総司と約束を交わしてから一夜が明け、早坂はいつも通りの時間に目を覚ました。
現在の時刻は五時。今日は仕事がオフのため、目覚ましもいつもより遅くセットしていたのだが、それよりも早く目覚めてしまった。
体を起こして枕元の棚、目覚まし時計の隣に置いてあった眼鏡をとって掛ける。
普段はコンタクトを着けている早坂だが、メイクを行うまでは眼鏡で代用している。
ベッドから降りた早坂はまずシャワールームに向かう。服を脱いでシャワーを浴び、寝起きの頭を切り替える。
シャワーからあがってからは両目にコンタクトを入れてメイク、髪型のセット、そしていつものメイド服を身につけメイド、早坂愛を完成させる。
「結局、いつもと変わらないルーティンしちゃったし…」
時計を見ながら呟く。現在の時刻は六時、早坂が出勤する時刻である。今日はオフなのだが、何だかんだ身に付いた習慣はそう簡単には抜けない。
それに、結局どの道早坂はメイド服に着替えていた。いくらオフの日とはいえ、総司の前に、それもこの屋敷内で普段着姿など見せられる筈もない。それはメイドである早坂にとって死活問題である。
さて、早く起き過ぎた挙げ句、いつもの調子で着替えまで済ませてしまった早坂だが単刀直入に言おう。
する事がない。
総司との約束があるが、こんな時間から部屋まで赴く訳にもいかない。せめて、総司とかぐやの朝食が済み、落ち着いてからでないと、と早坂は考えている。
なら、それまでどうやって時間を潰すかだが─────
「動画でも見ようかな…」
部屋にある机、その上にあるパソコンに視線を向けながら早坂はポツリと呟く。早坂にも趣味はある。特に机の上のパソコンは早坂の自作、趣味の一つによる物である。
中々の自慢の逸品で、完成してすぐ、総司に報告し出来栄えを確かめさせる程だった。
早坂はスカートにシワが入らないよう注意しながら椅子に腰を下ろし、パソコンの電源を入れる。
パソコンの機動音が鳴り、液晶画面に光が灯る。パソコンの立ち上げ作業を終えた早坂は早速インターネットへと潜り、某大手動画サイトへとアクセス。『プレス機』という単語で動画検索を始める。
時間は過ぎていく。すでに見た事のある動画も見返しながら、早坂は退屈する事なく時間を潰す。プレス機が物を潰す所の何が面白いのかはさっぱり解らないが、とにかく早坂は楽しんで…なんていなかった。ぶっちゃけ、早坂は動画の内容が全く頭の中に入ってきてなかった。
早坂はすでに同じ動画をこの朝の間に三十回は見ている。初めに再生した動画を何度もループ再生し、ずっとその動画を見続けているのだ。
しかし、今の早坂はその動画には全く意識が行っていなかった。もうすぐ、総司の所に行って、甘やかされる。その事が早坂の頭をぐるぐると巡っているのだ。
(どんな事をしてくれるんだろう…。頭を撫でたりとか…、膝枕とか?…抱き締めてくれたり、はさすがに無いか)
こんな調子である。早坂愛は、完全に乙女思考に囚われていた。
総司にあれやこれやされる自分を想像し、気分を高揚させていた。別に意識してやっている訳ではない。ただじっとしていると早坂の頭が勝手に想像を始めるのである。
「っ」
ふと気付けばもうすぐ九時になろうとしていた。早坂は部屋の扉をノックする音で我を取り戻す。画面には未だにループ再生されるプレス機の動画。
「はい」
部屋の外まで聞こえるように声を張る。向こうからの返事はすぐに返ってきた。
「赤木です。総司様がお呼びです」
「…」
来た。早坂自ら出向く前に向こうから呼ばれるとは。早坂は掌を胸に当て、一度深呼吸をしてからすぐに行きます、と返事をし、パソコンを落とす作業を行う。
シャットダウンをクリックしてから、早坂はパソコンの電源が落ちる所を見届ける事もなく立ち上がり、一度服にシワがない事を確認してから扉を開ける。
「おはようございます」
「はい。おはようございます」
扉の前に立っていた赤木と挨拶を交わし、どちらからともなく歩き出す。
会話はない。ただ、目的地である総司の部屋に向けて歩くのみ。何度か廊下を曲がり、かぐやの部屋の前の廊下を通りすぎ、もうすぐ総司の部屋に着くという所。
そこで、赤木が口を開いた。
「主人に代わって私が謝罪します。申し訳ありません」
「は?」
突然何を、と聞き返す暇もない。部屋の前で立ち止まった赤木は扉をノックして中にいる総司に呼び掛ける。
中から入れ、と総司の声がする。すると赤木は早坂に道を譲る。ここからは一人で行け、という事だろうか。
「…」
しかしそれは早坂にとって望む所である。総司に甘やかされている所を赤木に見られたくなんかない。
早坂は赤木の前を横切り、扉の前で立ち止まる。
「早坂です。入ります」
そう口にし、中から総司の返事の声がしてから早坂は扉を開ける。
「…は?」
そこには、圧倒的光景が広がっていた。
壁は金紙と銀紙で装飾され、きらびやかに輝いている。そして部屋の中央には豪華なキングチェアが。総司はその傍らに姿勢を正して立っていた。
「…総司様。これは?」
「お座りください」
「え?」
「お座りください」
まさか、座れというのか、そこに。その椅子に。
「…」
とにかく、総司に付き合ってやる事にする。早坂は黙ってキングチェアに腰を下ろす。
「早坂様」
「っ…」
そう呼ばれた瞬間、背筋にぞくりと寒気がした。
いや、本当にこれは何だ。何を考えているんだ。早坂にはさっぱり解らない。
「総司様、その口調は止めてください」
「…早坂さ「気持ち悪いです」…」
容赦なくぶった切られた総司は、ショックを受けた顔をした。どういう考えの下でやっているのかは知らないが、総司なりに約束について考えたという事だけはこの短い間でも早坂に伝わった。総司の表情に心が痛まない訳でもない。
しかし、気持ち悪いものは気持ち悪いのだ。仕方ない。
「…早坂、朝食まだなんだよな?」
早坂の切実な気持ちが通じたのか、総司の口調が戻る。その事にホッと安堵しながら、早坂は総司の言葉で浮かんだ疑問を口にする。
「そうですが…、何故それを?」
「今日、お前の代わりに俺とかぐやに朝食を届けてくれた人が言ってた。早坂が朝食を摂りに来ないって」
確かに早坂は未だに朝食を摂っていない。しかしそれを何で総司が知っているのか。そう思い聞いてみると、どうやら早坂の部下が総司とかぐやに漏らしていたらしい。
「様子を見に行きたいけど折角の休みでまだ寝てるのかもしれないって、どうするか悩んでたから赤木に呼びに行くついでに様子を見てこいって言っといたんだ」
なるほど、赤木がわざわざ呼びに来たのはそういう経緯があったからか、と納得する早坂。何故なら、ただ早坂を部屋に呼びつけるのなら、メールでも電話でも使えば良かったのだから。総司の早坂は互いの連絡先を知り合っている。それをせず、人を使ったのはそういう理由があったからだったらしい。
「じゃあ、ここで待ってろ。ちょっとお前の朝飯貰いに行ってくる」
「え?そのくらい、自分で…」
「今日はお前を甘やかす日なんだ。俺にやらせろ」
やはり、この謎待遇はあの自分を甘やかしてという約束について考えた結果らしい。
その事は素直に嬉しい。きっと、総司は真剣にどうやって自分を甘やかそうか考えてくれたのだから。
しかし、しかしだ。
(そうじゃない)
早坂の心の底からの一言。これが全てである。
早坂は部屋を出ていく総司を見届けながら、思う。
これは、自分から動かなければ自分の望む甘やかし方をしてくれないかもしれない、と。
早坂が総司の部屋で呆れている一方、総司はちゃっかり楽しんでいた。
これまでの人生で、総司はずっと誰かから尽くされてきた。誰かに尽くす事のない人生を送ってきたのだ。
それが今日、総司は人生で初めて他人に尽くすという行為をしている。それが、尽くされる方にとっては本意ではなかったとしても。総司は初めての経験に心踊らせていた。
この屋敷に、いや、四宮に仕える使用人の朝食は質素なものである。使用人達は毎日とある部屋に置かれたサンドイッチを一つ食べる。使用人の朝食はこれだけである。
(…早坂にもっと良いものを食べさせるべきだったか)
総司の頭にそんな考えが過る。しかしもう後の祭り…いや、まだ遅くはない。確かに朝はもういつものサンドイッチ一つを持っていくしかないが、まだ今日の食事は昼と夜、二度もある。まだチャンスはあるのだ。
総司は早坂の分のサンドイッチが載った皿を貰い、自分の部屋へと戻る。この皿を貰う際に一悶着あったのだがそこは割愛する。どうせ自分の部屋に戻るのだから、皿を持とうが持つまいが労力は変わらないというのに、少ししつこすぎるのだ。
「早坂ー。持ってきたぞー」
もう先程までの敬語は欠片も出すつもりはなかった。気持ち悪いとまで言われて続けようと思う者がいるはずもない。総司はマゾではない。
早坂はキングチェアに座ったままだった。総司は早坂の前まで歩み寄り、早坂にサンドイッチを差し出す。
「…おい?」
しかし早坂はサンドイッチを受け取ろうとしない。それどころか何故か総司を見上げながら口を開けている。
「…早坂。お前まさか…」
「はい、そのまさかです」
「…」
やれというのか、あれを。想いが通じ合ったカップルにしか許されないあの儀式を。
「…」
「…」
早坂に引く気はないらしい。なるほど、やってやろうじゃないか。ここで逃げては四宮の名が廃る。
総司は手に握ったサンドイッチを早坂の口元に持っていく。
「はむ」
早坂の唇がサンドイッチを挟む。口の中で噛み、一口分を咀嚼する。
「…」
何か変な気分だ。別に誰かが食事する所など、かぐやで見慣れてるというのに。自分も食事しながらと、誰かに食事をさせている、そんなシチュエーションの違いだけでこうも気分は変わるものなのか。
「あー…」
「…」
「はむ」
一口分を飲み込んだ早坂がもう一口を要求。総司は黙ってサンドイッチを近付ける。早坂がサンドイッチを咥える。
その繰り返しが二度行われると、総司の手にあるサンドイッチはだいぶ小さくなっていた。もう一口で早坂の食事は終わる。
「…」
なおも早坂はあーんを要求する。総司は一瞬躊躇ってから、先程までと同じ様にサンドイッチを差し出す。
「あむっ」
「っ!!!??」
早坂がサンドイッチを口の中に入れる。それを掴む総司の指ごと。
驚いた総司はすぐさま早坂の口から指を抜く。別に涎が付いた訳ではない。なのに、早坂に咥えられた親指と人差し指は他の指と比べて妙に温もりがあった。
「んく…、ごちそうさまでした。総司様」
最後の一口を飲み込んでから、早坂は笑顔を浮かべてそう言った。総司はそれに対して苦笑いを浮かべるしかできない。さすがに少し恥ずかしかったというのが総司の本音だ。
「さて、後は何をしてもらいましょうか…」
「あ、それについては考えてるぞ」
「…一応聞きましょう。何をするつもりですか?」
「早坂の肩を揉んだり、腕をマッサージしたり…」
「…」
「んで、今日の夕食は豪勢に作ってもらう。早坂用にな」
「…」
「…あれ?」
首を傾げる総司。肩や腕のマッサージに関しては満更でなさそうな顔してたのに夕食の話をしたら微妙な顔をされた。まるでそうじゃない、と言われている様だった。
「はぁ…」
「おい、くそデカイため息吐くのやめろ」
何が気に入らないのか。これ以上ない程甘やかしていると総司は本気で思っていた。しかし早坂には不満らしい。
「…総司様。そこのベッドに座ってください」
「は?何で?」
「いいから早く」
有無も言わされず総司はベッドに腰を下ろす。すると早坂も椅子から立ち上がり、ベッドの方に歩いてくる。
座った体勢の総司はこちらに来る早坂を見上げる。早坂は総司の隣に腰を下ろし、体を倒して総司の膝に頭を乗っけた。
「…おい」
「はい」
「何だ、これは」
「膝枕です。総司様はご存知ではありませんでしたか?」
「バカにすんな。そうじゃなくて、何で膝枕なんて求めるんだよ」
「これが私にとって、これ以上ない甘やかされ方だからです」
何故に膝枕。総司には全く解らないが、早坂自身にそう言われてしまうと何も言い返せない。ただ甘んじて、膝枕を続けるしかない。
「…おい、早坂?」
「…」
「…おい」
以降、総司も早坂も黙ったまま時間が過ぎ、いつしか早坂の方から寝息と思われる規則正しい呼吸の音がしだす。
まさか、と思い声を掛ける総司。返ってくるのは呼吸の音だけ。
「…ったく。疲れてんなら自分の部屋で寝ろよな」
ふっ、と呆れの籠った笑みを浮かべながら呟いた総司は右手を早坂の頭に乗せて優しく動かす。
ずっと、この細い体で早坂は屋敷中の使用人達を纏めてきた。自分の仕事だけでも相当疲労が溜まるだろうに。それを表に出さず、何年も、何年も。
早坂は知らない。そんな自分の姿が、総司を変える切っ掛けになった事など。総司が、早坂にどれだけ感謝の念を抱いているかなど。
「…お疲れ、早坂」
早坂は知らない。このお疲れという一言に込められたもう一つの意味を。早坂を労うだけじゃない。もう一つ、総司がこの言葉に込めた思いを。
それを知らないまま、早坂は小さく口元を緩めて笑みを浮かべたのだった。
さすがに抱き締めるは無理でした(笑)
ごめんね早坂m(_ _)m