「船は等加速に入りました。シートへの固定義務が解除されます。また居住区内でのヘルメットの着用義務が解除されます。」
ホジョウは船内放送を終えると、ヘルメットを脱いだ。
エアが勿体無いのだ。
「すごいじゃん、ちゃんとした船長みたいじゃん。」
タニアが茶化す。
船内で放送はしているが、この段階で乗員は全てホジョウが操船するブリッジにいた。
放送をしているのは単にそういうルールに則っているだけだ。
「そりゃあ、一通りのライセンスは持ってますから。」
とはいえホジョウも民間船をまともに運用するのは初めてだった。
なんなら公国軍の船も船長経験はない。
「タミヤ船長、加速はどれぐらい続くかな?」
コーエンの質問にタミヤは「30分ほどです」と答えた。
「仮眠するなら、ベルトをしないといけないな。」
「どちらにせよベッドを使うときはベルトはしてください。」
コーエンは「了解」といって居住区域に消えていった。
「ワシと先生は通信システムのセッティングをせんといかんな。」
「そうですね。」
ホジョウは2人がどこに店を広げて作業するのか気になったが、どうせ食堂だろうと、特に聞かずに見送った。
「お二人は指輪されてないんですね?」
ホジョウが驚いて振り返ると博士の孫娘のマイだ。
「え、ああ、はい。」
「おじいちゃんについてきちゃってすいませんが、よろしくお願いしますね。奥様、どちらの部屋が開いてるか教えていただいていいですか?」
次はタニアの番だ。
「え!?なんか適当に空いてる部屋使うんですけど…ご案内しますね。」
二人が出ていくとたいして広くもないブリッジもがらーんとしている。
コンソールを操作してメインパネルを船首カメラの映像にだけ映るように切り替えると、さきほど管制がいっていた通り8番軌道に連邦の長ぼそい客船らしき船が停泊していて、月面との間でHLVが行き来している。
その景色を一目見てからホジョウは再び船の操舵情報を映した。
淡々と運行計画と現在の軌道をチェックしはじめる。
予定通りで特に問題は無い。
運行状況の各項目を順に確認している内に、船は規定の速度に達した。
この船は月をぐるっと回るようなルートを飛んでいるわけだが、船の舵は真っ直ぐ前を向いている。
真っ直ぐ推進しながらも、月の引力に引っ張られて落下しているため、自然と円みのある軌道を描くのだ。
サイド3も月の裏側から見ればはるか高い上空にあるように見えるわけだが、今回は月から見たときのサイド3の高さ以上まで高度を上げながら飛んで、角度を変えて落ちながらサイド3に到達する急行列車とも言えるルートを通る。
「ブリッジです、ただいまより船は加速を停止します。無重量にご注意ください。」
加速によって得られていたほのかな人口重力が消失して無重量になる。
気の利いた客船なら、人口重力を得るために回転するのだが、この船はそういうことを想定して作られていない。
回転するとどうして人工的に重力が作られるかと言うと、バケツに水を入れてグルグル振り回してもこぼれないのと同じ理屈だ。
振り回されたバケツの水はバケツの底のほうに押し付けられる力が働くので、十分な速度で回せば、タテに回しても水はこぼれない。
そのためスペースコロニーは回転していて、壁の内側にある物体を壁に押し付けている。
こうした現象は遠心力と言う言葉でも説明され、現在、人類が人工的に重力モドキを得る数少ない方法だ。
これを一般に人口重力と呼んでいる。
スペースノイドでも一生を生まれたコロニーで過ごすようなタイプの人間はこの人口重力を自然な環境だと考えて過ごすことに成るが、本物の地球の重力とコロニーの人口重力がどう違うかはここで書くのは避けよう。
とにかく、人口重力と言う技術が要所で使われているということはご理解いただきたい。
対して重力がない状態を無重量と呼ぶ。
無重量では色々便利なことも多いが、大変に不便なことがある。
それは人体は無重量状態が長く続くと病的に筋力と骨密度が衰えてしまうことだ。
簡単な衝撃で骨折したり、最終的には自力で呼吸できなくなる。
それ以外にも脳圧異常で視力が衰えやすくなったり、脳が痩せたり、はたまた別の理由で腎臓結石が出来やすくなったりする。
そうした症状をまとめて低重力障害と呼ぶ。
それら低重力障害が乗員に発生するのを防ぐために、こうした宇宙船には人口重力の効いた小型のジムルームが入っている場合も少なくはない。
ただし、皆さんのご推測の通りこの船にはそんなハイカラなモノは無い。
ホジョウは船長室のモニターにも船首カメラの映像が映るようにセットすると、船長室にこもってエアバイクをこぎ始めた。
「身体、なまって来たな。」
無重量空間ではスペースノイドたちは焦って運動を始める。
しかし月面には弱くとも引力があるので、焦り方が弱く、運動を始めない。
なので月世界人たちは、一番危険な無重力空間で働く労働者達に比べても、骨と筋肉で低重力障害になりやすい傾向がある。
ホジョウも頭では分かっているが、引力があるとスイッチが入らない。
結果、月へ行ってからろくに運動していない自分の生活を反省し、焦って運動しているというところだ。
そこへタニアが入ってきた。
「どうしました?」
タニアは口を尖らせている。
「なんか、マイさんに『夫婦で別の部屋って変じゃない?』みたいなオーラをすごく出されて…」
ホジョウは「あの孫娘はスペースノイドとは思えない価値観をしているな」と思いながらも、博士の孫娘相手にたじたじになっているタニアをにやつきながら見ていた。
「ひどい!」
ホジョウはハッとした。
「いや、違う!誤解です!そういう意味で笑ったんじゃないです!なんか、マイさん相手に妙に弱いの面白いなって。」
「だとしてもヒドいですよ!代わってください!私も漕ぎます!」
ホジョウがエアバイクを空けるとタニアは猛然と漕ぎ始めた。
その様子もまた可愛らしくて面白かったがホジョウは今度は顔に出さなかった。