今よりはるかに昔のこと。
一人の吸血鬼がいた。
血に飢え、富に飢え、権力に飢えた血族から逃げた女がいた。
底無し沼の地獄から、精一杯の憎しみをまき散らして逃げてきた女だ。
彼女は、彼らの生き方を否定し、否定した現実と掲げた理想を己に証明するため、遠い地へとやってきた。
過酷な道のりだった。吸血鬼の血を逃がすまいと追ってきた同胞。予測困難な現象が襲い掛かるレジェンダリアの大地。追手に捕まれば反乱分子として処刑され、大自然はただあるがままに彼女の身を食わんとしていた。
国境を越えてアルターに来てからも気の休まるひと時は無かった。【宵闇狩人】と【高位呪術師】の力を吸血鬼の身で扱える彼女ではあったが、ティアン故に
どれほど歩き続けただろう。そこに辿り着いたのは時が味方してくれたとしか言いようが無かった。一体の〈UBM〉が、老衰によって目の前で死を迎える光景があった。その膨大なリソースが空へと消えていく様を彼女が見ていた。群れを守り続けた偉大な〈UBM〉が死に、群れと広大な縄張りが遺された。
彼女に舞い降りた千載一遇の機会だった。今まで押し殺した気配をむしろひけらかすように。周囲のあらゆるモンスターを威圧するようにあり続けた。弱きモンスターを追いやり、縄張りを拡大せんと襲い掛かるモンスターたちを殺し続けた。三日三晩もする頃には、彼女は一角の縄張りを手に入れた。
そこに〈館〉を目覚めさせ、彼女はようやく壁と屋根に囲まれた暮らしを手に入れた。魔力によって様々な機能が稼働すると聞いていた館は扱いが悪いせいかただの館であるだけだったが、それでも原始的な狩猟採集の日々で肉体的な飢えを満たせていた。追手もモンスターの脅威もない、待ち望んでいた安寧を彼女はようやく手に入れた。
しかし彼女の
ある夜更けのこと。居を構えていた森の麓にある村まで近づいた彼女はとうとう耐えきれなかった。
無防備に眠っていた一人の子どもに手を伸ばした。もの言わぬ骸になるまで吸い付くしたい程の欲求に突き動かされながらも、微かに残った理性で彼女は幼子を攫った。理性などではなく、肉食獣が己のテリトリーまで獲物を運んでから食すのと同じ、もっとシンプルな欲求故だったかもしれない。ともかく彼女は子を一人担いで森の中へ消えた。古びた小屋で一人ぼっちで眠っていた子どもが攫われた事に、村の誰もが気づかなかった。
明るくなりつつある森を駆けて、開けた場所に辿りついた時に彼女は気づいた。
痩せこけている。
血族の家にいた時、幾度も見た飼われていた人間とはまるで違う。触れていた腕と胴が固かったのは、それが肉がほとんどなく皮が骨に張り付いたような細い身体だったからだ。
「どこに行くの……?」
目を開いた幼子が口を開けた。
「あなたは抱きしめてくれるの?」
匙も握れないようなか弱い手が、彼女を掴んだ。
人の臭いを辿って入った小屋は何年も放置されたように古く、そこでこの子は一人寝ていた。
ただ誰からも必要にされず、されど逃げ出す力も持たずにたった一人でそこにいた。
飼われていた人間を哀れに思った事はなかった。ただ、その行いを是としている一族への侮蔑が募るだけだった。
だが、彼女は初めて、一つの命を哀れんだ。
その少女は、普通の愛ある夫婦の間に生まれた子どもだった。村は流行り病で活気を失いつつあったが、それでも村長夫婦の懐妊は喜ばしいニュースとして村民に受け止められていた。その村の新たな希望の光かと思われていた。
茶髪と赤毛の夫婦の間に生まれたその子の髪色は、白髪だった。それはただの偶然による先天的な色素欠乏によるものだったが、彼女の父はそう考えなかった。
流行り病が蔓延する前に村に訪れた一人の若い旅人がいた。彼はほんの少しだけ滞在し、そして村を出ていった。出ていって間もなくして流行り病が村を襲った。彼が邪気を持ち込んだのだと、村民たちは己に降りかかった不幸を通り過ぎっていった一人の男のせいにして生きていた。彼も白髪だった。
父親は妻をなじった。あの男の子だろう、村に災いをもたらした男と寝た売女め、村を受け継ぐ者の血を汚す恥じ知らずが。子どもに聞かせるにはあまりに惨い言葉を浴びせ、女はせめて娘だけは守ろうと必死に抱きしめていた。まだ歩く事も知らない赤子が知っていたのは、まだ理解できない言語による罵詈雑言と自分を抱きしめる母の温もりだった。
母は食事もろくに与えられなくなっていたが、覚悟のなせる技か天が授けた奇跡か、乳だけはわが子へ与え続けた。だが半年も経つ頃に、女はこの世を去った。
もちろん、少女を攫った吸血鬼にそのような事は知る由もなかった。しかし今にも折れそうな細腕と昇り始めた朝日を受けてきらめく群青色の瞳には、与えられるべき全てを奪われた寂しさが宿っていた。
与えられる全てに縛られていた自分とは違う苦しみの中を生きてきた幼子に、どうか何にも囚われぬように生きれるようにと。夜明けの空の下、白い髪を一撫でして、額に優しく口付けた。
こうして故郷を捨てた吸血鬼と、故郷に捨てられた人間は出会った。
その幼子は自分の名前を知らなかった。
「カリアとかラミリーとか、そういう呼ばれ方、されたことない」
「……そっか」
よく星が見える夜だった。夜空を見上げた吸血鬼はふと考えた。星とは、なんだろうか。家にいた時、吸血鬼に属する者として様々な教育を受けた。苦しみとも言える時間だったが、あの家にいた時間の中で、本を読んでいた時間は安らぎだった。逃げるように様々な本を読んだが、どの中でも星はただ夜空に煌く光とだけあって、腑に落ちる説明は終ぞ見なかった。だけど魔力灯と違う、遠くてか細い光に、昔の人と同じように静かに心が安らいだ。人間から血を吸った際の心を腐らせるような快楽とは違う、紛れもない自分が感じる安らぎを星に見た。
「ラディアラ」
「らでぃ……?」
「あなたの名前はラディアラ。私はフローレイアで、あなたはラディアラ」
「ながいよ」
「ふふ、そうだね。じゃあディアって呼ぼう」
それは古い言葉で、星を意味する言葉だった。
あれから幾らか時が流れた。
吸血鬼が血を欲す以外の食事が人間と変わらないことは幸運だった。吸血鬼の故郷を抜け出す時に盗んできた
いつだったか二人で忍んで街に行った時、ラディアラは幸運にもいくつかのジョブに就ける才を持っていたため、森での生活に不便しないように【夜行狩人】に就いていた。
森の中をフローレイアの付き添いがありながらも歩けるようになったラディアラは、森を歩いては様々な山菜や木の実を取って持って帰ってくるのが好きな活発な少女になっていた。
ある時二人がリビングで食事を摂っていると、ラディアラがフローレイアに我儘を言った。
「ねぇフロー、私次は【呪術師】がいい」
「えぇ?あれって確かあんまり扱いよくないよ?確か【襲撃者】とか【斥候】とか就けるはずだから、そっちの方がいい狩人になれるはずだけど……」
「でも、ラディアラがこの前守ってくれたのは【呪術師】の技でしょ?私もあれがいい!」
「うーん……じゃあ【呪術師】に就けるようだったら、それでいこう」
「ほんと?絶対だからね!」
結局、フローレイアが人間に変化して二人で街に降りてジョブクリスタルの前に立った時、ラディアラは賭けに勝ったようにニッコリと笑いながら【呪術師】に就いたのだった。
人間の寿命で変に回り道をするのはよく無いことだとは思ったけれど、珍しい彼女のわがままだったから折れて、そのまま【呪術師】としての教育もする事になった。その後、【呪術師】のレベルが50に到達して、【高位呪術師】に就くと言い出して、再び自身が折れるハメになる事をこの時のフローレイアは知らなかった。
さらに時が経った。
「最近あんまり【高位呪術師】のレベルが伸びない」
「むしろ上出来じゃないかな、私の【高位呪術師】なんて30かそこらで止まっちゃったもん。もうすぐ17の誕生日だし、久しぶりに街に降りて他のジョブに就いてみる?【襲撃者】とか——」
「うーん、折角なら【宵闇狩人】に就きたいんだよね。なれるなら下級職より上級職でしょ?」
「それもそうか……」
二人が出会った時のラディアラを5歳、出会った日を誕生日と決めたのはいつだったろうか。ともかく、この頃になるとラディアラの背もフローレイアと同じぐらいにまで伸び、フローレイアと大自然から多くを学び、すっかり自分の考えを持つようになっていた。
ラディアラが選択するなら、変に自分の意見を通す必要はないかと考えた時、一つの考えがフローレイアによぎった。ラディアラのジョブ選択は私を追っているようでむしろ――
――そこまで考えて杞憂かと振り払った。何年も前に、それも一度しか話していない『吸血鬼の能力の下地』を身につけようとしているなど。
既に一人で街に向かわせても大丈夫だと思える程度の一般教養は教えてあるし、やがて彼女は人間社会の中で問題なく生きていくだろうから。
そんな筈はないだろうと。
それが杞憂では無かった事を三年後、フローレイアは知ることになる。
□【
ディアの二十の誕生日の朝だった。贈り物にある紅石を渡した時、ディアはハッと顔を上げて私を見つめた。
「フロー、どうすればいい?」
「……まったく、覚えてないと思ったんだけどなぁ」
本当は、『これを私と思って』と言おうとしていた。今日で、彼女には私から離れて人間たちの中で優れた狩人とした生きてもらうつもりだった。
本当なら、今日でディアは私というしがらみからも解かれ、自由を手に入れるはずだったのに。望むなら、できるなら何をしたっていい自由を手に入れてもらうはずだったのに。
だけどディアはここで私と生きる道を選び、紅石を口にした。
その後は、火照ったディアをおさめるのに大変だったけれども。
三日も経った時にようやくディアは落ち着いて、その次の朝日と共に目を覚ました。
開いた目蓋の奥の群青の瞳はそのままだったが、この前までの白い髪はなく、私が掬った髪は星に照らされる夜のような黒になっていた。
ディアは確かに私と同じ時を生きる存在になっていた。
「フローと同じだ」
「うん、私達の色」
ディアは私を見て微笑んでいたけれど、微笑んでいたのは私も同じだった。
今更になって気づいた。きっと、私はこうなる事を望んでいた。
始まりは何もなかった私たちだったけど、今ここで、私たちが望んでいたものに手が届いた。
薄明が過ぎて現れた太陽に照らされながら、私たちは触れ合って、もう一度眠った。
それからしばらくの間、ディアは新しい身体の感覚に戸惑っていたようだったけれど、やがて慣れた。
「そういえば、吸血鬼になったけど、あんまり、なんて言うか……」
「吸血衝動がない?」
「そう!……もっと、定期的に込み上げてくるようなものを想像してた」
「え、私そんなに吸いたそうな顔してた?」
「ちょっと、時々……」
「そ、そうなんだ……」
「…………」
「…………」
「で、でも、初めて会った時以外そんなに切羽詰まったようなものをフローをから感じた事はなかったよ?」
「え……!?初めて会った、時って」
「私をフローが連れ去った時。あの時、本当は人の血を吸うためだったでしょ」
「……それは」
「別に気にしてないよ。それに小さい時はあの時の事を考えたりした事はなかったから」
「そ、そっか……ちょっと、ショッキングかな……」
そうは言ったけれど、この十数年人間と一つ屋根の下で暮らしていたにも関わらず、そこまで強い吸血衝動に駆られた事がなかったのは私も不思議に思っていた事だった。一つ、仮説はあったけれど。
「きっと、飢えなんだと思う」
「飢え?」
「そう。たとえ肉体が満たされてても、心が飢えていたらそれを満たすために血を求めるんだと思う」
私の一族がそうだったから、とは言えなかった。今の私は血に飢えない生き方しているけれど、かつての血に飢えた日々は未だに私の汚点だった。
私の過去をディアに話した事はなかった。遠い所から来た事は察しているようだったけれど、あんな生き方をしていた事はこれから何があっても消えない私の罪の一つで、ディアを想うほどに口は重くなった。
「ふーん、そっか……」
「え、何?」
「なんでもない……こ、紅茶入れてくる」
「うん……。…………あ」
ラディアラが去ってやや経ってから気が付いた。
私の仮説に基くなら、私はディアと会ってから吸血が必要ないほどにずっと心が満たされていて、そして今のディアがそうだと言っているようなものだと。そんな事に気がついて、ちょっと、いやかなり、恥ずかしくなった。
□【宵闇狩人】ラディアラ・リベナリル
「ふぅー……」
「フローってこの時間好きだよね」
「うん、空が明るくなっていくけど、星はまだ見えるから」
「だからって館から出なくてもいいのに」
「いいじゃん、ディアは好きじゃない?」
「ううん、風が気持ちいいし、私も好き」
私が吸血鬼になって、人間としてフローと過ごしたのと同じぐらいの時が過ぎた。
人間の時の私の身体は成長という変化を続けていたけれど、吸血鬼になってからはそういう変化は無くなった。成長する私の傍らで全く姿が変化することのなかったフローと同じように、私たちが老いることはなかった。私の誕生日は二人の祝い事として残っているけれど、年齢を記憶しておくのは億劫になってはっきりとは憶えていない。けれど、それは何よりフローといられる残り時間を刻むような真似に意味がないと気づいたから。
「ん……あそこ、人影が見えなかった?……うん、気のせいじゃない」
「……本当だ」
フローが何かに気づき、指した先には確かに一人の人間の女がいた。
日が昇ったため動き出したようだが、明らかに狩りの格好ではない。亜人ならともかく
「見過ごすのは気分が悪いね。私が行くよ、フローはご飯の支度しておいて」
「……いや、ディア、あなたが行っちゃだめ」
私の腕を掴んだフローは、その視線を森の中をさまよう女へ向けていた。
何をそんなに心配する必要があるのだろう。確かに夜は明けたけれど、彼女の服装や佇まいは明らかに戦う者ではない。それにあえて言いはしないけど、今や私とフローの能力差は縮まり、むしろジョブのレベルとステータスで言えば私の方が高かった。
「私だって【宵闇狩人】なんだよ?大丈夫だって」
「違う、そうじゃないの」
今までフローが私に見せたことのない心配そうな表情だった。私は再び、何をそんなに心配するのだろうと思いつつも、私の腕を掴む彼女の手を優しく解いてもう一度大丈夫と言った。
「ディア……!」
フローに背を向けて、走り出した。振り向くと、まだ不安そうな顔でフローがこちらを向いていた。私は微笑みを返し、そのまま走っていった。
音を殺して近づく事もできたけど、いきなり現れても驚かしそうだからある程度近づいてからは適度に音を立てて歩んでいった。彼女は近づいてくる足音に怯えていたようだけど、それが人の姿をしていると気がつくと安堵の表情を浮かべた。
「大丈夫?そんな格好で来る所じゃないけれど」
「あぁ、よかった……あなたは、狩人の方ですか?」
「えぇ」
背中に背負った弓を見せる。私のステータスなら殆どの狩りは素手でも問題ないけれど、森に出る時の習慣だった。
「じ、実は父が病で倒れて……なんとか力になろうと思って、こんな所まで……」
そう言った彼女の手の中には確かに薬草が握られていた。
「病の症状は高い熱と手足の腫れ?」
「そ、そうです!」
「ならそれであってるわ。それだけあれば真っ当な【薬師】なら作れると思う。私は薬は作れないけど、あなたを送り届けるだけなら力になるわ」
「あ、ありがとうございます!」
フロー以外の人と話したのなんていつぶりだろう。そんな事を考えながら歩き始めた。歩みを進める方向に、少しばかりの胸騒ぎを抱えながら。
彼女がここまで来た時は、高かった日がすっかり沈むまでかかったそうだが、十分な薬草を手にした今、私が背負って最短距離で行けばその数倍の速度で進める。流石にステータスに任せて走りはしなかったが、それでも朝のうちに村にたどり着いた。
「わぁ、こんなにあっという間に……!本当になんとお礼を言ったらいいか!……どうかしましたか?」
私の背から降りた彼女が、顔を覗き込んで言った。
私は前にかけていた弓を背に直しながら、あの胸騒ぎの予感が正しかったことを知った。
「いえ……着いたなら、私はここで」
「そんな!私と父の恩人なんです、せめて父に顔を合わせるだけでも……」
「……わかったわ、それだけ」
「こちらです!」
走り出した彼女の背を追って歩き始めた。
足取りが、重たい。見たくはないのに、どうしても目で追ってしまう。
辺りにある麦畑に、点在する家屋。歩いている道。そのどれもが、見覚えのあるものだった。とうの昔に擦り切れて消えたと思っていた記憶が甦る。
ここは、私の生まれた村だ。