「結婚したんだ。」
寂れた喫茶店の、窓際の席。名も知らぬ彼はそう言った。
その言葉に全く動揺しなかったと言えば嘘になるし、かといって何か特別な感情を抱いたかと言えばまた違う。ただ、目の前のブラックコーヒーでは流し込めない程度の、小さなモヤモヤが痛みとなり喉に残った感触だけがあった。
思い起こせば、彼との付き合いはもう何年になるだろうか。いや、"付き合い"という言葉がまるで似合わない程、彼と共に過ごした時間は少ない。
僕と彼が初めて出会ったのは確か小学生の頃、祖父母の住む田舎に親の帰省で訪れていたある夜。祖父母の提案で、たまたま集まっていた親戚の子供たちと一緒に近所で開催されているという花火大会を見に行ったのだ。
町から村へと規模を縮小して間もない草臥れた街には不似合いな、露店の数だけが虚しさを煽る一角を十名余りの親子で歩く。皆が射的や型抜きに没頭して、安心した親連中が酒を片手に談笑する時間。どうにも元気と好奇心を持て余した僕は、近くにあるという神社へ足を伸ばした。
赤塗の剥がれかけた鳥居を潜り、初詣でも無ければ見ることも無い賽銭箱に近付けば立派な大きい本坪鈴と鈴緒が下がっていて。普段濫りに鳴らすものでないと教えられていたそれを、悪戯心からふと揺すってみようという気になった。
ガラン、ガラン、ガラン…
人っ子一人いない境内のせいで一際大きく響いた音はまるで僕の心臓を鷲掴みする様に、ヒリつく緊張感と妙な達成感を齎した。
「なあ。」
その時だ。拝殿の中からまだ幼さの残る彼の声を聴いたのは。
しまった、きっと怒られる。悪戯を大人に見つかったんだ。そう危惧した僕は、鈴緒を離し一目散に逃げ出――そうとしたところで、背を向けた拝殿から聞こえる声が次の言葉を紡ぎ出し、僕の足をも止める。
「いい音だろう。」
予想していたものとは大きく違う言葉に、思わず振り返れば。
自分と同じくらいの背格好…歳も近いように感じる彼と目が合った。
「いつもここで聴いてるんだぜ。」
拝殿から出てきた少年。それが彼だった。
その日以来、何かで遠出をする度に、行く先々で彼に遭遇した。避暑地のホテルで、修学旅行の仏閣で、卒業旅行の喫茶店で、出張先のファストフード店で…。
彼に何か動向を探られているのではないかと疑ってしまう程、遠出をする時は必ず彼が居て。同席することになるそこで当たり障り無い毎日について報告し合うのだ。
拝殿から事も無げに出てきたあの時から、彼には人智を超えた何かを感じていたのかもしれない。
もうお互いに三十路を越え、いい歳だというのに未だ僕は、彼が神や霊の類なんじゃないかと思ってしまっている。そしてそれはいつしか形容し難い憧れの様な感情に変わり、また次も会えると思いつつも手を振り別れる際の名残惜しさはある種の恋愛感情の様でもあった。
あまりにも突飛な出会いをした彼に、神々しい後光の様に射す何かを知って、恋をしたのだ。
今日だってそうだ。久々に訪れてみた祖父母の家の、近所の土手を進んだ先に在るこの喫茶店は、入店することこそ初めてだったが「どうせ彼が居るんだろう」と予感を覚えて足を運んだのだ。
案の定一番奥の席で、「奇遇じゃないか」といつも通り手を挙げる彼に、すっかり安心しきって歩み寄ったのだ。
「結婚したんだ。春に、後輩と。」
「…ああ、それはもう…おめでとう。」
「うん。」
「…。」
「…案外、悪くないものだぜ。君はそういう予定は」
「すまない、実はこの後も予定が入っていてね。コーヒーも美味しかったし、今日の所は失礼するよ。」
「そうか。……いや、またどこかで。」
勝手に、一方的に抱いていた感情だった。勝手に見出していた希望だった。
今日の彼の笑顔はそれを完膚なきまでに打ち砕く程の威力を持っていて、彼もまた自分と変わらない男なんだと言う事を厭と言う程に表していた。
僕の、有りもしない彼への恋慕は終わった。あの日から始まった特別な友人の話は。
心なしか動揺に視界が揺れる一方で、心の奥底は厭に冷静だった。触れればヒヤリと刺激するような、研ぎ澄まされた氷柱。
そうして透ける向こう側では、未来の僕が確かに予感をくれるのだった。…嗚呼、在りし日の僕よ。憧れは鈴の残響の様に儚くも散ったが。落胆もまた悪くない。今は背ける眼さえ、何れ迎える邂逅に想いを馳せよ。
「また?」
「ああ。僕等はいつだってそうだったじゃないか。」
「…人の夫になっても尚、か?止めた方がいい。」
「忠告は感謝する。でも僕は、あの日の出会いを偶然にはしたくない。」
「……。」
「…いい音、だったろう。」
「…ああ。全くだ。」
静かに響き渡った、あの古ぼけた本坪鈴は今も揺れている。
また必ず会えると知っているから。