少女は、勇者だった。
少年は、勇者ではなかった。
一人の少年と、三人の少女の話をしよう。
勇者、三ノ輪銀は死んだ。
彼女の葬儀は、つつがなく執り行われ、そして信じられないほどあっさりと終わった。
少年は、銀との約束を守れなくなった。告白を見守ってくれるはずだった彼の恋の師匠は、少年には想像もつかないような『お役目』を果たして、いなくなってしまった。
大人達は、口々に言う。彼女は立派だった。彼女の存在は三ノ輪家の誇りだ、と。
その通りなのだろう、と少年は思った。
少年は知っている。彼女はとてもがんばり屋で、いつも自分のことより、周りの誰かのことを考えている女の子だった。だからきっと彼女は最後まで……お役目を果たす中で、自分の全力を尽くしたのだ。そんな風に考え、納得し、少年は全てを受け止めた。
立派だ。
すごい。
誇りだ。
何度も。
何度も。
大人達の言葉を、幾度も繰り返した上で。
「約束、守れないじゃん……」
少年は、泣いた。
少年はただ、約束を守ってほしかった。神樹様のお役目を果たすよりも、自分との約束を守ってほしかった。
だからこそ、考える。
せめて、あの約束だけは、噓にしたくない。
少年は銀との約束を、銀がいなくても果たそうと思った。鷲尾須美を校舎の裏に呼び出して、気持ちを伝えようとした。
でも、それは無理だった。
「……私に、何か用?」
間近でその表情を見て、ようやく気がつく。
少年が好きだった少女の顔は、どうしようもなくやつれていて、元気に笑う彼女の面影は、もうどこにもなくて。
どうして、気がつかなかったのだろうか、と。愚かな彼は、己の浅慮に唇を嚙み締めた。
「大山くん……だったかしら? 悪いけど……わたし、忙しいの」
笑顔は、一人で成り立たない。
笑顔とは、隣に居る誰かに向けるからこそ、輝くものだ。
少年が大好きだった鷲尾須美の笑顔は、三ノ輪銀が隣にいたから、あんなにもきらめいていたのだ。銀だけではない。鷲尾須美がいて、三ノ輪銀がいて、乃木園子がいて。あの三人が揃って笑っているその姿が、少年にとって何よりも大切な宝物だった。
でも、人は生き返らないから。
大好きだったものは、もう二度と元には戻らない。
「鷲尾さん……おれ」
あるいは、思いの丈をぶつけてしまえばよかったのかもしれない。
あるいは、手酷く振られてしまえば、それで諦めがついたのかもしれない。
けれど、彼は何の力もないただの少年だった。
「……心中、お察しします。ミ……三ノ輪さんがいなくなって、つらいかもしれないけど、勇者のお勤め、がんばってください」
そんな、ありきたりな言葉しか吐き出せなかった。
彼女は、しばらく何も言わなかった。ただ、しばらくじっと少年の瞳を見つめて、それからゆっくりと、ぎこちなく笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
いや、浮かべてくれたのだ。
少女の笑顔は、少年を気遣って形作られたものだった。
「あなたが銀と仲良くしてくれていたこと、知ってるわ。でも、大丈夫。銀の遺志は、必ずわたしが……ううん、わたしと乃木さんが継ぐから」
それは彼女らしい、如何にも生真面目な返答だった。
きっと、三ノ輪銀が見ていたら、苦笑するような。
「勇者、鷲尾須美は最後の瞬間まで戦い抜くことを誓います」
そして、鷲尾須美と乃木園子はクラスからいなくなった。
遠い学校に転校したと聞いた。
でも、実際は違うだろうということは、なんとなくわかった。いくら小学生でも、もう二度と二人に会えないことくらいは、容易に察しがついた。
それは、全身をゆっくりと蝕まれるような絶望だった。
少年の日常は変わらない。彼の周りの人々はいつも通りに笑い、生活を営み、幸せに暮らしている。その事実がどうしようもなく心の深い部分をかきむしって、腐敗を促す膿を孕んだ。
どうして、彼女達だけがあんな辛い目にあわなければならないのか?
どうして、彼女達は幸せになれないのか?
どうして、自分はそんな彼女達を好きになってしまったのか?
もし、これらの疑問への解答を、簡潔に述べるならば。
少女達は特別で、少年は特別ではなかった。
ただ、それに尽きるだろう。あるいは少年が物語の主人公であったならば、彼女達は救われて……また違う結末を迎えていたのかもしれない。
だが、現実はどこまでも残酷で、力を与える神樹は少年には見向きもせず、彼の手元に特別な力が都合よく降ってくるわけもなく……その心にはいつしか、枯れ落ちた花のような黒い諦観だけが残った。
無力さに打ちひしがれても、何も変わらなかった。
降りしきる雨の中で涙を流しても、空は晴れなかった。
繰り返そう。
彼はただの少年で、彼女達は特別な少女だった。
少年は、その無力感を、少しでも払拭したかったのかもしれない。あるいはどこか、自暴自棄になっていたのかもしれない。
下校途中、やけにスピードが早いトラックが見えた。
彼は目がよかったから、運転席のドライバーが顔を伏せていることに気がついた。そして、そのトラックの進路上に、学校の後輩がいることにも気がついた。
黒髪をうしろでまとめた……どこか、彼女に似た女の子だった。
反射で体が動いたわけではない。なんとなく、その行動の結末を理解した上で、彼は動いた。
彼は、鷲尾須美のように勇気があるわけではなかった。
彼は、乃木園子のような柔軟な発想力があるわけではなかった。
そして彼は、三ノ輪銀ほど運動神経がよくなかった。
だから、飛び込んで女の子を庇い、突き飛ばした時点で間に合わないと悟った。
それでも、何かをしたかった。
焦がれた光に、救えなかったものに、不格好に手を伸ばした彼は……
神世紀298年。小学校の卒業式を控えた大山哲という少年は交通事故に巻き込まれ、重傷を負った。その日以来、彼はベッドで眠ったまま、目を覚ましていない。
彼女達は、勇者だった。
彼は、勇者ではなかった。
斯くして少年は、生と死の狭間に落ちる。
「……大丈夫?」
「……ごめん」
女の子の胸にしがみついて泣くなんて、なんて恥ずかしいんだろう。
おれは目を擦りながら、ミノさんの胸から離れた。
「こらこら。あんまり乱暴に拭うな。あとから腫れるぞ~?」
苦笑交じりにミノさんが突き出してきたハンカチは、柔軟剤とおひさまの匂いがした。女の子のハンカチだった。
目元に優しくハンカチを当てられて、おれは為されるがままだった。
「……なんか、恥ずかしいな」
「あっははー。たしかに。なんか、でっけー弟ができたみたいだ」
「……うわぁ。やめてくれ。ほんとに恥ずかしくて死にそうだ」
しばらくそうやってからからと笑い合って、笑い声を出し切って静かになって……心地良い静寂の中。ようやく、ミノさんは口を開いた。
「で、思い出した?」
本当に、いくつになってもミノさんには敵わない。
「……うん。思い出した」
「そりゃよかった」
にっ、と。おれが一番間近で見てきた笑顔を浮かべて、ミノさんは小さく呟いた。
「アタシが生きてるのが、一番おかしいもんな」
「……」
「あー、そんな顔すんなよ。またハンカチ出さなきゃいけなくなっちゃうだろ?」
きっと、おれがこの世界の違和感に気付く鍵が、ミノさんだった。
この世界は夢のようなもので、現実ではなくて、おれはその中に囚われている。でも、この世界はおれの理想の世界だから……だからこそ『鷲尾須美が鷲尾須美のまま中学生になった世界』を構築している。
そして当然のように『三ノ輪銀の死亡』もなかったことにしてしまった。
「アタシさ、楽しかったよ」
たとえ、偽りでも。おれは三ノ輪銀と一緒に讃州中学の生徒になった。それはきっと、本物の三ノ輪銀が心から望んで、けれどお役目のために叶わなかったこと。
だから、今。目の前にいるのが『大山哲の思い描いた三ノ輪銀』だったとしても、
「須美と園子と……勇者部のみんなと一緒に中学生できて、楽しかったよ」
おれの目の前で、たしかに三ノ輪銀という少女は泣いていた。
この世界は偽りだ。でもおれは、女の子の流す涙を噓にはしたくない。
「ミノさん」
「……あーあ。哲がここにきた時から、覚悟決めてたはずなのに。カッコ悪いなぁ……」
今度は、おれがミノさんに胸を貸す番だった。
言葉の最後は嗚咽交じりで、か細く途切れるような声だったけど、おれは目敏くそれを拾って否定した。
「ミノさんはかっこ悪くないよ。ずっとかっこいいよ」
昔からそうだった。
「ミノさんはいつも誰かのためにがんばって、困ってる人を助けてくれる。最高の勇者だよ」
「……そんなに褒めるなよ」
「ほんとのこと言ってるだけだから」
だから、ダサくてかっこ悪いおれは、最後までミノさんに甘えてしまう。
「哲、覚悟は決まった?」
「……決まった」
「よし」
最後の最後まで、ミノさんに背中を押してもらうんだ。
「じゃあ、もう大丈夫だな! アタシが泣いてるふりして、無理に励ます必要ないな!」
「ああ、うん。泣いてるふりして励ます必要ないよ。いや、本当に名演だった。すごいすごい。ミノさんはアイドルだけじゃなくて、女優にもなれるな」
「茶化すなぁ!」
やっぱり、ミノさんと馬鹿な話をして笑い合うのは楽しい。
立ち上がる。
前を向く。
扉に、手をかける。
「哲、振り返るなよ」
世話焼き少女のお節介は、最後まで続く。
「決めたんなら、最後まで突っ走れ。ちゃんと、アタシがいない世界に帰れ。大丈夫、お前はそれができる男だ。この銀さんが証明してやる」
証明されてしまった。
だったらもう、進むしかない。
思い残したことはない。思い残していくこともない。この世界そのものが、おれの未練のようなものだからだ。
でも、
「ミノさん」
最後に、言わなければならないと思った。
それが、彼女にとって残酷な言葉でも、おれはそれを言いたかった。
「
もう二度と、会えないとしても。
口に出して伝えることに、意味はあるはずだから。
「ありがとう、哲」
だから、ごめん。ミノさん。
おれはもう振り返らないから。
「またね」
その言葉を背中で受け取る情けないおれを、どうか許してほしい。
この世界は、おれの意識が作った世界だ。
おれが見て、おれが想像して、おれが構築したものが、世界を形作っている。
そんな想像の世界の中で、ずっと生きてきた。
ではなぜ、おれが知らないはずの讃州中学の面々……犬吠埼先輩や結城ちゃんがこの世界にいるのか。
「多分、てっつんの意識は死にかけで神樹様と繋がっている状態なんよ~。それで、他の人の夢も疑似的に再現できちゃうんだよね。現実で生きているわっしーの意識がフィードバックされるし、今のわっしーの大切な人がてっつんの意識に反映されるってことなんだよ~。レムレム~! どう? わかった?」
「なるほどわからん」
もっとわかりやすく説明してくれ。
「大体、神樹様のせいって感じかな~?」
「なるほどわかりやすい!」
さすがそのっち。略してさすそのである。
いつの間にかおれの隣を並走して勝手に解説をしていたのは、完璧美少女そのっちである。サンチョを小脇に抱えたまま、解説しつつダッシュするというさり気ない運動能力を見せつけている。
どうやら、そのっちもミノさんと同じく、おれを元の世界に戻すのを手伝ってくれるらしい。正直、ありがたい。
「ちなみに、おれが目覚めないままこの世界にいたらどうなるんだ?」
「てっつんはずっとこの世界にいたいの?」
「そりゃ、かわいい彼女とイチャイチャできるからな」
「……じーっ」
「うそうそ、冗談だよ。本気にしないでくれ」
そのっちに無言で見詰められると、妙な圧があるからマジでやめてほしい。
「夢は、結局どこまで行っても夢だからね~。てっつんがこの世界でお腹いっぱいになっても、現実の世界で眠ったままのてっつんは満たされないんよ~。ハングリーだよね~」
「つまり?」
「てっつんはこの世界から脱出しないと、多分死んじゃうんよ~」
「なるほど……ってなるほどじゃねぇ!」
大体予想通りとはいえ、口にされると背筋が寒くなるものがある。
そういえばもう一つ、そのっちには聞いておきたいことがあった。
「そのっち。一つ、聞いてもいいか?」
「もちろんいいよ~。今のわたしは多分何でも答えられるから、バッチコーイ!なんだぜ~」
「今、現実世界のそのっちはどうなっているんだ?」
現実世界の鷲尾須美は記憶を失い、東郷美森として生きている。
では、そのっちは?
ミノさんとわかれてきた今、それはおれが抱く当然の疑問だった。
「……大丈夫。
声のトーンが、一段落ちた。
「……そっか」
「うん。だから、てっつんはこの世界から出ることだけを考えてね」
「……わかった」
そのっちがそう言うなら、そうするべきなんだろう。余計なことは考えなくていい。おれは今、この世界から抜け出すことだけに集中しよう。
それに、そのっちは『生きている』と言ってくれた。なら、大丈夫だ。現実に戻ったあとで、きっと会える。
「てっつん。わたしも聞いていい?」
「ん?」
「ミノさんとは、話せた?」
……ああ。やっぱり、そういうことか。
「話せたよ。ありがとうな、そのっち」
「えへへ~、それならよかったんよー」
本当に、この天才肌の幼馴染にも、昔から頭が上がらない。
「で、おれはどうすればこの世界から出れるんだ?」
「わっしーに会う必要があるね~」
「まあ、そうだよな」
この世界が歪んでいる原因は、間違いなく鷲尾須美の存在だ。須美と会って、話して、それでおれはようやく現実世界に戻ることができる。
「でも、気をつけてね。てっつん」
「ん? 何が?」
「わっしーに会うためには、その前にラスボスを倒さなきゃいけないんよ~」
「ラスボス?」
答えは聞くまでもなく、真正面に現れた。
人気のない廊下の中央に、たった一人。泣いている夕焼けの空模様を、そのまま写し取ったかのような……そんな髪色の少女が、佇んでいた。
おれは、その子をよく知っている。
だって、その子は須美の大親友だから。
おれは、その子の笑顔をよく知っている。
だって、須美の笑顔の隣には、いつも笑顔のきみがいたから。
「行かせないよ。哲くん」
夢から醒めて。
決意を固めたはずの、おれの前に。
「鷲尾さんを、一人にしないで」
勇者が、立ちはだかる。
おれは、拳を握り締めた。
ラスボス『結城友奈』