人に保護される前に、男に名前を聞いた。

 

「え? 小生の名前? 夢見りあむです」

 

「おじさま……そこは真面目に……」

 

「アベノ・セイダーズです」

 

「おじさま!」

 

 結局男は名前も教えてくれないまま、しずくとシズクの礼も受け取らず、飄々としてどこかへ去っていってしまった。

 シズクは、男の羞恥心だと思った。

 礼を言われるのが、気恥ずかしいのだと。

 しずくは、男の罪悪感を感じ取っていた。

 山伏の両親の心を捻じ曲げたことへの男の罪悪感と、自分への罪悪感を感知していた。

 

 とはいえここで引くようなしずくとシズクではない。二人には意外と頑固なところがあった。

 

 しばしの時が流れる。遠足が終わり、夏休みに入り、しずくは考えた。

 まず、恩返しをしようと。

 できなくても、自分を助けてくれたあの人達と、話をしてみたいと。

 親のせいで一度も外に出していけなかった、この心を、せめて救ってくれた彼には伝えなければならないと、初めての想いに突き動かされていた。

 しずくも、シズクも、己の感情に振り回されていた。

 己の感情に振り回されている今を、心地良く感じていた。

 

 もう、しずくとシズクを支配する悪はいない。

 

 自由に、思うがままに、どこにだって行っていい。そんな空気が広がっている。

 

 しずくは笑った。シズクも笑った。

 

 ―――世界は広くて、どこに行ってもいい、何になってもいい、そんな気がして。

 

「いい天気」

 

『ハハッ、いい天気か、そりゃいい!』

 

「?」

 

『お前が上を見上げて"いい天気"なんて言ったの、人生で初めてじゃねえか?』

 

「……そうかも」

 

『いいことだ。本っ当にいいことだ。最高だろ、これ。よく晴れてやがるぜ、空も』

 

「ん」

 

 彼がくれた世界の広さは、狭い世界に生きてきたしずくとシズクには持て余すくらい大きくて、心臓がどきどきと跳ねている。

 

「気持ちがいいね」

 

『おうっ!』

 

 しずくは鷲尾邸に向かって、少しだけ普通の人に近くなった喋り方で話して、恩人の男がいる場所に案内されて、そして。

 

 

 

「うんこ!」

 

 

 

 言語が完全に崩壊したおじさんと、おじさんの横にハンカチ片手で控える東郷美森を見た。

 

「……????」

 

「うんこうんこうんこ!」

 

「しずくちゃん……おじさまは今『うんこ』しか喋れなくなってるの。察してあげて」

 

「なんで?」

『なんで?』

 

 戦いの鐘が鳴る。

 

「これは邪悪なる七人の催眠種付けおじさんの誰かの仕業よ」

 

「邪悪なる七人の催眠種付けおじさん」

 

「邪悪なる七人の催眠種付けおじさんを倒さなければ、おじさまはずっとこのままよ」

 

「ずっとこのまま」

 

「彼らの内誰かがおじさまを無力化した。

 そして始めるつもりなのよ――催眠剣豪七番勝負を」

 

「催眠剣豪七番勝負」

『いつから俺達寝てたんだっけ? これ夢だろ? 夢じゃない? 嘘だろオイ』

 

「六人の催眠種付けおじさんを倒し。

 七番目に神を討ち。

 天と地の神の理で満ちたこの世界を、己の理で塗り潰すために―――!!」

 

「うんこ!」

 

 山伏しずく/山伏シズクは当事者となる。

 

 自ら望んで、その戦いの参戦者と鳴る。

 

 ―――外宇宙からの侵略者。神々と人を支配する上位種。催眠剣豪との戦いが、始まる。

 

 

 

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